「軍師連盟」の司馬昭 - 司馬懿の心が生んだ魔物

 中国ドラマ「三国志〜司馬懿 軍師連盟〜」の司馬昭の、特に終盤の言動について、歴史上の(および作中の)司馬昭ファンの願望を込めた感想です。 ※ドラマのネタバレを含みます。

目次

司馬昭誕生の思い出

 司馬懿の半生を描く大河ドラマ的な「軍師連盟」シリーズは、司馬家に次男の司馬昭が誕生するところから始まる。(ちなみに董承のクーデター直前なので、歴史上より早く生まれている)これが、実は最終話一つ手前「虎嘯龍吟」43話(日本版では「軍師連盟」85話)に至る重要な伏線となっていた。

 年老いた司馬懿が、様々な出来事を経て、ついに我が子である司馬昭を殺すことを決意。自室に呼び出して向かい合い、難産で生まれた日の思い出を語り始める。

华神医来了
我跟华神医说
我不要孩子
我要你娘

神医の華佗かだが来て
私は華佗かだ
“子供は諦める”と言った
春華しゅんかが大事だと

 母子ともに危険な状態を見た神医・華佗は、麻沸散(麻酔薬)を飲ませ腹を割いて赤子を取り出すと言う。今でいう帝王切開だが、三世紀の人間である司馬懿は仰天して止めようとした。日本語字幕では幾らかマイルドな気もするが、実際に第1話で「赤子は要らない、春華が必要だ」という旨の発言をしている。幸い華佗の神技によって母子ともに命を取り留めたものの、司馬昭はこの世に生を受けようとするその時に、既に一度父である司馬懿に見捨てられかけた、殺されかけたともいえる。

 結果、無事に生まれた子を見て、若き日の司馬懿は家族とともに平穏に暮らせればそれで良いと願った。しかし乱世はそれを許さず、波乱に満ちた物語が始まっていく。

司馬懿の心の闇としての司馬昭

 やがて曹家に仕えた司馬懿は、その才ゆえに歴代の主君に重用されながら同時に警戒され、常に政敵に恨まれながらも、慎重に司馬家の安全を守ろうとしてきた。敵ながら敬愛した諸葛亮が自ら力を振るい志を貫く様を密かに羨みつつも、甲羅に首を竦める亀のように、「鷹視狼顧ようしろうこの相」といわれる素顔を隠して生き延びようとした。だがその生き方は皮肉にも、司馬懿から大切なものを次々と奪い続ける。

 成長した司馬昭は、父が慎重に秘めた思いをズバリと言い当て、ときに内心で考えながらも捨てた選択肢を勝手に実行してしまう役回りを担っていた。ドラマは『三国志演義』の有名な心理戦「空城の計」を斬新な演出で描くが、そこでいよいよ司馬懿自身もそのことを悟る。司馬昭の動きを叱責し、ときに心を鬼にして処罰してきたのは、自分自身の心の暴走を諫めるようでもあった。

 そんな司馬懿自身も、所謂「高平陵の変」を境に変わっていった。挙兵前夜、司馬懿が剣を抜き、恐ろしい形相で柏霊筠に宣言する名場面。

我做了一辈子
别人的手中刀
这一次
我是
执刀人

これまでの人生において
私は他人の手中の刀だった
こたびは
私が
刀を振るう番だ

 忍び続けた末の決起は、長らく奪われ、抑えつけられてきた自身の尊厳を取り戻す戦いでもあったと思う。しかし、曹爽を討った後も司馬懿は止まらない。次第に、冷酷な一面を露わにして権力を振りかざし、反対者を一蹴するようになる。

 だがこの変貌は、単に邪悪な人間が本心を隠していたというわけではないだろう。家族を愛した姿も、曹丕の師友となり魏の建国に奔走した姿も、夏侯徽殺害を(おそらく当初から)知りつつ黙認した姿も、王淩を見下し幼帝曹芳を侮って老醜も露わに柏霊筠を罵った姿も、すべて司馬懿という一人の人間の奥底に当初から変わらず共存していた要素であるように思う。

