陳泰の葬儀

 陳泰ちんたいの葬儀がどのようなものだったか、直接の記述は残っていないが、推測できる記述が『晋書』にある。

石苞の葬儀は、陳泰の葬儀に倣った

泰始八年薨。帝發哀於朝堂,賜祕器,朝服一具,衣一襲,錢三十萬,布百匹。及葬,給節幢麾、曲蓋、追鋒車、鼓吹、介士、大車,皆如司空陳泰故事,車駕臨送於東掖門外。

房玄齡等撰『晉書 四 傳』中華書局、1974年 石苞伝 P1003

 〔石苞せきほうは〕泰始八年(*注1)に薨去した。帝(武帝・司馬炎)は朝廷で喪を発表し、棺、朝服一揃い、衣服一揃い、銭三十万、布百匹(*注2)を下賜した。葬儀に際しては、節幢麾(*注3)・曲蓋(儀仗用の柄の曲がった傘)・追鋒車(車蓋の代わりに幰のついた快速馬車)・鼓吹・鎧を着けた兵士・大きな荷車を与え、すべて魏の司空陳泰の先例のように、皇帝の御車が東掖門の外で見送った。

*注1「泰始八年」:武帝紀によれば泰始九年(273年)。
*注2「布百匹」:匹は織物の長さの単位。一匹=二反=四丈。
*注3「節幢麾」:これで一単語なのか不明だが、「節」「とう」「」はいずれも軍の指揮や儀式で用いる旗じるし・采配の類で、葬列に使用されるのだろう。

 石苞は魏末から西晋建国期の功臣で、寒門の出ながら司馬懿しばいの目に留まり(*注1)司馬師しばし司馬昭しばしょうの元で活躍した人物である。

 軽薄で好色という一面もあったものの(*注2)、実務能力は高く、特に司馬昭には高く評価されていた。石苞自身も司馬昭には心酔していたようで、晋王であった司馬昭が死去した際には遠方から駆けつけて皇帝相当の葬礼をゴリ押し(?)した。また、後述する陳騫ちんけんとともに魏の皇帝・曹奐そうかんに禅譲を促し司馬炎しばえんを即位させるなど、司馬氏シンパの中でもかなり積極的な人物の一人であった。

 西晋時代には、相対していた呉軍の計略で謀反を疑われ更迭される不運にも見舞われたが、最終的には司馬炎の信頼を取り戻し、三公の一つである司徒の位に上る。そんな位人臣を極めた石苞の葬儀は、なぜか、魏の陳泰の先例に倣ったものだった。

 *注1:『魏書』高貴郷公紀注に引く『世語』では、司馬懿が長安で鉄を売っていた石苞を見出したとされるが、『晋書』石苞伝によれば、司馬懿司馬師の配下の石苞が軽薄だとして(司馬師を)咎めるも、反論されている。
 *注2:石苞は非常な美貌で、そのうつくしい(艶めかしく美しい)こと並ぶ者なしとまで評された。少々チャラいがセクシーな美形だったのだろう。当時は容貌への評価がかなりシビアだったが、無名の石苞が大出世したきっかけには、その美貌もあったのだろう。

陳泰の葬儀、および陳泰は司馬昭と決別してはいないという話

 陳泰の死について、本人の伝には多くは記されない。それが曹髦そうぼうの挙兵事件を発端とする急死もしくは自殺であったことは、他の各種史料から判明する「陳泰の死」参照、ただし一部、今の解釈とは異なります)。一方で晋書の記述からは、その不穏な死に方にも拘わらず、最高位の重臣として、国葬のような扱いで葬られていたことも判明する。

 石苞の葬儀が陳泰の例を参考にしたということは、官位などによる完全固定の形式があったわけではなく、皇帝や朝臣が各個人の事情や功績に応じて都度、判断していたことになる。

 当時の魏の皇帝は、曹髦の後に立てられてまもない曹奐だった。陳泰の死は、曹髦の死と同日の出来事と推測されるが、挙兵事件の後処理、曹奐の即位、そして元皇帝である曹髦の葬儀、といった大きな出来事の相次ぐ中であり、陳泰の葬儀は平時のペースでは進まなかったかもしれない。(とはいえ礼では、死去して三日後にかりもがりを行い、三ヶ月後に葬儀を行うとされることから、期間は充分にあるだろうか。なお当時の実例では翌月くらいには葬られており、現実にはもっと早く進行するようだが)。

 即位早々、立て続けに葬儀に関わる羽目になった曹奐だが、曹髦の事件を教訓にして選ばれたものか、いかにもお飾りの皇帝であった。元はこうという名だったが、「璜」という名は避けにくく国民に不便を強いるということで、朝臣らが新しい名を議論し、改名させられる……という、「皇帝・曹奐」のスタートからして、傀儡に相応しい(?)ものだった。陳泰の葬送についても、言われるがままに行ったといったところで、実際に決定したのは司馬昭らだろう。

