陳泰の正義のこと

 追記:この日記は、現在の理解・意見と大幅に異なります。この内容は信じないでください。と追記したくなるほど間違っているが、自分用の思考過程として残す。詳しくはコラムページの陳泰コーナーを見てね。

曹髦弑逆事件絡みの逸話における、陳泰の死について改めて考える

 この事件において、陳泰が文字どおり「死ぬほど許せなかった」ポイントはどこなのだろうか。応戦の結果とはいえ、帝を弑逆してしまったという行動についてなのか、それとも王朝を覆すことそのものなのか。仮に曹髦がもっと気弱な人物で、こんな事件など起きず、司馬昭の代で平和的に禅譲ということになっていれば、陳泰としては問題はなかったのか。

 「公は数代にわたってりっぱに補佐し、その功労は天下に並ぶものがありません。ですから私は、公の功績は古人にくびすを接し、名声が後世に伝わるであろうと思っておりました。それなのに、ふいに君主を殺害する事件がもちあがりましたのは、なんと残念なことではありませんか。すぐにも賈充をお斬りになれば、なお自らの明かしを立てることができましょう。」これは『漢晋春秋』バージョンの陳泰の言い分。事件に関して司馬昭の潔白を主張してはいるが、同時に、あくまで魏の臣下としての司馬昭を望んでいる、ととれなくもない。

 あくまでも魏の臣として、後世に残るであろう立派な功績を残す貴方の姿が見たかったのに。そういうことなのか。

 けれどもしも、禅譲という名目の簒奪、それ自体が彼の正義に反するいうことになると、いずれ司馬氏が君臨するであろうことが想像できる世の中で、ここまでずっと司馬氏寄りの立場で居続けることはできなかったのではないか。しかしそれまでの陳泰は、かなり司馬氏寄りの人に見える。司馬懿の時代からずっとである。そして司馬昭兄弟とは、個人としても親しい。世が世なら陳泰は、新帝・司馬昭の寵臣の一人となるべき人物だっただろう。だとするとやはり、帝を殺害する、という点に問題があったのだろうか。私の中で結論が出ていない。

ふまじめな萌え解釈

 ともあれ陳泰は、誠心誠意の進言をした。が、司馬昭は賈充を処刑して天下に詫びるというその案を却下する。そして陳泰はその場を去ると命を絶った。司馬昭のためを思うからこそ賈充を斬れと進言したのに、賈充の方を選ばれてしまい、フラれたショックのあまり自害!……みたいにも見えたわけである。

まじめな萌え解釈

 しかし結局のところ陳泰の死因は、自分の信じる正義が司馬昭に受け入れられなかったことである。逸話によって病死説・自害説の違いはあるが、いずれにせよそのことは陳泰にとって、もはや生きていられないほどの重大事だった。あくまで司馬昭の選択を許せないのなら、彼を断罪するという立場を貫けばよかった。しかし現実には司馬昭を責めるでもなく、それ以上賈充の罪を追求するでもなく、自分が死んでしまった。その根底にある理由として、陳泰は相当司馬昭に思い入れていた、司馬昭が好きだったんだな、と思ったのだ。これは私にとって、単なるカップリング的な曲解というわけでもない。逆に、まじめな解釈としてそう感じたからこそ、創作的解釈としての司馬昭×陳泰という図式に辿り着いたのである。

仮想的な話

 だが、仮に陳泰が文字どおりに魏の忠臣であり、王朝を覆すこと自体を否定していたのだとしたら。日に日に近づいてくる司馬氏の天下は、肯定し難いものである。そこのところに目を瞑って、司馬昭への思いと自らの正義感とのジレンマの中で、ずっと結論を出さずにいた。だが、事件によって目を瞑ることが叶わなくなってしまった。結果として自らが死ぬよりなかったのかもしれない。

 そして司馬昭×陳泰の図は、陳泰の片思いでもある。司馬昭にとって陳泰は、近しい存在ではあり、愛しているかいないかでいえば愛している一方で、唯一特別ではない。そもそも司馬昭は部下の心をつかむのが巧く、人気もある存在で、鍾会をはじめ愛されている部下は枚挙にいとまなく、この事件の結果でいえば、両思いなのは賈充の方。結局、愛の重みがすごく歪な状態。結果として、陳泰にとってはこれは、自分の生を擲つほどの重大事だった、しかし現実には彼ひとりがひっそり時代の狭間に消えていっただけで、司馬昭(および司馬氏)にとっては、さほど大きな傷でもなかった。そんな感じの切なさが生じる。

 ……これでは陳泰ファンとしてあまりに悲しいので。決して大きくはないけれど、いつまでもどこか痛み続ける傷だった、というくらいにしておきたい。しかしいつまでも、といっても、五年ほどの後には司馬昭もこの世を去ってしまうのである。

2011.10.25

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