陳泰の評価

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陳寿による評価

評曰:[……]陳羣動仗名義,有淸流雅望;弘濟簡至,允克堂構矣。[……]

陳壽撰、裴松之注《三國志 三 魏書〔三〕》(中華書局,1982年) p.653

陳羣は名誉と道義によって行動し、高潔な人がらで高い声望をもっていた。陳泰は広く世を救いきわめて簡潔、まことによく父業を受けついだ。

陳寿、裴松之注、今鷹真訳『正史 三国志 3 魏書Ⅲ』(ちくま学芸文庫、1993年) p.508

 『三国志』魏書陳羣ちんぐん伝の評価より。「簡」は「つつましい」「志が大きい」といった意味がある。訳では「簡潔」となっているが、「簡潔」には「つつましやかで清潔なこと。」「潔白でやましくないこと。」などの意味もある(『新漢語林』)

司馬昭による評価

司馬文王荀顗曰:「玄伯沈勇能斷,荷方伯之重,救將陷之城,而不求益兵,又希簡上事,必能辦賊故也。都督大將,不當爾邪!」

陳壽撰、裴松之注《三國志 三 魏書〔三〕》(中華書局,1982年) p.641

司馬文王は荀顗に語った、「玄伯(陳泰)は沈着勇武、決断力がある。方伯(地方の刺史)の重任をにない、今にも陥落しそうな城を救援しながら、兵力の増強を要請せず、また簡便な方法で事件の報告をすることを願ったのは、必ず賊を処理できるからである。都督とか大将とかは、このようでなければなるまい。」

陳寿、裴松之注、今鷹真訳『正史 三国志 3 魏書Ⅲ』(ちくま学芸文庫、1993年) p.483

 魏末の政権を掌握していた司馬昭しばしょう(文王)は、陳泰の直属の上官であり親友でもあったが、彼が荀顗じゅんぎ荀彧じゅんいくの子で、陳泰の母方の叔父にあたる)に語った言葉で、姜維きょうい率いる蜀軍に包囲された王経おうけい軍の救援に向かった際の評価。多数意見では姜維の勢いが衰えるのを待ち、味方援軍が集結してから進軍するべきだとされたが、陳泰はそれを退け、強行軍で早急に討つべきだと判断し、成功した。この結果に対して司馬昭は「すみやかに救援に赴いたのは、最上の策にかなっている」とも評している。

武陔による評価

文王問陔曰:「玄伯何如其父司空也?」曰:「通雅博暢,能以天下聲敎爲己任者,不如也;明統簡至,立功立事,過之。」

陳壽撰、裴松之注《三國志 三 魏書〔三〕》(中華書局,1982年) p.641

文王は武陔に訊ねた、「玄伯(陳泰)はその父の司空(陳羣)に比べてどうじゃ。」武陔はいった、「道理に通じて行ない正しく、広くのびやかな性格をもち、天下の風俗教化をもっておのれの任務とすることができるという点では及びません。すぐれた統率力をもちきわめて簡略であり、功績をうち立てる点では父以上です。」

陳寿、裴松之注、今鷹真訳『正史 三国志 3 魏書Ⅲ』(ちくま学芸文庫、1993年) p.484

 陳泰の友人である武陔ぶがいが、司馬昭(文王)に問われて答えた評価。よくある比較評価だが、「立功立事」ではまさっている……どこかで聞いたような評価。そう、吾彦ごげん陸抗を評したのとまったく同じ表現である。「(人望はともかく)お仕事はできますよ」みたいなあれ。といっても、陳泰も充分に「道理に通じて行ない正しい」人物ではあり、陳羣とそれぞれの長所を強調したものだろう。なお「簡」は三国志の評と同じ表現だがこちらは「簡略」と訳されているのは、文脈の違いによるものだろうか。

文帝甚親重之,數與詮論時人。嘗問陳泰孰若其父各稱其所長,以爲略無優劣,帝然之。

房玄齡等撰《晉書 四 傳》(中華書局,1974年) p.1284

 文帝(司馬昭)は彼(武陔)を非常に親愛して重んじ、しばしば〔武陔と〕当代の人々を解釈して論じた。あるとき〔文帝が〕陳泰とその父の陳羣はどちらが〔優れているか〕と尋ね、武陔はそれぞれの優れているところを挙げて、陳羣陳泰にほぼ優劣はないとし、帝はそれをもっともだとした。

 『晋書』武陔伝にも、武陔司馬昭に問われて陳羣陳泰を評する記述がある。このときの評価が、より具体的には上記の内容だったのだろう。

張華による評価(当時の世評)

博物記曰:太丘陳寔子鴻臚子司空四世,於二朝並有重名,而其德漸漸小減。時人爲其語曰:「公慚卿,卿慚長。」

陳壽撰、裴松之注《三國志 三 魏書〔三〕》(中華書局,1982年) p.642

『博物記』を調べるとこういっている。太丘の長陳寔、寔の子の鴻臚陳紀、紀の子の司空陳羣、羣の子の陳泰、以上四大は漢・魏の二王朝においていずれも高い名声を得ていた。しかし彼らの徳は次第に少しずつ減少していった。当時の人はそのためにとりざたした、「公(陳羣・陳泰)は卿(陳紀)に劣り、卿は長(陳寔)に劣る。」

陳寿、裴松之注、今鷹真訳『正史 三国志 3 魏書Ⅲ』(ちくま学芸文庫、1993年) p.486

 陳泰伝の注より。『博物記』は西晋の司空となる張華ちょうかの著書『博物志』のことで、以下のようにある。

太丘長陳寔,寔子鴻臚卿紀,紀子司空群,群子泰,四世於漢、魏二朝有重名,而其德漸小減,故時人為其語曰:“公慚卿,卿慚長。”

