司馬昭キャリア年表
※出来事は司馬昭に関連する、もしくは重大な事件のみ記載。〔 〕は「三国官職表」等を参照した官品。
西暦 | 年 | 月 | 日 | 出来事 | 官職 | 爵 | 齢 | 帝 |
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211 | 建安16 |
司馬昭が司馬懿の次男として張春華との間に生まれる。 | 1 | 劉協 |
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219 | 建安24 |
祖父・司馬防が死去する。 | 9 | |||||
220 | 黄初1 |
10月 |
28日 |
曹丕(魏王)が禅譲を受け、魏王朝が成立する。 | 10 | 曹丕 |
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221 | 黄初2 |
4月 |
6日 |
劉備が皇帝を称し、蜀漢王朝が成立する。 | 11 | |||
226 | 黄初7 |
5月 |
17日 |
曹丕が崩御し、曹叡が即位する。 | 16 | 曹叡 |
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229 | 太和3 |
4月 |
13日 |
孫権(呉王)が皇帝を称し、呉王朝が成立する。*注1 | 19 | |||
236 | 青龍4 |
長男・司馬炎が王元姫(王粛の娘)との間に生まれる。 | 26 | |||||
238 | 景初2 |
司馬昭が新城郷侯に封じられる。 | 新城郷侯 |
28 | ||||
239 | 景初3 |
1月 |
1日 |
曹叡が崩御し、曹芳が即位する。 曹叡の遺言により、司馬懿(太尉)・曹爽(大将軍)が補佐となる。 |
29 | 曹芳 |
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2月 |
司馬懿が太傅となる。*注2 | |||||||
240 〜 |
正始初 |
司馬昭が洛陽典農中郎将となる。 | 洛陽典農中郎将〔六〕 |
30〜 |
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司馬昭が散騎常侍となる。 | 散騎常侍〔三〕 |
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244 | 正始5 |
2月〜 |
曹爽(大将軍)が蜀漢の討伐を計画。司馬昭は征蜀将軍となり、夏侯玄(征西将軍・都督雍涼諸軍事)の指揮下で出陣する。 進軍は難航し、魏軍は撤退する。この際、司馬昭は夏侯玄に形勢の不利を説き撤退するよう進言した。 |
征蜀将軍〔三〕 |
34 | |||
5月〜 |
戦からの帰還後、司馬昭が議郎(光禄勲の属官)となる。(敗戦による左遷?) | 議郎〔七〕 |
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246 | 正始7 |
1〜2月 |
呉の朱然(呉:車騎将軍)が柤中に侵攻する。曹爽(大将軍)は司馬懿(太傅)の意見を聞き入れなかったため、損害を被る。 | 36 | ||||
2〜5月 |
毌丘倹(幽州刺史)が高句驪、濊貊を討伐する。 | |||||||
247 | 正始8 |
4月 |
母・張春華が死去する。 | 37 | ||||
248 | 正始9 |
次男・司馬攸が王元姫との間に生まれる。 | 38 | |||||
冬 |
曹爽(大将軍)が李勝(荊州刺史)に司馬懿(太傅)を訪わせ、偵察させる。*注3 | |||||||
249 | 正始10 |
1月 |
6日 |
司馬懿(太傅)が曹爽(大将軍)の罪状をあげて挙兵し、曹爽が罷免される。この際、司馬昭は軍勢を率いて二宮を守備した。 | 39 | |||
1月 |
10日 |
曹爽・何晏(尚書)らの一同がクーデター画策の罪により誅殺される。 | ||||||
嘉平1 |
4月 |
8日 |
改元。 | |||||
7〜 8月頃 |
蜀の姜維(蜀:衛将軍)が隴右に進攻、麴山に二城を築くが、郭淮(征西将軍・都督雍涼諸軍事)指揮下の陳泰(奮威将軍・雍州刺史)らが城を陥とし、守備していた蜀の将兵を降伏させる。※詳細は「姜維の北伐 249年」参照。 この際、司馬昭は安西将軍・持節となって援軍に赴き、陽動して姜維を撤退させた。 |
