カップリング考察(のはずが違う話になった)

孫策と周瑜

 というのも、先日オフライン友人に「周瑜と孫策なら周瑜×孫策」という話をふられたのだ。だが私にとって「×」とはタチかネコかいうことではなく、精神的な能動と受動、あるいは支配と被支配(社会的支配関係とは無関係)を指す。……という前提での、それがどちらともつかない関係、が一番好きだったりする。……が、まあ、私も孫策は受けだと思います!

 ほんとは私は、断金コンビは周瑜孫策の片思いがいいんだ。某水魚の交わりとは違って(魚には水が必要だが、水に魚は必ずしも必要ではない)、孫策のほうでも周瑜を実際に必要としてはいるのだが、孫策という人はそんなことには一向に気が付かないまま、自分個人の生涯を駆け抜けてしまう。周瑜はもう少しリアリストなので、ああこの人は私にとって特別な存在だ、という最低限の自覚はある。けれども、死んでしまえばもう彼のことは忘れたふりで、胸の奥底にしまって、孤独に天下を目指すのである。

 正直、某小説のように、周瑜にあまり孫策孫策孫策と言われるとイヤなの。特に死後は、この二人が好きだからこそ、イヤなのだ。ただときおりふと思い出し、いかに孫策が重要な存在であったかを思い知るだけでいい。ってことで、やはり北方三国志くらいのドライさが好み。北方三国志の周瑜は、生前は孫策と微笑ましい仲の良さだけれども微妙に片思いであり、そして死後はくよくよはしてないと思うの。

陸遜

 陸遜の話もしてみよう。

 北方三国志でいえば、陸遜といえば淩統しかあり得ない。むしろ君、他に友達いないだろって勢いで。このふたりはむしろ仲良すぎ。本来私はもっと救いがない関係が好みだけれど、こういうかわいいのもいいのよ。そしてまさに攻か受かなんてどちらともつかない……いや、どちらも受だから進展しないみたいな。笑 仲良すぎなんだけれど、決して以心伝心ではない、そのデコボコ具合がかわいくて好き。淩統が天然すぎて意思の伝達がうまくいっていない、というのが一番の原因な気がするが、陸遜の言い方も悪いんだきっと。ただ細かいところでは伝達がうまくいっていないけど、わりと普通に愛は双方向だし、大きな夢は感覚で共有している、だから一緒にやっていけるんだね。うーんなんかこの人達は「萌え」というよりは「微笑ましくてかわいい」んだよね。作中では描かれないまま終わるが、いつかは道を違えてしまったりするのかな。実年齢はさておき「青春」という雰囲気の二人なので、むしろ、そうであってほしい。

 で、『三国志』の陸遜としてならば、むしろ私が心惹かれる陸遜のカップリング(?)相手は孫権である。大いに「?」の付く、決して心から愛し合っているわけではない、因縁の依存関係。一見すると信頼し合っているが、むしろ心の底では憎悪しあっている主従関係。でも、その憎悪の中にはきっと愛もあったのだ。そしてその愛は特に晩年は、陸遜から孫権への方向性が強い、片思いに近いものだといい。愛というよりも、もう逃れられなくなってしまった無意識の忠誠の糸のようなもの。だからきっと本当は、殺されてもいい。公人としての無念はあれども、私人としての恨みはなかった。そういう関係がいいな。


 世間では陸遜って、呂蒙とセットにされることが多いみたい。吉川三国志ではお医者さんごっこしてるし仲良いね。が、北方三国志の陸遜は呂蒙と仲悪そうで。陸遜はドライで敵に容赦ないので、いいひとな呂蒙さんにとっては怖いようで。基本的に人格疑われてるよねー。後は任せてくれみたいに言われても呂蒙さんは内心「俺は必要ないから引退しろと言ってるのか」みたいに被害妄想。ぜったい仲悪い!(良い意味で書いています!)

 そして淩統は甘寧と組み合わせられがち。北方三国志の淩統と甘寧は、生涯宿敵。宿敵といっても勝手に淩統が恨んでるだけな気がするが。淩統と甘寧が仲良くなったのは演義の創作のようなので、自称史実派な北方先生はとりいれなかったのであろう。最後に甘寧を認める台詞があるが、それは自分の中で割り切れた、というだけな気がする。私としては、生涯宿敵でも別に良いかな。淩統の性格的に、非常にそこは譲れないところだと思えるので、和解できそうにないのだ。

 宴の席で剣舞とみせかけて甘寧を刺し殺そうと試みる淩統とか、かわいいよ。とにかく呉の宴会は命がけサバイバル! 孫晧の宴などは相当悪質だが、それ以外の時代にも宴の席で殺される人・殺されかける人は枚挙に暇ない。孫権は、私の酒に酔った勢いの命令は無効だ! 宣言を発令。この人の美徳は、反省できるところ。ただし、今更反省しても遅すぎるよ! っていう反省がありすぎる。話が逸れたが、淩統と甘寧の緊迫感をみて、やばい、と感じた呂蒙、剣舞は得意です! とふたりの間に割って入り、身をもって制止する。相変わらずいいひと。淩統もいい子ではあるが、父上のことでキレると真剣に怖い。やはり時代・文化的に、父というものは極端に特別な存在なのだろう。

陸抗

 ……カップリング考察じゃなくなってきた。軌道修正しつつ、陸抗の話。

 陸抗といえばセットにされがちなのは羊祜だろう。宿敵同士かつ友人。しかし彼らは、直接会ってはいないと思う。っていうかそんな、つきあってたりしたら内通してると疑われても申し開きできませんよ! 私としてはカップリングとは恋愛パートナーの意ではないので、そのあたりは問題ないが、しかし交流したとしても文通止まりだろう。

 このふたりは「策略だか本音だかお互いに自分でもわからなくなっている、微妙な愛情」に一票。まあ陸抗の立場からすると、もう自国がどうしようもない状況であり、まともな(佞臣でない)人もどんどんいなくなっていく、みたいな孤独な状況下において、こんな高潔で清らか(そう)な人に優しくされてしまえば、敵でもどこか心惹かれるよね。

 しかし。羊祜もさることながら、孫晧(病んだ暴君だが、最後まで身を仕えた)だとか歩闡(重臣だったが晋に寝返ったので討ち滅ぼした)だとかのほうが、カップリング相手としてはより救いがなくて、物語的にはよろしいのではないだろうか。歩闡はマイナーだが同世代(≠同年代)だし、歩騭の息子じゃなければ普通に仲良くできそうな貴重な人員なのに。孫権後継者問題において步騭は陸遜とは対抗派閥であり、まさにこの問題のせいで父を失った息子の身としては、微妙に悪感情を引きずったりしてはいないんだろうか、どうだろうか。しかし歩闡の人となりがあまりに不明なため、ちょっと苦しい。

 孫晧に関しては、陸抗の第一印象が、とにかく死の間際まで延々と懇切丁寧に具体的に呉を守る対処法を述べており、なぜそこまでして暴君に尽くすのか? というものだったせいか、たとえ暴君であろうとも、彼にとってはとにかく命をかけて守り抜きたい国そのもの象徴だったのかな、と。孫権と陸遜ならどちらかといえば孫権×陸遜のような気もするが、孫晧と陸抗なら陸抗×孫晧だろう。しかしいずれも恋愛ではないし、執着も片思いか両片思い止まりで、決して結ばれることはない。こうしてみると私は、臣下から君主へ、の片思いが好きな傾向にあるのかもしれない。

2006.11.07