官舎住まいと休日

平日は官舎に住み込む

 古代中国の官吏には五日ごとに一日の休暇があったが、勤務日は官舎に住み込んでいた。

洗沐は休沐ともいって、髪を洗う名目で役所から出て、一日休息することである。昔の官吏は、いったん役所に入ると、昼夜その中で寝食して、五日目の洗沐に始めて外出したのである。招客や訪友、遊戯などもみなこの日に行なっていて、後世の官吏が、毎日仕事のすみ次第に帰宅する風習とは違っている。

尚秉和、秋田成明編訳『東洋文庫 151 中国社会風俗史』(平凡社、1969年) p.284

 洗沐(休沐)の風習は『史記』『漢書』などに出てくるが、唐の時代もまだ続いていたということで、三国時代の官吏もやはり役所に住み込みで働いており、中には下役にこの休暇を与えずに酷使して告発されるような者もいた。これ以外に、冬至・夏至などの公休日もあったが、ときには休日勤務するケースもあったようである。漢の時代には、豊かな者は金銭で休暇を買うこともあった。

 『世説新語』賞誉篇によれば、西晋に仕えた陸機陸雲は、官舎内の家に隣同士で住んでいた。

蔡司徒在洛。見陸機兄弟、住參佐廨中,三閒瓦屋。士龍住東頭、士衡住西頭。士龍爲人、文弱可愛。士衡長七尺餘,聲作鍾聲,言多慷慨。

通釈 蔡司徒(蔡謨)は洛陽にいたとき、陸機兄弟が、属僚官舎の中の三間の瓦ぶきの家に住んでいるのを訪ねた。士龍(陸雲)は東側に、士衡(陸機)は西側に住んでいた。士龍は人となり文雅風流で親しみやすく、士衡は身のたけ七尺あまり、声は鐘のようで、その言葉には慷慨の気が満ちていた。

目加田誠『新釈漢文大系 第77巻 世説新語(中)』(明治書院、1976年) 賞誉第八 p.555

 「廨」は役所、官庁の意。二人の家が東西に並び立っていたのかもしれないが、一軒の「三間の瓦ぶきの家」を兄弟でシェアしていたというようにも読める気がする。いずれにせよ、それなりの官職を得ていても、官舎の住まいは意外に質素なようである。

 一方こちらは方正篇より。

周伯仁爲吏部尙書、在省內夜疾危急。時刁玄亮爲尙書令、營救備親好之至。良久小損。明旦報仲智、仲智狼狽來。始入戶、刁下牀對之大泣、說伯仁昨危急之狀。仲智手批之、刁爲辟易於戶側。旣前、都不問病、直云、君在中朝、與和長輿齊名。那與佞人刁協有情。逕便出。

通釈 周伯仁(周顗)が吏部尚書であったとき、夜役所で病気にかかり危篤におちいった。当時、刁玄亮(刁協)は尚書令であったが、心をつくして看病した。しばらくしてやや持ち直した。翌朝、弟の仲智(周嵩)に知らせると、仲智はあわてふためいてやって来た。部屋に入るやいなや、刁は牀からおりて仲智に向かって大声で泣きながら、伯仁が昨夜危篤であった様子を語った。仲智は刁をなぐりつけ、そのため刁はたじろいで戸口まで退いた。仲智は部屋に入って、病気のことなどまるで聞きもせず、ただ「あなたは西晋の朝廷にあって和長輿(和嶠)とならび称せられていたのに、どうしておべっかつかいの刁協などと親しくするのですか。」と言って、さっさと出ていった。

目加田誠『新釈漢文大系 第77巻 世説新語(中)』(明治書院、1976年) 方正第八 p.393

 さらに時代を下って東晋時代だが、佞人に看病されて命を取り留めたとして周顗を非難する弟・周嵩の剛直さを物語る話。内容のつっこみどころはさておき、尚書令のようなトップクラスの官僚であってもやはり官舎住まいだった。さらには急病の部下を自ら看病したりと、意外にアットホームな調子。

 とはいえ、夜まで庁舎で仕事、中には多忙すぎて休暇がとれない人、公休日に自主出勤する人もいるなど、あまり優雅な暮らしともいかないようである。

漢代の官舎

 漢の時代の内容だが、長安城では、こうした官吏の住まいは特定の位置に整然と集められていたわけではなく、それぞれの役所の周辺に建てられていた。こうした官舎には妻子とともに住むことができた。しかし、宮中に務める官吏の場合は、妻子とも離れて単独で住み込み、休日に外出できるだけであった。

 よく知られていることだが、漢代の官吏は原則として勤務先の役所の周囲に設けられた官舎に、多くは妻子とともに住んでいた。雲夢秦簡によれば、役所の倉庫の周囲には火の用心のため、官吏の舎を建ててはならないとされている(内史雑律)。官舎は倉庫などと同様、役所の付属施設として同じ敷地に適宜建てられたと見られる。規模は様々だとしても、これも官衙の敷地内にある「壖地」利用のーつと考えてよい。つまり漢代の官吏は事実上役所に住み込んでいたのであり、長安の街路に役人の通勤風景はなかった。
 しかし未央宮内の役所では、事情は少し異なる。宦官や官女ならばもとより宮中に住み込みになるが、士人の下級官吏の場合、宮内への出入りが厳重に取り締まられ、通行資格も制限されているから、妻子とともに役所に住み込むことはできない。それで未央宮の外側には、御史大夫府の吏舎「百余区」をはじめ、宮中諸官庁に属する多数の官吏の舎が設けられていた。その大きさや設備は、官吏の役職や階級によって多少の違いがあったようである。宮中諸官庁の属僚たちは、当直の時以外、勤務が終わるとこのような宮外の官舎に引き上げたわけである。このような官舎の候補地として、未央宮の外周と街路、城壁との間にある、幅八〇メートルほどの帯状の空間が注目される。
 一方エリート候補生である郎官たちは、「宿衛の官」として天子の護衛などにあたるから、各自の持ち場に「直宿の止る所」として設けられた「廬」に寝泊まりしていた。もちろん妻子を帯同することはなく、洗沐の休日に外出が許可されるだけである。[……]

佐原康夫『汲古叢書 31 漢代都市機構の研究』(汲古書院、2002年) pp.76-77

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