孫休の息子たちの珍名
呉の三代目皇帝・孫休は学者肌の人物だったが、当時の一般的な名や字の付け方に疑問を抱いていた。避けにくい文字(*注)を名に用いたり、また不遜にも行いの伴わない立派な文字を使ったり、さらにそうした文字を組み合わせて二文字のあざなを付けたりしている。こうした名付けは礼の定めに反するのではないか。
*注 古代中国の文化では、他人の名を直に呼ぶことは極めて無礼であるため、通称として字を用いる。皇帝や自身の父祖の名にあたる文字は、その人物本人を指すわけではない他の語中においても避けられるため、たとえ元から存在する固有名詞であっても、後に皇帝の名と同じになってしまった文字は、別の文字に置きかえて記されていたりする。
孫休はこうした考えに基づき、古い文字を組み合わせた上、独自の読みを定めた文字を用い、独創的な名と一文字だけの字を自身の四人の子に与えた。
と、いうわけで、孫休の皇子たちの名やあざなは一部を除いて文字コードも存在せず、電子テキストとしては表示することができない。(※追記参照)以下は画像で強引に表現。 ※字体の差なのか、書籍によって若干違いがあったが、中華書局刊『三國志』の見た目で判断。
長男
名の読みは「湾」と同じ(wān)。あざなの読みは「迄」と同じ(qì)。
あざなの「莔」という文字は現存するが、「もう」(méng)または「けい」(qǐng)と読む。
次男
名の読みは「觥」と同じ(gōng)。あざなの読みは「礥」と同じ(xián)。
三男
名の読みは「莽」と同じ(mǎng)。あざなの読みは「舉」と同じ(jŭ)。
名の「壾」という文字は現存する。あざなの「𥁕」も現存するが、「おん」(wēn)と読む。
四男
名の読みは「褒」と同じ(bāo)。あざなの読みは「擁」と同じ(yōng)。
仮に孫休の子が次代の皇帝となっていれば、こうした文字も後世に残っていたのかもしれない。しかし孫休は早世し、諸般の事情によってこの四兄弟は誰も帝位を継ぐことなく、やがては最後の帝・孫晧に殺されてしまうという運命を辿る。
そんなわけで孫休のこのオタク気質の着想は、幸か不幸か一般化することはなかった。とはいえ、避けやすい名を付けるという点は、臣下や後世の人間の便宜を思ってのことでもあり、理に適っている面もある。
これらの名付けの経緯は『三国志』呉書孫休伝の注に引く張勃『呉録』にあるが、注釈者の裴松之としては、気にくわないものだったらしい。孫休の考えは先人の教えに反するとし、こんなことをしたために後世に愚かさを笑われ、その死後に妻子が皆殺しになったのだ! と大バッシングした挙げ句に「名や字が犯されるのを避けたいとするのであれば、名などなくてもよいのに、どうして他に類例のない字を作り出し、典拠のない音を定めたのであろうか」などと、言いたい放題である。
確かに、現在Googleで「孫休」を検索すると「DQNネーム」などが関連語句に出てくることから、まったく後世に笑われていないとも言いきれないが……。
追記・訂正
これらの文字は一応Unicodeに存在する。「𩅦」(わん)・「𩃙」(こう)・「𠅨」(ほう)など。ただし、対応していないフォントが多いため、実用は厳しいと思われる。
参考・引用文献
- 陳壽撰、裴松之注《三國志 五 吳書》(中華書局,1982年)
- 陳寿、裴松之注、小南一郎訳『正史 三国志 6 呉書Ⅰ』(ちくま学芸文庫、1993年)
- 『新漢語林(第二版)』(大修館書店、2011年)
2014.04.28