荀顗と王祥 - それぞれの選択と、司馬昭の迷い

 魏の最末期、司馬昭しばしょうが晋王となった際の、荀顗じゅんぎ王祥おうしょうのやりとりについて。

漢晉春秋曰:晉公旣進爵爲王,太尉王祥、司徒何曾、司空荀顗並詣王。曰:「相王尊重,何侯與一朝之臣皆已盡敬,今日便當相率而拜,無所疑也。」曰:「相國位勢,誠爲尊貴,然要是之宰相,吾等之三公;公、王相去,一階而已,班列大同,安有天子三公可輒拜人者!損魏朝之望,虧晉王之德,君子愛人以禮,吾不爲也。」及入,遂拜,而獨長揖。王謂曰:「今日然後知君見顧之重!」

陳壽撰、裴松之注『三國志 一 魏書〔一〕』中華書局、1982年 陳留王紀 P150

『漢晋春秋』にいう。晋公が王に昇格してから、太尉の王祥、司徒の何曾、司空の荀顗がいっしょに晋王のもとを訪れた。荀顗が、「相国晋王さまは位高く、何侯(曾)は魏朝の臣下一同とともに、すでに敬意をつくしておられる。今日はつれだって拝礼するのが当然でしょう。ためらうことはありませんぞ」というと、王祥は、「相国の位階・権勢は、まことに尊貴といえましょう。しかしながら、要するに彼は魏朝の宰相であり、われわれは魏朝の三公です。公と王の位階のへだたりはわずか一等にすぎず、席次はほぼ同じです。天子の三公が簡単に他人に拝礼してよいという話なぞ、どこにありますか。魏朝の名誉を損い、晋王さまの人徳を傷つける行為です。君子は人を愛するのにも礼の掟によるものです。私はやりません」といった。参内すると、荀顗はけっきょく拝礼したが、王祥はただていねいに会釈しただけであった。晋王は王祥に、「今日になってはじめてあなたの大きな愛顧の情がわかりましたよ」といった。

陳寿、裴松之注、今鷹真・井波律子訳『正史 三国志 1』ちくま学芸文庫、1992年 陳留王紀 P360

 暗に魏からの禅譲を視野に入れ、司馬昭を将来の帝として扱おうとする荀顗と、それをよしとせず、あくまでも魏の臣下として扱おうとする王祥との対峙である。 ※他の出典に人物名の異なる類似の内容があるが、内容的に時系列があわないため、この版が正しいとされる。

 しかし、ここで当の司馬昭は興味深い反応を見せる。自分を持ち上げようとする荀顗ではなく、反抗的ともいえる態度を取った王祥を、彼は褒めた。褒める、という表現にも違和感があるほどで、王祥を「君」と呼び、敬愛するような態度を見せる。

 王祥の言葉で思い出すのが、かつて荀彧じゅんいく曹操そうそうの魏公就任に対して取った態度である。

十七年,董昭等謂太祖宜進爵國公,九錫備物,以彰殊勳,密以諮以爲太祖本興義兵以匡朝寧國,秉忠貞之誠,守退讓之實;君子愛人以德,不宜如此。太祖由是心不能平。

陳壽撰、裴松之注『三國志 二 魏書〔二〕』中華書局、1982年 荀彧傳 P317

十七年(二一二)、董昭らは、太祖の位を進めて国公とし、九錫の礼物を備えて、そのきわだった勲功を顕彰すべきだと考え、ひそかに荀彧にこの旨相談した。荀彧は、太祖が義兵を起したのは、本来朝廷を救い国家を安定させるためであり、まごころからの忠誠を保持し、いつわりのない謙譲さを守り通してきたのだ、君子は人を愛する場合徳義による(利益をもちいない)ものだ、そのようなことをするのはよろしくない、と主張した。太祖はこのことがあってから、内心穏やかではいられなかった。

陳寿、裴松之注、井波律子・今鷹真訳『正史 三国志 2』ちくま学芸文庫、1993年 荀彧伝 P256〜257

 曹操が今の司馬昭と似た立場にあった頃、やはり曹操を将来の帝の地位に導こうとした人々に対して荀彧は、君子は人を愛するのに徳をもってするものだ、として反対した。これは、『礼記』にある言葉らしい。

曾子寢疾病。樂正子春坐於床下・曾元・曾申坐於足、童子隅坐而執燭。童子曰、華而睆、大夫之簀與。子春曰、止。曾子聞之、瞿然曰、呼。曰、華而睆、大夫之簀與。曾子曰、然、斯季孫之賜也、我未之能易也。元起易簀。曾元曰、夫子之病革矣、不可以變。幸而至於旦、請敬易之。曾子曰、爾之愛我也、不如彼。君子之愛人也以德、細人之愛人也以姑息。吾何求哉。吾得正而斃焉、斯已矣。舉扶而易之。反席未安而沒。

