万彧と孫晧 - 万彧は果たして佞臣だったのか?

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『三国志』での万彧

 呉最後の皇帝孫晧そんこうの治世、左丞相の陸凱りくがいと同時に右丞相となった万彧ばんいく。丞相でありながら伝もなく、詳しい出自は不明だが、暴君として後世に知られることになる孫晧と親交があり、彼を最初に擁立した人物である。その人格については「俗物で自分の権勢をたのんで他人をなみすることが多く」などと記され、全体として、あまり良いイメージの人物とはいえない。

 陸凱は、孫晧を諫める上奏文の中で、「万彧は、ちっぽけな才能と凡庸な資質とでもって、かつては家隷めしつかいであったものが、大昇進をして殿上に参わる身分となったのであります。」としてこのような人物を丞相に取り立てたことを批判する。

 また王蕃おうはん伝の注に引く『呉録』には、孫晧は宴の場で臣下らに互いをからかわせて楽しんだが、王蕃万彧が丞相となったことをからかって「万彧は山間の谿谷の出身者。なかみは羊であるくせに虎の皮をかぶっておる。分不相応に輝かしいご恩寵を受け、三公九卿の位をまたぎ越えた。」などと評したものの、逆に万彧にやり返された、というエピソードがある。「山間の谿谷の出身者(原文:出自谿谷)」という表現から、万彧を異民族の出とする説もあるようだ。

 こうした意見から、万彧は、暗君に阿ることで才能もないのに低い身分から不当に出世した俗物であった、という印象を受ける。……が。

呉右丞相萬公墓誌銘

 ブログ银色的老迈的博客 > 再探安徽、浙江、江苏、江西万氏的关系にて紹介されている『江蘇毘陵萬氏宗譜』の中に、万彧の墓誌銘(埋葬者の経歴などを記して墓に納める「墓誌」の終わりに付ける詩文)「呉右丞相萬公墓誌銘」が載っている。それによれば、万彧あざなを「文彬」といい、万修という人物の子孫で、低い身分どころか、むしろ先祖代々官につく家柄だった。『三国志』の印象とは随分異なる。

 しかもこの墓誌銘、「竹林の七賢」の一人として知られる晋の山濤さんとうの作らしい。

 こちらのブログwzh鹤峰隐士的博客 > 彧公墓誌銘ではテキスト化された全文が読める。……が例によって難しくてよくわからない。当然、賞賛しているのではあろうが……

 墓誌銘には晋・太康三年(282年)秋の日付と尚書僕射・山濤の名がある。既に呉は滅び、西晋一国となった時代。万彧が死去したのは『三国志』呉書によれば呉・鳳皇元年(272年)八月のことなので、十年は経っている。山濤は翌太康四年一月に死去しており、実際に彼の作だとするとかなり晩年の仕事である。山濤は『晋書』によれば三年の十二月に司徒となったが、秋の時点では尚書左僕射・光禄大夫だった。

陸凱、王蕃 vs 万彧

 『三国志』における万彧の評価が低い一方、万彧を批判した陸凱王蕃は、それぞれ暴君に屈さなかった立派な人物として記される。

 王蕃は、孫晧に阿らない態度を貫いたために、ついに宴の席上で斬殺されてしまった。『江表伝』には、さらに斬った頭を放り投げて砕かせた、などという凄惨な逸話もある。

 前帝・孫休の遺児を擁立してクーデターを画策した疑惑があるなど、かなり反孫晧ととれる立ち位置にいた陸凱は、一族の権勢ゆえに殺されることなく天寿を全うしたものの、やがて陸抗も世を去り陸氏の権力が弱まった時代には、子孫が冷遇されることになる。

 しかし、孫晧に抗うためには、性格のふてぶてしさ(?)も必要であった。

 王蕃伝にある「矜り高い気質であって、主君の顔色を窺い、そのいうままになるようなことはできず、ときには主君の意向に逆らうような意見も述べた。」という記述は彼を賞賛するものだが、そこからはやや傲慢な性格も見てとれる。件の『呉録』の逸話では、万彧の出自という本人には責のない点を批判しようとして、逆に見識の甘さと性格の悪さを批判されてしまったことになる。

 陸凱もまた、過激なまでに諫言を繰り返し、視線恐怖症の孫晧を説き伏せて目を合わせる許可を取り付けるなど、強気な性格である。呉の丞相の位はかつては一人のみだったが、陸凱万彧の代になって、突然左右二人置かれることになった。臣下による謀反を極端に恐れていた孫晧は、陸凱を恐れ、味方である万彧を同時に立ててその権限を削ごうとしたのではないか。実権を半分奪われる形になった陸凱としては、万彧に私怨を抱いてもおかしくない。

 王蕃の死に際して陸凱孫晧の仕打ちを批判する上疏をしており、両者は仲が良さそうな一方、孫晧シンパの万彧とは対立関係にあった。結局、万彧に関する評価は敵対する側の、それも過激な性格の二人からの偏った意見がほとんどということになるが、本当に万彧は、彼らが評するような問題のある人物だったのだろうか。孫晧を取りまく佞臣の中でも例えば何定かてい岑昬しんこんなどは、具体的に問題行動も記されているが、万彧にはこれといって悪事を働いたような記録もない。

 が、そもそも万彧を批判する発言のソース自体が若干あやしく、陳寿裴松之がそれぞれ疑問を呈しながらも載せている部分であったりする。

 陸凱による孫晧批判の上奏文を、陳寿は「多くの者は、陸凱にこうした上表があったとは聞いていないと答えた。加うるに、その文章を見てみれば、まったく歯に衣を着せぬ言い方であって、〔こうした文章を見せられれば〕孫晧がそのままにすませたとは考えられない。」としながらも、孫晧の悪行を示し戒めとするためとして敢えて載せている。

