2014.07.01 李勖の冤罪

 ※特に実りのない自分用メモ。

 孫晧の時代、建衡元年(269)から二年(270)にかけて、呉は交阯を晋から奪還するべく侵攻。前年にも試みたが失敗したため、軍を増強し、計画を練り直したものか。それはともかく、この際に李勖は監軍として荊州から攻め込もうとしたが難航し、案内にあたった馮斐という将を斬り、撤退した。その後、孫晧取り巻きの何定が、勝手に部将を殺して帰還した李勖を訴える。これにより、李勖は一族処刑となった。なおその後、交阯は陶璜らが攻略した。

 これだけ見ると、李勖はキレやすく勝手な人なのかと思える。が。

 『江表伝』によれば、何定は自分の息子に李勖の娘を娶らせようとして断られたため、恨みを抱いており、孫晧に讒言。結果、何定を信頼していた孫晧はこれを信じて李勖を一族誅殺した挙げ句、死体を焼き払ったという。

 これが本当だとすれば、李勖は何定に私怨で言いがかりをつけられたことになり、馮斐を勝手に殺して帰還した、ということそのものが嘘なのだろうか。それ自体は事実だったが、なんらかのもっともな事情があったのを、悪く表現されたのだろうか。しかし、このあたりの内容は総じて、孫晧の暴虐を大袈裟に書いているような気もする。

 李勖は果たして冤罪だったのか? 伝もないし、出番もほとんどなく、どういう人物なのかよくわからない。

 一方の何定は孫晧の取り巻きで、佞臣代表のような人物である。陸凱を何度も讒言して追い落とそうとしたり、孫晧が孫秀(皇族の一人)の兵力を恐れて疑った際に、巻狩と称して兵を率いていき孫秀を晋に亡命させたり(孫秀を討たせようとしたが察知されて逃げられた?)、河川工事を提案して失敗したことで指揮をとった薛瑩を左遷(のちに再び因縁をつけて配流)させたり、とろくなことをしていない(一応、河川工事については、よかれと思って進言した可能性もあるが……)。『江表伝』によれば部将に犬を献上する命令を出し、犬の世話に兵士をつけ、餌にする兎を狩り尽くすなどして恨まれたが、孫晧には忠臣だと思われていた。

 この頃、何定が権力を握っていることを受けて陸抗、陸凱、賀邵がそれぞれ、佞臣を重用しては国は滅びる、と孫晧を諭している。しかし賀邵はこの結果逆に孫晧の取り巻きに讒言されて恨まれ、最終的には非業の死を遂げる。陸凱も疎まれて死後には子孫を強制移住させられるなど被害を受けた。

 しかしその何定も、孫晧伝によればこの数年後、なんらかの悪事が発覚して誅殺されている。李勖を追い落としたこともバレたのかもしれない。

 楼玄や薛瑩が配流にされたのを受け、陸抗が撤回を訴えた上奏文の中に、こんな一文がある。

故大司農樓玄、散騎中常侍王蕃、少府李勖,皆當世秀穎,一時顯器,既蒙初寵,從容列位,而並旋受誅殛,或圮族替祀,或投棄荒裔。……而蕃等罪名未定,大辟以加,心經忠義,身被極刑,豈不痛哉!……蕃、勖永已,悔亦靡及,誠望陛下赦召玄出,而頃聞薛瑩卒見逮錄……

陳壽撰、裴松之注『三國志 五 吳書』中華書局、1982年 陸抗伝 P1358

 訳は省略。

 陸抗によれば、李勖は優れた人物であったが、罪が定かでないうちに処刑されてしまった。無罪だったのに、とは言っていない気もするが、一応そこはさすがの陸抗も、遠慮気味に書いたのかもしれない。ついでに、この上表では孫晧の死体損壊癖(?)も咎めており、やはりそうしたことは大袈裟に言われているというわけではなく、実際にあったのかと思われる。

 李勖はおそらく孫晧(とその取り巻き)の被害者の一人だったのだろうが、こうしてみると、同様の被害にあった賀邵らに比べ、自業自得で処刑されたかのような記述は不憫に思えてくる。