通釈 曾参が病んで床につき、重くなった。その枕もとには楽正子春が坐し、曾元と曾申とが足もとに坐し、また童子がひとり室の隅で燭を守っていた。その童子の言うには、「先生の簀(寝台の下敷)は、特に上等のできのようで、大夫の用いる品ではございませぬか」。すると子春が答えた、「やめなさい(そのような事を言い出すのは)」。しかし曾参は聞きつけて、驚いた様子で言った、「そうだ。これは(大夫)季孫から贈られた物で、まだ取換えることができずにいたのだ。元よ、来て取換えておくれ」。元は答えて、「父上の加減はさしせまっており、動かすことができませぬ。うまく変って朝になりましたら、そのとき取換えてさしあげましょう」。しかし参は言った、元よ、お前のわたしに対する情愛は、あの童子に及ばないようだな。君子は徳義にかなうようにして人を愛し、小人は目さきだけの感情で人を愛するのだ。わたしが今さら何を求めようか。ただ正道を踏んで死ぬことができれば、それで充分なのだよ」。そこで皆して病人をかかえあげて簀を取換え、それぞれ席に戻って腰をおろすや否や、曾参は没した。

竹内照夫『新釈漢文大系 第27巻 礼記(上)』明治書院、1971年 檀弓上第三 P89〜90

 真にその人への愛を示すのは、病人の体を慮って立派な寝床に寝かせ続けることではなく、徳義に則った質素な寝床で亡くならせることである。荀彧は、曹操への真の愛は、ここで魏公の位に就けることではないと考えた。

 おそらく王祥も、同様の意識で言ったものだろう。彼もまた司馬昭への真の愛とは、ここで拝礼することではないと判断した。司馬昭はその王祥の真意を酌んだからこそ、あなたの慈愛の心を知った、と答えたのである。

 しかし、荀彧の考える真の愛は、ついに曹操に受け入れられることはなかった。その荀彧の子である荀顗は、この父と曹操の破局の影響か魏王朝では些か不遇であったともされるが、司馬懿には評価され、以降司馬氏とともに歩んできた人物であり、ここで司馬昭の新しい世に望みを託したのも自然な流れだろう。王祥がこの言葉を持ち出したとき、荀顗は父の言葉と末路を思い起こし、王祥は過ちを犯したものと考えたかもしれない。結果として、ここでは荀顗の現実的な態度は司馬昭に受け入れられなかったわけだが、単に彼は、先走って判断を誤っただけなのだろうか。

 曹髦そうぼうが帝であった時代から、司馬昭は相国・晋公の位・九錫の礼物を与えられようとするも、辞退し続けていた。確かに、こうしたものは一旦は辞退してみせた後に受けるのが礼儀のようだが、司馬昭は実に八年もの間、ほぼ年一回ペースで打診されては辞退し続ける。曹髦の思いがけない反抗に勝利した後(詳しくは「高貴郷公の変」参照)、自ら帝位に即くこともなく改めて曹奐そうかんを即位させた司馬昭は、蜀平定の直前、司馬氏シンパの司空・鄭沖ていちゅうらの渾身の説得により、渋々の体で晋公となった。

 もちろん、曹髦曹奐が積極的に司馬昭に権威を与えたいはずもなく、裏には司馬昭側の圧力があったのだろうが、果たして司馬昭は、単にポーズで辞退を続けて機を窺っていただけなのだろうか。さらに結局、位を進められ晋王となってからわずか一年ほどの後には病で没し、王朝交代は次代に持ち越されるのである。兄・司馬師の跡を継ぎ、周到に事を成し遂げてきた司馬昭だが、王朝交代に関しては決して積極的ではなかった。あるいは、何らかの迷いがあったのだろうか。長年にわたる辞退の繰り返しはむしろ、司馬昭自身の迷いと、彼をトップに頂き、新たな王朝を開かせようとする者たちとの戦いだったのかもしれない。

 王祥は琅邪王氏の一族で、継母への孝の逸話で知られるが、その母が亡くなり自身も年老いてからようやく官位に就いた。自身が教育係も勤めた曹髦司馬昭を討とうと挙兵し討ち死にした際には憚ることなく慟哭し、晋の受禅に際してもひとり憂い顔をして人々に誤解されたという。決して安易に権力に阿ることなく礼節を貫く王祥だが、幸いにも彼は司馬昭に理解され、司馬炎に重用され、魏晋の臣下として高みにあり続けた。

 一方の荀顗も、特にこれで不興を買うこともなかったようで、以降も司馬氏の腹心であり続ける。父の不運を乗り越え、新たな世で一族の地位を復権させたといえるのかもしれない。「ためらうことはありませんぞ」と脅すかのように拝礼を促す荀顗は、王祥の頑なな態度に対して、圧力をかけているようにもみえる。しかしその実、彼が真に圧力をかけた相手は、司馬昭自身なのではないだろうか。あなたこそが、我々に相応しい帝王とならねばならない。荀顗の拝礼は、媚びへつらいの態度というよりむしろ、曖昧な態度を取り続ける司馬昭の迷いを叩き切ろうとする武器のようにも見えるのである。

公開:2014.11.08 更新:2015.08.05