羊祜 - 天真爛漫な徳の人

 陸抗りくこうとも縁の深い西晋の武将、羊祜ようこは、純粋で高潔で正義感が強く無欲な人格者であった。反面、軽々しくお忍びで出かけようとしては配下の徐胤じょいんに咎めらたり、大自然の風景の悠久さに対して人の生の儚さを思うなど、天真爛漫で繊細なところも。(徐胤は、後の歩闡の乱の際に巴東監軍として登場する。この頃は羊祜の元にいたようだ)

 歩闡の乱(西陵の戦い)においては、羊祜陸抗に敗れることとなった。だが、その後に展開される徳を武器とした冷戦は、まさに羊祜の天分だった。羊祜が死去したときには、呉の民までも哀しんだとか。詳細は「陸抗と羊祜」にて。

 羊祜は元々、さほど戦熱心とは思われないような人だった。無欲で、好戦的なところもない印象。かと思いきや、陸抗の死後は、極端な主戦派に転向。たびたび今こそ呉の討伐を、と意見するも反対派に阻まれ、結局その生前に実現することはなかった。

祜歎曰:「天下不如意,恒十居七八,故有當斷不斷。天與不取,豈非更事者恨於後時哉!」

房玄齡等撰《晉書 四 傳》(中華書局,1974年) 列傳第四 羊祜 p.1019

 羊祜は嘆いて言った、「世の中は思うようにゆかないことが、いつも十のうち七、八はあるもので、ゆえに決断すべきときに決断できないこともあるのだ。天が〔せっかく決断の機会を〕与えているのに受け取らなければ、そうしてしまった者はどうして後になって後悔せずにおられようか。

 主戦論が聞き入れられない羊祜の嘆きは、単に呉討伐の前線司令官としての職務熱心ゆえとも思えないほどである。

 このまま呉と中途半端に対峙し続けていては晋の国も疲弊し、さらに暴君の孫晧に支配されている呉の民のためにもならない、だから今こそ呉を併呑して天下統一すべきである。呉の民までも含めて、世の人々を救いたい。その思いが羊祜を駆り立てたのかもしれない。

羊祜と家族

 愛妻家であったと思われる羊祜羊祜の妻は、夏侯淵の子である夏侯覇の娘。夏侯覇が蜀に亡命した結果、その親戚らは魏の人々に絶縁される羽目になった。こうした場合、該当者の親戚という理由で、妻であろうとも離縁されるのはよくあること。そんな中、羊祜はかえって妻の身を案じ、ますます大切にし続けたとのこと。……ここで思い出されるのは、孫峻に殺された諸葛恪の姪だから、という理由で離縁された陸抗の妻の氏である。性格の違いが如実に……

 そんな羊祜には、息子が一人いたものの幼くして亡くなり、跡継ぎがいなかった。(娘は少なくとも一人いる)

 羊祜の死後、家を継ぐ者がいないことを案じた帝・司馬炎は、詔を出し、羊祜の甥(兄の子)であるを跡継ぎにしようと目論んだ。が、羊曁は自分の父が既に亡くなっているのに他家の後を継ぐわけにはいかない、と拒否。そこで司馬炎は、さらにその弟の羊伊羊祜の跡を継ぐよう命じたが、やはり拒否される。ついに怒った司馬炎は、二人をクビにしてしまった。……って特に羊曁など至極もっともらしい理由で断ったのに、とんだ災難。そもそも他家の問題に公的権力をもって介入した揚げ句にクビにするとは、実に司馬炎らしいありがた迷惑である。後になって、彼らのそのさらに弟である羊篇羊祜の跡継ぎと決まった。兄たちの轍を踏むまいと思ったのだろうか。

追っかけもいますよ

 『世説新語』賞誉篇より、羊祜の愉快なお話。

羊公還洛、郭弈爲野王令。羊至界、遣人要之。郭便自往。旣見、歎曰、羊叔子何必減郭太業。復往羊許、小悉還、又歎曰、羊叔子去人遠矣。羊旣去、郭送之彌日、一舉數百里。遂以出境免官。復歎曰、羊叔子何必減顏子。

通釈 羊公(羊祜)が洛陽に帰るとき、郭弈は野王県の県令であった。羊公はその県境までくると、人をやって郭を迎えさせた。郭はすぐさま自ら出かけた。そして羊に会うと、感喚していった、「羊叔子(羊祜)は、このおれに劣らぬようだな。」再び羊のもとへ出かけて、しばらくして帰ると、また感嘆していった、「羊叔子は、おれよりはるかにすぐれているわい。」やがて羊が去ってゆくとき、郭は数日にわたって見送り、そのまま数百里も行ってしまった。そのため無断で県境を出たという罪で官を免ぜられたが、さらにまた感嘆していった、「羊叔子は顔子(顔回)にも劣るまい。」

