司馬昭×陳泰、世説新語&漢晋春秋バージョン

 追記:この日記は、現在の理解・意見と大幅に異なります。この内容は信じないでください。と追記したくなるほど間違っているが、自分用の思考過程として残す。詳しくはコラムページの陳泰コーナーを見てね。

 2011.10.13の続き。

 問題のやりとりの世説新語バージョンをチェック。

高貴郷公(曹髦)が亡くなると、朝廷の内外は騒然となった。司馬文王(司馬昭)は侍中の陳泰にたずねた、「どのようにして、この騒ぎを静めたものだろうか。」泰は答えた、「ただ賈充を殺して天下に謝罪するほかありません。」文王は言った、「もっと、それ以下の方法はないだろうか。」泰は答えた、「それ以上の方法があるだけです。それ以下はありません。」

目加田誠『新釈漢文大系 第77巻 世説新語(中)』(明治書院、1976年) 方正第五 pp.361-362

 「但其の上を見るのみ、未だ其の下を見ず」。名言だ。以下は注の部分。

干宝『晋紀』にいう、「高貴郷公が殺されると、司馬文王(司馬昭)は朝臣を呼びよせてその事をはかろうとしたが、太常の陳泰はやってこなかった。その叔父の荀顗に彼を呼んで、出席の可否をたずねさせた。泰はいった、〈世の論者は、私を叔父さんにくらべておりますが、今度の場合、叔父さんは私に及びません。〉子弟や親戚が皆一緒に強要したので、涙を流しながら伺候した。文王は彼を奥の部屋で待ちうけて言った、〈玄伯(陳泰)、君は私をどうしようというのかね。〉泰は答えた、〈賈充を殺して天下に謝罪すべきです。〉文王は言った、〈私のために、もう少し何とか方法を考えてくれ。〉泰は答えた、〈もっときびしい方法があるだけです。それ以下は知りません。〉文王はそこで問うのをやめた。」

『漢晋春秋』にいう、「曹髦が亡くなると、その事を聞いた司馬昭は、わが身を地に投げ出して言った、〈天下の人々は、私を何というであろう。〉そこで百官を呼び、その事をはかった。昭は涙をこぼしながら陳泰にたずねた、〈私はどうしたものであろう。〉泰は答えた、〈公は数代にわたってりっぱに補佐し、その功労は天下に並ぶものがありません。ですから私は、公の功績は古人にくびすを接し、名声が後世に伝わるであろうと思っておりました。それなのに、ふいに君主を殺害する事件がもちあがりましたのは、なんと残念なことではありませんか。すぐにも賈充をお斬りになれば、なお自らの明かしを立てることができましょう。〉昭はいった、「公閭(賈充)は殺すことができない。きみは、さらにほかの計を考えてくれ。〉泰は声を励ましていった。〈考えまするに、ただこれよりきびしい計があるばかりです。ほかに従うべき計はありません。〉そして帰ると自殺した。」

目加田誠『新釈漢文大系 第77巻 世説新語(中)』(明治書院、1976年) 方正第五 pp.361-362

 なんと! 公式に自害説があったのね! 『漢晋春秋』を公式に入れていいかはともかくだが、三国志ジャンル的にはありだろう。しかし、皆この話好きなんだな、一体何パターンあるのよ。

 『漢晋春秋』のは、さらにいろいろドラマチックにしてみましたという感じなのだが、このバージョンの素敵なところは、当初は陳泰がどうにか司馬昭を救ってあげようと画策している感が出ているところだと思う。陳泰にとって、事件そのものは許せないことだったけど、司馬昭をは救いたかった。あくまで、意図せずふりかかった惨事であり、司馬昭には(将来的な簒奪を目論んでいたとしても)ここで帝を弑逆する意図などはなかったのだ。か、どうかはともかく、少なくとも陳泰はそう思いたかった。だがしかし、という……

 ……あの……なんか、フラれたので自殺したように見えなくもないのだが……(゜ω゜)

 司馬昭があくまで賈充処刑を拒んだのは、やはりそれほど賈充は彼にとって必要な人物だったから? 何にせよ、フラれたというか、司馬昭は陳泰ではなく賈充を選んだ、とも言えるよね。


 そのほか排調篇では、以前に書いた司馬昭・鍾会の応報を、司馬師・鍾毓でやっているバージョンがあり、またまた陳泰は司馬師の友達として巻き込まれる。というか、そちらだと具体的なセリフはないまでも、陳泰(とこっちは陳騫ではなく武陔)も一緒に鍾毓をからかった、ということになっている。えーー陳泰はそんな子じゃないもん!笑 毒舌でやり返すキャラには鍾毓よりも鍾会の方が似合うし、ただ居合わせてとばっちりをくらった司馬昭・鍾会バージョンの方が(司馬昭のとりまき感も出るし)当然、私は好みである。

 そもそもこの「排調」ってのが、私にとってはいまひとつ謎の文化。この逸話のように父の諱を使ってからかうなんてのはブラックジョークで済まないイメージがあったのだが、魏晋ではこういうやりとりも、ただの酒の席の内輪ノリって感じなの? もしや、そうと知らない陸機などは真に受けてキレていただけだったり? まあ呉でも驢馬ネタとか色々いじめ紛いのジョークはあるが……


 賞誉篇には、王羲之による陳泰の評価があった。

王右軍目陳玄伯、壘塊有正骨。
王右軍、陳玄伯を目すらく、壘塊として正骨有り、と。

【通釈】王右軍(王羲之)は陳玄伯(陳泰)を評していった、「ごつごつとして、しゃんとした骨がある。」

目加田誠『新釈漢文大系 第77巻 世説新語(中)』(明治書院、1976年) 賞誉第八 p.598

2011.10.18

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