三国時代の武将は単身赴任だった?

 呉では、地方に駐在する武将は、裏切り防止のために妻子を都に人質として残していく制度になっていた。

 熒惑星(火星)が少年の姿をとり、晋の成立を予言するという、『捜神記』の逸話の冒頭部分より。

呉以草創之國,信不堅固,邊屯守將,皆質其妻子,名曰「保質」。童子少年,以類相與娯嬉遊者,日有十數。[……

【通釈】
 呉は出来たばかりの国であり、信頼関係が堅固でなかった。辺境に駐屯する守将は、皆その妻子を人質とし、「保質」と言われていた。童子や少年で、仲間同士で一緒に遊ぶ者が、日に十数人あった。[……]

先坊幸子・森野繁夫編『干寶 捜神記』(白帝社、2004年) p.326

 この話は『三国志』孫晧伝の注に引かれている。※『正史 三国志』の訳では「保質」が「質保」となっているが、中華書局の『三國志』も「保質」で、誤植かと思われる。

 呉の歴史が浅かったための制度とあるものの、実際には魏にも同様の人質制度があり、これは西晋にも受け継がれていた。上記『干寶 捜神記』の訳注には以下のようにある。

保質人質。『建康實録』に「按呉時、諸將屯戌、竝留任其子、爲立一館、名任子館」(按ずるに呉時、諸將屯戌するに、竝びに其の子を留任し、爲に一館を立て、任子館と名づく)とあり、『北堂書鈔』三七に引く『晉中興書』には「丹子操、任在武昌」(丹の子 操は、任として武昌に在り)とある。また、『晉書』卷三「武帝紀」の泰始元年に「罷部曲將長吏以下質任」(部曲の將、長吏以下 質任を罷む)とある。司馬炎が即位した時、魏の時の制度を改めたというが、このことは、魏にもまた「任子」が有ったということであり、呉に止まらなかった。

先坊幸子・森野繁夫編『干寶 捜神記』(白帝社、2004年) p.326

 部曲将・長吏以下ということは、より上の者、一般に後世に名を知られるような人たちについては適用外だろう。司馬炎は、後の咸寧五年の大赦の際にも「部曲督」以下の人質を免除しており、

夏四月,又孛于女御。大赦,降除部曲督以下質任。

房玄齡等撰《晉書 一 紀》(中華書局,1974年) 武帝紀 p.70

 西晋において人質の制度が改められたというわけではなく、大赦による一時的な免除だと思われる。

 しかし、人質にする妻子がいない、という場合もある。

 魏が蜀を滅ぼした際、討伐の大軍を率いて遠征することになった鍾会しょうかいは、独身だったために都に残していく妻や実子がおらず、裏切るのではないかと疑われていた。

初,文王欲遣,西曹屬邵悌求見曰:「今遣鍾會率十餘萬衆伐,愚謂單身無重任,不若使餘人行。」

陳壽撰、裴松之注《三國志 三 魏書〔三〕》(中華書局,1982年) 鍾會傳 p.793

最初、文王が鍾会を蜀討伐に派遣しようとしたとき、西曹属の邵悌がめどおりを願って意見を述べた、「今、鍾会に十余万の軍勢を指揮させて蜀討伐に派遣されるとのことですが、鍾会はひとり身ですから〔制度上、都に置いてある〕人質を大事にしないだろうと、私は考えます。別の人間を行かせるほうがよいと思いますが。」

陳寿、裴松之注、今鷹真・小南一郎訳『正史 三国志 4 魏書Ⅳ』(ちくま学芸文庫、1993年) p.308

 最後には実際に反旗を翻すことになる鍾会だが、国には養育していた三人の甥(兄・鍾毓しょういくの子か)が残っていた。四十歳独身にして三人の甥を育てているという、当時としては不思議な家庭環境の鍾会だが、この甥たちを妻子の代わりに人質としていたのかもしれない。しかし、この甥は司馬昭(文王)の判断によって(一説には、鍾毓が事前に鍾会について司馬昭に忠告していたために)長男を除いては助命されることになった。

 では、都勤務の人たちは常に家族とともに生活できたのかというと、必ずしもそうではなく、当時の官吏は官舎に住み込みで働いていた。詳しくは「官舎住まいと休日」で。

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