「虎嘯龍吟」に登場する古典 ⑨ 41〜44話(軍師連盟 83〜86)

中国ドラマ「三国志〜司馬懿 軍師連盟〜」(原題:第一部「大軍師司馬懿之軍師聯盟」第二部「虎嘯龍吟」*注)の台詞に引用される故事・詩などの出典を調べた。赤枠は本編の字幕より引用。
*注:日本語字幕版は「虎嘯龍吟」1話を43話とし、全話連番。

目次

虎嘯龍吟 41話(83話「夏侯玄の政変」)

北斉書ほくせいしょ楊愔よういん伝より

処刑台の曹麟に、蒹葭が子守歌のように歌う。北斉時代の童謡(古代からこうした童謡は、事変などを予言する歌である)。羊はクーデターに失敗して滅ぼされることになる楊愔という人物を暗示する(「羊」と「楊」がかかっている)。作中の時代より未来の歌ということになるので、あくまで暗喩としての演出だろう。

羊 羊 吃野草
不吃野草远我道

羊さん 羊さん
野の草をお食べ
食べないのなら 遠くへお行き

[……]先是童謠曰:「白羊頭尾禿,羖䍽頭生角。」又曰:「羊羊喫野草,不喫野草遠我道,不遠打爾腦。」又曰:「阿麼姑禍也,道人姑夫死也。」羊為愔也,「角」文為用刀,「道人」謂廢帝小名,太原公主嘗作尼,故曰「阿麼姑」,愔、子獻、天和皆帝姑夫云。於是乃以天子之命下詔罪之,罪止一身,家口不問。[……]

中央研究院 漢籍電子文獻資料庫 > 北齊書 > 卷三十四 列傳第二十六 > 楊愔

三国志さんごくし魏書ぎしょ郭嘉かくか伝より

王淩の討伐に急行する司馬懿柏霊筠に答える。6話(軍師連盟48話)にも登場した。詳細は6話参照。

歇不得
兵贵神速 救兵如救火啊

休んでおられぬ
“兵は神速をたっとぶ”
到着を急がねば

古詩「十五従軍征」(別名「紫騮馬歌しりゅうばか」)より

あの頃から三十年も経つが戦が止まないと語る柏霊筠に、司馬懿が呟き、かつて民の子供が歌い、曹操に語って聞かせた過去(軍師連盟22話)が重なる。

十五从军征 八十始得归
道逢乡里人 家中有阿谁
遥看是君家 松柏冢累累
兔从狗窦入 雉从梁上飞
舂谷持作饭 采葵持作羹
羹饭一时熟 不知贻阿谁
出门东向看 泪落沾我衣

わずか15で従軍し
よわい80にして帰途に
道で郷里の人に会い
家族の無事を尋ねたり
はるか先に我が家を見れば
松柏しょうはくの茂る墓が連なれり
野兎のうさぎが土塀の穴を抜け
雑穀を集めてうすでつき
葵を摘んで汁を煮る
温かな食事を作れども
食べてくれる者もなし
門から出て東を眺むれば
涙がとめどなく衣をらす

十五從軍征 八十始得歸
道逢鄕里人 家中有阿誰
遙望是君家 松柏冢纍纍
兔從狗竇入 雉從梁上飛
中庭生旅穀 井上生旅葵
烹穀持作飯 采葵持作羹
羹飯一時熟 不知貽阿誰
出門東向望 淚落沾我衣

十五のときに従軍して
八十になってやっと帰れた
道で郷里の人に逢い
「わが家には誰がおります?」
「かなたに見えるがそなたの家じゃ」
松柏の間に墓がごろごろ
犬の穴から兎が出入りし
梁の上からきじが飛び立ち
中庭には野生のあわ
井戸のほとりに野生のあおい
その粟を煮て飯をつくり
葵を摘んで汁をつくった
汁と飯はまもなくできたが
さてこれを誰と食べよう
門を出て東の方を眺めやる
涙あふれてわが衣をぬらす

