司馬昭の息子と娘

 司馬昭には、晋の武帝となった司馬炎、その弟の司馬攸をはじめ、全九人の息子および少なくとも一人の娘がいた。

文帝九男,文明王皇后武帝齊獻王城陽哀王遼東悼惠王定國廣漢殤王廣德,其樂安平王燕王、皇子永祚樂平王延祚不知母氏。燕王淸惠亭侯,別有傳。永祚早亡,無傳。

房玄齡等撰《晉書 四 傳》(中華書局,1974年) 文六王傳 p.1130

 文帝(司馬昭)には九人の男子がおり、文明王皇后(王元姫)は武帝(司馬炎)・斉献王の司馬攸・城陽哀王の司馬兆・遼東悼恵王の司馬定国・広漢殤王の司馬広徳を生んだ。楽安平王の司馬鑒・燕王の司馬機・皇子の司馬永祚・楽平王の司馬延祚は母の姓が不明である。燕王の司馬機は清恵亭侯を継いだため、別に伝がある。司馬永祚は早世したため、伝がない。

旣筓,歸于文帝,生武帝遼東悼王定國齊獻王城陽哀王廣漢殤王廣德京兆公主

房玄齡等撰《晉書 四 傳》(中華書局,1974年) 文明王皇后傳 p.950

 〔文明皇后・王元姫は〕やがて成人すると、文帝(司馬昭)に嫁ぎ、武帝(司馬炎)と遼東悼王司馬定国・斉献王司馬攸・城陽哀王司馬兆・広漢殤王司馬広徳京兆公主を生んだ。

姓名諡号など生母生没年備考
司馬??京兆公主王元姫?司馬炎らの姉。甄悳しんとくの妻。
司馬えん安世あんせい武帝王元姫236-290司馬昭の後を継ぐ。晋の武帝。
司馬ゆう大猷たいゆう斉献王王元姫248-283司馬師の後を継ぐ。幼名は桃符とうふ
司馬ちょう千秋せんしゅう城陽哀王王元姫?十歳で死去。
司馬定国ていこく?遼東悼恵王王元姫?三歳で死去。攸・兆の兄の可能性も。
司馬広徳こうとく?広漢殤王王元姫?二歳で死去。
司馬かん大明たいめい楽安平王??-297
司馬太玄たいげん燕王??司馬京の後を継ぐ。司馬京とともに立伝。
司馬永祚えいそ????夭折。伝なし。
司馬延祚えんそ大思たいし楽平王??

 司馬炎司馬広徳までは正室・王元姫(文明皇后。王粛の娘)の子で、他は母が異なる。生年不明が多く、全体の兄弟順も不明。文明王皇后伝の記述では、夭折した司馬定国の方が司馬攸司馬兆より年長で、次男だったともとれる。

 古代のことであり、半数の子が幼くして夭折しているが、幼名と思しき永祚らの「祚」は「天から授かる幸福」といった意味で、幸せに長じることを祈ってつけた名のようなのが悲哀を誘う。

 司馬炎の同母弟のうち唯一成人した司馬攸は、祖父の司馬懿に高く評価され、男子のなかった伯父司馬師の跡継ぎとされた。司馬懿司馬攸四歳の時に死去しているためごく幼少時のことであり、他の例からも、実子がいない場合に甥が跡を継ぐのはごく一般的だったと思われるが、才望ある司馬攸司馬師の後を継いでいたことは、司馬昭司馬炎と続く後継者問題の火種ともなってしまった。

 司馬鑒は、西晋時代に都督豫州軍事・安南将軍となった。

 司馬機は、司馬攸同様に、男子のなかった叔父・司馬京司馬昭の異母弟)の後を継ぎ、西晋が成立した泰始元年(265年)には燕王に封じられた。その後は青州都督・鎮東将軍となりこちらも軍事面を担っている。

 司馬延祚は、司馬炎が「弟早孤(弟のは年少にして父を亡くし)」と言っていることから司馬昭の晩年の子だが、病身だったため魏の時代には封爵されず、司馬炎が帝位について初めて封爵された。厳密な生没年は不明だが、司馬昭の死後十五年以上経った太康年間の初めには存命、その後しばらくして子が無いまま死去したということから、少なくとも十代後半までは生きていたようである。

 娘の京兆公主は、司馬炎の姉であり、魏の明帝曹叡郭皇后の従弟である甄悳しんとく(元の姓は郭だが、文帝曹丕甄皇后の一族となった)の後妻となった(『三国志』文昭甄皇后伝・注に引く『晋諸公賛』)甄悳の前妻は司馬師の娘で、司馬師司馬昭郭皇后との結びつきを強めるための婚姻とされる。詳細な時期は不明だが、司馬師が国政を担う立場となってからなので、曹芳以降の時代である。当時、皇太后となった郭氏が年少の帝に代わり政治的決定権を持っていたため、郭氏と繋がることは特に大きなメリットがあったと思われる。

2016.03.16

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