 ところで、石苞の葬儀は「魏の司空(三公の一)・陳泰」の例に倣ったものだが、陳泰の司空は追贈であり、生前の官位は尚書左僕射であった。将来的には三公の座も約束されたエリート街道を歩んでいたとはいえ、この時点では陳泰はまだ、三品官にすぎなかった。それが思いがけず早世してしまい、急遽、司空の位が追贈された結果、葬儀も相応のものになったのかと思われる。

 官位の追贈は珍しいものではないが、こうした処遇と石苞伝の記述は、死後もなお陳泰が、司馬昭政権の重鎮であり、功臣であったと認められていた一つの証拠だろう。

 陳泰の自殺の理由はおそらく、司馬昭の、皇帝を討った賈充かじゅうを処刑しないという選択(あるいは、それによって司馬昭自身が世に批判されるという未来予想)にあった。司馬昭自身も、そのことには気づいたはずである。だが少なくとも、世間で言われるように「司馬昭と決別した」といった事実はなかった。むしろ司馬昭は、信頼厚い腹心であり私的な親友でもあった陳泰を自殺に追いやってしまったことを悔い、償いのような気持ちで三公の位を贈り、後世の手本となるような立派な葬儀を用意したのかもしれない。

陳騫の葬儀も、陳泰の葬儀が元になった

元康二年薨,年八十一。加以衮斂,贈太傅,諡曰武。及葬,帝於大司馬門臨喪,望柩流涕,禮依大司馬石苞故事。

房玄齡等撰『晉書 四 傳』中華書局、1974年 陳騫伝 P1037

 〔陳騫は〕元康二年(*注1)に薨去し、年は八十一歳であった。こん(*注2)を着せて葬る礼を与えられ、太傅を追贈され、武公と諡された。葬儀に際して、帝(司馬炎(*注3))は大司馬門に赴いて弔い、棺を眺めやって涙を流し、大司馬の石苞の先例に倣って礼を尽くした。

 *注1「衮」:帝王や三公の礼服で、龍の刺繍がある。れんは遺体に衣を着せて納める礼式。
 *注2「元康二年」:元康は恵帝の時代だが、陳騫死去の記述は武帝紀の太康二年(281年)にある。元康二年は292年だが、陳騫伝によれば咸寧三年(277年)時点で高齢による引退を考えていたことからも、太康二年が正しい?
 *注3「帝」司馬炎:元康二年であった場合は、恵帝・司馬衷しばちゅう

 陳騫は、石苞と同様に魏末から司馬氏の元で活躍した西晋成立期の重臣だが、その葬儀は石苞の例に倣って行われた。 ※なお陳騫の生前の官位が大司馬なため、「大司馬の石苞」の例に倣って行われたようにも見えるが、死去時の石苞は司徒であった。

 間接的に、陳騫の場合も、陳泰の葬儀を手本にしたことになる。陳泰の葬儀の例はテンプレとして、後世に引き継がれていった……とはいえその陳泰の葬儀も、記述には残らないが、過去の誰かの例を参照したものかもしれない。

 なお陳騫には、曹奐に禅譲を実行させたという、石苞との共通点がある。二人は曹奐に皇帝としての天命が失われたことをほのめかして圧力をかけ、司馬炎の皇帝即位に繋げた、革命期の司馬氏シンパ積極派の筆頭であった。

後每與陳騫魏帝以曆數已終,天命有在。及禪位,有力焉。

房玄齡等撰『晉書 四 傳』中華書局、1974年 石苞伝 P1002

 のちに、〔石苞は〕しきりに陳騫とともに魏の帝(曹奐)に〔魏の〕暦数はすでに尽き、天命は〔司馬氏に〕あるとほのめかした。やがて禅譲に至ったが、石苞の尽力があったのである。

 一般に三国志ファンの間では、曹髦への忠義から司馬昭に逆らって死んだかのように語られる陳泰の葬儀が、曹氏から司馬氏への革命を推し進めた石苞陳騫に受け継がれていったというのは、おもしろい皮肉でもある。

追記:同時期に死去した重臣

 陳泰から陳騫(太康二年とした場合)までの間に死去した主な重臣の一覧。謀反、処刑などの特殊なケースを除外するとしても、多数の似たような地位の人々も死去しており、その中で陳泰石苞陳騫の三名に特別な共通点はないと思われる。強いて言えば重度の司馬昭ファンという共通点が……

