2014.06.01 陳泰の弟・陳訓、陳準が陳泰の子という説など

陳羣の次男・陳訓?

 先日Twitterのフォロワーさんが紹介されていた「台北市台碩堂陳氏宗親會」のFBページを眺めていたら、こんな記述があった。

三世祖群公生二子。
長子名諱泰
次子名諱訓

〔中略〕

四世祖泰公生二子
長子名諱訴
次子名諱準
泰公名俊字元伯,群公之長子。仕魏官至尚書左仆射。
四世祖訓公生二子
長子名諱聲
次子名諱疇(其子孫下落不明)
訓公又名樣,群公之次子。

潁川派始祖--陳寔「台北市台碩堂陳氏宗親會」

 陳訓、別名を陳様ともいう、陳羣の次男、つまり陳泰の弟の名が?

 「俊」というのも気になる。陳泰の別名? なおここでは、陳泰のあざなは「元伯」となっているが『三国志』等では「玄伯」で、また官は司空に至っている(ただし、司空は死後の追贈で、生前の最終官職は尚書左僕射)。

『三国志』魏書 陳羣伝の子の記述

靑龍四年薨,諡曰靖侯。子泰嗣。帝追思羣功德,分羣戶邑,封一子列侯。

陳壽撰、裴松之注『三國志 三 魏書〔三〕』中華書局、1982年、P638

 陳羣伝によれば陳羣の死後、陳泰が後を継いだが、一人の子が列侯に封じられた。この表現から、陳羣には陳泰以外にも子がいたのでは? と思っていたのだが、これが陳訓なのかも?

泰前後以功增邑二千六百戶,賜子弟一人亭侯,二人關內侯。景元元年薨,追贈司空,諡曰穆侯。子恂嗣。恂薨,無嗣。弟溫紹封。咸熙中開建五等,以泰著勳前朝,改封溫爲愼子。

陳壽撰、裴松之注『三國志 三 魏書〔三〕』中華書局、1982年、P641〜642

 一方、 陳泰はその功績によって「子弟一人」と「二人」の計三人に爵位を賜っている。記述のある二人以外にも子がいたとは考えられるが、弟を含めて「子弟」と表現される可能性も? もっとも、そうなると父の死後に列侯に封じられた記述とは矛盾する。

陳泰の子? 陳訴と陳準

 陳泰伝によれば陳泰の子は「陳恂」と「陳温」である。しかしこの陳恂と陳温は二人とも『三国志』『晋書』には他に記述がなく、詳細不明の人物。

 前述の陳氏のページでは陳泰の子は「陳訴」「陳準」となっている。

訴公又名准,諱奕,泰公之長子。
五世祖準公生二子
長子名諱津
次子名諱淮
準公又名巽,泰公之次子。

〔中略〕

津公,又名匡,名鉅有顯,準公之長子。仕梁授長安城太守,津公爲安城太守有術士於徽績溪修文鄉見一吉地有王氣後過吳興遇猛待之殊厚又多其險德遂獻之引舟載與逆江數百里葬於其所日歷三世當有念至曾孫霸先遂成帝業績溪人因尊之曰天子墓今堂封尚存。

〔中略〕

淮公,準公之次子。

潁川派始祖--陳寔「台北市台碩堂陳氏宗親會」

 「陳準」という人物は晋で太尉になっており、伝はないものの『晋書』に記述もある。しかし『三国志』陳泰伝注に引く『陳氏譜』によれば、陳寔—陳諶—陳—陳佐—陳準という流れで、陳寔の玄孫、つまり陳泰の子世代ではあるが、陳泰から見れば祖父の弟の曾孫という結構な遠縁。

案陳氏譜:羣之後,名位遂微。諶孫佐,官至靑州刺史。佐弟坦,廷尉。佐子準,太尉,封廣陵郡公。準弟戴、徵及從弟堪,並至大位。準孫逵,字林道,有譽江左,爲西中郞將,追贈衞將軍。