 また裴松之は、直接に内容の信憑性には触れていないものの、『呉録』の記述は王蕃伝本文の時系列と矛盾することを指摘している。

 もしかするとこれらの発言自体、虚構もしくは大袈裟に書かれたもので、万彧が低い身分の出というのもでたらめであり、実際には寒門出の小者・暴君の佞臣というイメージからはかけ離れた、ごく真っ当な人物であった……という可能性もある。

万彧の最期

 かねてより親交のあった孫晧を推薦し、帝となった孫晧の厚い信頼を受けて順調に出世したかに見えていた万彧。しかし最終的にはその孫晧になんらかの譴責を受け、憂死を遂げることになる。孫晧伝の本文には詳細な事情は記されないが、注に引く『江表伝』によれば、こうした事情だった。

江表傳曰:初華里丁奉留平密謀曰:「此行不急,若至華里不歸,社稷事重,不得不自還。」此語頗泄。聞知,以等舊臣,且以計忍而陰銜之。後因會,以毒酒飮,傳酒人私減之。又飮留平覺之,服他藥以解,得不死。自殺。憂懣,月餘亦死。

陳壽撰、裴松之注《三國志 五 吳書》(中華書局,1982年) 三嗣主傳第三 p.1169

 『江表伝』にいう。孫晧が華里まで御幸したときのこと、万彧は丁奉や留平と密かに相談していった、「このたびの御幸は不急のことだ。もし華里まで行ってもご帰還がないようであれば、国家の安危に関わることゆえ、われわれだけでも都に帰らねばなるまい。」この言葉がいささか他に泄れた。孫晧は、それを知ったが、万彧らが古くからの臣下であることから、ひとまずは何もいわずにすまし、心中では執念深く機会を窺っていた。のちに宴会があったとき、毒酒を万彧に飲ませたが、給事の役の者がひそかにその量を減らした。留平にも飲ませたところ、留平はそれに気づき、別の薬を服して解毒し、死なずにすんだ。万彧は自殺をし、留平も不安と憤りのあまり、一ヵ月あまりで死んだ。

陳寿、裴松之注、小南一郎訳『正史 三国志 6 呉書Ⅰ』(ちくま学芸文庫、1993年) 三嗣主伝第三 p.213

 この華里(呉の都・建業の西にある地名)への御幸というのは、前年に偽の予言を信じて天下を取れると思いこんだ孫晧が、文字どおり一族郎党を引き連れて洛陽に向かって出発しようとしたというものである。いかにも妄想によるクレイジーな所業のようだが、『晋書』武帝紀には孫晧が衆を率いて侵攻してきたため防衛したとあり、孫晧としては、現実に晋と戦って勝つつもりだったのかもしれない。

 そして孫晧万彧らの言を、謀反の画策と受け取った。呉の国を守るためには、自分たちが都に戻って新たな帝を立てなければならない、ということなのだろうか。丁奉は過去にも陸凱らとともに孫晧の廃位を企んだとされることから、この意見に乗っただろう。留平はかつては積極的な参加こそ拒んだものの、計画を知りながら見逃しており、今回はついに賛同したことになる。なお三人のうち丁奉のみ毒殺の標的とならなかったのは、前年に既に死去していたためである。

 だが孫晧も、即位当初は国難を救える名君と期待された人物だった。万彧は、信憑性はさておき王蕃をやり込めた逸話からすると、頭の良い人物である。かねてより孫晧と親密であった万彧は、心からその才徳を見込んで彼を推挙したのだろう。孫晧が次第に問題のある君主になった原因は、彼の生育環境に由来する病的な心理状態にあるのではないかと思う。期待をかけて擁立したはずの孫晧が、次第に変貌していき、ついには明らかに無謀な天下取りを目指して暴走するまでになったことに絶望を覚えた万彧は、呉の国のために責任を取るべく、ついに自ら孫晧を廃位する決意をしたのかもしれない。

 華里の事件は、華覈かかくらが必死に諫めて孫晧を帰還させたため、万彧らの行動も未遂に終わる。しかし、かつては陸凱らに手厳しく批判されるほど互いに親愛を寄せていた孫晧万彧の関係はこれ以降、壊れたままついに修復されることはなかった。

 しかし。同じく毒殺されかけた留平は、こうした事態に備えて持参していたのか解毒薬を飲んで一命を取り留めるも、結局は憤死した。対して、敢えて自分の身を守ろうとする様子もなく、静かに自死を選んだ万彧は、心情としてはむしろ最後まで、孫晧の友であり続けたようにも思えるのである。

万彧のあざな

 『三国志』では不明な万彧あざなだが、上記の墓誌では「文彬」とされている。「彬」は一般に「ひん」と読むが、「はん」という読み方もある。

【彧】 イク yù
① あや。あや模様。あやがあって美しいさま。=郁。
② さかんに茂るさま。
③ 長いさま。

【彬】 ヒン bīn  ハン bān
文(外形のかざり)と質(内容・実質)とがならびそなわる。=份・斌。
あきらか。あや(文彩)のさかんであざやかなこと。

『新明解 漢和辞典(第三版)』(三省堂、1986年)

 名の「彧」と同じ意味をとるなら だが、 であっても不自然ではない。とりあえずは「ぶんひん」と読んでおくことにする。「文」にもあや・飾りといった意味があるので、とてもきらびやかな名である。

2015.07.23

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