伊藤正文『中国古典文学大系 第16巻 漢・魏・六朝詩集』(平凡社、1972年) 老兵の歌 pp.55-56

劉邦りゅうほう「歌(大風歌たいふうか)」
論語ろんご季氏きし篇より

凌雲台の頂で語る司馬昭鍾会。漢の高祖劉邦黥布討伐の帰途に詠んだ詩。
また、日本語字幕では意訳されているが、詩の内容に掛けて鍾会が「危難は四方にはあらず、この蕭牆しょうようの内にある」と言っているのは33話(軍師連盟75話)他にも登場した「季孫の憂いは顓臾に在らずして蕭牆の内に在り」(季孫之憂不在顓臾 而在蕭牆之內也)に掛けた表現。蕭牆とは君臣の会見所に設ける囲いのことで、転じて内輪・身内の意味がある。

(司马昭)
大风起兮云飞扬
威加海内兮归故乡
安得猛士兮守四方

(钟会)
子上 你我今日拾级而上
站在这凌云台的最高处
那真是壮怀激烈 意气风发呀

(司马昭)
是啊
汉高祖的壮怀
我今日知矣

(钟会)
危难不在四方
而在这萧墙之内

(司馬昭)
大風起きて 雲が飛揚ひよう
威光は海内かいだいに届き
故郷へと帰らん
いずくにか猛士を得て
四方を守らしめん

(鍾会)
我らは一歩一歩 登ってきて
凌雲りょううん台の頂に立った
大志がみなぎり
奮い立つ思いだ

(司馬昭)
ああ
かん高祖こうその大志が
我が胸に迫ってくる

(鍾会)
危難は四方ではなく
この都の内にある

大風起兮雲飛揚 威加海內兮歸故鄕
安得猛士兮守四方

大風たいふうおこりてくも飛揚ひようす。海內かいだいくははりて故鄕こきゃうかへる。
いづくにか猛士まうし四方しはうまもらしめん。

通釈 大風吹き起って、雲は飛び散った。兵を起して世乱を平定したわれ、あたかもこの大風の雲を散ずるにも似たるか。われ帝位につき、今や勢威四方を圧して、得意故郷に帰ってきたのである。創業は既に成った。しかし将来はまだ多難である。いずこにか勇猛の士を得て、四方の境を守らしめ、漢の天下を安定したいものである。

大風 高祖自らにたとえた。
[……]
安 いずこにかの意。「いづくんぞ」とむ説もある。この場合反語の意ではなく、「何とかして」の意で、願望の意を助ける語と解さねばならぬ。

内田泉之助・網祐次『新釈漢文大系 第15巻 文選(詩篇)下』(明治書院、1964年) 歌(漢高祖)」 p.549

荘子そうじ秋水しゅうすい篇より

牢に繋がれている夏侯玄司馬師が問い詰める。『荘子』に由来する表現で、日本語でも広く使われる「井の中の蛙大海を知らず」に続く内容。

(司马师)
你比我了解曹爽
你知道他是什么样的人
更知道他肩负不起这个国家
为什么
为什么你还要为这个蠢货去送死

(夏侯玄)
我从来都不是为了曹爽
不过夏虫不可语冰
说了你也不懂

(司馬師)
曹爽そうそうがどんな男か
承知のはずです
重臣とは名ばかりだった
なぜ
あんな男のために ここまで

(夏侯玄)
誰が曹爽そうそうなんぞ
夏虫かちゅうに氷を語るべからず”
お前にはせぬ

【夏虫(蟲)語氷】カチュウこおりをかたる
夏の虫は氷を知らないことから、知識見聞の狭いたとえ。夏虫疑氷。〈荘・秋水〉

『全訳 漢辞海(第四版)』(三省堂、2017年)

[……]北海若曰、井鼃不可以語於海者、拘於虛也。夏蟲不可以語於冰者、篤於時也。曲士不可以語於道者、束於敎也。[……]

通釈 [……]北海若が言う、「井戸の中の蛙に海のことを話してもわからないのは、自分のいる狭い場所にこだわっているからである。夏の虫に氷のことを話してもわからないのは、自分の生きている季節だけを時だとかたくなに考えているからである。片田舎の人物に大道を話してもわからないのは、卑俗な教理に自分が拘束されているからである。[……]

阿部吉雄・山本敏夫・市川安司・遠藤哲夫『新釈漢文大系 第8巻 荘子(下)』(明治書院、1967年) 秋水第十七 pp.461-462

虎嘯龍吟 42話(84話「司馬懿の本心」)

李白りはく戦城南せんじょうなん」より(『老子ろうし偃武えんぶ偏に基づく?)

