陳泰の妻は、荀顗の娘ではない

 ※疑問点を調べたときのメモ。 ※引用部分の本題に無関係なルビは省略。

 シミュレーションゲームの三國志には、陳泰の妻が荀顗の娘であると書かれている。ウェブ上にもしばしば書かれている。この根拠が不明だったが、どうやら荀顗が陳泰の「舅」という記述があることから来ているようである。

「舅」の意味

太常陳泰不至,使其舅荀顗召之。顗至,告以可否。泰曰:「世之論者,以泰方於舅,今舅不如泰也。」

陳壽撰、裴松之注《三國志 三 魏書〔三〕》(中華書局,1982年) 桓二陳徐衞盧傳第二十二 p.641

太常の陳泰が出席しなかったので、彼のしゅうとの荀顗に彼を召し出させた。荀顗は訪れると事の理非について説明した。陳泰はいった、「世間の論者は私を舅殿に比べておりますが、今、舅殿は私に及びません。」

陳寿、裴松之注、今鷹真訳『正史 三国志 3 魏書Ⅲ』(ちくま学芸文庫、1993年) 陳泰伝注『晋紀』 p.484

 手元の漢和辞典をひくと「舅」には「母の兄弟」「配偶者の父」「妻の兄弟」などいろいろな意味がある。

【舅】
① おじ。母の兄弟。
② しゅうと(しうと)。配偶者の父を呼ぶ称。「舅姑(キュウコ)
③ 妻の兄弟。
④ 諸侯が姓の違う大夫を呼ぶ称。
⑤ 天子が姓の違う諸侯を呼ぶ称。「伯舅」
⑥ 姓の違う年長の友人を呼ぶ称。
⑦ 古い。

『新漢語林(第二版)』(大修館書店、2011年)

 荀顗は陳泰の父・陳羣の妻の弟なので、この「舅」とは「① 母の兄弟」であると思っていた。そして先入観から「母の弟であるならば妻の父ではない」と考えていた。が、「叔父かつ妻の父」と解釈している人も結構いる。

 現代中国語では、この字は①の意味のようである。

-jiù -舅 〔〕 母の兄弟のこと.èr〜(二〜)=2番めのおじさん.
jiùfù 舅父 〔名〕2 母の兄弟,おじ.

『岩波 中国語辞典 簡体字版』(岩波書店、1963年) p.293

 といって上記②が特に日本語独自の意味とも記されていないので、「母の弟かつ妻の父」であってもまあいいか、くらいに思っていた。が、最近、「荀顗の娘が陳泰の妻だから、荀彧の娘は陳泰の生母ではないだろう」という仮定を見かける。その場合、陳泰は荀彧の孫ではないということに! それは困ります!

 というところから、改めて調べてみた。

【舅】キュウ(キウ) しゅうと
形声 声符は臼きゅう。〔説文〕十三下に「母の兄弟を舅と爲し、妻の父を外舅と爲す」とあり、〔爾雅、釈親〕の文による。〔詩、秦風、渭陽〕「我、舅氏を送り曰ここに渭陽に至る」、〔左伝、僖九年〕「(宰)孔をして伯舅に胙さく(祭肉)を賜はしむ」など、異姓の人にも用いる。金文には〔陳〓𣪘ちんぼうき〕「我が皇𣪘くわうきうに追孝す」のように𣪘を用いることがある。
1おじ、母の兄弟。2しゅうと、夫の父、妻の父。3妻の兄弟。4異姓の人に親しんでいう。5久と通じ、ひさしい。

白川静『字通』(平凡社、1996年)

※〓 貝偏に方。文字がない。

舅:母之兄弟為舅,妻之父為外舅。

中國哲學書電子化計劃 > 說文解字

 この説明が適用されるとすれば、単に「舅」なので、素直に「母の兄弟」だと思われる。つまり、陳泰の妻が荀顗の娘である、という記述は存在しない。

『三国志』における「舅」の用例

 せっかくなので、他に『三国志』では「舅」とはどのように使われているのか、と思い、デジタル化のありがたさをかみしめながら、いつもの中央研究院・漢籍電子文献で検索してリストアップ。以下出典のない原文は漢籍電子文献『三國志』からのコピペで、書籍との照合はしていません。

