鄧艾と陳泰 - 「忘年の交わり」はあり得たか?(前編)

 魏の末期、いずれも蜀漢の姜維きょういと戦った名将として知られる鄧艾とうがい陳泰ちんたいは、年齢差にこだわらない友誼を意味する「忘年の交わり」を結んだとされる。しかし実はこれは、小説『三国志演義』(原題は『三国演義』)によるフィクションであった。歴史書の『三国志』に記される鄧艾陳泰の関係はどのようなものだったか、『演義』との違いを見比べてみる。

狄道てきどうの戦い:陳泰の活躍が(演義で)鄧艾に奪われる

 正元二年(255年)、かねてより魏に侵攻を繰り返していた蜀漢の姜維に、雍州刺史の王経おうけいが大敗を喫する事件が起きた。魏は危うく姜維に雍州を奪われかけるも、陳泰鄧艾らの活躍により免れた。『三国志演義』では、以下の場面である(後述の比較のため、陳泰鄧艾の作戦に関する発言を色分け)

 さて雍州にあった征西将軍陳泰は、おりしも兵をおこして王経の敗戦の仇を討とうとしていたところ、思いがけなくえん州の刺史鄧艾が軍勢をひきいて到着した。陳泰が迎えいれて挨拶を終わると、鄧艾の言うのに、
「このたびは大将軍の命を受け、ご加勢に参上つかまつりました」
 陳泰が計略を尋ねると、
とう水の一戦に勢いをえた敵が、もしきょう人を手につけ、東進して隴西諸郡をうかがい、四郡(隴西・南安・天水・略陽)の太守を味方に引き入れますれば、わが方にとって容易ならざることとなります。ただし、今、彼はこれに思いつかずに狄道てきどう城を取ろうとしておりますが、かしこは城壁が固うござりますゆえ、急には落とすことはできず、いたずらに兵士を疲れさすばかりでござります。よって、わが方が項嶺こうれいに一軍を上げておいて兵を進めますれば、必ずや敵を打ち破ることがかないましよう」
「それは妙計じゃ」
 かくて陳泰は二十手の兵をすぐって打ち立たせることとし、一手五十人、おのおの旗さし物・笛・太鼓・狼火のろしなどをたずさえ、昼はひそみ夜を待って進んで、狄道城東南の険しい山あいに伏勢し、蜀の軍勢が来たならいっせいに笛・太鼓を鳴らして気勢を上げ、夜は狼火を上げ石火矢を放って驚かせるよう命じた。伏勢が支度をととのえ、蜀の軍勢を待ちかまえる態勢をとるのを待って、陳泰・鄧艾はおのおの兵二万をひきい、相次いで打ち立った。

……

 と、姜維は、張翼を留めて城攻めに当たらせ、夏侯覇には陳泰を迎え撃つよう命ずると、みずから兵をひきいて鄧艾を迎え撃った。ゆくこと五里たらず、とつぜん、東南のかたにあたって石火矢の音一発、笛・太鼓地をゆるがせ、天に沖する狼火があがる。
「鄧艾めはかりおったな」
 と、あわてた姜維は、夏侯覇・張翼に狄道を棄てて退くことを命じ、全軍、漢中に向けて引き退がって来た。姜維はみずから後詰をしたが、背後の太鼓の音は、いつまでもついてくる。剣閣道まで退いた時になって、はじめて二十余ヵ所の狼火や太鼓が疑兵の計と知ったのである。かくて姜維は軍をまとめ、鍾提しょうていに屯営した。