陳壽撰、裴松之注『三國志 三 魏書〔三〕』中華書局、1982年、P642

 「陳准」という名は『晋書』他に見られ、陳準と同一人物とされているようだが、ここでは陳準の兄・陳訴の別名だったことに。

 陳準の子は『晋書』によれば陳匡とされるが、ここでも陳津=陳匡となっている。子孫の陳霸先については後述。さらに陳準の次男「陳淮」という紛らわしい人も登場。

「潁川陳氏族譜集成」より

 こちらも陳泰の子が陳準となっている。一方、陳訓の名はなく、さらに先ほどの説では陳泰の長男とされていた陳訴がここでは陳準の子に。

陳準

 こんな意見も。

4世:陳佐,忠公長子。官後漢青州(治所在今山東臨淄北)刺史。生子三:准、戴(《唐表》無戴)、征。【按】周必大在《直秘閣陳公從古墓誌銘》中有這樣的記述,“文範生諶,諶生忠,忠生佐,佐生伯眕,晉建興中渡江居曲阿新豐湖,即今鎮江府金壇縣也,故君為金壇人。曾祖廓,熙甯九年進士。祖咸,元符三年進士。……父維以恩入官,主信之弋陽薄,後贈朝請大夫。”僅在佐下漏載准這一代。

5世:陳准(?〜 301)字道基,佐公長子。三國時潁川鄢陵(今河南鄢陵西北)人。娶丁氏,又唐氏,生子三:眕、匡、規。三國歸晉後,准仕晉。西晉惠帝元康五年乙卯( 295)拜中書令,後加光祿大夫。氐人齊萬年反,關中震盪,准指斥趙王司馬倫、梁王司馬肜雍容驕貴,不勝軍事,薦舉周處、孟觀討平之。永康元年庚申( 300年),趙王倫廢殺皇后賈南風及其親党,事後陳凖以剪除賈党有功封海陵公。淮南王司馬允討趙王倫,准暗中襄助,事敗,淮南王允被害。准遷任太尉,錄尚書事,改封廣陵元公。時准托疾辭位,不涉偽朝。次年辛酉( 301年)歿。為人慷慨,有大節,名重華夷,奸黨憚之。時咸謂有父風。【按】《魏書》紀生群,群生泰,泰子恂,恂薨(hong),無嗣。而準則泰之從侄,舊譜以准為泰之子,當是祧于泰,續之香火。故多譜誤將南朝陳一脈稱之元方後。其典型的詳見明朝王守仁序。

潁川堂陳氏宗譜寔公派下(部分)世系傳

 元ソースの投稿者(陳寔の70代目子孫らしい)は陳泰—陳準とするタイプの系図は誤りとしているようだが、根拠が魏書なので結局、謎がループ?

 なお言及されている陳従古という人の墓誌銘は、周必大撰『欽定四庫全書 文忠集 卷三十四』(Internet Archive 内) リンク先PDFの142ページから「朝散大夫直秘閣陳公從古墓誌銘」があり、144ページに該当の記述がある。

陳霸先

高祖武皇帝諱霸先,字興國,小字法生,吳興長城下若里人,漢太丘長陳寔之後也。世居潁川。寔玄孫準,晉太尉。準生匡,匡生達,永嘉南遷,為丞相掾,歷太子洗馬,出為長城令,悅其山水,遂家焉。

『陳書』中央研究院 漢籍電子文獻 卷一 本紀第一 高祖

 南朝・陳の初代皇帝・陳霸先は陳寔の子孫であるらしく、『陳書』高祖紀に陳寔の玄孫が陳準という記述がある。しかし、ここでは肝心の(?)陳寔から陳準に至る流れは不明。

 先ほどの陳氏族譜では陳霸先は陳諶(陳寔の四男「陳湛」となっている)の子孫とされている。

結局、謎である……

 どうやらこのあたりの家系図については諸説あり、子孫の間でも食い違いがある模様。もしかすると、陳泰の子孫は衰退どころか、乱世の皇帝にまでなっていたのかもしれない。

余談

 陳準が陳泰の子であれば、少なくとも陳羣の子孫が(陳泰の代で)衰退したという説は覆ることになり、陳泰の思想が反司馬昭と看做されたのではないかという疑い(?)も晴れるかも……