 それでも司馬懿は、帝位簒奪の意思は見せない。ここは歴史上の司馬懿同様に解釈が分かれるようだが、少なくとも本人の自覚としてはないと私は感じた。曹丕はときに司馬懿を疑いながらも、魏の存在は司馬懿と朕との証だと最後に語り、阿翁こと施淳を通して司馬懿もそれを聞いている。どんなに様変わりしようと、自分が陳羣ら仲間とともに曹丕を支え築いた魏への愛着は捨てきれないのではないか。

 一方で司馬昭にとっての曹氏一族は常に「司馬家の安全」を脅かしてきた存在でしかなく、曹叡の時代から既に、皇帝が暗君ならば司馬懿が取って代わるべきという思想を持っていた。そんな司馬昭はいつしか司馬懿の制御下を完全に外れたかのように、来たるべき「司馬家の天下」の妨げとなる者を敵味方問わず冷酷に抹殺していくようになる。

 我が子を討つ決意をした夜、廊下ですれ違う司馬懿司馬昭。現実の光景なのか心象風景なのか、司馬懿は無言で自分の心の鏡のような司馬昭と対峙する。

 翌朝、呼び出した司馬昭に生まれた日の話を聞かせた後、司馬懿はこう語りはじめる。

我这一辈子
都在与欲望作对
可没想到
我拼命压下的欲望
报应在我儿子身上

私は生涯にわたり
欲望と戦ってきた
しかし誤算だった
私が抑えつけた欲望は
宿主を息子に変えたのだ

 私にはむしろ、司馬昭はそもそも司馬懿の闇の一面を担う存在として誕生したように思える。司馬懿の心の闇の擬人化。実際には一人の生身の人間でありながら、どこか実態のない象徴的な存在……。それは一見、歴史上の司馬昭とは全く異なる性格に描かれるこのキャラクターを、私が「司馬昭らしい!」「根底では解釈一致!」と感じる理由の一つである。

 第一話冒頭の司馬懿が、図らずも生まれてしまう前に葬り去ろうとしたのは、自分自身の「欲望」の嬰児だったのではないか。やがて制御できないほど大きく育ってしまったそれを、司馬懿は今度こそ殺そうとする。

もう一つの司馬懿の心

 だが結局ここで司馬懿は、再び司馬昭を、すなわち自分自身の心の闇を殺すことができなかった。(あるいは三たびかも。上方谷の戦の処罰の際に、自分は息子を殺すかもしれないという覚悟があったのではないか)

 その殺意は、もう一人の息子である司馬師の「裏切り」によって妨害される。

 前夜、夏侯徽の姿絵を見つめて涙する司馬師の部屋に司馬懿が忍び寄る場面がある。想像ではあるが、その後、夏侯徽を殺害したのは司馬昭であることを明かし(念のため書くと、歴史上では夏侯徽を殺したとされるのは司馬師であり、全てはドラマの脚色である。また作中では司馬倫の陰謀でもあるが、それには司馬懿は気付いていないようである)、兵を率いて待機させ、合図とともに司馬昭を討つよう命じたのではないか。ところが司馬師は父の命令に背いて予め兵を退かせ、剰え司馬昭を赦し、解き放った。

 なお、中国語版の配信(优酷视频)には場面ごとに三国志演義風(?)のタイトルが付いており、この場面は「司马师屏退士兵 违抗父命保弟弟」(司馬師が兵士を退け、父の命令に逆らって弟を守る)となっていた。

 司馬師司馬昭を守る選択をしたのは、ただの弟可愛さゆえではない。

(司马懿)
放了昭儿
是师儿
你的选择

(司马师)
我司马家
要的是无坚不摧

司馬懿
昭を解き放った
師よ お前が選んだことだ
 

司馬師
我ら司馬家の
結束は揺るぎませぬ

 司馬師が最後に残した言葉、直訳すれば「我ら司馬家が求めるものは『無堅不摧』です」。

无坚不摧 wú jiān bù cuī
〈成〉どんな堅固な陣地でも必ず攻め落とす.力が強大であるさま.

