鄧艾と陳泰 - 「忘年の交わり」はあり得たか?(後編)
「忘年の交わり(前編)」の続きです。
目次
鄧艾は陳泰より年上だった?
『三国志演義』の「忘年の交わり」は、鄧艾と陳泰の年齢差が大きくあったことによるものだが、彼らは実際には、何歳差だったのか。
残念ながら陳泰は、生年不詳である。「陳泰の生年について」で検証したが、確定的な情報がない。ここでは、陳泰と交友関係にあった司馬師(建安十三年生まれ)、傅嘏(建安十四年生まれ)、司馬昭(建安十六年生まれ)と同年代であろうということから、建安十五年(210年)前後の生まれと仮定する。
困ったことに、鄧艾もまた生年不詳である。鄧艾は鍾会の陰謀により謀反を起こしたと見なされ一族誅殺の憂き目に遭ったが、晋の司馬炎の時代になり、かつて鄧艾の司馬であった段灼の訴えにより、名誉回復されることになった。この際の段灼の「七十老公」という発言からして、鄧艾は殺された時点で、少なくとも七十歳程度にはなっていた。
三年,議郞段灼上疏理艾曰:「艾心懷至忠而荷反逆之名,平定巴蜀而受夷滅之誅,臣竊悼之。惜哉,言艾之反也![……]艾功名以成,當書之竹帛,傳祚萬世。七十老公,反欲何求![……]」
陳壽撰、裴松之注《三國志 三 魏書〔三〕》(中華書局,1982年) p.782
三年(二六七)、議郎の段灼が上奏して鄧艾を弁護して述べた、「鄧艾は心に至忠の念を抱きながら反逆の名をこうむり、巴・蜀を平定しながら族滅の刑を受けました。臣は心ひそかにそれをいたむものです。鄧艾が反逆したという発言は遺憾です。[……]鄧艾は功業・名誉をうち立てたからには、当然、記録に残され、万世の後まで爵位を伝えるはずでした。七十歳の老公が、これ以上何を求める必要があるのでしょうか。[……]」
陳寿、裴松之注、今鷹真・小南一郎訳『正史 三国志 4 魏書Ⅳ』(ちくま学芸文庫、1993年) 鄧艾伝 pp.282-283
荊州の義陽に生まれた鄧艾は、幼くして父を亡くし、曹操による荊州攻落の後、豫州の汝南に移住、牛を育てる役についた。『晋書』段灼伝には「艾本屯田掌犢人……」とあり、その後の転身を考えると、屯田を監督する下級役人だったのだろうか。その後十二歳で母と潁川に移住したが、吃音のため就ける役職が制限され、貧しい暮らしを続けていた。後にたまたま使者として都に行った際に司馬懿に評価され、出世コースに乗るが、そこに至る生いたちは苦難の連続であった。
鄧艾字士載,義陽棘陽人也。少孤,太祖破荆州,徙汝南,爲農民養犢。年十二,隨母至潁川,[……]
陳壽撰、裴松之注《三國志 三 魏書〔三〕》(中華書局,1982年) p.775
鄧艾は字を士載といい、義陽郡棘陽県の人である。幼くして父をなくした。太祖が荆州を破ったとき、汝南に移住し、農民のために小牛を育てる役についた。十二歳のとき、母について潁川に行き、[……]
陳寿、裴松之注、今鷹真・小南一郎訳『正史 三国志 4 魏書Ⅳ』(ちくま学芸文庫、1993年) 鄧艾伝 p.267
曹操が荊州を破ったというのは、建安十三年(208年)、赤壁の戦が起きる前のこと。
十三年[……]秋七月,公南征劉表。八月,表卒,其子琮代,屯襄陽,劉備屯樊。九月,公到新野,琮遂降,備走夏口。公進軍江陵,下令荆州吏民,與之更始。
陳壽撰、裴松之注《三國志 一 魏書〔一〕》(中華書局,1982年) p.30
……時代が守備範囲外すぎて心許ないが、この件はブログ『てぃーえすのワードパッド』 > 「復讐鬼の生涯その3」にて考察されていた。
世語曰:鄧艾少爲襄城典農部民,與石苞皆年十二三。