 なお、ちくま訳の三国志は、原文「舅」に対して、

  • 「舅」(ルビなし)
  • おじ
  • しゅうと
  • 「おじ」

 の四パターンがあり、同じ訳者でも統一されていない。(母親の兄弟)など訳注がついている場合もある。

 以下、見出し部分は「『舅』以外の記述から読み取れる、その相手との関係」だが、見落としで「不明」となっている箇所が絶対あると思われる。ツッコミは歓迎。

① 生母の弟

漢の文帝の「舅」の薄昭。訳「舅」(ルビなし・今鷹訳)

他日又從容言曰:「顧我亦有所不取于漢文帝者三:殺薄昭;幸鄧通;慎夫人衣不曳地,集上書囊為帳帷。以為漢文儉而無法,舅后之家,但當 養育以恩而不當假借以權,既觸罪法,又不得不害矣。」

「考えてみると、漢の文帝の行為の中には、わしにも賛成しかねることが三つある。薄昭(文帝の母薄姫の弟で代王であった文帝を朝廷に迎えた人物)を殺したこと、鄧通(美男の小姓)を寵愛したこと、〔節倹のため〕慎夫人に衣を字面にひきずることを許さず、上書を入れた袋を集めて帳帷を作らせたことだ。考えると、漢の文帝は節倹ではあったが節目がついていなかった。舅や后の家は、ひたすら恩愛をもって養うべきであって、権力を与えるべきではない。法律に触れたからには、やはり殺害しないわけにはいかないからね。」

陳寿、裴松之注、今鷹真・井波律子訳『正史 三国志 1 魏書Ⅰ』(ちくま学芸文庫、1992年) 文帝紀 pp.211-212

② 「舅氏」=生母の兄弟とその親族

曹叡の「舅氏」の甄后親族。訳「母方の親族/母の一族」(井波訳)

夢見后,於是差次舅氏親疏高下,敍用各有差,賞賜累鉅萬;以像為虎賁中郎將。

(明帝は)またかつて甄后の夢をみたことがあった。そこで母方の親族を、関係の近い遠い、身分の高い低いを考慮して段階をつけ、

陳寿、裴松之注、今鷹真・井波律子訳『正史 三国志 1 魏書Ⅰ』(ちくま学芸文庫、1992年) 文昭甄皇后伝 p.391

帝思念舅氏不已。暢尚幼,景初末,以暢為射聲校尉,加散騎常侍,又特為起大第,車駕親自臨之。又於其後園為像母起觀廟,名其里曰渭陽里,以追思母氏也。

明帝はたえず母の一族のことを気にかけていた。甄暢(母の兄甄儼の長孫)はまだ幼なかったが、景初の末年に射声校尉とし、本官の上に散騎常侍の位を付与した。また特に大邸宅を建ててやって、帝みずから親しくここを訪れた。また、その邸の後庭に甄像(甄儼の子、甄暢の父)の母のためにたかどのと廟を建ててやり、その地域を渭陽里と名づけて、母の一族を追慕する気持をあらわした。

陳寿、裴松之注、今鷹真・井波律子訳『正史 三国志 1 魏書Ⅰ』(ちくま学芸文庫、1992年) 文昭甄皇后伝 p.391

※曹叡から見た甄后の兄弟およびその子・孫など。

【舅氏】
① 母の兄弟。母方のおじ。舅父。
② 妻の父。外舅。

『新漢語林(第二版)』(大修館書店、2011年)

③ 生母の異母兄

劉弁の「舅」の何進(袁紹の発言)。訳「太后の兄君」(井波訳)

今將軍以元舅之尊,二府並領勁兵,其部曲將吏,皆英雄名士,樂盡死力,事在掌握,天贊其時也。

いま将軍は太后の兄君という尊いご身分のうえに、両幕府(大将軍何進と弟の車騎将軍何苗の幕府——役人を自由に任命できる)は、ともに強力な軍勢をかかえており、

陳寿、裴松之注、今鷹真・井波律子訳『正史 三国志 1 魏書Ⅰ』(ちくま学芸文庫、1992年) 袁紹伝注 p.450

※劉弁の母の兄。
※何進は何皇后の異母兄。「何進字遂高,南陽宛人也。異母女弟選入掖庭為貴人,有寵於靈帝,拜進郎中,再遷虎賁中郎將,出為潁川太守。」(『後漢書』何進伝)