『中日辞典(第3版)』(小学館、2016年)

 司馬師は元々、弟に比べ常識的な情緒や道徳観念を持つ人間として描かれていた。司馬昭が父の心の闇を担うのに対し、司馬師は光を担っていたのかもしれない。だが、最終的にその司馬師は自ら意思を持って司馬昭という闇を取り込んだ(あるいは、司馬昭司馬師を取り込んだ?)。司馬懿の心を離れて独立した二人の息子は、「無堅不摧」の司馬家のため一体となった……という風に私は感じた。やや観念的すぎる見方かもしれないが。

 完成した本編には採用されなかったが、司馬懿死後のシーンが幾つか撮影されていたようで、僅かながら予告篇やスチルなどで見られる。その中には、少し年を重ねた司馬師司馬昭が向かい合って東興の戦の作戦を立てているのではないかと思われる場面があった。本編の衝撃的な結末の未来に、二人は再び信頼し合い、手を取り合って「司馬家」のために生きていくのだろうと想像できる。

「父上の意思」とは何だったか

 兵を退かせた時点で、司馬師は既に自分一人で真相に向き合う覚悟だったのだろうが、最終的に赦す決意をしたのは、司馬昭に「ある答え」を聞いたためだった。

 司馬師はずっと、同母弟である司馬昭を溺愛し、過保護なほど大事に守ってきた。なのに何故、残忍な「人食い狼」を心に育ててしまったのか。そう問い詰める司馬師に、司馬昭は囁く。

你怎么知道
这一切不是爹让我干的

何もかも
父上の意思だとしたら?

 直訳すれば「これらすべては父上が私にさせたことではないと、何故わかるのですか?」(=父上が私にさせたことではないですか?)といったところだろうか。

 そこに差し挟まれる前夜の、鏡のようにすれ違う父子のイメージ。

 上記台詞の翻訳字幕は、日本初放送時は「〜父上の指図だとしたら?」となっていた。そのためもあってか「実際に具体的に司馬懿が命令し、司馬昭はそれに従っていた」とする解釈や、「司馬昭が保身のため、あるいは司馬懿を憎悪させ殺させるために、嘘をつき司馬師を騙している」という解釈が多く見られた。

 しかし私は、これは司馬懿が本当に命じたわけではなく、兄を騙す狡猾な嘘でもなく、司馬懿自身が言ったように彼が抑圧した「欲望」が司馬昭に宿り、非道な行いを代行させてきた、ということを言ったのではないか? と思う。そのため、改訂版の「父上の意思」という曖昧な訳の方がしっくりくる。

 「そうなのか」と問い返す司馬師司馬昭は「父上はそこに。尋ねては?」(他就坐在那儿 你去问问他)と応える。もしも司馬師が本当に尋ねたら、司馬懿は「司馬昭に宿った自分の欲望」の話をしたのだろうか。

司馬昭の「告白」に保身の意図はなかったと思う

 では、司馬昭がそれをここで兄に告げたのは保身のためなのかというと、私はそうは思わない。

 若き日の司馬昭は、血気盛んで無謀な弟キャラとして描かれていた。五丈原の戦の折、忠誠を疑う曹叡に期限を設けられた司馬懿は、司馬家滅亡の危機に直面していた。焦れた司馬昭は勝手に配下の兵を率いて蜀軍の「木牛流馬」を奪いに行こうとする。司馬師がそれを制止しようとして論争になった末、以下のような会話が交わされる。

(司马昭)
我就帯我自己麾下那些兵
胜了自然好
败了于我军也并无大损

(司马师)
什么叫并无大损
什么叫并无大损
你的命不值钱

(司馬昭)
失敗しても軍に影響はない
私の兵を使います
 

(司馬師)
影響がないだと?
何を言っておる
お前の命は?

