楊肇 - 陸抗に敗れた非運の忠臣

 西晋の武将、楊肇ようちょう。残念ながら『晋書』に彼の伝はないが、陸抗ファン的には重要人物であり、歩闡の乱(西陵の戦い)において一番気の毒なことになった人でもある。が、2007年春現在Wikipediaにも記事が作られていないというマイナーぶりゆえに、敢えて細かい経歴まで書いておくことにする。


 楊肇は魏の滎陽の出身。あざな秀初といい、魏帝・曹叡の寵臣であった楊曁ようきの息子である。徳の高い、博識で学問好きな人間で、書も能くした(『書断』に取り上げられている)。やがて仕官すると、河内郡の軹県の県令となって善政を敷く。これが認められて大理という法令制度を司る官を兼任し、公正な裁きを行って評価された。やがて河内郡野王県の典農中郎将として農政を司り、ここでも手腕を発揮して地域を富ませた。

 このころ司馬炎が晋王朝を開き、これらの功が認められた楊肇は、中央に召されて禁戎(帝の近衛軍)を統率することになる。この近衛軍でも功績をあげ、東武伯の爵位を授けられることになった。こうしたキャリアを経て、やがて楊肇は徐州の東莞県の相となり、ついに荊州刺史・折衝将軍まで出世する。

 272年、帝・孫晧そんこうの暴政によって衰退しはじめていた呉において、重臣であった西陵督・歩闡ほせん(丞相であった歩騭ほしつの子にあたる)が反乱を決意、晋に帰順を表明し、国境の要所である西陵城に籠城するという事件が起こる。楊肇は、ときの荊州軍総司令官・羊祜ようこの元、西陵救援軍の将として出陣することになった。

 だが、ここで敵軍総司令官であった陸抗の直属軍と対決する羽目になったことから、楊肇の非運が始まる。戦の具体的な流れは「歩闡の乱 - 概要」参照。この戦役は最終的に、楊肇陸抗との対峙に敗れたことをきっかけに、晋軍が多大な損害を被っての全面的撤退を余儀なくされてしまった。

 敗戦後、晋の朝廷では責任者を免官せよ、との訴えが起こり、総司令官の羊祜は降格、楊肇に至っては実際に免官されてしまう運びとなる。

 地方長官を歴任して近衛軍に至るキャリアを考えるに、楊肇にはそれまで外敵との実戦経験はなかったかもしれない。対して陸抗は、総司令官としての経験こそないものの、若いころからある程度、対魏軍の実戦経験を積んできた将軍だった(結果的には呉軍が敗けてばかりの経験なのだが、その敗戦から陸抗は大いに学ぶところがあっただろう)。

 楊肇の指揮には、敵の裏の裏が読めていなかった、という甘さも感じられる。とはいえ、あくまでこの戦役全体の総司令官は羊祜であり、楊肇にできたことは、限られた条件の中で最善の指揮を執ることだけだった。不運にして大敗のきっかけになったとはいえども、これといった過失があったわけでもなく、クビにされるのは厳しい措置という気がする。対して総司令官であるところの羊祜に対する処分は結構甘く、様々の事情があったのかもしれない。

 273年、免官された楊肇は故郷に退き、以降は学問に専念した。とはいえ、わずか二年後の275年には病で亡くなっている。具体的な没年齢は不明だが、短命にしてまだ白髪にもならないうちに亡くなったということから、壮年以上ではなかったようだ。免官され、病に伏してもなお晋朝への忠義の心は厚く、志を持ち続けたとされるものの、その実は失意の底にあったのかもしれない。

 その死に際しては、帝・司馬炎も礼を尽くして葬送の品を下賜し、楊肇は戴侯と諡された。

 楊肇の同郷の友人の子であり、娘婿でもあるのが、西晋の詩人として知られ、やがて陸抗の息子・陸機の文壇のライバルともなる潘岳である。潘岳は、私的な敬愛あふれる誄辞を作り、その死を悼んだ。楊肇に関する情報の多くは彼のおかげで今に残ったといえる。旧時代の終焉に戦場で戦った父世代と、新しい時代に文の道で戦った子世代。潘岳陸機に対して内心、岳父の仇、と思ってもいたかもしれない。彼らもまた気になる因縁の宿敵同士である。

主要参考文献

  • 竹田晃『新釈漢文大系 第93巻 文選(文章篇)下』明治書院、2001年
  • 興膳宏『中国詩文選 10 潘岳・陸機』筑摩書房、1973年
  • 陳寿、裴松之注、小南一郎訳『正史 三国志 7』ちくま学芸文庫、1993年
  • 房玄齡等撰『晉書 四 傳』『晉書 五 傳』中華書局、1974年

2007.04.17