『博物志』卷之六 Wikisource

 太丘の長陳寔の子の鴻臚卿の子の司空(=)、の子の、この四世代は、漢・魏の二王朝において高い名声があったが、その徳は次第に減少していった。そのため当時の人はこう談論していた、「公()は卿()に〔対して〕じ、卿は長()に〔対して〕慚じる。」

 「慚」は「慙」の異字体。

【慙】ザン はじる はじ
声符は斬ざん。〔説文〕十下に「媿づるなり」とあり、媿字条十二下に「慙づるなり」とあって互訓。合わせて慙媿という。〔書、仲虺之誥〕に「慙德」の語があり、徳化の及ばぬことを自責する意である。字はまた慚に作る。
1 はじる、はじ。2 正しくない、正しくないことを自責する。

白川静『字通』(平凡社、1996年)

 『正史 三国志』では「〜に劣る」と訳されているが、直訳すると「〜に比して自らの不徳を恥じる(べき状態であった)」という意味か。

 世評では、陳氏四代の徳の高さは、官位の高さとは反対に、徐々に衰えていった。つまり陳泰についていえば、位こそ極めたが徳はなかった、というべき否定的な評価である。

 『博物志』の著者である張華は、この意見に賛同していたために記したのだろうか。張華は、陳泰の生きた時代を実際に知り、かつ西晋の重鎮となった人物である。そこにはただ単に、先祖が偉大すぎた、というだけではない事情も感じるのである。裴松之はいしょうしの注には「『陳氏譜』を調べると、陳羣の子孫の名声官位は衰えてしまっている」ともあるが、具体的には陳泰より後に突然衰えており、追贈とはいえ三公の位にまで上った陳泰の子がほぼ無名のままである(次男の陳温が慎子の爵位を得たが、官位等は不明)。その一方で、陳諶ちんしん陳紀の弟)の子孫は栄えている。これも陳泰が、司馬昭と道を違えてしまったことが暗黙に影響しているのかもしれない。

 訂正:改めて考えると、この想像は辻褄が合わなかった。実際には、陳泰司馬昭と道を違えた事実はないと思われ、少なくとも司馬昭政権からは死後も功臣として評価されていた。子世代は単に早世などで衰退したものか。『博物志』における低評価の理由はよくわからない。要検討。

王羲之による評価

王右軍目陳玄伯、壘塊有正骨。
王右軍、陳玄伯を目すらく、壘塊として正骨有り、と。

通釈 王右軍(王羲之)は陳玄伯(陳泰)を評していった、「ごつごつとして、しゃんとした骨がある。」

目加田誠『新釈漢文大系 第77巻 世説新語(中)』(明治書院、1976年) 賞誉第八 p.598

 書家として有名な東晋の王羲之おうぎしが、陳泰をこう評していた。陳泰とは生きていた時代が違うので、伝聞や書物を読んでの判断だろうが、頑ななまでに潔癖な志を貫いた、一本気な生き方に相応しい賞賛であると思う。

袁宏による評価

玄伯剛簡、大存名體。志在高構、增堂及階。端委虎門、正言彌啓、臨危致命、盡其心禮。
玄伯は剛簡にして、大いに名體を存す、志は高構に在り、堂を增して階に及ぶ。虎門に端委し、正言彌〻啓く。危きに臨んで命を致し、其の心禮を盡くす。

通釈 陳泰は決断力に富み、名教の存立を使命とし、君権を高くし臣下を整えて、武人たちの中に在って威儀を正してふるまい、その正当な発言は途絶えることなく、危難に際して身命を賭して行動し、臣下としての心と礼節とを尽くした。

袁宏「三國名臣序贊」  竹田晃『新釈漢文大系 第83巻 文選(文章篇)中』(明治書院、1998年) pp.624-625

 東晋の袁宏による「三国名臣序賛」より。これも書物を読んでのもので、直接に陳泰を見知っていた人の意見ではない。「その正当な発言は……」云々は、司馬昭賈充かじゅうを処断するよう迫って命を落とした件を指すのだろうか。

 同時代人にはもっぱら実務的な才能を評価されていた陳泰だが、死後、西晋の世においては(その命がけの選択ゆえに?)低い評価を受けていた。しかし、もう少し時代が下ると、潔癖に正を貫いた性格が再評価されることになったようである。

 余談ながらこの「三国名臣序賛」、袁宏の好みによるものか、志を貫こうとしたものの悲劇的理由で挫折した、という人物が妙に多く選ばれているようにも感じる。

陳泰の謚「穆」について

 陳泰は、ぼく侯とおくりなされた。諡「穆」には以下のような意味がある。

布德執義曰穆。故穆穆。
中情見貌曰穆。性公露。

「謚法解」 張守節『史記正義』中央研究院 漢籍電子文獻

 個人サイト「謚号辞典」で解説されていたので引用。

【布徳執義曰穆】
[意味] 徳を広め私せず、義を執ること。
【中情見貌曰穆】
[意味] 心情と行動が一緒であること。
[彙校] 「中」とは心のこと。「情」とは心の動きのこと。「見」は発見の意味。「貌」は身体の挙動のこと。

「謚号辞典」 > 謚号解説

 とにかく不正を黙認できない性格で、良くも悪くもこれと思い立ったら行動に移さずにいられない陳泰には、とても相応しい気がする。……そういう意味ではないかもしれないが。

 ちなみに、魏で他に「穆」の謚を持つ人には、王昶徐邈曹林曹熾曹仁の父)、趙儼甄儼后の兄)などがいる。

公開:2014.02.17 更新:2017.05.31

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