安西将軍〔三〕・ 持節 |
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秋 |
司馬昭は安東将軍・持節となり、許昌に駐留する。 | 安東将軍〔三〕・ 持節 |
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250 | 嘉平2 |
〜5月 |
郭淮(征西将軍)が羌族の討伐を計画。姜維(蜀:衛将軍)が西平に進攻するが、鄧艾に阻まれ、撤退する。※詳細は「姜維の北伐 250年」参照。 | 40 | ||||
251 | 嘉平3 |
4〜5月 |
王淩(太尉)が曹彪を擁立してクーデターを企てるが、司馬懿(太傅)が討伐する。この際、司馬昭は督淮北諸軍事となり、項に出陣した。 | 安東将軍〔三〕・ 督淮北諸軍事 |
41 | |||
司馬昭は(王淩討伐の功により?)邑三百戸を加えられ、金印紫綬を授かる。 | ||||||||
8月 |
5日 |
司馬懿(太傅)が死去し、司馬師(衛将軍)が撫軍大将軍・録尚書事となる。 | ||||||
252 | 嘉平4 |
1月 |
2日 |
司馬師(撫軍大将軍)が大将軍・侍中・持節・都督中外諸軍事・録尚書事となる。 | 42 | |||
4月 |
26日 |
呉の孫権が崩御し、孫亮が即位する。 | ||||||
10月 |
呉の諸葛恪(呉:太傅・大将軍)が東興に城を築く。 | |||||||
11月〜 翌1月 |
魏軍が呉に侵攻する。司馬昭は都督となり、胡遵(征東将軍)・諸葛誕(鎮東将軍)を率いて東関で戦う。 王昶(征南大将軍)は南郡を、毌丘倹(鎮南将軍)は武昌を攻める。12月、呉の諸葛恪(呉:太傅・大将軍)が東関で魏軍を大破し、翌1月に魏軍は撤退する。 | 安東将軍〔三〕・ 都督淮北諸軍事 |
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253 | 嘉平5 |
1月〜 |
司馬昭は東関の敗戦の責により、爵位(新城郷侯)を除かれる。※司馬師の判断により、現場指揮官らは処罰はせず、実弟である司馬昭への処罰に留めた。 | - | 43 | |||
3〜8月 |
呉の諸葛恪(呉:太傅)が合肥新城に進攻するが、司馬孚(太尉)・毌丘倹(鎮南将軍?)らが防衛する。 | |||||||
4月 |
蜀の姜維(蜀:衛将軍)が南安に進攻するが、郭淮(車騎将軍・都督雍涼諸軍事)・陳泰(奮威将軍・雍州刺史)らが防衛する。 | |||||||
蜀の姜維が隴右に進攻、狄道を攻めると宣伝。司馬昭は征西将軍代行として長安に駐屯する。陳泰(雍州刺史)は先んじて狄道に拠ろうとしたが、司馬昭は姜維の虚報であると見抜き、取りやめさせる。※詳細は「姜維の北伐 253年」参照。 | 安東将軍〔三〕・ 行征西将軍〔二〕 |
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このころ、新平郡で羌族が反乱を起こし、司馬昭はこれを討伐する。反乱者は悉く投降する。*注4 | ||||||||
反乱鎮圧の功績により司馬昭は再び新城郷侯に封じられる。※以前に失った爵位に復帰した。 | 新城郷侯 |
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254 | 嘉平6 |
2月 |
22日 |
李豊(中書令)・張緝(光禄大夫)らが司馬師(大将軍)を失脚させて夏侯玄(太常)に代えるクーデターを画策するが発覚し、関係者一同が誅殺される。 | 44 | |||
3月 |
張皇后(誅殺された張緝の娘)が廃位され、王皇后が立てられる。 | |||||||
6月 〜冬 |
李簡(狄道県長)が蜀に寝返り、蜀の姜維(蜀:衛将軍)らが狄道を拠に隴西に進攻、姜維は狄道・河関・臨洮の三県を陥とす。※詳細は「姜維の北伐 254年」参照。 この際、司馬昭は姜維討伐のため許昌から召喚されたが、その途上で都に寄った折、許允(中領軍)は曹芳の勅命として司馬昭を暗殺しその軍勢をもって司馬師(大将軍)を失脚させようと計画したが、曹芳が怯み、未遂に終わる。*注5 |
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9月 |
19日 |