④ 不明(未確認)

韓浩の「舅」の杜陽。訳「舅」(ルビなし・井波訳)

時浩舅杜陽為河陰令,卓執之,使招浩,浩不從。

董卓は、当時河陰の令であった韓浩の舅の杜陽を捕え、これをだしにして韓浩を配下に招こうとしたが、韓浩は言うことをきかなかった。

陳寿、裴松之注、井波律子・今鷹真訳『正史 三国志 2 魏書Ⅱ』(ちくま学芸文庫、1993年) 韓浩伝注 p.142

※韓浩伝は夏侯惇伝の中にある。
※なお韓浩には子がなく養子が後を継いだ。

⑤ 不明(未確認)

張邵の「舅」の楊駿。訳「舅」(ルビなし・今鷹訳)

魏書曰:文帝即位,以範子參為郎中。承孫邵,晉中護軍,與舅楊駿俱被誅。事見晉書。

『魏書』にいう。文帝は帝位につくと、張範の子の張参を郎中に任命した。張承の孫の張邵は、晋代に中護軍となったが、舅の楊駿とともに処刑された。その事は『晋書』に載せられている。

陳寿、裴松之注、井波律子・今鷹真訳『正史 三国志 2 魏書Ⅱ』(ちくま学芸文庫、1993年) 張範伝注 p.308

※楊駿は司馬炎の楊皇后の父で、外戚として一時は権力を振るったが賈皇后に敗れ殺された。
※裴松之の時代に存在した『晋書』の名を持つ書は四種あるらしい(訳注)。
※張劭は、楊駿の「甥」である。(慮左右間己,乃以其甥段廣、張劭為近侍之職)(晋書楊駿伝)

【甥】
① おい(をひ)。姉妹の生んだ男の子。
② そとまご。外孫。むすめの生んだ子。
③ 父の姉妹の子、母の兄弟の子、妻の兄弟、姉妹の夫の総称。
④ むこ(婿)。むすめの夫。

『新漢語林(第二版)』(大修館書店、2011年)

「甥」にも双方の意味がある。……解決になっていない。

⑥ 生母の兄弟

龐淯の「舅」たち。訳「おじ(ルビ「おじ」・今鷹訳)

初,淯外祖父趙安為同縣李壽所殺,淯舅兄弟三人同時病死,壽家喜。淯母娥自傷父讎不報,乃幃車袖劍,白日刺壽於都亭前,訖,徐詣縣,顏色不變,曰:「父讎己報,請受戮。」祿福長尹嘉解印綬縱娥,娥不肯去,遂彊載還家。會赦得免,州郡歎貴,刊石表閭。

そのむかし、龐淯の外祖趙安は同県の李寿に殺害され、龐淯のおじ兄弟三人は時を同じくして病死した。李寿の家では悦んだ。龐淯の母の娥は父の仇に報復できないことに心をいため、

陳寿、裴松之注、今鷹真訳『正史 三国志 3 魏書Ⅲ』(ちくま学芸文庫、1993年) 龐淯伝 p.271

※龐淯の母・龐娥は女性ながら父の仇を討ったとして讃えられる。
※「舅兄弟三人」=龐娥の弟たち=龐淯から見て叔父たち。

⑦ 母の弟

陳泰の「舅」の荀顗。訳「しゅうと(ルビ「しゅうと」・今鷹訳)

太常陳泰不至,使其舅荀顗召之。顗至,告以可否。泰曰:「世之論者,以泰方於舅,今舅不如泰也。」

太常の陳泰が出席しなかったので、彼のしゅうとの荀顗に彼を召し出させた。荀顗は訪れると事の理非について説明した。陳泰はいった、「世間の論者は私を舅殿に比べておりますが、今、舅殿は私に及びません。」