羅貫中作、立間祥介訳『三国志演義 下』平凡社、1972年 第百十一回 P433〜434

 王経を狄道城に包囲していた姜維が、鄧艾の計略に敗れて撤退する、という展開。

 『三国志演義』のこの場面は、歴史上の実話をアレンジしたものである。少し長いが、該当箇所全体を和訳の『正史 三国志』から引用。

たまたま王経配下の諸軍は古い関所のあたりで賊と戦闘を交え負けいくさとなった。王経はすぐに洮水を渡った。陳泰は王経が狄道を占拠して固めないことから別の変事が起るにちがいないと判断し、五軍営の兵をすべて派遣して前を行かせ、陳泰は諸軍を率いてそれに続いた。王経はすでに姜維と戦って大敗し、一万余人をつれて引き返し、狄道城にたてこもったが、他の兵はみな散りぢりになって逃げた。姜維は勝利に乗じて狄道を包囲した。陳泰は上邽じょうけいに軍を置き、兵を分けて要所を守らせると、夜を日に継いで前進した。鄧艾・胡奮こふん王秘おうひもまた到着したので、さっそく鄧艾・王秘らと兵を分けて三軍とし、進軍して隴西ろうせいに到達した。鄧艾らは主張した、「王経の精鋭兵は西方で敗北を喫し、賊の軍勢はたいそう勢いづいております。勝利に乗じた軍は敵対することがむずかしいうえに、将軍は烏合うごうの兵をひきい、敗軍の後を受け、将兵は気力を失い、隴西はひっくりかえっております。古人は『蝮蛇まむしが手をさせば、ますらおはその腕を切り離す』といっており、『孫子』には『敵軍も攻撃してはならない場合があり、土地も守ってはならない場合がある』とあります。つまり小さい所で損失があっても大きな所で安全を保ちうるからです。今、隴西の害毒は蝮蛇よりもはなはだしく、狄道の地は別に守っていないというわけではございません。姜維の軍は、それこそ避けるべき鋭い勢いがあります。要害の地をきりとって安全を保ち、隙をうかがい衰えるのを待って、その後で進軍して救助するのです。これが計略のうち最適のものです。」陳泰はいった、「姜維は軽装の兵をひっさげ深く侵入しており、まさしくわが軍と原野で鋒先ほこさきを争い、一戦の勝利を求めようと願っている。王経は城壁を高くし、とりでを深くして、その鋭気をくじくべきであったのだ。それなのに今、いくさを交えたのたから、賊は計略どおりにいき、王経を敗走させ、狄道に閉じこめたのだ。もし姜維が戦勝による武威を示しつつ兵を進めて東に向い、櫟陽れきように蓄積された充分な穀物をよりどころとし、兵を放って降伏者を収容し、羌族を招いて味方につけ、東方で関・隴の地を争い、四つの郡(隴西・南安・天水・略陽)に檄文げきぶんをとばすことにでもなれば、それこそわが軍にとって厄介なこととなる。ところが姜維は勝利に乗じた軍をもって、険固な城の下で頓挫しており、鋭気をもった兵卒は、力をくじかれ命を投げ出している。攻守の形勢が変って、主客転倒したのだ。兵書に『おおだて轒轀ふんおん(城攻めの四輪車)を整え、三ヵ月かかってやっと完成し、土塁は三ヵ月たったのちにやっと土盛りを終る』とある。実際、軽装の軍をもって深く侵入しているのだから、姜維の人をあざむく策略でも早急に用意できるものではない。本拠地を遠く離れた軍は、糧食がつながらないもので、今こそわが軍がただちに進撃し賊をうち破る時である。いわゆる『急な雷鳴は耳をふさぐひまがない』というやつで、自然の勢いである。洮水がその外をめぐり、姜維らはその中にいる。今、高所に登り、有利な地勢を占め、敵の首ねっこに臨めば、戦わずとも必ず逃走する。侵略者を野放しにするわけにはいかぬし、包囲を長く放置するわけにもいかぬ。君らはどうしてこのような言を吐くのだ。」かくて軍を進めて高城嶺を越え、こっそり行動して、夜に狄道の東南にある高い山の上に到達した。たくさん烽火のろしをあげ、太鼓と角笛をならした。狄道の城中にいる将兵は救援の到着を見て、皆、心を高ぶらせおどりあがった。姜維は最初救援の官軍は軍勢の集結を待ってから出発するにちがいないと思っていた。ところが突然もう到着していると聞き、前から練られた奇計があるものと思いこみ、上も下もふるえおののいた。軍が隴西ろうせいを出発してから、山道は深く険しかったので、賊は必ず伏兵を設けていると考え、陳泰は南道を通るふりをした。姜維は予期どおり三日の間伏兵を置いていた。正規軍はひそかに行動し、突然その南に姿をあらわした。姜維はそこで山によりそいながら突撃してきた。陳泰は彼と交戦し、姜維は涼州に引き退いたが、軍は金城を通って南に向い沃干阪よくかんはんに到達した。陳泰は王経とともに内密に約束をかわし、いっしょにその帰路に向うことにしていた。姜維らはそれを聞くと逃走してしまい、城中の将兵は外に出ることができた。王経は歎息していった、「食糧はあと十日分にも足りませんでした。先に危機に瀕したとき救援に来てくれなかったら、城をあげて壊滅かいめつし、一州を喪失したでしょう。」陳泰は将兵を慰労し、前後に分けて帰還させ、あらためて軍兵を選んで守備につけ、同時に城壁を修理させると、帰還して上邽じょうけいに駐屯した。

