諸葛靚の人柄 - 剛毅なリアリスト

 孫晧そんこう伝の注に引く干宝『晋紀』によれば、晋呉の決戦の折、呉の丞相・張悌ちょうてい率いる軍勢に、敵の張喬の軍勢が降伏してきた。諸葛靚しょかつせいは、降伏が見せかけであることを見抜き、受け容れずに全員殺して味方の士気を高めようと進言。しかし張悌はこの進言を却下する。

張悌はいった、「強敵が前方にひかえているとき、先に小さな敵にかかずらっているのはよくない。それに降伏してきた者を殺すのは不祥なことだ。」諸葛靚がいった、「こいつらは救援の兵がなかなか来ず、兵力も足らぬため、ひとまず偽って降服して、われわれの攻撃の手をゆるめさせようとしているのであって、本心から降服して来たのではありません。彼らに戦闘意欲のないのに乗じて全員を坑うめすれば、三軍の士気を高めることができます。もし棄て置いて軍を進めれば、きっとのちの患いとなりましょう。」

陳寿、裴松之注、小南一郎訳『正史 三国志 6 呉書Ⅰ』(ちくま学芸文庫、1993年) p.225

 が、張悌はこの意見をなおも退け、偽りの降伏を受け容れてしまった。単に判断力が甘いのか、騙される可能性を考慮しながらも高潔な態度を貫きたかったのか、いずれにせよ総司令官に向かない人柄なのだが、ここで注目は諸葛靚の発言。「戦闘意欲のないのに乗じて全員を坑うめ」(原文「因其無戰心而盡阬之」)しましょう。当時としては普通の感覚なのであろうが、小南先生のドライな日本語訳の効果もあって、実に容赦ない。

 しかし張悌軍は、悉くこの張喬の軍に討たれ、呉軍は大敗。まさに、諸葛靚の冷徹な判断こそが正しかったのである。

 一方こちらは孫和伝の注に引く胡沖『呉歴』より、施但したんという人物による反乱事件の話。

 『呉歴』にいう。孫和には四人の息子があって、孫晧・孫徳・孫謙・孫俊といった。孫休が即位をすると、孫徳を銭塘侯に、孫謙を永安侯に封じ、孫俊を騎都尉に任じた。孫晧が〔建業を離れて〕武昌にいたときに、呉興の施但が、民衆たちが孫晧の統治に苦しんでいるのに乗じ、一万余の人数を集めると、孫謙を強迫して陣営に引きこみ、彼をひきつれて秣陵(建業)にまで行進し、〔孫晧のかわりに〕孫謙を皇帝に立てようとくわだてた。秣陵の手前三十里の所に留まると、吉日を選んで、施但は使者を立て、孫謙の命だとして丁固と諸葛靚とに詔を送った。諸葛靚はその場で使者を斬った。施但はさらに九里(地名)まで進んだが、丁固と諸葛靚とが軍を出してこれに攻撃を加え、さんざんに打ち破った。施但の兵は裸身で鎧甲をつけていなかったので、いざ戦いとなると皆ばらばらになって逃げ去った。孫謙は、侍者もなく、ひとり馬車の中に坐っていて、そのまま生けどりにされた。丁固は孫謙を殺すことをはばかって、このことを孫晧に報告した。孫晧は孫謙を毒殺し、その母親や息子も殺害された。

陳寿、裴松之注、小南一郎訳『正史 三国志 7 呉書Ⅱ』(ちくま学芸文庫、1993年) 孫和伝注 pp.339-340

 この当時、呉は武昌に遷都し、右将軍であった諸葛靚は、御史大夫の丁固とともにかつての都である建業を守備していた。そこに孫晧の異母弟・孫謙を擁立してクーデターを企てようとする事件が発生。首謀者は施但という詳細不明の人物だが、孫謙からの詔と称して使者を送ってくる。孫晧から人心が離れつつあるこの時代のこと、施但は、丁固諸葛靚らも同調する可能性があると目論んだのだろう。だが諸葛靚は、「その場で使者を斬った」。容赦なく一刀両断である。拒絶された施但は旧都近郊まで攻め寄せ、ついに戦となった。

 ちなみに父・諸葛誕も、かつて毌丘倹かんきゅうけんらの謀反の際の使者を斬っており、反乱には与しないぞ、という意思表示の常套手段なのだろう。だがここで気になるのは、丁固の方が立場も年齢も上の責任者だと思われるのに、敢えて「諸葛靚が」と記される点である。丁固は、後に陸凱らとともに孫晧の廃位を企てたという説もある人物である。相手の言い分を聞いて正当性を見極め、場合によっては施但側に与しようと考えていた可能性もある。そうでなかったとしても、丁固は、孫謙を殺すのを躊躇するなど、慎重な人柄のようである。業を煮やした諸葛靚が代わりに使者を斬って、宣戦布告したのかもしれない。

 常に現実を冷静に見つめ、感傷に惑わされることなく、敵に対しては見事なまでに容赦ない。孝子として知られる諸葛靚だが、その性格はかなり剛毅であった。思えば司馬炎との逸話(「諸葛靚と父と司馬炎」参照)にしても、帝という立場である相手に対し、本来ならあなたに復讐したいのにできないのです、と告げた上に司馬炎の無神経をなじっているようなものだから、相当の豪胆さである。相手が気の良い司馬炎だったから恥じて退出してくれたが、普通ならば逆ギレされて殺されてもおかしくないところだろう。

諸葛靚の評価

 『世説新語』言語篇の注に引く傅暢ふちょう『晋諸公賛』より。

晉諸公贊曰、靚字仲思、琅邪人、司空誕少子也。雅正有才望。誕以壽陽叛、遣靚入質於吳、以靚爲右將軍、大司馬。

『晋諸公賛』にいう、「諸葛靚、字は仲思、琅邪の人、司空誕の末子であった。人がらは雅正で、才たけ、人望があった。誕は寿陽で叛し、靚を呉に人質として遣った。呉は靚をむかえて右将軍、大司馬とした。」

目加田誠『新釈漢文大系 第76巻 世説新語(上)』(明治書院、1975年) pp.109-110

 魏にいた頃の諸葛靚の動向については全く記録がなく不明だが、おそらく若くして、才望ある人物と評価されていたようである。

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