司馬師ら臣下一同の上奏により曹芳が廃位される。 | ||||||
正元1 |
10月 |
4日 |
曹髦が即位する。 司馬昭は高都侯に爵位を進められ、二千戸を加増される。 |
高都侯 |
曹髦 |
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255 | 正元2 |
1月 |
毌丘倹(鎮東将軍)・文欽(前将軍・揚刺史)が反乱し、司馬師(大将軍)が討伐に出陣する。司馬師の不在中、司馬昭は中領軍(近衛兵の指揮官)を兼任して洛陽の守りにあたる。 | 45 | ||||
閏1月 |
司馬師(大将軍)が危篤となっため、司馬昭は都から駆けつけ、衛将軍となり指揮を引き継ぐ。 | 衛将軍〔二〕 |
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28日 |
司馬師が許昌にて死去する。曹髦は司馬昭には許昌を守り、傅嘏(尚書)には軍(司馬師→司馬昭が率いていた討伐の軍勢)を率いて洛陽に帰還するよう命令する。しかし、司馬昭は傅嘏と鍾会の策略に従い、自ら軍を率いて帰還した。 | |||||||
2月 |
帰還後、司馬昭(衛将軍)は大将軍・侍中・都督中外諸軍事・録尚書事となって政を補佐する。剣を佩いて参内することを許されようとしたが、辞退する。 | 大将軍〔一〕・ 侍中〔三〕・ 都督中外諸軍事・ 録尚書事 |
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256 | 正元3 |
1月 |
司馬昭は大都督の称号を加えられ、上奏する際に名を唱えないことを許される。*注7 | 大将軍〔一〕・ 侍中〔三〕・ 都督中外諸軍事・ 録尚書事・ 大都督? |
46 | |||
甘露1 |
6月 |
1日 |
改元。 | |||||
司馬昭は爵位を高都公に進められ、七百里を領有、九錫、仮黄鉞を加え、大都督とし、剣を佩いて参内することを許されようとしたが、辞退する。 | ||||||||
8月 |
司馬昭は大都督の称号を加えられ、上奏する際に名を唱えないことを許され、仮黄鉞となり、三県の領地を加増される。 | 大将軍〔一〕・ 侍中〔三〕・ 都督中外諸軍事・ 録尚書事・ 大都督・ 仮黄鉞 |
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呉の文欽らが淮水・泗水流域に進攻。陳泰(鎮軍将軍・仮節都督淮北諸軍事)が防衛するが、呉の孫峻(呉:丞相)が死去したため呉軍は撤退する。 | ||||||||
7〜8月 |
蜀の姜維(蜀:大将軍)が段谷において鄧艾(安西将軍)に敗北し、撤退する。 | |||||||
257 | 甘露2 |
5月〜 |
諸葛誕(征東大将軍→司空→呉:大司徒・驃騎将軍)が寿春で反乱。諸将は急いで討伐しようとしたが、司馬昭は毌丘倹らの事変の経験から諸葛誕は呉と連携して大規模な戦を起こすと考え、曹髦・郭太后を奉じて自身が実質上の総司令官となり、諸州から大軍を動員して出陣する。 | 47 | ||||
蜀の姜維(蜀:後将軍・行大将軍事)が駱谷から芒水に進攻し、司馬望(中護軍?)・鄧艾(鎮軍将軍・都督隴右諸軍事)が防衛する。 | ||||||||
258 | 甘露3 |
2月 |
司馬昭は諸葛誕(呉:大司徒・驃騎将軍)を討ち、寿春を奪回する。※この戦の詳細は「諸葛誕の乱」参照。 | 48 | ||||
諸葛誕の敗北を受け、蜀の姜維が撤退する。 | ||||||||
4月 |
司馬昭は洛陽に帰還。丘頭(魏軍が本営を置いた地名)を武丘と改名し、勝利を記念する。 | |||||||
5月 |
司馬昭は幷州・司州から八郡(太原・上党・西河・楽平・新興・雁門、河東・平陽)を領有し、相国の官位・晋公の爵位・九錫の礼を授かり、晋国の官を設置することを許されたが、九度にわたって辞退したため沙汰止みとなる。代わりに、一万戸を加増されて食邑四県が与えられ、爵位のない子息全員が列侯に封じられる。 | |||||||
7月 |
司馬昭は、以前の時代の功臣らの子孫を才に応じて取り立てるようにと上奏する。 | |||||||
9月 |
呉の孫亮が廃位され、孫休が即位する。 | |||||||
259 | 甘露4 |
6月 |
荊州軍を分割して都督を二人置くことになる。 | 49 | ||||
