ドラマ「三国機密」結末の感想

 三国機密こと「三国志 Secret of Three Kingdoms」(原題:「三国機密之潜龍在淵」)最終話。曹丕ちゃんファンによる、およそ三周目の感想です。BS放送で盛り上がっていたのに乗じてTwitterに書いていましたが、結末ネタバレ&文章量の都合でこちらに。

目次

「ラスボス」曹丕の意外な結末

 最終回54話で、ついに謀叛を起こした魏王曹丕は(魏王が漢の皇帝に武力で迫る三国志ドラマ……!)、劉協劉平の譲位によって、望みどおり「父を超える」皇帝の座を勝ち取った。才能で父を超えられないことは、本人が痛感している。それゆえ彼は「父を超える位、権力」を目指すしかなかった。だが勝ち取ったはずのその座はむしろ、劉平の慈悲で与えられたものに見える。こんな「禅譲」劇があったとは。このドラマは歴史的には敗者である漢献帝・劉協劉平を、どこまでも主人公らしい主人公として、そしてある種の勝者として描く。

 漢室復興を目指した皇帝の替え玉物語として始まったドラマだが、途中から一種の「救世主」として覚醒した主人公・劉平が、理想の世を目指していく話になる。曹丕はシンプルにいえば敵、しかもラスボスだった。元々、漢から帝位を事実上「簒奪」する曹丕はラスボスだろうと予想していたが、その描かれ方はかなり予想外なものだった。

 結局、曹丕は皇帝となって、劉平の描いた壮大な天下太平プランに組み込まれ、歴史の流れの中に置かれることになった、のだと思う。

 元々、全ての命は平等という、当時としては異質の現代的な価値観を持っていた劉平は、物語後半、天下を統一するのはどの一族でも構わない、平和な世を作ることこそが重要、という根本的に「漢室復興」の理念を覆す思想に辿り着いた。

 皇后伏寿は替え玉計画の中心的実行者であり、当初は漢室にこだわっていたが、劉平のパートナーとして側にいるうちに理解を深め、やがて同志となる。また、最大の敵であった曹操も、劉平と戦う中で、感化されてというわけではないが、独自に似た境地に達して死んでいったのかもしれない。

 後日追記:改めて見直すと、曹操はもっと早くから、超越した境地に達していたのだと思った。だがそれは余人には理解できないものであり、漢室派には私的な野心とも映る。そんな中で唯一巡り会った理解者が、敵である劉平だった。

 一方でその他の多くの者たちは、敵味方ともに、劉平の超越した思想を理解できない。納得できずに敗死していった者たちの、最後の生き残りが曹丕だった。彼は(おそらく)最後まで劉平の理想には辿り着けなかった。

「救世主」劉平と曹丕

 そんなラスボス・曹丕の謀叛の動機には、かなり(主に司馬懿を巡っての)私怨が入るが、しかし彼は劉平をただ憎悪していたというわけではない。司馬懿を巡る恋敵であり、自分が決して持てないカリスマをナチュラルに持つ恐ろしい敵でもある劉平に、しかし曹丕は依然として親愛の念も持っていたと思う。だがそんな相手を、討つと決意する。

 大軍を率いて反旗を翻した曹丕と、それを譙の城で迎え撃った劉平は、二人きりで対話をするが、特に好きなやりとりがある。

(刘平)
[……]
你确信自己能打赢朕吗

(曹丕)
我没把握
但是我可以死
不能败
大哥
对不起了
我必须和你一战

(劉平)
[……]
絶対に朕に勝てるか

(曹丕)
分かりませぬ
だが死んでも
負けられぬ
陛下
申し訳ない
戦うしかありませぬ

 この場面を見たとき、曹丕の、主人公を倒すべく決戦を挑んできた「ラスボス」とは到底思えない、不安そうな儚い表情と、対照的な劉平の包容力に衝撃を受けたのだが……

 ここで(作中描かれる範囲では)初めて曹丕は、劉平を「大哥」(兄上、兄貴)と呼んだが、残念なことに日本語字幕では「陛下」に統一されてしまった。(日本語にはないニュアンスだからか?)しかし、これから戦い滅ぼそうという相手に対し、涙目で親愛を込めて「兄」と呼び謝罪するというこの場面には、決してただの敵ではない二人の関係が描き出されている。