陳寿、裴松之注、今鷹真訳『正史 三国志 3 魏書Ⅲ』(ちくま学芸文庫、1993年) 陳泰伝注『晋紀』 p.484

※陳泰の父(陳羣)は、荀顗の姉の夫である。「荀顗字景倩,潁川人,魏太尉彧之第六子也。幼為姊壻陳羣所賞。」、(荀顗伝)「顗字景倩,幼爲姊夫陳羣所異。」(荀彧伝注『晉陽秋』)陳泰は、荀顗の「甥」である。「顗甥陳泰卒,顗代泰為僕射,領吏部,四辭而後就職。」(荀顗伝)ということから、他の箇所での判断に準じて、ここは「母の弟」としておく。
※翻訳は「しゅうと」とルビ。⑥と同じ今鷹氏の訳だが、⑥は文脈から明らかに「生母の兄弟」でルビ「おじ」。使い分けの根拠は不明。
※『世説新語』の注に同じ『晋紀』からの引用があるが、目加田誠『新釈漢文大系 第77巻 世説新語(中)』(明治書院、1976年)はこの「舅」を「叔父さん」と訳している。
※井波氏は、『世説新語 2』(東洋文庫、2014年)の解説で陳泰を荀氏の子としている。

⑧ 生母の兄弟

陳矯の「舅氏」。訳「母方のおじの家」(今鷹訳)

魏氏春秋曰:矯本劉氏子,出嗣舅氏而婚于本族。徐宣每非之,庭議其闕。

『魏氏春秋』にいう。陳矯は本来劉氏の子であったが、家を出て母方のおじの家をつぎ、もとの劉氏の一族と結婚した。徐宣はつねにそのことを非難し、

陳寿、裴松之注、今鷹真訳『正史 三国志 3 魏書Ⅲ』(ちくま学芸文庫、1993年) 陳矯注 p.490

※陳矯は陳騫の父。
※同姓不婚の原則に反するため非難された。旧姓でもだめなのか。
※内容的にこの母は生母と思っていい?

⑨ 不明(未確認)

和嶠の「舅」の夏侯玄。訳「しゅうと(ルビ「しゅうと」・今鷹訳)

晉諸公贊曰:和嶠字長輿,逌之子也。少知名,以雅重稱。常慕其舅夏侯玄之為人,厚自封植,嶷然不羣。於黃門郎遷中書令,轉尚書。愍懷太子初立,以嶠為少保,加散騎常侍。家產豐富,擬於王公,而性至儉吝。嶠同母弟郁,素無名,嶠輕侮之,以此為損。卒於官,贈光祿大夫。郁以公彊當世,致位尚書令。

『晋諸公賛』にいう。和嶠は字を長輿といい、和逌の子である。若年にして世間に名を知られ、典雅な重々しさをたたえられた。つねにその舅にあたる夏侯玄の人柄を愛慕し、みずからを持すること高く、すっくと世俗からぬきんでていた。

陳寿、裴松之注、今鷹真・小南一郎訳『正史 三国志 4 魏書Ⅳ』(ちくま学芸文庫、1993年) 和洽伝注 p.14

※判明していそうな予感がするが、とりあえず未確認
※「嶠少有風格,慕舅夏侯玄之為人,厚自崇重。」和嶠伝

⑩ 不明(未確認)

司馬越の「舅」の楊猗。訳「舅」(ルビなし・今鷹訳)

世語曰:俊二孫:覽字公質,汝陰太守;猗字公彥,尚書:晉東海王越舅也。覽子沈,字宣弘,散騎常侍。

『世語』にいう。楊俊には二人の孫があった。楊覧は字を公質といい、汝陰太守となった。楊猗は字を公彦といい、尚書となった。晋の東海王司馬越の舅である。

陳寿、裴松之注、今鷹真・小南一郎訳『正史 三国志 4 魏書Ⅳ』(ちくま学芸文庫、1993年) 楊俊伝注『世語』 p.30

※司馬越:司馬懿のひまご

⑪ 生母の兄弟

裴潜は「無舅氏」だった。訳「(生母が微賤の出であって)舅の家もなく」(ルビなし・今鷹訳)