陳壽撰、裴松之注《三國志 三 魏書〔三〕》(中華書局,1982年) p.775
『世語』にいう。鄧艾は幼くして襄城典農部民となったが、同じ役についた石苞と同じく十二、三歳だった。
陳寿、裴松之注、今鷹真・小南一郎訳『正史 三国志 4 魏書Ⅳ』(ちくま学芸文庫、1993年) 鄧艾伝 p.268
鄧艾伝の注に引く『世語』によれば、鄧艾と石苞は十二、三歳で襄城典農部民となった。石苞の生年が判明していれば解決するところだったが、こちらも不明。襄城県は潁川にあるので、本文にある母に随行して潁川に行ったというのが、汝南からさらに移住したということだろう。母が潁川の出身だったのかもしれない。
上記ブログにもあるように、仮に七十歳で死去したとすると興平二年(195年)生まれで、建安十三年(208年)には十四歳となってしまうため、もう数年は遅い生まれだろう。六十代後半にもなっていれば「七十老公」と言えるとすると、鄧艾の生年は「建安十三年(208年)汝南移住時に11歳以下」かつ「景元五年(264年)死去時に65歳以上」の範囲である。可能性としては、
- 9歳で移住・65歳で死去(200-264)
- 10歳で移住・66歳で死去(199-264)
- 11歳で移住・67歳で死去(198-264)
のいずれかとなり、鄧艾は、陳泰より一回りほど年上だった可能性が高い。
三国志演義の鄧艾は、陳泰より年下設定だった
では『三国志演義』の「忘年の交わり」は、年上の鄧艾が年下の陳泰と結んだものなのか? というと、そうではない。
『演義』に詳しくないため、見落としがあるかもしれないが、少なくとも鄧艾・陳泰の年代がわかる箇所として、以下のような場面がある。
「鄧艾は弱年とは申せ、思慮が深く、しかも近頃、安西将軍の職に封じられたからは、諸方に備えを固めておるは必定。これまでとはちと違いましょうぞ」
夏侯覇が言えば、姜維、
「鄧艾ごときを恐れるわしと思うか。そなたたちは、敵に鋭気を添え、味方の威風を剥ごうとするのか。わしの心はもはや決まった。まず隴西へかかるのじゃ」
[……]
さて鄧艾は、蜀の軍勢が祁山に向かうと知り、早くから陳泰と陣を布いて待ち受けていたが、蜀軍はいっこうに戦いを仕掛けてこず、日に五回、物見が出て来て十里か十五里も出ると帰ってしまう。そこで高みからよくよく眺めていたがあわてて本陣にもどると陳泰に言った。
「姜維はここにはおりませぬぞ。董亭に出て南安を衝くに違いござりませぬ。[……]上邽には段谷と申す谷間があり、山が狭って伏勢をするのに絶好のところ。彼が武城山を攻めに出るところ、それがしが先に段谷に二手の軍勢を伏せておけば、姜維を打ち破れること間違いござりませぬ」
「わしは隴西の守りについて、二、三十年にもなるが、それほど地理に詳しくはなかった。貴公の申し条、まことに妙計じゃ。ただちにゆかれるがよい。わしは山の下の敵陣を駆け散らしてくれる」羅貫中作、立間祥介訳『三国志演義 下』(平凡社、1972年) 第百十一回 p.436
夏侯覇の台詞「鄧艾は弱年とは申せ…」の原文は「艾年雖幼」。『演義』の鄧艾は段谷の戦のころ未だ「幼」と評される年齢だった。そのわりには数年後に「年のころは二十歳あまり(年約二十餘歲)」の息子・鄧忠が出てくるため、少なくとも当時から三十代にはなっていそうである。鄧忠は、姜維と一騎討ちをするが、姜維はこの若武者が鄧艾だと勘違いして戦っていた。蜀軍が勝手に鄧艾を実際より若く想像していたと考えれば、辻褄が合う。
蜀軍の想像ほどではないにせよ、まだ若い鄧艾に対し、陳泰は自称(*注)「隴西の守りについて、二、三十年にもなる(守隴西二三十年)」ベテランだった。