……

 それより前、陳泰は王経が包囲されたと聞いたとき、州軍の将兵が平素から皆心を一つにしており、それに加えて城を保持する力があるから、姜維が急に陥れられるものではないと考えた。軍を進め夜を日に継いで、早急に到着する旨上奏文をたてまつった。……

陳寿、裴松之注、今鷹真訳『正史 三国志 3』ちくま学芸文庫、1993年 陳泰伝 P479〜483

 * 中略部分は裴松之の注が入る。
 * 姜維が涼州に退いたという記述は誤訳と思われる。詳細は「姜維の北伐:255年」を参照。

 展開はよく似ているが、人物の言動には大きな違いがある。姜維が羌族や四郡を味方につけることを警戒したのは『三国志演義』では鄧艾だが、正史『三国志』では陳泰である。また鄧艾は『演義』では狄道城を攻めて奪還することを進言したが、正史『三国志』では逆に狄道城を一旦見捨てて好機を待つことを進言し、今すぐ奪還すべきと考えている陳泰に却下された。

 つまり『三国志演義』で、鄧艾の手柄として描かれる一連の作戦は、実際には陳泰が考案したものであり、鄧艾はむしろその作戦に反対し、陳泰に批判されていたのである。

 ……と、陳泰ファンとしては強調しておきたい。『演義』の陳泰はこの後も姜維を侮るなど間の抜けたところを見せ、姜維陳泰は眼中にないかのように鄧艾の知略ばかり警戒しているが、これもフィクション。

 正史『三国志』に見られる、陳泰が山を越えて進軍し、高々と烽火を上げて狄道に救援を告げ知らせる場面は、個人的に陳泰伝の一つのハイライトだと思う。それを『三国志演義』は、鄧艾の名場面として描いてみせた。後に蜀漢を滅ぼす活躍をする鄧艾は、『演義』としてはより強敵でなければならないだろう。キャラクターを引き立たせるための物語演出によって、陳泰は割を食った形になってしまったのである。

