魏晋の美男子はどこまでも色白だった

 『世説新語』の容止編を読んでいると、どうやら魏晋において、色白であることは美形男性の条件として重要だったことがわかる。

何晏の場合

何平叔(何晏)は姿うるわしく、顔はきわめて色が白かった。魏の明帝(曹叡)は彼が白粉をつけているのではないかと疑い、真夏の日に、熱い湯䴵を食べさせた。何晏は食べおわると大汗をかき、朱衣で拭うと顔の色はいよいよ白くかがやいた。

目加田誠『新釈漢文大系 第78巻 世説新語(下)』(明治書院、1978年) 容止第十四 p.762

 化粧をしているのかと疑われるほど色白だった何晏かあんの話。ただしこの逸話は、何晏は実際に白粉をつけていたことが記されているし、そもそも共に育った曹叡そうえいが素顔を知らないはずがない、と注でつっこまれている。しかし、創作だとしてもこんな逸話ができたということは、男性においても色白であることを美しいと見なす文化があったということで、それも、化粧をせずに天然で白いのが素晴らしい、ということなのかと思われる。

王衍の場合

王夷甫(王衍)は容姿端麗、玄談にすぐれていた。いつも白玉の柄の塵尾を持っており、手の色と全く区別がつかなかった。

目加田誠『新釈漢文大系 第78巻 世説新語(下)』(明治書院、1978年) 容止第十四 p.767

 こちらは西晋の王衍おうえんの美貌の表現。白玉と同じほどに白い、というのはさすがに大袈裟に書かれた結果だろうが、その背景に感じるのは、とにかく肌は白ければ白いほど美形なんだ、という極端な感覚である。

杜乂の場合

王右軍(王羲之)は杜弘治(杜乂)を見て感嘆していった。「顔は凝脂のようだし、眼は漆を点じたようだ。これは神仙界の人だ。」当時の人で王長史(王濛)の容姿をほめる者がいた。蔡公(蔡謨)がいった。「惜しいかな、あの人たちは杜弘治を見ていない。」

目加田誠『新釈漢文大系 第78巻 世説新語(下)』(明治書院、1978年) 容止第十四 pp.778-779

 杜乂とがいは、「破竹の勢い」の語源で知られる杜預とよの孫にあたる。これは既に東晋の時代だが、白玉も通り越して「凝脂」に例えられる、病的なまでの白さが美しいとして讃えられている。個人的にはこうした退廃的な美は好みだが、現代の一般的な美形のイメージとは離れるだろう。


 晋の頃には三国時代よりも貴族的な趣味が台頭し、より極端になったのかもしれないが、少なくとも魏の曹叡の時代から、色白=美男子という感覚があった。

 現代日本の感覚では、色の白さを美とするのは女性的な印象もある。しかしこの時代の美形男性には長身やひげの立派さも要求されることから、必ずしも女性的というわけではない。

 これは勝手な推測だが、基本的に武よりも文が上位とされる文化の中で、色が白いということは、戦の陣頭に立って日に焼けるような立場ではない、文官としての風格を示していたのかもしれない。

2007.02.22

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