この年、司馬炎の次男・司馬衷(後の晋の恵帝)が生まれる。 | ||||||||
260 | 甘露5 |
4月 |
司馬昭は相国・晋公など(甘露3年参照)に任じられようとするが、辞退する。 | 50 | ||||
5月 |
7日 |
曹髦が司馬昭を討つため挙兵するが、賈充(中護軍)指揮下の成済(太子舎人)に討たれ死去する。※詳細は「高貴郷公の変」参照。 | ||||||
21日 |
司馬昭は相国・晋公など(甘露3年参照)に任じられようとするが、辞退する。 | |||||||
景元1 |
6月 |
2日 |
曹奐が即位する。 | 曹奐 |
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司馬昭は相国の官位・晋公の爵位・九錫の礼を授かり、十郡を領有し、爵位のない従子弟らは亭侯に封じられ、銭一千万と帛一万を賜ることになったが、いずれも辞退する。 | ||||||||
11月 |
呉の蕭慎(呉:吉陽督)が石苞(鎮東将軍)に降伏を申し出てきたが、司馬昭は偽装と見抜き、石苞に迎えるそぶりをさせつつ防衛の準備をさせる。 | |||||||
261 | 景元2 |
8月 |
曹奐は高柔(太尉)と鄭沖(司徒)を使わし、司馬昭に相国の印綬・晋公の茅土・九錫を授けようとしたが、司馬昭は辞退する。 | 51 | ||||
262 | 景元3 |
4月 |
粛慎(東北にある異国)の献上品を大将軍府に納める。 | 52 | ||||
263 | 景元4 |
2月 |
11日 |
司馬昭は相国・晋公など(甘露3年参照)に任じられようとしたが、辞退する。 | 53 | |||
3月 |
大将軍府に司馬一人・従事中郎二人・舍人十人を増置する。 | |||||||
3月 |
司馬昭は蜀の討伐を計画。鄧艾(征西将軍)が異議を唱えたので、師纂(主簿)を鄧艾の司馬に任じ、説得させる。 | |||||||
8月 |
蜀討伐のため鄧艾(征西将軍)・鍾会(鎮西将軍)・諸葛緒(雍州剌史)らが洛陽から出陣。司馬昭は討伐に反対意見を述べた鄧敦を斬り見せしめとする。 | |||||||
10月 |
22日 |
司馬昭は相国・晋公など(甘露3年参照)に任じられようとするが、辞退する。しかし鄭沖(司空)らが説得したため、受諾する。 | 相国〔一〕 |
晋公 |
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11月 |
鄧艾らが蜀に侵攻。劉禅が降伏し、蜀漢が滅亡する。 | |||||||
司馬昭は相国として宰相の任につくことから、侍中・大都督・録尚書事(これまでの官職)を返上する。 | ||||||||
264 | 12月 |
24日 |
司馬昭の上表により、鄧艾が太尉、鍾会が司徒となる。※両者ともまだ出陣先の蜀にいる。 | |||||
鍾会(司徒)が謀反を画策し、鄧艾(太尉)を陥れるため告発する。 | ||||||||
景元5 |
1月 |
1日 |
鄧艾を檻車で召し寄せようとする。 | 54 | ||||
4日 |
司馬昭は帝(曹奐)を奉じて西征し、長安に至る。 | |||||||
魏の諸王侯は鄴城にいたので、山濤(従事中郎)が軍司代行として鄴に鎮屯する。賈充(中護軍)が持節として諸軍を指揮し漢中に拠る。 | ||||||||
18日 |
鍾会(司徒)が反乱を起こそうとして、衛瓘(監軍)・胡烈(右将軍)らに殺される。 | |||||||
鄧艾が衛瓘(監軍)配下の田続(護軍)らに殺される。 | ||||||||
2月 |
呉の陸抗・歩協・留平らが永安を攻め、羅憲が籠城する。 | |||||||
2月? |
26日? |
司馬昭が長安から帰還する。 | ||||||
3月 |
17日 |
王祥が太尉、何曾が司徒、荀顗が司空となる。 | ||||||
19日 |
司馬昭が晋王となり、十郡の領地を加えられ計二十郡となる。 | 晋王 |
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27日 |
劉禅が安楽公に封じられる。 | |||||||
4月 |
王稚(過去に呉から魏に寝返った人物)が海から句章に進入するが、孫越に迎撃される。 | |||||||
5月 |
1日 |
司馬昭は五等爵の制度の復活について上奏する。 | ||||||
咸熙1 |
15日 |
改元。 | ||||||
24日 |
