「軍師連盟」最終回、司馬懿の結末の感想

 中国ドラマ「三国志〜司馬懿 軍師連盟〜」最終回のこと。この名作の、名最終回に出会って数年。何度目かの鑑賞でようやく書けました……

目次

首陽山に眠りたい司馬懿の理由

 二部併せて全86話という長編の最終回は、「刀」を手に決起したあの日の赤い衣で参内する司馬懿で始まる。

 曹芳に死後のことを託し、首陽山の曹丕の陵墓の側に葬ってほしいと願い出る。詳細はコラム「『虎嘯龍吟』に登場する古典 ⑨」に書いたが、これは歴史上の司馬懿が実際に残した遺言に基づいている。

 既に遠い過去となったが、主君であり恋人であった曹叡の陵墓の麓に葬られて永遠に仕えることを願った辟邪の最後の姿も思い出される。終盤、ある意味「闇堕ち」したともいえる司馬懿は、それでも曹丕への忠を忘れていなかった。そんな感動の場面であるのだが……

 私はむしろ、これは司馬懿の「欲望」の最果てにある、「あの頃の初心の自分」への回帰願望の表れのようにも思った。位人臣を極めた司馬懿が、朝服も冠も纏わず平服で葬ってほしい、というのは本来、君子としての謙虚な姿勢を示すのだろうが、魏王朝の権臣・司馬懿という姿を捨て去り、あの頃の曹丕の師友・司馬懿に戻って永遠の眠りにつきたい、という望みにも見えてくる。司馬懿の心にあるのは、魏の文帝曹丕への忠というより、在りし日の曹家の公子曹丕とともにあった自分自身の初心の姿かもしれない。

 前回の参内に引き続き、ぼんやりと皇帝の階段を下りかけて、途中ではたと気付いたように立ち止まる司馬懿。もしもこの階段を下りてしまえば、司馬懿の初心は本当に失われていたのかもしれない。苦々しい顔でしばらく佇んだ後、横に避け、臣の道に戻っていく。久しぶりのあの片眉を上げる表情は、自嘲か安堵か、やはり私の場所はここだな、との思いに見えた。そのまま衣を引き摺り去っていくが、神妙な朝議の場で異彩を放つ赤もまた、決起の日の「刀」を、前話で司馬昭に語った欲望や野心といった不純物を、手放しきれていないことの象徴かもしれない。

 ……それはそれとして、婚礼衣装で曹丕ちゃんに公開プロポーズしたようにも見えましたけど……。(司馬懿曹丕のship的に「首陽山に眠る」は押しかけ冥婚です)

 魏こそが司馬懿との証だと語った曹丕。一方、おそらく近い将来に自ら守り抜いた「司馬家」による「簒奪」が行われることも予期しているであろう司馬懿。二人の絆は嘘ではなかったが、それでも君臣としての双方の思い入れにはどこか温度差があり、曹丕の壮大な片思いのような気もしていた。だが、改めて思えば、曹丕が最期に見た幻の司馬懿は、月旦評の舞台で出会ったあの頃の書生の姿をしていたのだ。歴史上の彼と同じく「滅びない国はない」という諦念した思想の持ち主である曹丕は、実のところ「魏臣たる司馬懿」に執着はなく、首陽山に眠るその魂は、「平服で」傍へと帰ってきたあの頃の初心の司馬懿を受け容れるのかもしれない。

司馬懿の「心猿意馬」と侯吉の殺意

 こうして司馬懿は朝廷を去ったが、(精神的に)閑散とした司馬家にて、侯吉が「心猿意马汤(心猿意馬のスープ)」を作ってくるという事件が起きる。

 司馬懿は若き日に河辺で亀を広い、「心猿意馬しんえんいば」という奇妙な名を付けてペットにした。「心猿意馬」または「意馬心猿」とは、仏教用語で以下のような意味がある。

意馬心猿(イバシンエン)
煩悩ボンノウのために情が動いておさえ難いことを、走る馬・さわぐ猿にたとえた語。煩悩のために心が狂いさわぐ意。心猿意馬。

『新漢語林(第二版)』(大修館書店、2011年)

 四字熟語としては順序が逆の「意馬心猿」の方がより一般的なようだが、「司馬」の「馬」も暗示する名となっている。また日本語字幕版では名が「意馬」のみだが、意味はほぼ同じ。

 物語とともに成長していく亀の心猿意馬は、膨れ上がる司馬懿の煩悩の象徴のように、随所で印象的に映し出されていた。「『軍師連盟』の司馬昭 - 司馬懿の心が生んだ魔物」では息子司馬昭を心の闇の擬人化と捉えてみたが、ペットの心猿意馬もまた司馬懿の抑圧してきた欲望が形になったような存在だった。

 さて、愛亀を殺されスープにされた司馬懿は絶叫し、激怒して瀕死の老人とは思えない身のこなしで剣を抜き、侯吉に殺してやると斬りかかる。慈悲はないのかと責められた侯吉は、涙ながらに反論、司馬懿の過去の無慈悲な所業を糾弾し、そして指摘する。