 乱世を終わらせ平和にしたい、という願いは劉平と同じ。それでも曹丕にとって、それを導くのは「自分」でなければならなかった。父を超え、帝王として名を残す、自分の価値を永遠に歴史に記す、それが、幼いころから否定され、理不尽な罪を背負わされ続けて病んでしまった彼が求めた、唯一の救いの道だった。

 そんな曹丕が、悲願だった皇帝の座を手に入れる。だがそれは劉平の描いた天下太平プランのパーツとなることでもあった。曹丕にとって、それが救いになり得たのかどうかはわからない。余命宣告よりさらに短かった晩年に、幸せな時間があったとは到底思い難い描かれ方ではある。

 それでも劉平は、曹丕を救おうとした。作中で彼が語った、戦を避けるため、その他の目的はもちろんあるが、武力で戦い自分が討たれる以外の別の方法で、曹丕も共に救う道を選んだ。劉平は、誰ひとり見捨てない。謀叛人であろうとラスボスであろうと、博愛で抱擁してしまう、そういう主人公なのだ。

劉平と司馬懿

 劉平が禅譲を決意できたのは、曹丕を支える者として、彼の最愛の義兄たる司馬懿がいたからである。献帝劉協の替え玉(双子の弟)が司馬懿とともに育った義兄弟、という異色の創作設定が最後までキーとなる。曹丕も決して無能ではなく、むしろ幼い頃から司馬懿に警戒されるほどの才の持ち主ではあるものの、やはり帝王の器ではなく、如何せんあまりに心身を病んでいて、彼一人では不安しかない。しかし、その傍には「仲達」がいる。このドラマの司馬懿は主人公に次ぐ超人。史実以上に彼個人の戦略が、これからの天下を動かすと予想される。

 そして劉平自身は、一線を退いて見守るだけの者となった。きっと、医師として多くの人を救いながら生きていくのだろうけど、それは天下レベルの話ではない。初見のときは(日本語版が未だ無く、理解度が低かったこともあり)さすがに丸投げじゃないか? とも思った。宮廷という檻を出た晴れやかな笑顔が印象的だったせいもある。自ら描いた天下太平プランの「実務」を悉く司馬懿(と曹丕)に託し、自分はスッキリと身軽になって、家族と仲良く平和に生きていく。自ら望んだ曹丕はともかく、司馬懿が背負わされたものは重すぎないか。「救世主」の決断としては、無責任なようにも思えた。

 しかし、自分の智謀で世を動かすことに最大の快感を覚える人間である司馬懿が、本当に望む生き方は、劉平が選んだような、家族との平穏な暮らしではない。それはかねてより曹丕が指摘し、唐瑛との関係の中で描かれ、53話で曹家に仕える司馬懿が自分は決して犠牲ではない、楽しんでいる、と宣言することで結論づけられた。丸投げは丸投げだが、それが司馬懿の望みであると判断したのだろう。劉平は、曹丕にも、そして司馬懿にも、その存在を自分の理想プランのパーツとして組み込みながら、同時に精一杯の救いを与えようとした、と今は解釈している。

司馬懿が見つめる天下

 最後はナレーションで、司馬懿が魏の実権を掌握し、のちに禅譲を受けた孫の司馬炎が天下統一を果たすまでの歴史が短く語られる。歴史上の魏晋革命は、魏王朝を見限った者たちが、彼らを救い上げた司馬氏を支持していくことで実った簒奪劇といえる。しかし、統一するのはどの一族でも構わない、という理論で動いているこの世界では、事情が違う。むしろ革命は些細なことである。西晋による天下統一は、劉平が開始した天下太平プランのゴールとなる。