故・司馬懿と司馬師をそれぞれ晋の宣王・景王とする。 | |||||||
6月 |
衛瓘(鎮西将軍)が雍州軍が手に入れた璧・玉の印を進上し、相国府に収める。 | |||||||
7月 |
胡烈(荊州刺史)が永安救援のため呉の西陵に侵攻し、永安を包囲していた陸抗らを退却させる。※詳細は「永安の戦い」参照。 | |||||||
25日 〜 |
呉帝孫休が崩御し、孫晧が即位する。 | |||||||
司馬昭は、荀顗(司空)・賈充(中護軍)・裴秀(尚書僕射)にそれぞれ礼・法律・官制を定めさせる上奏を行う。 五等爵の制度を開始する。 |
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8月 |
3日 |
司馬炎(中撫軍)が相国の補佐となる。 | ||||||
10月 |
1日〜 |
呉に降伏勧告の使者として、過去に呉軍から降伏した徐紹(相国参軍事・散騎常侍・奉車都尉)・孫彧(水曹掾・給事黄門侍郎)を送る。 | ||||||
20日 |
司馬炎(撫軍大将軍)を晋の世子とする。 | |||||||
265 | 咸熙2 |
2月 |
19日 |
益州から不思議な亀が献上され、相国府に収められる。 | 55 | |||
4月 |
呉の紀陟(呉:光禄大夫)・弘璆(呉:五官中郎将)が魏に来訪し、呉の品物を献上して和睦を請願する(※前年に送った降伏勧告に対する返事)。司馬昭は宴を催し紀陟らをもてなす。 | |||||||
5月 |
司馬昭は、冠に十二の旒を付けることを許されるなど、各種の特権を与えられ、位は曹宇(帝の父にあたる)の上となる。晋の王妃(王元姫)を王后、世子(司馬炎)を太子とし、王女・王孫の爵位なども皇帝のそれに準ずるものとされる。 | |||||||
司馬昭の上奏により、時代に合わない法律などが廃止される。 | ||||||||
晋国に御史大夫・侍中・常侍・尚書・中領軍・衛将軍の官が置かれる。 | ||||||||
8月 |
9日 |
司馬昭が露寝(宮の正殿)にて死去する。 | ||||||
10日 |
司馬炎が王位を継ぎ、相国となる。 | |||||||
9月 |
22〜 24日 |
司馬昭は崇陽陵に葬られ、文王と諡される。 | 文王 |
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266 *注8 |
泰始1 |
12月 |
13〜 *注917日 |
司馬炎が禅譲を受け、晋王朝が成立する。 | 文皇帝 |
司馬炎 |
||
18日 |
司馬炎が司馬昭に文皇帝の号を追贈し、廟号を太祖とする。 | |||||||
280 | 咸寧6 |
3月 |
15日 |
司馬炎が呉を滅ぼし、中国を統一する。 |
*注1 黄初3年(222年)から呉は事実上独立していた。
*注2 曹爽派の丁謐の画策により、名誉職とすることで実務から遠ざけられた。
*注3 耄碌した演技で騙し油断させた一件。このころ曹爽に権力を奪われた司馬懿は病と称して遠ざかっていた。
*注4 時期が不明、翌年の可能性もあるが、上記の事件の後、曹芳廃位より前。
*注5 『世語』『魏氏春秋』。裴松之は時系列的に不可能として否定。許允は李豊らの事件の後、態度を警戒されて遠ざけるため鎮北将軍に任じられたが、赴任前に横領罪で配流となり道中死去した。逮捕されたのは秋だが、厳密にいつ鎮北将軍に任じられたのかは不明なため、それまでの間に行うことは可能かもしれない。
*注6 曹芳廃位の上奏文における司馬昭の肩書きは「行征西安東將軍新城侯」となっており、前年9月時点では依然として征西将軍も兼任していた。
*注7 これらの官位や権限の受諾時期は『魏書』と『晋書』で微妙に異なる。『魏書』では大都督などは1月時点だが、『晋書』では8月に仮黄鉞となった際。
*注8 西暦では266年になるが、咸熙2年と同年。
*注9 『三国志』魏書陳留王紀では12月壬戌(13日)に禅譲の儀式を行っているが、『晋書』武帝紀では丙寅(17日)。
主要参考文献
- 房玄齡等撰《晉書 一〜十》(中華書局,1974年)
- 陳壽撰、裴松之注《三國志 一〜五》(中華書局,1982年)
- 陳寿、裴松之注、今鷹真・井波律子・小南一郎訳『正史 三国志 1〜8』(ちくま学芸文庫、1992〜1993年)
- 中央研究院 兩千年中西曆轉換
公開:2015.08.05 更新:2020.09.14
※泰始元年の日付を訂正