陳泰の生年について

 陳泰は景元元年(260年)に死去したが、没年齢が記されていないため、生年がわからない。おおまかにでも推測できないものかと思い、調べてみたメモ。長いわりに実りがないので注意。

目次

仕官年による推測

 陳泰の伝は、「青龍年間、散騎侍郎に任命された。」(『正史 三国志 3』ちくま学芸文庫)という内容で始まり、明記はないが、宮崎市定『九品官人法の研究』(中公文庫、1997)ではこれが初任官と推定されている。散騎侍郎とは「侍中・黄門侍郎とともに尚書奏事を処理する。」(『正史 三国志 8』ちくま学芸文庫)、五品の官で、デビューとしては最上位待遇である。『九品官人法の研究』によると「当時二十歳が大体初仕の年と見なされていた」ということで、強引だがこのとき陳泰が20歳であったと仮定してみる。青龍年間とは青龍元年2月〜青龍5年2月(西暦233年3月〜237年4月頃)だが、4年12月末には父陳羣が死去した(*注1)ため服喪したと考えると、それよりも前の可能性が高い。となると、

  • 上限:青龍元年(233年)起家 = 建安十九年(214年)生、47歳没
  • 下限:青龍四年(236年)起家 = 建安二十二年(217年)生、44歳没

 ということに。当時の父・陳羣の動向も調べなければならないが、そのうち……

 陳泰と交友関係にあり生年が判明している人と比べると、司馬師(208年生まれ)、傅嘏(209年生まれ)、司馬昭(211年生まれ)、といった感じで、彼らより若干年下の同世代ということになり、自然な年齢である。

*注1 陳羣の没年については、ちくま学芸文庫の陳羣伝に「青龍四年〔二三五〕」という訳注があるが、青龍4年はほぼ西暦236年に相当し、さらに明帝紀によると十二月癸巳の日=12月24日=西暦237年2月7日のようだが……?(参考:中央研究院 兩千年中西曆轉換 など)

呂布軍の陳羣父子

 と、考えていたところに折しも、こんな話を聞く。

袁氏世紀曰:之破也,陳羣父子時亦在之軍,見太祖皆拜。

陳壽撰、裴松之注《三國志 二 魏書〔二〕》(中華書局,1982年) p.334

『袁氏世紀』にいう。呂布が破れたとき、陳羣父子も当時呂布の軍中にいたが、太祖に会うと、みな平伏した。

陳寿、裴松之注、井波律子・今鷹真訳『正史 三国志 2 魏書Ⅱ』(ちくま学芸文庫、1993年) p.299

 袁渙伝の注に上記のような記述があるが、これが陳羣陳泰とされ、某小説に登場するらしい(小説未読なため伝聞だが)。が、結論から言うとこの「陳羣父子」とは、「父・陳羣とその子」ではなく「子・陳羣とその父」である。

 前述のように233年〜236年頃に初出仕した陳泰が、呂布が敗れた当時(建安三年、198年〜199年頃)に父とともに軍に居るというのはあり得ないし、そもそも生まれてすらいないように思える。

 『三国志集解』のこの部分には、陳羣が父・陳紀とともに徐州に避難した件が引かれている。

陳羣傳:「隨父避難徐州。屬呂布破,太祖爲司空西曹掾屬。」

陳壽撰、裴松之注、盧弼集解、錢劍夫整理《三國志集解 參》(上海古籍出版社,2012年) p.1070

 陳羣の父である陳紀は、建安四年六月(199年)に71〜2歳で在官のまま死去した(『後漢書』陳紀伝「年七十一,卒於官」。『三国志集解』陳羣伝「紀卒於建安四年六月,見邯鄲淳陳君碑。」※陳羣が、父の喪に服すため官を離れた記述の部分。 ※碑では72歳死去。邯鄲淳「後漢鴻臚陳君碑」)。ということで、陳紀は建安三年末には一応まだ現役。曹操に仕えることになる人物の行動を比較している場面なので、陳羣の名前が書かれているだけなのだろう。