独断で王淩の三族を処刑しようとする司馬懿柏霊筠が批判する。
台詞の原文は「武器」であるなど多少字句の違いはあるが、「兵者是凶器 聖人不得已而用之」と李白が戦の悲惨さを詠んだ「戦城南」にあるところからの慣用表現? ただし古来より『老子』などに類似の内容があり、「兵は凶器なり」の表現は11話などにも登場した。

你如今权倾朝野
做事更应该要有底线
兵者是武器
圣人不得以而用之

権力を得た者こそ
なしてはならぬことがある
“兵は凶器であり
 聖人は やむを得ずして
 用いる”

去年戰桑乾源
今年戰蔥河道
洗兵條支海上波
放馬天山雪中草
萬里長征戰
三軍盡衰老
匈奴以殺戮爲耕作
古來唯見白骨黃沙田
秦家築城備胡處
漢家還有烽火燃
烽火燃不息
征戰無已時
野戰格鬪死
敗馬號鳴向天悲
烏鳶啄人腸
銜飛上挂枯樹枝
士卒塗草莽
將軍空爾爲
乃知兵者是凶器
聖人不得已而用之

[……]
すなはへい凶器きょうきにして
聖人せいじん むをずしてこれもちひたる

[……]
さては知る、兵器とは凶器に他ならず、
聖人はやむを得ずしてはじめて用いる
のだと。

和田英信『新釈漢文大系 詩人編 4 李白(上)』(明治書院、2019年)戰城南 pp.136-139

夫佳兵不祥之器。物或惡之。故有道者不處。君子居則貴左、用兵則貴右。兵者不祥之器、非君子之器。不得已而用之、恬淡爲上。勝而不美。而美之者、是樂殺人。夫樂殺人者、則不可以得志於天下矣。吉事尙左、凶事尙右。偏將軍處左、上將軍處右。言以喪禮處之。殺人之衆、以哀悲泣之、戰勝以喪禮處之。

通釈 そもそも立派な武器は不吉な道具である。誰でもこれを嫌う。だから、道を体した人は武器を用いる地位に身を置かないのである。有徳の人物は、平生は左をたっとび、武器を用いる時に右をたっとぶ。こういう点から考えて見ても、武器が不吉な道具で、君子の用いる道具でないことがわかる。やむを得ず武器を用いる場合でも、利欲に惑わされてそうするのでなく、あっさり用いることが立派な武器の用い方である。戦いに勝っても、君子はそれを善いことだとは考えない。[……]

阿部吉雄・山本敏夫・市川安司・遠藤哲夫『新釈漢文大系 第7巻 老子・荘子(上)』(明治書院、1966年) 偃武第三十一 pp.62-63

漢書かんじょ』五行志より

気の触れた蒹葭が刑場を徘徊し、花を配りながら歌っている。かつて曹爽との新婚時代に口ずさんでいた、漢の成帝時代の予言歌(29話、軍師連盟71話)。続く後半の不吉な歌詞が初めて登場するという演出。

燕燕尾涎涎
张公子 时相见
木门仓琅根
燕飞来 啄皇孙
皇孙死

舞い踊るつばめ
ちょうの若様が恋をした
大きな門がそびえ立つ
飛んできた燕は
皇子様をついばんだ
皇子様は死んじゃった

成帝時童謠曰:「燕燕尾龚龚,張公子,時相見。木門倉琅根,燕飛來,啄皇孫,皇孫死,燕啄矢。」其後帝為微行出遊,常與富平侯張放俱稱富平侯家人,過河陽主作樂,見舞者趙飛燕而幸之,故曰「燕燕尾龚龚」,美好貌也。張公子謂富平侯也。「木門倉琅根」,謂宮門銅鍰,言將尊貴也。後遂立為皇后。弟昭儀賊害後宮皇子,卒皆伏辜,所謂「燕飛來,啄皇孫,皇孫死,燕啄矢」者也。