魏略曰:時遠近皆云當為公,會病亡。始潛自感所生微賤,無舅氏,又為父所不禮,即折節仕進,雖多所更歷,清省恪然。

当時、遠くの人も近くの人も〔裴潜が〕三公となるはずだといっていたが、たまたま病気にかかってなくなった。最初、裴潜は生母が微賤の出であって舅の家もなく、そのうえ父からもまともに扱われなかったことに発憤し、そのため意志を曲げて仕官した。

陳寿、裴松之注、今鷹真・小南一郎訳『正史 三国志 4 魏書Ⅳ』(ちくま学芸文庫、1993年) 裴潜伝注 p.49

※裴潜は裴秀の父。
※生母の話と繋がっているとすると、生母の兄弟のこと。

⑫ 生母の弟

司馬炎の「舅」王愷。訳「しゅうと(ルビ「しゅうと」・今鷹訳)

荀綽冀州記曰:秀有雋才,性豪俠有氣,弱冠得美名。於太康中為衞瓘、崔洪、石崇等所提攜,以新安令博士為司空從事中郎。與帝舅黃門侍郎王愷素相輕侮。愷諷司隸荀愷,令都官誣奏秀夜在道中載高平國守士田興妻。

(牽秀は)帝のしゅうとの黄門侍郎王愷と平素から軽蔑しあっていた。

陳寿、裴松之注、今鷹真・小南一郎訳『正史 三国志 4 魏書Ⅳ』(ちくま学芸文庫、1993年) 牽招伝注 p.178

※帝=司馬炎。
※王愷は王粛の息子、王元姫の弟。
※『晋書』王恂伝の続きに王愷伝がある。「王恂字良夫,文明皇后之弟也。」「恂弟虔、愷。」
※明らかに関係は「生母の弟」だがルビ「しゅうと」となっている。

⑬ 不明(未確認。訳おじ)

令狐愚の「舅」王淩。訳「おじ(ルビ「おじ」・今鷹訳)

是時,淩外甥令狐愚以才能為兗州刺史,屯平阿。舅甥並典兵,專淮南之重。

このとき、王淩の外甥(姉妹の子)の令狐愚は才能によって兗州刺史に任じられ、平阿に駐屯していた。おじと甥がともに軍兵をあずかり、淮南地方の権力を掌握していたのである。

陳寿、裴松之注、今鷹真・小南一郎訳『正史 三国志 4 魏書Ⅳ』(ちくま学芸文庫、1993年) 王淩伝 p.226

⑭ 不明(未確認。訳おじ)

管輅の「舅氏」・「舅」の夏大夫。訳「舅氏おじ(母の兄弟)」(ルビ「おじ」・小南訳)

輅還邑舍,具以此言語舅氏,舅氏責輅言太切至。輅曰:「與死人語,何所畏邪?」舅大怒,謂輅狂悖。歲朝,西北大風,塵埃蔽天,十餘日,聞晏、颺皆誅,然後舅氏乃服。

管輅は宿舎に帰ると、舅氏おじ(母の兄弟)にこの会見の模様を詳しく語った。舅氏は、管輅の言葉があけすけすぎたといって非難をした。

輅別傳曰:舅夏大夫問輅:

『管輅別伝』にいう。おじの夏大夫が管輅に尋ねた、

陳寿、裴松之注、今鷹真・小南一郎訳『正史 三国志 4 魏書Ⅳ』(ちくま学芸文庫、1993年) 管輅伝と注 pp.380-381

※夏大夫が誰か不明。索引ではここにしか出てこない人物。

⑮ 祖母の兄弟の子 ※注あり

献帝の「舅」の董承。訳「しゅうと(ルビ「しゅうと」・井波訳)

先主未出時,獻帝舅車騎將軍董承臣松之案:董承,漢靈帝母董太后之姪,於獻帝為丈人。蓋古無丈人之名,故謂之舅也。

まだ先主が〔袁術迎撃に〕出発する前、献帝のしゅうとに当る車騎将軍董承が

〔一〕臣裴松之は考える。董承は〔後〕漢の霊帝の母、董太后の甥であり、献帝には丈人にあたる。昔は丈人という名称がなかったので、そのためにこれを舅といったのであろう。