*注 二、三十年隴西にいたはずの陳泰だが、この七年ほど前に司馬懿が曹爽を討った際、史実どおり使者として登場していた。『演義』の陳泰はどうも天然ボケなので、本人の勘違い発言かもしれない。
このことから考えて、やはり『三国志演義』の「忘年の交わり」は、順当に「若手の部下・鄧艾」が「年配の上官・陳泰」に評価されて結んだとするのが自然である。
実際には、甘露元年(256年)の段谷の戦のころ鄧艾は五十七〜五十九歳であり、これは話の都合を優先した「キャラ設定」ということになる。
また、陳泰が「隴西を守備」していたといえるのは、嘉平元年(249年)に郭淮の後任として雍州に赴任して以降、正元二年(255年)に離任するまでの六年弱であり、「二、三十年」にはほど遠い。そしてそもそも、この頃の陳泰は既に中央に異動になっており、鄧艾の上官は陳泰から司馬望に代わっている。
「忘年の交わり」の因となった二人のやりとりも、年齢設定も、鄧艾の知略を引き立てるためのフィクションだったのである。
頑固な貴公子 vs 頑固な叩き上げ
『三国志演義』では鄧艾の言論に感心し、友誼を結ぶ陳泰だが、史実として残る二人の会話は逆に、「忘年の交わり・前編」で引用したような、喧嘩腰の口論であった。故事を引用し狄道城を見捨てる作戦を提案する鄧艾らに対し、陳泰もやはり兵法などに基づいた自説を長々と説いた後、「君等何言如此?」(「君らはどうしてこのような言を吐くのだ。」)と言い捨てて却下する。
却下するにしても、もう少しマイルドな言い方があろうに、相手のプライドを圧し折るように直言してしまうあたりは、陳泰の不器用さであろう。
陳泰の父、九品官人法の考案者として知られる陳羣は、潁川の名門陳氏の祖・陳寔の孫にあたる。陳羣自身は戦乱の世を生き抜いてきたとはいえ、陳泰が官界デビューしたころには、既に三公の一である司空の位に就いて長かった。陳泰自身は当初から高位につき、父の死後には爵位を継いだ。まさに生粋のエリート階級であり、さらに当時、実質的に魏を支配していた司馬師・司馬昭兄弟の親友でもあった。
幼くして父を亡くし、戦乱に巻き込まれ、気難しい気質や吃音のハンデを抱えながらも十二歳の頃から下役として地道に働き、実力でようやく地位を得た、叩き上げの鄧艾とは、正反対の境遇ともいえる。
鄧艾はかつて貧しい暮らしをしていた頃、見かねて援助する者があったが、礼も言わなかったという逸話がある。高慢なその性格は、最終的に身を滅ぼす一因ともなってしまった。鄧艾からすれば陳泰は、ともすれば世間知らずの坊ちゃんにも見える、一回りも年下の総大将である。そんな相手に容赦なく進言を一蹴される心境を考えても、実際にこの二人の仲が良かったかどうかはかなり疑わしい。
境遇は対照的な二人だが、自分の知力と正しさに常に自信を持ち、それゆえに頑固でプライドが高いという、その性格はどこか似ている。似ているがために、衝突してしまうのかもしれない。
鄧艾と、陳寔の碑文
鄧艾は、元の名を「範」、字を「士則」といったが、この名と字は、自ら付けたものだった。
鄧艾字士載,義陽棘陽人也。[……]年十二,隨母至潁川,讀故太丘長陳寔碑文,言「文爲世範,行爲士則」,艾遂自名範,字士則。後宗族有與同者,故改焉。
陳壽撰、裴松之注《三國志 三 魏書〔三〕》(中華書局,1982年) p.775
鄧艾は字を士載といい、義陽郡棘陽県の人である。[……]十二歳のとき、母について潁川に行き、もと太丘の長陳寔に対する碑文を読んだが、「文は世の範たり、行ないは士の則たり」と書いてあった。鄧艾はそこで自分で名を範、字を士則と名のった。のちに一族のうちに彼と同じ名をつけた者がでてきたので、〔艾と〕改名した。