人物死去年月官職爵位出身地
陳泰ちんたい景元元年 五月260年司空(尚書左僕射)潁陰侯潁川郡 許昌県
王観おうかん景元元年 十月260年司空陽郷侯東郡 廩丘県
王基おうき景元二年 四月261年司空(征南将軍)東武侯東萊郡 曲城県
高柔こうじゅう景元四年 九月263年太尉安国侯陳留郡 圉県
鍾会しょうかい景元五年 正月264年司徒東武侯潁川郡 長社県
鄧艾とうがい景元五年 正月264年太尉鄧侯義陽郡 棘陽県
司馬昭しばしょう咸熙二年 八月265年相国晋王河内郡 温県
王沈おうしん泰始二年 五月266年司空(驃騎将軍)博陵公太原郡 晋陽県
王祥おうしょう泰始四年 四月268年太保睢陵公琅邪郡 臨沂県
裴秀はいしゅう泰始七年 三月271年司空鉅鹿公河東郡 聞喜県
司馬望しばぼう泰始七年 六月271年大司馬義陽王河内郡 温県
司馬孚しばふ泰始八年 二月272年太宰安平王河内郡 温県
鄭袤ていぼう泰始九年 正月273年司空密陵侯滎陽郡 開封県
石苞せきほう泰始九年 二月273年司徒楽陵公渤海郡 南皮県
鄭沖ていちゅう泰始十年 閏正月274年太傅寿光公滎陽郡 開封県
荀顗じゅんぎ泰始十年 四月274年太尉臨淮公潁川郡 潁陰県
羊祜ようこ咸寧四年 十一月278年太傅(征南大将軍)南城侯泰山郡 南城県
何曾かそう咸寧四年 十二月278年太宰朗陵公陳国 陽夏県
陳騫ちんけん太康二年 十一月281年太傅(大司馬)郯侯臨淮郡 東陽県

 ※官職( )は追贈があった場合の生前のもの。 ※魏の咸熙元年七月(264年)に爵位の制度の改定があった。

余談・曹髦の葬儀は粗末だったのか?

 陳泰の葬儀が生前の地位に比して立派だったのとは対照的に、同時期に行われた曹髦の葬儀は、一説には粗末なものだったという。

漢晉春秋曰:丁卯,葬高貴鄉公洛陽西北三十里瀍澗之濱。下車數乘,不設旌旐,百姓相聚而觀之,曰:「是前日所殺天子也。」或掩面而泣,悲不自勝。
松之以爲若但下車數乘,不設旌旐,何以爲王禮葬乎?斯蓋惡之過言,所謂不如是之甚者。

陳壽撰、裴松之注『三國志 一 魏書〔一〕』中華書局、1982年 高貴郷公紀注 P146

 『漢晋春秋』にいう。丁卯の日(?)、高貴郷公は洛陽の西北三十里の瀍澗てんかんの浜辺に埋葬された。みすぼらしい車が数乗つき従い、柩に先行する旗もなかった。人々は集まって来てこれをながめ、「これは先日殺された天子さまだ」といい、中には顔をおおって涙を流し、悲しみに耐えきれぬ者もいた。
 わたくし裴松之は考える。もしもみすぼらしい車が数乗つき従うだけで、柩に先行する旗もしつらえなかったのならば、どうして王の礼式によって埋葬したといえようか。これは多分このことを快く思っていない者が、過剰に表現したのであって、それほどひどいものではなかったといえよう。

陳寿、裴松之注、今鷹真・井波律子訳『正史 三国志 1』ちくま学芸文庫、1992年 高貴郷公紀注 P351

 曹髦は、公式発表では皇太后かくの殺害を企てた不孝の罪によって地位を失ったため、皇帝として葬られることはなかった。当初郭氏は、昔の事例に倣って庶民の礼式で葬るようにと命じたが、司馬昭らが、それは理に適っているとはいえさすがに忍びないので、王の礼式で葬るようにと反論した。実際には曹髦の挙兵は、郭氏ではなく司馬昭を殺害しようとしたものであり、郭氏と朝臣の一連のやりとりは茶番めいたポーズである可能性が高いが、結果として正史では曹髦は王の礼式で葬られたとされる。元皇帝としてみれば格下だが、実質的な状況・地位に比べれば、むしろ厚遇だった。

 注釈者の裴松之はいしょうしは、粗末な葬列の逸話は、過剰に伝えられたものとする。実際、司馬昭側から見ても、曹髦を「皇帝ではなくなった」と位置づけることは重要である一方、蔑ろにするのはイメージ戦略としても不利である。罪人といえども元皇帝であった曹髦を、可能な範囲で最大に尊重し、魏の臣下に相応しい行動をとっていますよ、という姿勢を世間に示そうとするのが自然で、その結果が郭氏とのやりとりであり、最終的に王の礼式で行われた葬儀だったのだろう。

公開:2017.05.21 更新:2017.05.24