 ……というわけで、危うくとんでもない生年の可能性が生じるところだったが、回避された。

息子の没年による推測

 息子の年代から推定できないかと思ったが、ほとんど情報が発見できず。

前後以功增邑二千六百戶,賜子弟一人亭侯,二人關內侯。景元元年薨,追贈司空,諡曰穆侯。子嗣。薨,無嗣。弟紹封。咸熙中開建五等,以著勳前朝,改封愼子

陳壽撰、裴松之注《三國志 三 魏書〔三〕》(中華書局,1982年) pp.641-642

 陳泰は前後にわたる功績によって加増を受け二千六百戸の領地となり、子弟一人に亭侯、二人に関内侯の位を賜わった。景元元年〔二六〇〕逝去し、司空を追贈され、穆公と諡された。子の陳恂があとをついだ。陳恂が逝去すると継嗣がなく、弟の陳温が領地をついだ。咸熙年間、五等級の爵位制度が置かれると、陳泰が前帝のみ世に勲功をあらわしたことから、改めて陳温を慎子にとりたてた。

陳寿、裴松之注、今鷹真訳『正史 三国志 3 魏書Ⅲ』(ちくま学芸文庫、1993年) 陳泰伝 p.484

 陳泰の息子は、少なくとも、陳恂陳温がいた。

 一方、陳泰の功績で「子弟」合計三人が爵位を得た。「子」でなく「子弟」と書かれるのは、一部は子ではなく弟だろうか。陳羣が死去し陳泰が後を継いだ際に「封一子列侯。(一人の子を列侯にとりたてた。)」とあり、弟一人は以前から爵位を得ているようだが、実はもう一人居る?

 ※追記1:「子弟」は甥世代も含まれるようなので、弟の子かもしれない。

 ※追記2:陳恂陳温の上にもう一人長男がいた可能性がある。詳しくは雑記 > 「陳氏家系別バージョン」 > 「陳泰の長男・陳奕の跡継が、陳準の次男・陳匡?」など。

 五等級の爵位制度が置かれた、というのは魏最末期の咸熙元年(264年)5月のことで(「(咸熙元年)夏五月庚申,相國晉王奏復五等爵。陳泰の長男は、父が死去した景元元年(260年、おそらく5月)より後かつ咸熙元年(264年)5月より前に死去したことになるが、子はいなかった。単に偶然いなかっただけかもしれないが、この時点で陳泰の長男はかなり年齢が若かった、つまり陳泰も孫がいるほどの年齢ではなかった……かもしれない。

陳羣の生年を推測・その1:孔融との比較

 父の陳羣も残念ながら生年不明のようである。推測材料としては、孔融の年齢が、陳紀陳羣父子の間だった、というのがある。

魯國孔融高才倨傲,年在紀、羣之間,先與紀友,後與羣交,更爲紀拜,由是顯名。

陳壽撰、裴松之注《三國志 三 魏書〔三〕》(中華書局,1982年) 陳羣傳 p.633

魯国の孔融はすぐれた才能をもち傲慢であった。年輩は陳紀と陳羣の中間であり、先に陳紀の友人となったが、のちに陳羣と知りあうと、あらためて〔陳羣の才能を祝って〕陳紀に対して挨拶した。このことから〔陳羣は〕有名になった。

陳寿、裴松之注、今鷹真訳『正史 三国志 3 魏書Ⅲ』(ちくま学芸文庫、1993年) 陳羣伝 p.467

 前項参照で陳紀は永建四年(129年)生まれ、孔融は『後漢書』によると永興元年(153年)生まれ。 ※「〔建安十三年八月〕壬子,曹操殺太中大夫孔融,夷其族。」(孝獻帝紀)「時年五十六。妻子皆被誅。」(孔融伝)仮に「間」を両者のちょうど真ん中に設定すると、陳羣孔融より24歳年下、177年生まれ・60歳没となる。

陳羣の生年を推測・その2:『世説新語』品藻篇

 『世説新語』品藻篇にはこんな逸話がある。

正始中、人士比論、以五荀方五陳。荀淑方陳寔、荀靖方陳諶、荀爽方陳紀、荀彧方陳羣、荀顗方陳泰。

通釈 正始年間、人物の比較論評に、荀氏五人を陳氏五人になぞらえた。すなわち荀淑を陳寔に、荀靖を陳諶に、荀爽を陳紀に、荀彧を陳群に、荀顗を陳泰になぞらえた。

目加田誠『新釈漢文大系 第77巻 世説新語(中)』(明治書院、1976年) p.633

 荀淑の息子の荀靖荀爽荀緄荀彧の父)の弟にあたり、陳諶は陳紀の弟で、世代関係と生年はこんな感じ。

1荀淑(83年生)陳寔(104年生)
2荀靖(?)荀爽(128年生)陳紀(128〜129年生)陳諶(?)
3荀彧(163年生)陳羣(?)
4荀顗(205年生)陳泰(?)