 温厚で弟に甘い司馬師が、初めて胸倉を掴んで怒りを見せる。怒りの一番の理由は軍規違反でなく、司馬昭の自分自身の命を無価値なものとして扱う態度に対するものだった。

 この司馬昭は、生まれつき情緒が常人とはどこか異なっている。単に冷酷というわけではなく、家族への愛情なども持ち合わせているが、そうした感情の流れが常識的なルートをとらない印象を受ける。そのことは登場当初から、たとえば年老いて今にも死にそうな祖父司馬防にまったく悪気はなく全力で飛びつく場面など、細やかに描かれていた。

 司馬昭は、他人の命も自分の命も、平等に平然と、駒にする。彼にとって大切なのは「司馬家」という概念ただ一つで、さらにその「司馬家」とは「父・司馬懿」、あるいはせいぜい「父とその後継者の兄」に等しく、自分自身すら含まれない。野心家だが、その野心は「司馬懿のための野心」なのだ。この点もまた、歴史上の温和で慎重な司馬昭とは対照的な性格のこのキャラクターを、私が「司馬昭らしい」と感じる大きな理由である。

 司馬昭の「司馬家のため」の姿勢は徹底しており、無欲にすら見える。一部視聴者には、夏侯徽殺害の顛末を私欲に基づくと解されていることもあるが、それは完全に誤解だと思う。殺害の動機はあくまで司馬家の私兵の秘密を守るための口封じであった(この設定に関しては別記事で書くかも……)。唯一私が引っかかるのは、鍾会とともに凌雲台の上で野心を露わにし、自分自身を帝王に擬えているととれる場面だが、これはストーリーの細かい瑕疵である気がする。そこを除き、司馬昭が自分個人単位の欲望や野心を見せる場面は一度もない。

 そんな司馬昭が、ここにきて自分の保身のために動き、剰え兄や父を裏切るようなことをするとは思えない。

 司馬師の姿を見た瞬間の狼狽は、殺されることよりも、親愛する兄に軽蔑されることを恐れたのではないか。兄の足に縋り付いて泣きながら夏侯徽の件を謝罪し(ちなみに、「我对不起你」と言っている。「对不起」だけなら一般的な「すみません」だが、「我对不起你」はもっと重大で深刻な謝罪の表現になるらしい?)、こうなった「理由」を告げた後には自ら兄の剣を抜き、殺してくれるよう迫る。だがその剣が退けられた瞬間、心から驚いた顔をするのだ。決して、計画どおり、という反応ではないように私には見えた。

 その前の場面、司馬懿が合図の杯を落とす直前、過去の所業を問い詰められた司馬昭は、すべて司馬家のためであり分不相応な野心は持っていないと答え、最後にはすべて私の罪だとしてこう告げる。

现在咱们家平安了
爹也没事了
你杀了我吧

もはや司馬しば家の危機は
去りました
殺してください

 そもそも、夏侯徽小沅殺害の背景には、司馬昭に情報を流して手を下させた、黒幕ともいえる司馬倫の存在がある。しかし司馬昭はすべて自分の罪だとして、弟の関与すら一切明かさない。司馬家の一員、味方と認識して庇っている可能性もあるが、どう見ても不穏な司馬倫を司馬家の平安を脅かす存在とは一切考えていない様子からして、自分が利用されたことにも気付いてないのだろう。

 司馬家を脅かした存在、これから脅かすかもしれない存在は全て消し、平和になった。家を継ぐのは長兄の司馬師で、役目を果たした自分はもう司馬家にとって必要ない。それどころか司馬師は妻の仇を討ち多少なりと心を晴らせるし、司馬懿は心の内の醜悪な野心を葬り清らかになることができる。もう殺されても構わない、というのが、一貫して自分の命に執着のない司馬昭の本心だったのではないか。

司馬昭の目的、司馬懿の自嘲?