 ゆえにこの世界では、司馬氏が「敵」となって曹魏を滅ぼしたりはしない。

 この司馬懿はストーリー途中には、曹氏(および漢の旧臣)への復讐で動いていた。しかしそれは、唐瑛の墓に別れを告げて駆け出したシーンで終わったのだと思った。真の敵は「乱世」そのものだった。さらに物語終盤に至り、劉平の理念を理解した司馬懿にとって、曹氏はもはや敵ではない。

 もちろんこの世界でも、曹爽司馬懿の権力闘争は起き、曹芳司馬師に廃位され、曹髦司馬昭暗殺を試みて返り討ちにされるだろうが、それを曹氏対司馬氏の対立という図のみで見ることは、劉平の理念に反する。この世界では、劉氏も曹氏も司馬氏も、劉平が始めた天下太平プラン実現の同志であり仲間なのである。そしてそれが、司馬懿を愛してしまった曹丕の、苦難の果ての、最後の救いかもしれない。……と、この曹丕ちゃんのファンとして思う。

 歴史上の曹丕の好きなところの一つに、王朝の初代皇帝でありながら「滅びない国はない」(「自古及今,未有不亡之國,亦無不掘之墓也。」「古代から現代まで、滅亡しない国家は存在しなかったし、また発掘されない墳墓は存在しなかったのである。」『正史 三国志 1』ちくま学芸文庫)と諦念のように語る、不思議なメンタリティがある。このドラマの曹丕(の魂)も、魏王朝の滅亡については、意外と冷めた目で見つめるだけなのかもしれない。

 天下統一でほんとうに世界は平和になるのか、晋王朝の凄惨な末路についてはどうなのか、と考えるのは野暮だろう。ドラマのラストシーンは、曹丕の葬列を見送る劉平と、不遜な顔で幼い曹叡の頭を優しく撫でながら「天下」を見る司馬懿。この物語は、司馬懿劉平が見つめる、数十年先にある西晋による天下統一で完結し、それがすべてなのだと思う。

史書に存在を残したかった曹丕と、史書に記されなかった劉平

 ドラマの曹丕は「史書に名を残す」ということに人一倍執着していた。これは序盤、まだ健やかな少年だった頃の彼が劉平に語った「文章は経国の大業、不朽の盛事」思想のアレンジではないかと思っている。「文章〜」は最古の文学論とされる曹丕『典論』の一節だが、全文を読むと、人間の生の儚さを語る印象が強い。どんな偉人も死ねば無となる、何か残せないか。辿り着いたものが、後世に残る「文章」なのでは。このドラマの曹丕は、それを「帝王として史書に自らの生きた証を記す」と位置づけたように見えていた。

 歴史上の曹丕の考えた「文章」は、自らの手で綴ったものを指し、他人の手で「史書」に記された姿は含まれないだろう。しかしドラマ最終回、禅譲に反対する曹節の「史書」に曹家が逆臣として記されるという批判に対し、曹丕は「现在轮到我来写史书了」と叫ぶのである。(「今度は私が史書を記す番だ」という意味。ただし字幕は「史書を書かせるのは私だ」となってしまっている)

 対照的に劉平は、「史書に存在しない皇帝」であった自分の存在を、むしろ清々しく語る。「劉平」の名を知るのは、この時代のごく僅かな人間だけ。やがて彼らも死に、その存在は決して「文章」に残ることなく消え去っていく。彼はそれをまったく気にも留めない。しかしこの、名も無き救世主は、最初から最後まで、実に主人公らしい主人公だった。そして実は、架空人物が活躍する歴史物がかなり苦手な私が、ときにその超人ぶりに笑いつつも、きちんと好感を持てた主人公でもあった。

 史書に残らず消え去ることを笑顔で語れるのは、劉平の強さゆえ。対する曹丕を小物と評価するような感想も見かけた。確かに曹丕劉平とは対照的に不完全で、直向きで純粋ながら、ときに卑怯さも、弱さも持つキャラクターだった。しかし私は、その不完全さがどうしようもなく愛しいと思う。

公開:2020.01.17 更新:2020.08.13

Tags: 三国志ドラマ 三国機密 ドラマ感想 曹丕 司馬懿