「忘年の交わり」の背景事情

 狄道の戦いの後、『三国志演義』の鄧艾はさらに冴えたところを見せ、ますます感心した陳泰が「忘年の交わり」を結ぶという流れになる。

 さて姜維きょうい鐘提しょうていに退いて屯営し、魏の軍勢は狄道てきどう城外に屯営した。王経おうけい陳泰ちんたい鄧艾とうがいを城に請じいれ、囲みを解いてもらった礼を述べて、もてなしの酒宴を開き、大いに三軍の労をねぎらった。陳泰は上奏文をもって鄧艾の大功を魏主曹髦に奏上し、曹髦は鄧艾を安西将軍に封じ、護東羌ごとうきょう校尉に任じて、陳泰とともにようりょう二州の守護を命じた。鄧艾が謝恩の上奏文を奉ったあと、陳泰は宴席を設けてこれを祝ったが、
「姜維は夜を徹して逃げ、疲れきっておるゆえ二度と出ては参るまいな」
 と言うと、鄧艾は笑った。
「それがし、蜀の軍勢は五つの理由により必ず討って出ると存じます」
 陳泰がその理由をたずねると、
「蜀の軍勢は、退いたとは申せ、勝ちに乗った勢いをもっておることは変わりなく、わが軍は、打ち敗れた弱みをもっておること、これがその一つ。蜀勢はみな孔明の調練を受けた精鋭で、ただちに役に立つのに反し、わが方は大将がたえず変わり、兵士の調練もゆき届いておらぬこと、これがその二つ。蜀勢が多く水路をきたったのに反し、わがく軍はみな陸路くがじを参ったものゆえ、その疲れ方が同じではないこと、これがその三つ。狄道てきどう隴西ろうせい南安なんあん山の四カ所は、いずれも守るに利のあるところで、蜀勢が東へ出ると見せて西を討ち、南へ向かうと見せて北を攻めれば、わが方は諸方に兵を分けて防がねばならなくなり、蜀勢が一手となって一ヵ所に当たれるのに反し、わが方は四分の一の力でしかこれを防ぐことができぬこと、これがその四。もし蜀兵が南安・隴西に出れば、羌人の作物を取って兵粮に当てることができますし、祁山に出れば麦を取って食うことができます。これが必ず出ると申す五つ目の理由にござります」
「それだけ敵のことを見透すことができるならもはや蜀の勢なぞ恐るるにはおよばぬ」
 感服した陳泰は、爾来、鄧艾と忘年ぼうねん(年齢の長幼を問わぬ)の交わりを結んだのであった。かくて鄧艾は連日、雍・涼二州の軍勢の調練にあたり、諸方の要害に陣屋を設けて、不測の事態に備えた。

羅貫中作、立間祥介訳『三国志演義 下』平凡社、1972年 第百十一回 P435

 この鄧艾の発言に相当する、正史『三国志』の記述が、鄧艾伝にある。

……狄道てきどうで包囲されていたよう州刺史王経おうけいを救助し、姜維きょういは退いて鍾提しょうていに駐屯した。そこで鄧艾を安西将軍・仮節領護東羌校尉に任命した。多くの論者は、姜維の力はすでに尽きているから再度の出撃はないと主張したが、鄧艾はいった、「〔王経の〕洮西とうせいの敗戦は小さな失敗ではない。軍は敗れ将は殺され、米倉は空になり、住民は流浪することとなり、ほとんど危機滅亡の状態といってよい。今、作戦の点からいえば、敵には勝ちに乗ずる勢いがあり、わが方には虚弱な体質がある。これが第一の点だ。敵は上下ともによく訓練されていて、武器も鋭利であるが、わが方は将軍が〔王経より鄧艾に〕交替し兵卒も新たに派遣されてきた者で、武器もまだ不充分なままである。これが第二の点だ。敵は船によって行動し、わが方は陸地を行軍してきたのだから、苦労は同じではない。これが第三の点だ。狄道・隴西ろうせい・南安・祁山きざんには、それぞれ守備を置かなければならない。敵が一方に集中できるのに対して、わが方は四箇所に分散することになる。これが第四の点だ。南安・隴西に向えば、羌族に食糧を頼ることになるが、もし祁山へ向えば、千けいにわたって成熟した麦がある。それが敵をつる餌となるたろう。これが第五の点だ。賊軍はこざかしい策略を弄するから、その来攻はまちがいない。」しばらくして、姜維は予想どおり祁山へ向ったが、鄧艾がすでに備えをしていると聞くと、方向を変えて董亭とうていを通って南安へ進んだ。鄧艾は武城山にたてこもって対峙した。姜維は鄧艾と要害の地を占拠せんと争ったが勝利を得られなかったので、その夜、水を渡って東へ進み、山に沿って上邽じょうけいへと向った。鄧艾は彼と段谷だんこくにおいて戦い、大いにこれをうち破った。

陳寿、裴松之注、今鷹真・小南一郎訳『正史 三国志 4』ちくま学芸文庫、1993年 鄧艾伝 P273

 狄道の戦の記述が簡略なのは、鄧艾自身は陳泰の作戦に従って行動したに過ぎないからだろう。しかし『三国志演義』で陳泰を感服させた姜維についての分析は、実際に鄧艾が行ったものである。一方で『演義』の陳泰の発言にあたる、姜維はこれ以上侵攻してこないだろうとする意見は、実際には陳泰のものではなく、いわば「その他大勢」の総意であった。