陳寿、裴松之注、井波律子訳『正史 三国志 5 蜀書』(ちくま学芸文庫、1993年) 先主伝と注 p.33

※献帝の祖母(=父の母)・董太后の兄弟の子。(異説もあり)

【姪】
㋐ めい(めひ)。
 (甲)女性から見て、兄弟の子。
 (乙)男性から見て、姉妹の子。
㋑ おい(をひ)。兄弟の男の子。

【丈人】
① 老人。▼丈は、杖(つえ)で、老人は杖をつくからいう。
② 知識・徳行のある年寄り。長老。〔論語、微子〕
③ 妻の父。しゅうと。岳父(ガクフ)。
④ 祖父。
⑤ 父の姉妹。

⑯ 不明(未確認)

槃木王の「舅」の狼岑。訳「しゅうと(ルビ「しゅうと」・井波訳)

嶷之到定莋,定莋率豪狼岑,槃木王舅,甚為蠻夷所信任,忿嶷自侵,不自來詣。

定莋の頭目の狼岑は槃木王のしゅうとで、蛮族からたいへん信頼されていた男だったが、

陳寿、裴松之注、井波律子訳『正史 三国志 5 蜀書』(ちくま学芸文庫、1993年) 張嶷伝 p.402

※張嶷が討伐した異民族の話。

⑰ 生母の兄弟

李密の「舅」。訳「おじ」(井波訳)

晉武帝立太子,徵為太子洗馬,詔書累下,郡縣偪遣,於是密上書曰:「臣以險釁,夙遭閔凶,生孩六月,慈父見背,行年四歲,舅奪母志。

「臣は不幸な生いたちで、早くから悲しいできごとにあいました。生後六ヵ月で父を失い、四歳で、おじが母の願いを無視し〔て再婚させ〕ました。

陳寿、裴松之注、井波律子訳『正史 三国志 5 蜀書』(ちくま学芸文庫、1993年) 楊戯伝注 pp.454-456

※李密が、祖母の介護をするために祖母が亡くなるまで仕官を拒んでいた話。「父は若死し、母の何氏が再婚したため、李密は祖母に養育された。」

⑱ 生母の弟

孫策の「舅」「舅氏」の呉景。訳「おじ(母親の兄弟)」等(ルビ「おじ」・小南訳)

徐州牧陶謙深忌策。策舅吳景,時為丹楊太守,策乃載母徙曲阿,與呂範、孫河俱就景,因緣召募得數百人。興平元年,從袁術。術甚奇之,以堅部曲還策。

孫策のおじ(母親の兄弟)の呉景がこのころ丹楊(丹陽)太守となっていたので、孫策は母親を車に乗せ〔陶謙を避けて〕家を移して曲阿に住まわせると、自分は呂範や孫河とともに呉景のもとに身を寄せた。

陳寿、裴松之注、小南一郎訳『正史 三国志 6 呉書Ⅰ』(ちくま学芸文庫、1993年) 孫策伝 p.32

※他に孫策伝の注には呉景のことを指して「舅氏」(訳「舅氏おじ」)、「貴舅」(訳「あなたの舅御おじご」)、「舅」(訳「おじ」 ※二カ所)がある。
※呉景は孫策の生母である呉夫人の弟。呉夫人伝に詳細。

⑲ 生母の弟

孫晧の「舅」の何洪・何蔣・何植。訳「舅(母方のおじ)」「しゅうと(ルビなし/ルビ「しゅうと」・小南訳)

封后父滕牧為高密侯,舅何洪等三人皆列侯。

滕皇后の父親の滕牧を高密侯に任じ、舅(母方のおじ)の何洪たち三人も列侯に叙せられた。

陳寿、裴松之注、小南一郎訳『正史 三国志 6 呉書Ⅰ』(ちくま学芸文庫、1993年) 孫晧伝 p.196

※何洪らは孫晧の生母である何姫の弟。孫和何姫伝「何姬為昭獻皇后,稱升平宮,月餘,進為皇太后。封弟洪永平侯,蔣溧陽侯,植宣城侯。」

江表傳載晧將敗與舅何植書曰:

『江表伝』には、孫晧が滅亡を目の前にしたときにしゅうとの何植に送った手紙を載せる。それには次のようにある、

陳寿、裴松之注、小南一郎訳『正史 三国志 6 呉書Ⅰ』(ちくま学芸文庫、1993年) 孫晧伝注 p.232

※何植は孫晧の生母の弟だが、この部分では訳に「しゅうと」のルビ。

⑳ (「舅子」で)生母の弟の子

孫晧の「舅子」の何都。(訳:舅子おい(ルビ「おい」・小南訳)

晧舅子何都顏狀似晧,云都代立。

孫晧の舅子おいの何都は顔つきが孫晧と似ていたところから、何都があとをついで帝位についたのだといわれた。

陳寿、裴松之注、小南一郎訳『正史 三国志 6 呉書Ⅰ』(ちくま学芸文庫、1993年) 孫和何姫伝注『江表伝』 p.303

※孫晧が死んだというデマが発生したときの話。
※何都は詳細不明だが、叔父が何植である「臨海太守奚熙信譌言,舉兵欲還誅都,都叔父植時為備海督,擊殺熙,夷三族,譌言乃息,而人心猶疑。」(孫和何姫伝注)ということから、何洪もしくは何蔣の息子、孫晧の母方のいとこなのかと思われる。
※「舅子おい」と訳されているが、文字どおり舅の子・「母の兄弟の子」=母方いとこの意味ではないだろうか?

【舅子】
① 母の兄弟の子。母方のいとこ。
② 妻の兄弟。

『新漢語林(第二版)』(大修館書店、2011年)

㉑ 母の兄弟?(配偶者の父ではない)

顧邵の「舅」の陸績。訳「おじ(母方のおじ)」(ルビ「おじ」・小南訳)

邵字孝則,博覽書傳,好樂人倫。少與舅陸績齊名,而陸遜、張敦、卜靜等皆亞焉。

顧邵は字を孝則といい、博く経書やその注釈書を読み、好んで人物評論をなした。若くしておじ(母方のおじ)にあたる陸績と並び称せられ、陸遜・張敦・卜静らはみな名声の点では彼の下手に立った。

陳寿、裴松之注、小南一郎訳『正史 三国志 6 呉書Ⅰ』(ちくま学芸文庫、1993年) 顧雍伝 p.372

※顧邵は顧雍の長男で、顧譚・顧承の父。
※この記述以外での、顧邵と陸績の関係は調査できず。
※陸績の娘は陸鬱生ひとりで(陸瑁伝)、陸鬱生は張白に嫁いで後、再婚しなかったことで知られるため、少なくともこの「舅」は「配偶者の父」の意味ではあり得ない。

㉒ 不明(訳おじ)

顧承の「舅」の陸瑁。訳「おじ(ルビ「おじ」・小南訳)

承字子直,嘉禾中與舅陸瑁俱以禮徵。

顧承は字を子直という。嘉禾年間に、おじの陸瑁とともに、丁重な礼でもって孫権のもとに召し出された。

陳寿、裴松之注、小南一郎訳『正史 三国志 6 呉書Ⅰ』(ちくま学芸文庫、1993年) 顧雍伝 p.378

※顧承は顧邵の次男。
※「おじ」とすると、顧承の母=顧邵の妻が、陸瑁(陸遜の弟)の姉妹。
※顧譚・顧承は陸遜の「外生」(訳「甥」)(「既不聽許,而遜外生顧譚、顧承、姚信,竝以親附太子,枉見流徙。」五巻p1354)であり、顧譚&顧承兄弟が陸遜&陸瑁兄弟の姉妹の子、という繋がりと思われるが、「外生」も「姉妹の子」以外の意味もあるようである。
※このあたり家系図複雑すぎて大混乱☆U・x・U
※ちなみに三国志で「外生」は他に、諸葛恪の「外生」の張氏(張承の娘、陸抗の妻、陸景の母)がある。「外甥」を入れると他にも幾つか。

