2007.02.23 西陵の戦いにて王戎は何をしたのか

 竹林の七賢の一人、王戎。『世説新語』によれば、「初,羊祜以軍法欲斬王戎,夷甫又忿祜言其必敗,不相貴重…」云々、羊祜は軍法によって王戎を斬ろうとしたことがあり、また夷甫(王衍)が必ず失敗するであろうと語っていたために、王衍は羊祜を重んじなかったという。

 羊祜伝によれば、「歩闡之役,祜以軍法將斬王戎,故戎・衍並憾之,毎言論多毀祜」とかで、歩闡の戦のとき、羊祜が軍法によって王戎を斬ろうとした。このため王戎と王衍は羊祜を恨みに思っており、いつも羊祜の悪口を言っていた。

 ということは、王戎は西陵の戦いに従軍していたのかと思ったが、彼のキャリアは、吏部黄門郎、散騎常侍、河東太守、荊州刺史を歴任した後、豫州刺史・建威将軍として呉討伐に加わり、云々。参考:『晋書』王戎伝訳注(小松英生)

 河東郡というのはかなり北の方の遠いところであり、西陵の戦いに関わるとは思いづらいので、そのあたりに関わっていそうな経歴は荊州刺史。しかし西陵の戦いのときには楊肇が荊州刺史である。残念ながら王戎伝には特に、この事件については書かれていない。まあ都合の悪いことはあまり書かれないからねえ……

 軍法によって斬られかけたということは、何か王戎が軍律違反をしてしまい、上官である羊祜に処断されかけたということだろう。誰でも勝手に配下を処分できるわけではなく、権限が決まっている。たとえば假節というのは違反者を処刑できる権限だそうである。が、いずれにせよ羊祜はこの戦の総司令官なので、直接的に羊祜の配下だったかどうかもわからない。

 上記の注釈によると、王戎が荊州刺史になったのは265年11月より後であるそうだが、272年〜の西陵の戦いのころは39歳と若いし、楊肇よりも後任じゃないだろうか。ともかく楊肇は敗戦の責でクビになってしまったので、王戎になったという可能性もあるが、軍法で斬られかけるようなことをしでかした人物が後任になるというのも不自然。(ほかにこの頃の荊州刺史に誰か居るのかまでは調べていません……

 なんだか王戎は、しょっちゅうあれこれ訴えられてクビになりかけては都合よく(金やコネで)助かっていたようである。若い頃はそれなりに清廉であった(?)彼が、晩年には極度のケチになったというのは、これらの経験により金の重要さを悟ったのだろうか。笑