 さて、この「その他大勢」に陳泰が含まれ、実際に鄧艾の意見に感心する可能性はあったのだろうか。

 鄧艾姜維を破った段谷の戦は、『魏書』高貴郷公紀によれば甘露元年(256年)七月(『蜀書』後主伝では八月)の出来事である。

夏六月丙午,改元爲甘露……秋七月己卯,衞將軍胡遵薨。癸未,安西將軍鄧艾大破蜀大將姜維于上邽,詔曰:「兵未極武,醜虜摧破,斬首獲生,動以萬計,自頃戰克,無如此者。今遣使者犒賜將士,大會臨饗,飮宴終日,稱朕意焉。」

陳壽撰、裴松之注『三國志 一 魏書〔一〕』中華書局、1982年、P138〜139

 鄧艾が意見を述べたのは、この時期の少し前ということになる。

 一方、陳泰は正元二年(255年)八月の狄道の戦の後、中央に異動して尚書右僕射(尚書台の次官で、官吏の任免などを担当する文官職)となり、戦線を離れた。元の征西将軍が二品官なのに対し、尚書右僕射は三品官であることから、総司令官として王経の敗戦の責により、左遷されたものか。(ただし当時の実質上の魏の支配者である司馬昭しばしょうは、狄道の戦における陳泰の采配を絶賛し、「都督とか大将とかは、このようでなければなるまい。」とまで言っている。立場上やむを得ない左遷に対するフォローだろうか。)

 征西将軍・都督雍涼諸軍事の後任には、司馬昭の従兄にあたる司馬望しばぼうが就任した。『晋書』司馬望伝によれば、彼は「八年」の間この任務にあった。

相繼輔政,未嘗朝覲,權歸晉室雖見寵待,每不自安,由是求出,爲征西將軍、持節、都督二州諸軍事。在任八年,威化明肅。

房玄齡等撰『晉書 四 傳』中華書局、1974年、P1086

 かねてより司馬望は朝廷を離れたがっていたが、陳泰の左遷(?)により適当なポストが空き、就任したのだろう。

 一方で鄧艾伝によれば、景元三年(262)以前に鄧艾が征西将軍に就任している。

甘露元年詔曰:……。二年,拒姜維長城退還。遷征西將軍,前後增邑凡六千六百戶。景元三年,又破侯和卻保沓中

陳壽撰、裴松之注『三國志 三 魏書〔三〕』中華書局、1982年、P1086

 ただし『魏書』陳留王紀によれば、景元三年十月に侯和で姜維を破った際の鄧艾はまだ鎮西将軍であり、鄧艾伝の記述とは前後する。司馬望が八年間務めたとなると、下記のように正元二年年内〜景元三年の途中までは司馬望でなければ計算があわないため、鄧艾の就任は景元三年末だろうか。

255正元二陳泰

司馬望(1年目)
256正元三/甘露元司馬望(2年目)
257甘露二司馬望(3年目)
258甘露三司馬望(4年目)
259甘露四司馬望(5年目)
260甘露五/景元元司馬望(6年目)
261景元二司馬望(7年目)
262景元三司馬望(8年目)

鄧艾

 陳泰は尚書右僕射に転任した後、翌・甘露元年(256年)八月にはさらに鎮軍将軍・都督淮北諸軍事の任に移る。尚書右僕射になった厳密な時期は不明だが、司馬望の任期から考えると、正元二年内に異動したことになる。陳泰の異動時期に関し、司馬望の任期が参考になる旨は、以前にTwitterで @Jominian さんに教えていただきました。)

 おそらく、鄧艾が前述の意見を述べた頃、総司令官はすでに司馬望に代わっていた。陳泰鄧艾の知略に感心して「忘年の交わり」を結ぶ、ということは、実際には起こりえなかったのである。


 長くなったため、「忘年の交わり・後編」に続く。

2017.06.05