天候に愛された司馬昭
Twitterで見かけた「晴れ男司馬昭」から連想した話。どうやら「妖怪三国志」のキャラらしい? 「妖怪ウォッチ」シリーズとシミュレーション「三國志」がコラボしたゲーム……とのことだが、そもそもの「妖怪ウォッチ」の知識が皆無なため、完全にただのキーワード連想です。
司馬昭が諸葛誕の乱を鎮圧した際、本来は寿春に毎年降って氾濫を起こすはずの大雨が降らず、包囲陣が雨で崩壊するだろうという諸葛誕の目論見が外れた、ということがあった。
司馬昭率いる魏の官軍は、半年あまりもの間ねばり強く、寿春に籠城する反乱軍(諸葛誕)の包囲を続けていた。
干宝の『晋紀』にいう。それより以前、寿春は毎年大雨によって淮水が溢れ、まちは水びたしになるのがつねであった。そのため、文王が包囲陣を築いたとき、諸葛誕はそれをあざわらって、「あれは攻撃をかけなくても自分から敗れることまちがいなし」といった。大軍の攻撃を受けると、年を越えてひでりが続いた。城が陥落したその日、大雨が降って、包囲のとりではすべて崩れおちた。
陳寿、裴松之注、今鷹真・小南一郎訳『正史 三国志 4 魏書Ⅳ』(ちくま学芸文庫、1993年) p.265
城が陥ちた途端に雨が降ったというのは、果たして偶然のドラマなのだろうか。司馬昭は長らく、城を攻撃しようという配下らの進言を退け続けていたが、諸葛誕はついに最後まで降伏せず、結局は司馬昭が応戦する兵もいなくなった城を攻めて奪回した。
三年春正月壬寅,誕、欽等出攻長圍,諸軍逆擊,走之。初,誕、欽內不相協,及至窮蹙,轉相疑貳。會欽計事與誕忤,誕手刃殺欽。欽子鴦攻誕,不克,踰城降。以爲將軍,封侯,使鴦巡城而呼。帝見城上持弓者不發,謂諸將曰:「可攻矣!」
房玄齡等撰《晉書 一 紀》(中華書局,1974年) 文帝紀 p.35
〔甘露〕三年春正月壬寅の日、諸葛誕・文欽らは出陣して包囲軍を攻めたが、〔包囲している魏の〕諸軍が迎撃し、これを敗走させた。当初から、諸葛誕と文欽は互いに内心では協和していなかったが、困窮してくると、互いに裏切りを疑うようになった。文欽が計画に関して諸葛誕に逆らったことで、諸葛誕は自ら武器をとって文欽を殺した。文欽の子の文鴦は諸葛誕を攻撃しようとしたが、勝てずに、城壁を乗り越えて投降した。〔そこで、魏は〕文鴦を将軍とし、侯に封じ、城を巡って〔投降するよう〕呼びかけさせた。帝(司馬昭)は城壁の上の弓を持った者が射かけてこないのを見ると、諸将に言った、「攻撃してよいぞ!」
籠城軍が内紛を起こして疲弊しきり、確実に勝てると判断したのは大前提だが、司馬昭の側にはなんらか天候を予測する手段があったのではないだろうか。これ以上引き延ばせばついに雨が降ってしまい、包囲が継続できなくなるため実力行使に踏みきった、という裏の理由もあったかもしれない。いずれにせよ、長期間にわたる籠城戦の間、降るはずの雨が降らなかったことは、諸葛誕の計画を狂わせ、司馬昭に味方した。スケールの大きな「晴れ男」である。
司馬昭の「昭」という名には「ひかり」「日が照りかがやいて明るい」といった意味がある。字の「子上」と併せて考えると、晴れた天に太陽が昇り輝くような印象をうける。兄・司馬師の影として育まれた感のある司馬昭の私的な人となりにはあまり似合わない気がするが、魏末の朝臣らが皆心を寄せる存在となった、その立場には相応しいかもしれない。
しかし一方で、雨が司馬昭を救ったこともあった。ときの帝の曹髦が司馬昭を討とうと挙兵して敗死した、例の大事件の折である。
『魏氏春秋』にいう、「帝(曹髦)は大将軍司馬昭を誅殺しようと思い、まず役人に詔して、さらに昭の位を丞相に進め、九錫を加えることにした。その夜、帝は自ら宂従僕射の李昭・黄門従官の焦伯らを引きつれて、陵雲台をおり、自ら武装して兵に武器を授け、この機会に、迎えの使者をつかわし、自ら出陣してこれを伐とうとしたが、たまたま雨が降り中止した。そこで翌日、王経らに会うと、黄素詔をふところから取り出していった、〈これに我慢できたら、我慢のできないことがあろうか。今から、この事を決行しよう。〉そして帝は剣を抜き輦に乗り、殿中に宿衛する倉頭や官僮をひきい、陣太鼓を打ち鳴らして、雲龍門を出ようとした。すると賈充が外から入ってきて、帝の軍隊は敗れて散りぢりになった。帝はなおも吾こそ天子であると叫びながら、剣を手に奮戦すると、あえてせまるものはなかった。賈充は将兵をひきい叱咤すると、騎督の成倅の弟成済は矛をもって進み出、帝は戦って死んだ。その時、激しい雨が降り、雷がとどろいて、あたりは暗くなった。」
目加田誠『新釈漢文大系 第77巻 世説新語(中)』(明治書院、1976年) p.363
追記:※事件に関する『魏氏春秋』の記述は『三国志』魏書高貴郷公紀の注にも引かれるが、こちらは『世説新語』の注に引くもので、多少内容が異なる。
曹髦は当初、司馬昭を夜襲するつもりだったが、雨のため中止した。そして改めて王経らを呼び詔勅を出して誅殺しようとした結果、策がもれ、司馬昭は襲撃に備えて賈充らを配備したので、曹髦は敗れることとなった。
軍勢の差だけを見るなら、奇襲しようとしまいと勝てる気がしないが、それでも曹髦は天子(皇帝)の身である。敢えて返り討ちにした賈充の判断が特異だったわけで、夜に突如として曹髦が攻めてくれば賈充も間に合わず、皆が恐れ憚って手を出せないままに、司馬昭は殺されてしまった! という可能性も高いだろう。
天変地異も徳に左右されるこの時代、再三天候に味方される司馬昭は、いかにも天命を受けるにふさわしいカリスマを備えていたといえよう。……いえてほしい。
公開:2016.04.05 更新:2016.04.20