荀淑:建初8年(83年生)生まれ。 ※「年六十七,建和三年卒。」『後漢書』荀淑伝
荀靖:生年不明? 50歳没。 ※「不仕,年五十而終
荀彧:延熹6年(163年)生まれ。 ※「太祖軍至濡須,彧疾留壽春,以憂薨,時年五十。」等
荀顗:建安10年(205年)生まれ。 ※「太始十年亡、年七十、謚曰康公」陶弘景撰『真誥』卷十六 闡幽微第二
荀爽:永建3年(128年)生まれ。 ※「〔初平元年〕夏五月,司空荀爽薨。」「會病薨,年六十三。」
陳寔:永元16年(104年)生まれ。 ※「中平四年,年八十四,卒于家。」『後漢書』陳寔伝 ※83歳時に死去説もあり
陳紀:永建3〜4年(128〜129年)生まれ。前述
生年「?」の人は不明。荀顗も生年不明かと思ったら、この件について調べている途中に、『真誥』に記述があることを教えていただいた。

 父祖からの順番的な意味での同世代比較と思われるが、荀爽陳紀ではほぼ同年齢。しかし荀淑陳寔は21歳も差がある。

 仮に陳羣が177年生まれなら、荀彧より14歳下で、それだけなら特に不自然ではないが、この場合の陳羣は父が49歳のときの子ということになってしまうので、陳羣が長男と考えるともう少し年長かもしれない。が、荀彧陳羣の妻の父でもあり(荀彧伝注「顗字景倩,幼爲姊夫陳羣所異。(荀顗は字を景倩といい、幼いときに姉の夫の陳羣から、才能を認められた。)」等)、完全に同年代よりは少し差がある方が自然な気も。

 陳泰の発言「世之論者,以泰方於舅(世間の論者は私を舅殿に比べておりますが)」(陳泰伝注等に引く『晋記』。「舅」は母の兄弟の意)からしても、この時代(この発言は「正始年間」より少し後のことだが)、荀顗陳泰は叔父と甥でありつつ同世代として比較されていたようである。

陳羣の生年を推測・その3:『世説新語』徳行篇

 さらに『世説新語』徳行篇には、こんな話がある。

 陳太丘詣荀朗陵、貧儉無僕役。乃使元方將車、季方持杖從後。長文尙小、載著車中。旣至、荀使叔慈應門、慈明行酒、餘六龍下食。文若亦小、坐箸膝前。于時太史奏、眞人東行。

通釈 陳太丘(陳寔)が荀朗陵(荀淑)のもとへ出向いたとき、貧しくて供の者がいなかった。そこで長男の元方(陳紀)に車をやらせ、弟の季方(陳諶)に杖を持って後に従わせた。孫の長文(陳群)はまだ小さかったので車にのせた。到着すると、荀淑は叔慈(荀靖)を門に取り次ぎに出し、慈明(荀爽)に酒をすすめさせ、あとの六龍に給仕をさせた。孫の文若(荀彧)はまだ小さかったので膝もとにすわらせた。このとき、太史が「真人が東方に行きました。」と奏上した。

目加田誠『新釈漢文大系 第76巻 世説新語(上)』(明治書院、1975年) pp.23-24

 この話が具体的な実話とすると、いつのことなのか。陳寔が貧しかったときというので年代が推測できるのかもしれないが、とりあえず保留。陳羣荀彧は同時期にそれなりに幼い子供である。まだ小さいからと車に乗せられる陳羣は、極端な話乳幼児の可能性もあるが、手伝いに割り当てられず膝もとに座らせられる荀彧も、かなり幼そうである。少なくとも、14歳もの差はないのでは。

 訂正:書いてしまってから教えていただいて気付いたが、荀彧が生まれる(163年)よりも前に荀淑は亡くなっており(149年没)、残念ながらこれは実話の可能性がなかった。

