2011.10.18 陳泰の254年防衛戦メモ(自分用)

追記:こちらは解説でも考察でもない、ただの自分用覚え書きです。解説はコラムページの「姜維の北伐」シリーズを見てね。

 陳泰の関わった対蜀の防衛戦は、249年(総司令官は郭淮)、254年、255年と少なくとも三回はあるようなのだが、254年の戦は陳泰伝ではスルーされている。

254年・北伐防衛戦

 254年6月に、狄道県長の李簡が蜀に密書を送り、姜維らが進攻してくる事件が起きる。このころ、このあたりの軍事トップは車騎将軍・都督雍涼諸軍事の郭淮だったが、郭淮はこの戦の翌年255年1月に亡くなり、元雍州刺史の陳泰が後を継ぐことになる。254年の段階で郭淮は病床にあったのか、征西将軍代理として許昌から司馬昭が派遣される臨時体制での苦しい防衛戦となったようである。

『世語』および『魏氏春秋』はともにいう。この年の秋、姜維が隴右に侵入した。当時、安東将軍司馬文王は許昌を鎮守していたが、姜維征伐に召喚され、都に到着した。

陳寿、裴松之注、今鷹真・井波律子訳『正史 三国志 1』ちくま学芸文庫、1992年 斉王紀の注

ふたたび隴西に出陣したところ、狄道を守備していた県長の李簡が城を挙げて降服した。進攻して襄武を包囲し、魏の将徐質と交戦して、首を斬り敵をうち破ったため、魏軍は敗退した。姜維は勝ちに乗じ、多数の敵兵を降服させ、河関・狄道・臨洮の三県の住民を拉致して帰還した。

陳寿、裴松之注、井波律子訳『正史 三国志 5』ちくま学芸文庫、1993年 姜維伝

蜀將姜維又寇隴右,揚聲欲攻狄道。以帝行征西將軍,次長安。雍州刺史陳泰欲先賊據狄道,帝曰:「姜維攻羌,收其質任,聚穀作邸閣訖,而復轉行至此,正欲了塞外諸羌,爲後年之資耳。若實向狄道,安肯宣露,令外人知? 今揚聲言出,此欲歸也。」維果燒營而去。

房玄齡等撰『晉書 一 紀』中華書局、1974年 文帝紀 P32

  • 隴西=隴西郡
  • 河関=隴西郡河関県
  • 狄道=隴西郡狄道県
  • 臨洮=隴西郡臨洮県

 晋書には一応、姜維が攻めてきた旨はあるが、まるで司馬昭様の明察により何事もなく済んだかのようである。が、実際には三つも城を陥とされ将軍は討ち死にし、と散々なことになっていた?(゜ω゜)

 徐質という人は249年の段階では討蜀護軍であり、鄧艾とともに陳泰の指揮下で戦っている。陳泰の部下ポジション?

 で、晋書によれば、姜維が撤退に際してとった策略に陳泰は騙されかけたが、司馬昭が見抜いて止めた。といっても、そのために姜維が予想外の打撃を受けたわけでもないようだが? ともかくもそれ以上姜維が侵攻してくることはなかった。

 この戦は陳泰にしてみれば、投降者は出るし、城は陥とされるし、部下は戦死するし、策略にひっかかりかけるし、と非常にろくなことがなく、伝で無視されるのもやむを得ないか。

その後

 翌255年の戦では、これまた陳泰の部下らしき王経がまたも姜維に大敗する運びとなるが、このときの王経の動きは、不可抗力だったのだろうか? 王経は、陳泰の軍の到着を待って守備を固めるように命じられていたにもかかわらず、姜維と衝突して大敗している。そして辛うじて残った軍勢で籠城するもそのまま姜維に包囲されて窮地に陥り、事態を知った陳泰は急遽、鄧艾らの意見を蹴っても救援に駆けつけ、結果的にその選択が功を奏して、陥落は免れた。

 254年の徐質も同じような状況だったのだろうか。先行させた(?)部下が思いがけない敗北を喫して窮地に陥るが、そこで陳泰は見事に状況に合わせて行動を修正し、結果としてはギリギリで窮地を救う。結果としてはかっこよくみえるマジック。咄嗟の対応が巧い反面、最初の段階での詰めが甘いところはあるのではないだろうか。とかくよくも悪くも行動の瞬発力が持ち味な陳泰。対して司馬昭は、父譲りの忍耐強さを持つ慎重な人で、長所を生かし合えば、うまく行く。

 しかし、姜維は手強いね(゜ω゜)そしてこの後、真打ち登場とばかりに活躍する鄧艾のおかげで、陳泰はどうも地味キャラのようで……