陳泰挂壁 - 賄賂は晒します!

陳泰挂壁(ちんたいけいへき)

意味 三国・魏の陳泰は匈奴の吏民を懐柔して誉れが高かった人であるが、都の貴人が宝貨を贈ってしきりに奴婢の購入を頼んでも、ことごとく贈り物を壁に掛けておいて取り合わなかった故事。のち、尚書になったとき、贈り物はことごとく贈り主に返還したという。『蒙求』の標題。
出典 「京邑貴人多寄寶貨、因泰市奴婢。泰皆挂之於壁、不發其封=京邑の貴人多く宝貨を寄せ、泰に因りて奴婢を市わんとす。泰皆之を壁に挂け、其の封を発かず。」(『三国志』魏書・陳泰伝)

和泉新・佐藤保編『中国故事成語大辞典』東京堂出版、1992年、P845

 『中国故事成語大辞典』に、こんな内容が載っていた。『三国志』陳泰伝の序盤を飾る、贈賄壁掛け事件(?)がまさかの故事成語に?

 当時の社会において、贈り物をして奴婢(奴隷)を買ってもらうということは、やはり悪徳とみなされていたのだろうか。ともあれ当時、かつての司空・陳羣の嫡子という御曹司であり、おそらくかなり年若くして州の刺史(地方長官)として赴任してきた陳泰にとって、こうした風潮は許し難いものだったらしい。彼は依頼を拒否するのみならず、贈られてきた宝貨を封をしたまま壁に掛けておいた。受け付けずに都に送り返すということもできたし、後日突き返すにしてもそれまでは穏便に預かっておくこともできたはずだが、そうはしなかったのである。

 この解説には「『蒙求』の標題」とある。唐代に編纂された『蒙求もうぎゅう』とは、故事を四字句にした、初学の教科書的な存在であったらしい。日本にも入り、平安時代から学ばれていたそう。そのうちの一つに、この陳泰の逸話が採用されているというわけだった。

洪喬擲水 陳泰挂壁(こうけうてきすゐ ちんたいけいへき)

題意 他人に利用されるお人好しにならなかった人の話。上句、殷羨字は洪喬は、頼まれた手紙を皆水に投げ入れ、自分は郵便配達人じゃないぞといった。下句、陳泰は職掌がら、多くの貴人から奴婢の購入を頼まれ、宝貨を贈られたが、皆包みのまま壁に掛けておいた。

晉書、殷羨字洪喬、陳郡長平人。爲豫章太守。都下人士、因其致書者百餘函。行次石頭、皆投之水中曰、沈者自沈、浮者自浮。殷洪喬不爲致書郵。其資性介立如此。
晉書にいふ、殷羨字は洪喬、陳郡長平の人なり。豫章の太守と爲る。都下の人士、其れに因つて書を致す者百餘函なり。行いて石頭に次り、皆之を水中に投じて曰く、沈む者は自ら沈め、浮かぶ者は自ら浮かべ。殷洪喬は致書郵と爲らず、と。其の資性介立なること此の如し。
通釈 『晋書』にいうよう、殷羨は字を洪喬といい、陳郡長平県の人である。予章郡の太守となった。赴任にあたり、都下の人士は、序でに手紙を届けてもらいたいと依頼した者の数が百余箱もあった。彼は出発して石頭に泊ったが、そこで頼まれた手紙を全部水に投げこんでいった。「沈むものはそのまま沈め、浮かぶものはそのまま浮かべ。殷洪喬は手紙を配る飛脚にはならぬわい。」彼の独りだって、人を容れない性質は、このようなものであった。

魏志、陳泰字玄伯、司空群之子。爲幷州刺史、加振威將軍・使持節・護匈奴中郞將。懷柔吏民、甚有威惠。京邑貴人多寄寶貨、因泰市奴婢。泰皆挂之於壁、不發其封。及徵爲尙書、悉以還之。
魏志にいふ、陳泰字は玄伯、司空群の子なり。幷州の刺史と爲り、振威將軍・使持節・護匈奴中郞將を加へらる。吏民を懷柔して、甚だ威惠有り。京邑の貴人多く寶貨を寄せ、泰に因つて奴婢を市ふ。泰皆之を壁に挂けて、其の封を發かず。徵されて尙書と爲るに及び、悉く以て之を還す。
通釈 『魏志』にいうよう、陳泰は字を玄伯といい、司空(丞相の副)陳群の子である。幷州の刺史となり、振威将軍・使持節・護匈奴中郎将(将軍に次ぐ)の役を兼ね加えられた。彼は役人や人民をなつけやわらげ、大そう威徳あり、しかも恵み深かった。都の貴人の多くが、彼に宝貨を贈り、奴婢の購入を依頼した。しかし、彼は全部それを壁に懸けておき、一つも開いてみようとはしなかった。後、召されて尚書(宮中の文書を司る)となるに及んで、悉く贈られた宝貨を送り返した。

早川光三郎『新釈漢文大系 59 蒙求(下)』明治書院、1973年、P1063〜1064

 『蒙求』は内容の似た二句をセットで取り上げるが、このように、東晋の殷羨いんせん殷浩の父)の逸話と合わせ、この解釈によれば「他人に利用されるお人好しにならなかった人の話」となっている。陳泰伝におけるこの話のポイントは、ゴマすりや賄賂を頑として受け付けない、潔癖な態度を賞賛するところにあるのかと思っていたが、どうも『蒙求』においては、そうではなかった。

 それにしても、なぜ陳泰は壁に掛けたのか。先ほどの『中国故事成語大辞典』には「魚を懸けて意をふさぐ」という成語が載っており、これは、清廉な人間であった後漢の羊続羊祜の祖父)が、献上された魚を庭に掛けておき、再び献上されるのを防いだ、という故事による。こうした例から考えるに、陳泰の場合も「これ以上送ってくるな、受け取らないぞ」という意思表示だったのだろう。

 が、果たして、はるばる遠い都から贈ってくる行為に対して、羊続が庭先で示すほどの効果があるのかどうか。陳泰という人は、清廉で職務熱心な反面、少々性急で、しかも頑固である。良かれと思ったことは即座に果敢に実行する行動派で、その決断力を生かして王経の窮地を救ったりもするが、ときにはそれが裏目に出る。自身の列伝ではクールな知将ぶりを見せる陳泰だが、一方では率先して異民族討伐計画を立てるも失敗して司馬師に庇われたり、姜維の虚報に騙されて侵攻しようとして司馬昭に止められたり、実は結構な猪突猛進型。こうした性格から、自分は袖の下で動かされるような人間ではない! とばかりにカッとなり、こうした腐敗を広く非難するかのように、わざわざ壁に掛けておくという行動に出たのかもしれない。

 父である陳羣は、陳羣伝注に引く『魏書』等によれば、常に密かに上奏して人に知られることがなかったため、高位にありながら何もせずにいる、と謗られたこともあった。立派な業績を残しながら、時に不当に非難されることもあった父の姿を見て育った陳泰は、正しいことは堂々と声高に主張していくという、真逆の方向に走ったようにも見える。しかし、うら若き刺史にはねつけられた挙げ句、不正を詰るかのように晒された側の人々は、恨めしく思うところもあったのではないだろうか。陳泰のこうした不器用なまでの頑固さは、「資性介立なる」殷羨に通じるところがあるのかもしれない。だが、この利に迎合できない頑なさと潔癖さが、やがては彼自身の命を奪うこととなってしまうのである。

公開:2014.03.16 更新:2014.06.03