 司馬昭の言葉によって、司馬師司馬昭を赦し解き放つ。しかし重要なのは、司馬昭個人の命が助かったことよりも、司馬師が血の涙を流しながらも「無堅不摧」の司馬家のため非情になる道を選んだこと、司馬懿が育て続け、手放そうとした欲望、野心を、の二人が一体となって受け継いだということだ。それこそが、司馬昭の囁きの目的だったのかもしれない。

 司馬師に剣を退けられ驚いた司馬昭は、やがて司馬懿の方を振り返り、泣き笑いをしながら徐に去っていく。嘲笑のようでもあり、勝ち誇るようでもあり、悲しむようでもあり……。対して司馬師は険しい表情で抜き身の剣を手にしたまま父の元へ向かっていく。これらの行動も、司馬昭が兄を騙した云々と見られる理由なのかもしれない。

 正直、この泣き笑いが何を意味するのかは、自分の解釈が定まっていない。司馬師が自分と同じ道を選んだことは、ことによれば計画どおりであったのかもしれないが、それを父に対して勝ち誇る理由があるとは思えず。司馬懿は結局、己の「欲望」を葬れないままに解き放ち、精算に失敗したが、それを司馬昭が嘲る理由もないように思うし……。あるいは、父の心の化身であるところの司馬昭による、司馬懿の自嘲だったのだろうか。

 こうして「刀」を息子たちに手渡してしまったかに見えた司馬懿の物語は、しかしまだ終わらず、最終回へと続いていくのだが。

生身の司馬昭と「司馬家」の行方

 司馬昭はかつて、二つの誓いを立てた。一つは自ら誓った蜀を滅ぼすこと。もう一つは父に誓わされた生涯魏の臣であること。ドラマは司馬懿の死で終わり、晋の天下統一に至るまでの短いナレーションが入るだけだが、司馬昭は誓いを守り、やがては兄の跡を継いで魏の宰相となり、蜀を滅ぼして晋王となり、しかし帝位には即かないまま生涯を終えるだろう。

 私は敢えてこの司馬昭を「司馬懿の心が生んだ魔物」のような、人ならぬ存在と捉えて見てきた。その一方で、作中世界の現実としては、生身の一人の人間でもある。人間としての司馬昭が、生まれながらに見捨てられかけ、父の業を引き受け、そして再び殺されかけたことは、「司馬家」に犠牲として捧げられたようにも見え、そのことには憐憫も覚える。(可哀想でかわいい、ってやつです)

 さらにメタ的な視点で見れば、実在の司馬昭とは正反対の残酷で野心的と見える性格に描かれ、司馬懿司馬師が歴史上あるいは『三国志演義』の中で行った苛烈な所業や失敗、延いてはそれに対する一部視聴者の嫌悪感を一身に引き受けて「司馬家」を守った。正直、作中の司馬昭の問題行動(?)のうち、歴史上の司馬昭が実際に行ったものは一つもない。(だがそのこともまた、逆に司馬昭らしい現象だと私は思う)

 司馬昭が、そして血の涙を流した司馬師が、犠牲となりつつも守ると決めた「司馬家」とは、なんだったのか。やがて司馬懿も世を去り、この結末の果てに兄弟二人が大切に守っていくものは、もはや実態のない抜け殻のようで、寒々としたものも感じる。歴史上ではまだ表舞台に現れない司馬倫(司馬氏の西晋王朝を内乱の果ての滅亡に導いた人物の一人)が、作中重要な役割を果たしつつフラグ回収されないあたりも、「司馬家」崩壊の予感を強くさせる。そんなところを含め、この軍師連盟という作品が、そしてこの司馬昭も、哀しくかつ美しく、私は大好きなのです。

「虎嘯龍吟」の司馬懿と司馬昭
新浪电视 官方微博 2017-12-21 14:32 より、「虎嘯龍吟」の司馬懿と司馬昭

2022.08.10

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