目加田誠『新釈漢文大系 第77巻 世説新語(中)』(明治書院、1976年) 賞誉第八 p.524

 県令とは市長みたいなもの。最初は驕っていた相手も、追っかけでクビになるほど熱烈なファンと化す。羊祜の徳の威力を物語る逸話である。

 この「郭弈かくえき(『晋書』では「郭奕」。「弈」は「奕」の別字)は、郭淮かくわいの甥にあたる。ここでは官を免ぜられたとあるが(この逸話自体は『晋書』郭奕伝にも記述がある)、魏の最末期には復活したらしく、司馬昭に取り立てられて主簿となり、晋の時代には太常にまで出世した。

ペットの鶴もいますよ

 『世説新語』排調篇より、もうひとつ羊祜の愉快なお話。

劉遵祖少爲殷中軍所知。稱之於庾公。庾公甚忻、便取爲佐。旣見、坐之獨榻上與語。劉爾日殊不稱、庾小失望、遂名之爲羊公鶴。昔羊叔子有鶴善舞、嘗向客稱之。客試使驅來、氃氋而不肯舞。故稱比之。

通釈 劉遵祖(劉爰之)は、若いころ殷中軍(殷浩)の知遇を得た。殷中軍が庾公に劉のことをほめそやしたので、庾公は大層喜んで、すぐさま取りたてて幕僚とした。庾は劉に会って、彼を一人がけの椅子に坐らせ、ともに語りあったが、その日劉はまったく庾公の意にかなわなかった。庾公は少しく失望し、そこで庾公を「羊公の鶴」とよんだ。以前羊叔子(羊祜)に上手に舞う鶴がおり、ある時、客にこれを自慢した。客がためしに追ってこさせると、羽毛をばたつかせるばかりで、舞おうとしない。そこで劉をこの鶴になぞらえて言ったのである。

 以下、語釈より。

羊叔子有鶴 『世説音釈』巻9に引く『荆州記』に「晋の羊祜、荆州に鎮し、嘗て江陵の沢中に鶴を取る。之に教へて翔舞せしめ、以て賓客を娯しましむ。因りて鶴沢と名づく」とある。

目加田誠『新釈漢文大系 第78巻 世説新語(下)』(明治書院、1978年) 排調第二十五 p.1024

 ペットに芸を仕込むのはありだとして、『荊州記』の引用部分に注目。羊祜はこの鶴を江陵で捕まえた。が、羊祜が存命であった時代、江陵は呉の領土である。むしろ羊祜は江陵に攻めてきたことがあるくらいなので、明らかに自分のテリトリーではない。まさか、呉に攻めてきたついでに鶴を捕まえた? そんなところも羊祜らしい、と思えてくるのである。

 余談。陸氏の故郷の呉郡にある華亭という地は、鶴の名産地らしい。陸抗の息子の陸機らもここに住んでいたことがある。そんなわけで、無念の死を遂げた陸機の最後の言葉にも残されている華亭の鶴。羊祜のペットは、陸氏ともゆかりの深い鳥なのである。

羊祜の墓誌と官職、夫人・劉氏

 羊祜の墓誌(埋葬者の経歴などを記して墓の中に納める文)が出土しており、未確認だが、洛陽市文物工作隊『洛陽出土歴代墓誌輯縄』(中国社会科学出版社、1991年)という書籍に載っているらしい。

 画像で紹介しているブログ:晋羊祜墓志 晋羊祜墓志拓片

晉故使持節都督荊州諸軍事平
南將軍軍司鉅平侯羊府君之墓
君諱祜字叔子太康元年歲在庚
子二月八日塟亏洛之西北也
夫人吳國劉氏

 『晋書』によれば羊祜の最終官職は太傅(太傅は追贈で、生前は征南大将軍)だが、ここでは平南将軍軍司となっている。また『晋書』の記述では羊祜の正室は夏侯氏(夏侯覇の娘)と思われたが、この墓誌では呉国の氏という違いもある。

 石井仁・渡邉義浩両氏の論文「西晋墓誌二題」でこの羊祜墓誌が取り上げられており、これらの問題についての考察を読むことができる。

公開:2007.03.08 更新:2014.06.01

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