陳寿、裴松之注、今鷹真・小南一郎訳『正史 三国志 4 魏書Ⅳ』(ちくま学芸文庫、1993年) 鄧艾伝 p.267
字をつけるのは、成人としての行いである。『礼記』等によれば本来は二十歳を成人とし、字を名乗るようになる。また孝の観点から、名は父が与えたものであるからには、その死後は改名してはならないともされるが、鄧艾はまだ幼名のうちに父を失い、名付けられる機会がなかったと思われる。
幼いころから独り立ちを余儀なくされた鄧艾は、十二歳にして、自ら名と字をつけた。早くも、大人として自力で生きていかねばならない。そんなとき眺めた碑の一文に感銘を受け、自分の生き方を示す名をつけたのだろう。
後に一族の者と同名だという理由で、艾と改名し、字も合わせて士載と改めた。名を口にすることは失礼にあたる文化であり、後に知り合った同名の人物を憚って改名する例はあるが、この親族は、鄧艾の存在を知らなかったのか、知りながらも無視して同じ名を名乗ったのか、それとも鄧艾のほうが相手の存在を知らずに名付けてしまったのか。いずれにせよ、鄧艾が一族の中で没落しており無力だったことを示す話かもしれない。
鄧艾が由来とした一文は、陳泰の曾祖父にあたる潁川の名士、故・陳寔の功績を讃えて作られた碑の序文の中にある。この碑文は蔡邕の作品で、『文選』に収録されている。長いので全文は引かないが、鄧艾伝に引かれるものとは少し異なる。
搢紳儒林、論德謀跡、諡曰文範先生。傳曰、郁郁乎文哉。書曰、洪範九疇、彝倫攸敍。文爲德表、範爲士則。存誨沒號、不亦宜乎。
高官や学者たちは、先生の徳を論じ業績を検討し、文範先生と謚した。『論語』に「郁郁乎として文なるかな」といい、『書経』に「洪範九疇によって、常道が秩序立てられた」という。つまり「文」は徳の現れであり、「範」は士の手本である。存命中は人々を導き、世を去っては号が残される。もっともなことである。
蔡邕「陳太丘碑文 幷序」より 竹田晃『新釈漢文大系 第93巻 文選(文章篇)下』(明治書院、2001年) p.530
この鄧艾と陳寔の碑に関して、『三國志集解』に面白い話が引かれていた。
古今刀劍錄曰:鄧艾年十二,曾讀陳太丘碑,碑下掘得一刀,黑如漆,長三尺餘。刀上常有氣淒淒然,時人以爲神物。
陳壽撰、裴松之注、盧弼集解、錢劍夫整理《三國志集解 伍》(上海古籍出版社,2012年) p.2058
『古今刀剣録』にいう。鄧艾は十二歳のとき、陳太丘の碑を読んだが、碑の下を掘って、漆のように黒い、三尺(約72cm)余りの長さの刀を手に入れた。その刀からは常に冷え冷えとした気が立ち上り、当代の人々は「神物(神奇霊異なもの)」だとした。
このエピソードからすると、単に碑文が気に入っただけでなく、運命的なものを感じたのだろう。なぜ碑の下を掘ったのか、勝手に刀を持ち出してよかったのか、細かい疑問は生じるが、碑が埋もれていて読もうと掘ったのかもしれないし、発見したものを拾得するのは、当時の感覚では問題ないのかもしれない。
碑の下で、摩訶不思議なオーラを放つ太刀を手に入れ、自ら名と字を付け、大人として生きていくことを決意する、幼き日の鄧艾。悲劇の英雄らしい、名場面であろう。
陳寔の曾孫である陳泰に、鄧艾がこんな昔話をすることもあったかもしれない。「忘年の交わり」はあくまで架空の物語であり、歴史上の二人は決して相性が良さそうには見えない一方で、不思議な縁もあったのである。
公開:2017.06.05 更新:2017.06.12