中國哲學書電子化計劃 > 漢書 > 志 > 五行志 > 五行志中之上

 成帝のときの童謡に、こういうのがあった。

  燕々の尾、涎々てんてんたり
  張公子、時に相い見る
  木門倉琅そうろうの根
  燕、飛来して、皇孫をついば
  皇孫死して、燕、矢を啄む

 その後、帝は微行で遊びに出歩き、つねに富平ふうへい張放ちょうほうと同行し、ともに富平侯の家来であると称して、陽阿公主を訪れて舞楽をなし、舞うもの趙飛燕を見てこれを寵愛したので、「燕々の尾涎々たり」といい、美好の貌である。張公子とは富平侯のことである。「木門倉琅の根」とは、宮門の銅の鋪首ほしゅ銜環かんかんをさす。まさに尊貴になろうとすることをいうのである。のちついに立って皇后となった。その妹の昭儀は後宮の皇子をそこない、ついに姉妹みな罪に伏したが、これはいわゆる「燕、飛来して、皇孫を啄み、皇孫死して、燕、矢を啄む」ものである。

小竹武夫訳『漢書 上巻 帝紀 表 志』(筑摩書房、1977年) 五行志第七中之上 p.328

北斉書ほくせいしょ楊愔よういん伝より

上記に続き、蒹葭が口にする詩。41話曹麟に歌ったものだが、こちらも最後の不吉な部分(楊愔の死を予言)は初めて登場する形。原語台詞では元の詩が繰り返されるだけだが、なぜか日本語字幕では後半に独自の歌詞が加えられている。

羊 羊 吃野草
不吃野草远我道
不远打尔脑

羊さん 羊さん
野の草をお食べ
食べないのなら 遠くへお行き
行かないのなら打ち殺す

羊さん 羊さん
野の草をお食べ
おなかがすいたら 帰れない
帰らないなら打ち殺す

羊さん 羊さん
野の草をお食べ
おなかいっぱい お家に帰ろう

※繰り返し部分は省略。詩の詳細は41話参照。

虎嘯龍吟 44話(86話「最後の決別」最終回)

司馬懿しばい「終制」(『晋書しんじょ宣帝せんてい紀)より

年老いた司馬懿曹芳に死後のことを願い出る。
歴史上の司馬懿が残した終制に基づく内容。『晋書』には首陽山への埋葬を望んだ理由は記されないが、ドラマ以前から、ファンの間では文帝曹丕の首陽陵があるからというのは通説となっている。また、その地位に比して簡素な様式の埋葬は、曹丕の終制(第1話=軍師連盟43話参照)の流れを汲むような内容である。

※訳と考察(?)を、過去にコラム「司馬懿と曹丕、首陽山の二つの陵墓」として書いています。


有一个心愿
文皇帝
对臣有知遇之恩
待臣死后
请陛下将臣葬于首阳山
文皇帝
陵寝之侧
不必起丘冢
不需植树
只穿平常衣物
不着朝服 冠冕
不放随葬物品
一切从简
望陛下恩准

私の願いを
お聞きくだされ
私はぶん帝より
知遇ちぐうの恩を賜りました
この命が尽きたら
どうか
首陽しゅよう山に葬ってください
ぶん帝の陵墓のおそばで眠りたい
丘陵を作ることも
植樹も無用です
平服であの世へ行きます
官服も冠も副葬の品も
すべて要りませぬ
簡素な旅立ちを
お許しください

九月庚申,葬于河陰,諡曰文,後改諡宣文。先是,預作終制,於首陽山爲土藏,不墳不樹;作顧命三篇,斂以時服,不設明器,後終者不得合葬。一如遺命。晉國初建,追尊曰宣王武帝受禪,上尊號曰宣皇帝,陵曰高原,廟稱高祖

房玄齡等撰《晉書 一 紀》(中華書局,1974年) 宣帝紀 p.20

宣帝豫自於首陽山爲土藏,不墳不樹,作顧命終制,斂以時服,不設明器。皆謹奉成命,無所加焉。

房玄齡等撰《晉書 三 志》(中華書局,1974年) 礼志 p.633

公開:2022.08.06 更新:2022.08.07

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