还说刀不在你手里
你看看
你手里
拿的是什么

“刀は手を離れた”と
言いながら
ご覧なさい
その手に
何を持っているのですか

 「刀はもはや私の手を離れた」という理由で小沅の仇討ちを反故にされた侯吉による、痛烈な一言。手放したつもりのどす黒いものが、依然として自分の内に残っている。司馬懿ははっとして、反省したように武器を捨てる……と思いきや一転、引き続き殺してやると「素手で」襲いかかるという、一見これまで随所に挟まれてきたブラックジョーク的なコメディパートの調子を引き継ぐように、老主従の命がけの乱闘は続く。そこにふと、歩み来る亀の姿が……

 心優しい侯吉は、愛亀の心猿意馬を殺せなかったのだ。前話の最後にて、司馬懿の選択に絶望しながら、それでもなお司馬家を去ろうとはしなかった侯吉。「心猿意馬スープ」の嘘は、単に復讐や抗議のための嫌がらせではなかったはずだ。「司馬懿の心の心猿意馬」を殺したい。それが「若様」を親愛する侯吉の本心であったと思う。

 侯吉は、司馬家の二公子であった司馬懿がやがて当主となり、魏の権臣となり、白髪の老人となっても、最後まで「若様」(原語「公子」)と呼び続けるのだ。いつしか「司馬家」が変貌し巨大な怪物となっても、なお侯吉だけは「あの頃の若様」たる司馬懿の傍らに在り続けてくれたのかもしれない。

歴史の大河に放たれたもの

 翌日、侯吉は亡き小沅との結婚式を挙げる。張春華の位牌と「二人きり」で参列した司馬懿は、進行役として侯吉に顎で使われる。主従を超えた友として生きた老人二人の切ない一時が、たっぷりと尺を使い、毒のある笑いを挟みながら描かれるのはサブカル映画さながらで、少々冗長という意見もあるが、これもこの作品の奥行きだろう。(※追記:2022年のBS放送では残念ながら一部カットがあったとのこと)

 そして司馬懿は、心猿意馬を河に放しに行くことを決意する。

 道中、侯吉も静かに逝き、いよいよ一人になった司馬懿は、自ら馬車を御して河辺に辿り着き、心猿意馬を抱えながら呟く。

依依东望
是人心

東を眺めやるは
人の心なり

 諸葛亮と対峙した頃から登場したキーワード「依依東望」。かつて五丈原の夢の中で(64話=「虎嘯龍吟」22話)、諸葛亮に「眺めやる」ものは何なのかと尋ねたが、答えが得られないままであった。(答えの変わりに無言で胸座を掴まれる、という奇怪な夢がヒントだったのかも。目覚めていれば掴んでいたのは張春華だったが)ここでの、ついに悟ったような呟きは、どういう意味なのか?(私の理解力が足りず、かみ砕けていない部分……

 ずっと自分の煩悩を抑圧して生きてきた司馬懿。しかし自分が頑なに否定し拒絶してきた「心猿意馬」もまた「人の心」に在るものなのだと、清濁併せ呑む形で認め、受け入れ、その上で解放することにしたのだろうか……

 そして司馬懿は、大きく育った愛亀・心猿意馬を河に放す。

去吧
我的心猿意马

さあ 行け
我が心 意馬いば

 原文「我的心猿意马(私の心猿意馬)」は亀の名と、心の煩悩の「心猿意馬」を掛けている。日本語で「我が意馬」だけでは伝わりにくいため、このような訳となったのだろう。

 葛藤の末に葬り去れなかったものを、(その存在を否定することをやめ、初めて肯定した上で?)今度こそ手放した。司馬懿が手放した心猿意馬は、河を東へと泳いでいくだろう。司馬師司馬昭が「刀」を受け継いだのと同じく、決してそれは消えてなくなったわけはない。万年生きるとされる亀は、司馬懿が見ることのない次の世を見、ときに新しい誰かの「心猿意馬」ともなり、歴史という大河をどこまでも泳いでいくのかもしれない。

終わりに、清らかな白の世界

 心猿意馬を放した司馬懿は、霧深い早朝の河辺でひとり「五禽戯」を舞う。友らとの思い出の走馬燈はどんどん時代を遡っていく。あの日の赤とは対照的な白い衣は、漂白されゆく心の象徴のようである。

 遠くから駆けつける息子たちの気配に振り返ることも最早なく、孤独に、静かに世を去る司馬懿……。その姿に「三国帰晋」に至るナレーションが短く重なり、あの日、長い道を歩き出した若き司馬懿が振り返る。その先の司馬氏の歴史を思ってみても、決して明るいエンディングではない。だが、物語終盤の展開の凄惨な後味すら洗い流されてゆくような、寂寞としつつも清らかな結末であった。

 これは勝手な想像だが、撮影されていた未来の場面(中国での公開前の予告篇などで部分的に見られる)はナレーションの内容と対応しており、映像が流れる案もあったのかもしれない。別途見てみたかった気持ちはあるが、しかし私はただ司馬懿の後ろ姿だけを映し、その先は視聴者の想像に委ねたこの演出がとても美しく、素晴らしいと思う。

2022.08.11

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