陳羣の生年を推測・その4:司馬朗との比較

 荀彧伝の注に引く『平原禰衡伝』には、高慢な禰衡が、許都で名声のあった人物と交流しようとしないことに対して訊ねられた、こんな台詞がある。

或問之曰:「何不從陳長文司馬伯達乎?」

房玄齡等撰《晉書 二 志》(中華書局,1974年) p.311

ある人が彼に質問した、「どうして、陳長文(陳羣)や司馬伯達(司馬朗)のもとへ行かないのかね。」

陳寿、裴松之注、井波律子・今鷹真訳『正史 三国志 2 魏書Ⅱ』(ちくま学芸文庫、1993年) p.242

 強引だが、仮に陳羣がここで並び称された司馬朗(171年生まれ)と同年代としてみると、陳紀(24歳差)孔融(18歳差)陳羣となり、荀彧より8歳下。義父子としては歳が近いが、呉の例でいえば諸葛瑾張承などわずか4歳差で(張承が後妻を娶ったため)義父子になっており、さほど不自然なことではないようだ。荀氏は、陳羣がそれなりの年齢になってから娶った後妻だったりするのだろうか。

陳羣の生年を推測:あれこれ

 が、仮に陳羣が171年に生まれ、陳泰が20歳で官に就いたとすると、今度は陳泰陳羣44〜47歳のときの子となってしまう。陳泰が長男とすると、これはこれで、子が生まれるのが遅すぎるのではないか。こうなると陳泰はもっと年長であったが、官に就いたのが遅かった、という可能性が生じてくる。

 が……個人的に、この推測は望ましくない。陳羣の子たる陳泰には、規範となるようなベーシックなエリートコースを歩んでほしいし、司馬兄弟より年下であってほしい。という、ただのファンの願望である。

 荀彧との年齢差の範囲からすると、娘の氏は、張承の例のように、陳羣がそれなりの年齢になって娶った後妻としたほうが自然。そして、いずれにせよこの氏は、「顗甥陳泰卒,顗代泰為僕射,」(荀顗伝)、「太常陳泰不至,使其舅荀顗召之。」(陳泰伝注『晋紀』)等の記述からして、陳泰の母である。一応、陳泰の生年を上限の214年ということにすると、陳羣には子はいなかったが、壮年になってから氏を娶り、44歳で初めて息子が生まれた。

 なお陳泰荀顗よりもキャリア的には先に昇進しており、荀顗にしてみれば9歳(仮)も下の甥に先んじられるという状況だが、『九品官人法の研究』のいうところの「彼(荀彧)は寧ろ自ら漢臣を以て任じていたために晩年には曹操の嫌疑を蒙って不遇であったと言われる。(中略)魏代の人事は甚だ現金なもので、現在の権勢家には阿るが、過去の人には見向きもしない。」という都合(漢臣云々の是非はともかく)によるものか。もしくは単に、陳泰がおそらく長男なのに対し、荀顗は兄たちが相次いで早世したものの本来は六男であったためかもしれない。

 ……もはや何が何だかわからないレベルに根拠が希薄になってきたが、強引に設定してみた結果、

  • 荀彧陳羣(同世代かつ岳父と婿)の年齢差は8歳
  • 荀顗陳泰(同世代かつ叔父と甥)の年齢差は9歳
  • 陳羣は66歳で死去
  • 陳泰は47歳で死去(不自然死)
  • 孔融陳紀陳羣の間=陳紀より24歳下差で陳羣より18歳上
  • 赤子の陳羣がおじいちゃんと車に乗った頃、9〜10歳の荀彧はおじいちゃんの膝元に座った

 のように諸々の辻褄が回収できる範囲に落ち着いた。

 と、思ったが陳紀が43歳のときに陳羣が生まれており、同様に長男としては遅く生まれすぎだが、かといってこれ以上早く生まれても孔融との年齢差がおかしい。もう、そういうこともあるだろう! と適当に片付けよう。というか、完全に混乱してきたので終了。

結論……ではなく願望

 陳泰の生年は214年あたりで、荀顗より9歳下、司馬師より6歳下、傅嘏より5歳下、司馬昭より3歳下。……だといいよね! 様々に情報を見落としていること必至なので、あっさり覆されるかもしれないが、とりあえずはそういうことで。

公開:2014.02.20 更新:2017.06.01

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