㉓ 生母の兄

張氏の「舅」の諸葛恪。訳「おじ(ルビ「おじ」・小南訳)

恪即和妃張之舅也。

諸葛恪は、孫和の妃である張氏のおじにあたった。

陳寿、裴松之注、小南一郎訳『正史 三国志 7 呉書Ⅱ』(ちくま学芸文庫、1993年) 孫和伝 p.337

※張氏は孫和の正妻で(何姫伝)、孫和が自害させられたときに、ともに死んだ(孫和伝の注など)。
※張氏は張承と諸葛瑾娘の娘で、諸葛瑾娘は張承の後妻(張承伝)。初,承喪妻,昭欲為索諸葛瑾女,承以相與有好,難之,權聞而勸焉,遂為壻。生女,權為子和納之
※メモ:陸抗の妻の張氏はこの張氏の同母姉妹と思われる。
※メモ:諸葛恪の「外甥」の張震(張承の息子)は、諸葛恪が殺されたときに殺された。
※メモ:孫和の息子は、孫晧(母は何氏)・孫徳・孫謙(孫晧の庶弟。施但の乱の際に生母とともに誅殺)・孫俊。

上記のまとめ

『三国志』に出てくる「(本人とその)舅」(一部「舅氏」)という関係は23種類あり、その部分以外から読み取れる関係は、こうなる。

母(生母)の兄弟①、②、③、⑥、⑧、⑪、⑫、⑰、⑱、⑲、⑳、㉓12箇所
母(生母か否かは不明)の兄弟1箇所
母(生母か否かは不明)の兄弟?(配偶者の父ではない)1箇所
関係不明(訳ルビ「おじ」)⑬、⑭、㉒3箇所
関係不明(訳ルビ「しゅうと」)1箇所
関係不明(訳ルビなし)④、⑤、⑨、⑩4箇所
祖母の兄弟の子 ※注あり1箇所
  • 明らかに「配偶者の父」である箇所はない。
  • 明らかに「母の兄弟」のケースのほとんどが生母であり、明らかに義母である箇所はない。
  • 訳のルビ「おじ」と「しゅうと」は、使い分けが明確でない。明らかに「母の兄弟」でも「しゅうと」のルビがある。

結論

 『三国志』の「舅」には「配偶者の父」の意味はない。
 したがって「荀顗の娘が妻だから、荀彧の娘は生母ではない」という説は成り立たない。

誤解の原因

 少なくとも荀顗が陳泰の「父の妻の弟」であることが明らかなのにも拘わらず、なぜここだけ「妻の父という意味では?」との受け止め方をされたのかと考えると、『正史 三国志』が何故か「しゅうと」とルビをふったせいではないか、と思えてくる。日本語で「しゅうと」とあれば「妻の父」かと思ってしまう。

 上にも書いたが、目加田誠『新釈漢文大系 第77巻 世説新語(中)』(明治書院、1976年)ではこの部分の「舅」を「叔父さん」と訳しており、『正史 三国志』訳者の一人である井波氏も『世説新語 2』(劉義慶撰・井波律子訳注、東洋文庫、2014年)の解説で陳泰を荀氏の子としている。陳泰伝が井波氏訳ならば三国志でも「おじ」と訳され、特に荀氏が陳泰の生母かどうか疑われるような事態にもならなかっただろうに……

陳泰の「母の弟」は実の叔父なのか

 とはいえ、ここで「舅」の意味が「母の兄弟」であったからといって、この「母」が生母であるという証拠にはならないかもしれない。各種エピソードを見ると、自分の生母以外の父の配偶者(というのか、正室・側室等)に対して義母という認識はないと思われるが、たとえば生母の死後の後妻であったような場合は、どうなのだろう。

 が、前述のように、他に明らかな関係のほぼ全て(㉑以外)は「生母の兄弟」であるし、井波氏も生母としていることだし、ファンとしては素直に、陳泰は荀氏の子である、と受け止めたい。

 長々と書いたが、陳泰は荀彧の実の孫ですよ!!! というだけのお話で。コラムページに移動しようと思ったが散漫なのでこのまま……

2014.03.13

Tags: 三国志の人物 陳泰 荀顗 荀彧