Tags: 諸葛靚

  • 諸葛靚の兄弟姉妹
  • 目次諸葛靚の兄諸葛靚の姉・諸葛太妃(司馬伷夫人)諸葛靚の姉・王広夫人諸葛靚の兄諸葛誕(しょかつたん)の乱の際の記述等によれば、諸葛靚(しょかつせい)は諸葛誕の末子である。遣長史吳綱將小子靚至吳請救。長史の呉綱に末子の諸葛靚をつれて呉に行き、救援を要請するよう命じた。晉諸公贊曰、靚字仲思、琅邪人、司空…
  • 諸葛誕の乱
  • 総司令官兵力結果魏軍司馬昭26万以上勝利呉軍諸葛誕・孫綝22〜23万以上敗北諸葛誕の乱(呉軍:諸葛誕率いる反乱軍&孫綝率いる救援軍 vs 魏軍:司馬昭率いる討伐軍の戦い)の時系列と位置関係のまとめ。『三国志』と『晋書』では日付の不一致があります。小文字部分は推測や感想含む。登場人物呉軍(寿春城)諸葛…
  • 2011.07.13 施但事件と丁固と諸葛靚メモ
  • 孫晧が武昌に遷都した間に、施但が起こした反乱事件(266年10月)と関係者について調べ中。武昌に遷都後、元の都の建業は丁固と諸葛靚が護っていた。そこに施但が孫晧の弟・孫謙を勝手に帝として擁立してやってきた。帝からとして詔の使者を送ってきたが、「諸葛靚はその場で使者を斬った」、そしてアッサリ丁固&諸葛…
  • 2007.12.11 三国演義の挿絵ほか
  • 「クウノフタヒ」のみなとさんと、図書館にて演義の絵の本などをチェック→某所チャイナショッピングモール散策してきました。図書館の目玉は『中国古典文学挿画集成 1 三国志演義』(上下巻、滝本弘之編、遊子館)。コピーしてきたので幾つかスキャンしてみました。いつの時代の絵か確認し忘れましたが、著作権は切れて…
  • 2007.09.13 諸葛靚の年齢がわからない
  • 某サイトさんで諸葛恢の生年から諸葛靚の年齢にふれられていたのに影響され、早速真似して調べてみる。『晋書』穆帝紀によると「永和元年(中略)五月戊寅,大雩。尚書令、金紫光祿大夫、建安伯諸葛恢卒。」とある。永和元年とは西暦345年で、当サイトの年齢比較ツールで想定していた範囲を超えている!(※急遽延長しま…
  • 2007.04.29 諸葛靚
  • 諸葛靚は、父の決意に共感し、ともに目的を果たそうと能動的に呉に降った! というキャラにもできそうな気もする。が、私の彼の第一印象は、確かに父に共感し多大な影響を受けてはいるものの、どちらかというとなりゆきに翻弄され、気が付いたら呉の将軍位を与えられていた……という人だった。その印象を拡張した創作設定…
  • 諸葛靚と父と司馬炎 - 友情と孝道の狭間で
  • 諸葛靚と父・諸葛誕諸葛靚(しょかつせい)は、諸葛誕(しょかつたん)の末子である。諸葛誕は、呉の諸葛瑾・蜀の諸葛亮らと同じ琅邪の諸葛氏の一族で、魏に仕えていた。だが魏王朝の末期、司馬氏の専横に対して反旗を翻すことになる。諸葛誕は呉に帰順して救援を要請するべく、子の諸葛靚を人質として呉に送った。だが、一…
  • 呉の歴代大司馬
  • 大司馬は軍事の最高役職。書かれていないだけで、他にもいる可能性大。皆して在任期間が短い。若造が任命されることはまずないので、在任のまま死去する人が多いせいだとしても、一ヶ月未満〜最長で七年弱である。滕胤に至っては、陰謀に利用されただけという感じ。呂範(りょはん) 字:子衡(しこう) (?-228) …
  • 諸葛靚の人柄 - 剛毅なリアリスト
  • 孫晧(そんこう)伝の注に引く干宝『晋紀』によれば、晋呉の決戦の折、呉の丞相・張悌(ちょうてい)率いる軍勢に、敵の張喬の軍勢が降伏してきた。諸葛靚(しょかつせい)は、降伏が見せかけであることを見抜き、受け容れずに全員殺して味方の士気を高めようと進言。しかし張悌はこの進言を却下する。張悌はいった、「強敵…
  • 諸葛靚と孫晧
  • 暴君として知られる呉末の帝・孫晧(そんこう)は、後年、臣下が権力を持って反乱を起こすことを相当に怖れていたようである。実際に多くの臣下が晋に逃亡し、歩闡(ほせん)のように、代々の有力な臣下さえ反旗を翻しはじめた。陸氏一族では陸凱が丞相として内政面で、陸抗が国境において軍事的に権力を持っていたが、彼ら…
  • 諸葛靚の字
  • 諸葛靚(しょかつせい)の字(あざな)は「仲思」という。「仲」が付くことからして、彼は諸葛誕(しょかつたん)の次男なのだろう。諸葛靚の字に関しては、『世説新語』言語篇にこんな逸話がある。諸葛靚在吳、於朝堂大會。孫皓問、卿字仲思、爲何所思。對曰、在家思孝、事君思忠、朋友思信。如斯而已。通釈…
  • 晋呉決戦にて・諸葛靚と司馬伷
  • 呉の滅亡に際して、帝・孫晧(そんこう)を直接降伏させることになった人物は、司馬懿の息子である琅邪王の司馬伷(しばちゅう)だったが、この司馬伷は、諸葛靚(しょかつせい)の姉の夫でもあった。平吳之役,率衆數萬出涂中,孫晧奉箋送璽綬,詣伷請降。詔曰:「琅邪王伷督率所統,連據涂中,使賊不得相救。又使琅邪相劉…
  • 晋呉決戦にて・諸葛靚と張悌
  • 三国志最後の決戦といえる、晋による伐呉の役に際し、ときの呉の大司馬・副軍師であった諸葛靚(しょかつせい)は、丞相・軍師であった張悌(ちょうてい)の指揮下で出陣するが、結果、呉軍は大敗した。(詳細は「張悌 - 忠義のセンチメンタリスト」参照)孫晧(そんこう)伝の注に引く習鑿歯(しゅうさくし)『襄陽記』…
  • 呉最後の大司馬・副軍師
  • 諸葛靚と晋と呉諸葛靚(しょかつせい)の生没年は不明だが、晋の武帝司馬炎(しばえん)の幼なじみというところから、彼と同年代と推測される。仮に同い年とした場合、諸葛誕(しょかつたん)の乱が起きたころには二十二歳。当時の初出仕の目安は二十歳くらいだが、特に魏時代の官名の記述はないことから、諸葛靚は魏では官…
  • 張悌 - 忠義のセンチメンタリスト
  • 三国志最後の戦いである、西暦280年の晋による伐呉の役で奮戦したとされる、孫呉最後の丞相、張悌(ちょうてい)。「今日は私が死ぬべき日なのだ」晋軍は、各方面から押し寄せて着々と要所を陥落させ、ついに呉の都近くまで迫り来つつあった。軍師(現代でいう参謀の意味ではなく、軍の総帥)であり、丞相に就任したばか…