三国志展・曹丕は「鉤鑲」二刀流の使い手だったのか

 2019年の東京国立博物館の三国志展こと「特別展 三国志」(現在は九州国立博物館で2020年1月5日まで開催中)の展示品に、「鉤鑲こうじょう」という武器があり、「魏の曹丕も稽古した特殊な盾」というキャッチコピーで紹介されていた。どんな物かは画像参照。(写真撮影OKでした)

鉤鑲鉤鑲

 これ自体は蜀方面の出土品で、曹丕と直接の関係はないのだが、三国志のエピソードに絡めて興味深く紹介してくれるのが特長。解説パネルには「魏の曹丕は一対の鉤鑲(鉤楯)を両手で扱う特殊な武芸を学んだ」とあった。

魏の曹丕も稽古した特殊な盾

 下図パネルによると、普通は片手には刀、もう片手に「鉤鑲」で戦う。しかし曹丕は両手に「鉤鑲」二本を持つ特殊な技術を習得していた……という表現で、肝心の展示品も、いかにも二本セットかのように並べられていた。

鉤鑲で相手の戟を止めるとともに、刀で反撃

 しかし、本当にそうなのか……? そもそも解説にもあるように、本来、鉤鑲は攻撃用途の物ではなく、相手の武器を受ける楯である。これが二本では、むしろ弱いのでは?

 『三国志』魏書文帝紀の注に引く『典論』自叙(曹丕の著作『典論』の自伝の篇)に、解説パネルの元ネタと思しきエピソードが出てくる。これは若い頃、自分の剣術が無敵だと思い増長していた曹丕が、真の達人に師事して反省したという話の前半なのだが、

夫事不可自謂己長,余少曉持複,自謂無對;俗名雙戟為坐鐵室,鑲楯為蔽木戶;〔……

陳壽撰、裴松之注《三國志 一 魏書〔一〕》(中華書局,1982年) 文帝紀注・典論 p.90

そもそも物事は自分からすぐれていると思いこんではいけない。余は若年のころ、武器を両手で扱うことに精進し、自分では敵対者なしと思いこんだ。俗称では両手に戟を持つのを坐鉄室(鉄の部屋に坐す)といい、双手に楯を持つのを蔽木戸(木の戸をおおう)という。〔……

陳寿、裴松之注、今鷹真・井波律子訳『正史 三国志 1 魏書Ⅰ』(ちくま学芸文庫、1992年) 文帝紀注・典論 p.215

 この訳の「双手に楯」の楯=鉤鑲とすれば、確かに二刀流のように思える。が、原文を見ると、「雙戟」はそのまま戟二本だとして、「鑲楯」の方は結構あやしく思われる。

 ……などと思っていた折、たまたま別件の調べ物で開いた『中国古典文学大系 23 漢・魏・六朝・唐・宋散文選』に別の訳が載っていて。おっと、曹丕曹植仲良し説派の伊藤正文先生の訳だ。

一体、物事において、自分で自分が偉いものだと思うことは禁物である。私は若い時、二刀(注二五)を使うことに練達し、自分ではおのれにかなう者はあるまいと思っていた。それは俗にいう、二本のほこを用いれば鉄の部屋、鉤鑲こうじょうと楯(注二六)を使えば木のとびら、のように思われたからである。〔……


二五 二刀 原文は「複」、後文に「単」(一刀と解した)の語も見える。ここにいう「単複」は『呉志』周魴伝に見える「臣は個人に単複の術無きを知れり」の「単複」と同じであろうが、ここでは一刀流・二刀流の意に解した。あるいは兵法の一種かも知れぬ。〔……
二六 鉤鑲 いにしえの兵器、鉤は引っかけるに用い、鑲は押しのけるに用いる。

伊藤正文・一海知義『中国古典文学大系 23 漢・魏・六朝・唐・宋散文選』(平凡社、1970年) pp.90-92

 問題の「鑲楯」だが、ここではそのまま「鉤鑲と楯」となっている。これは一般的使用法(片手に刀)とも異なるが、少なくとも伊藤先生の解釈は、鉤鑲の二刀流ではない。しかし、鉤鑲+楯の組み合わせではやはり攻撃面が弱く思われる上、戟の二刀流と並べて語っていることを考えても、もう片手には刀の方が自然。むしろ、戟+戟の二刀流に対し、戟+鉤鑲(を盾代わりに持つ)という状態にもとれるかも?

 ……そして、ここで新たな疑問が生じた。「蔽木戸」というのは、ほんとに強い表現なのか? 「坐鉄室」は強そうだが、木……。しかも「蔽木戸」が鉤鑲の一般的使用法だとすれば、無敵と自負するような特殊技術ではない。もしかして、自分は戟+戟の二刀流ができる(=坐鉄室)ので、刀+鉤鑲(=蔽木戸)よりも強いと思った、って話だったらどうしよう! でもそれなら、述べる順番が逆になるだろうか。やはり「蔽木戸」は戟+鉤鑲で、戟を片手で扱うのが特殊技術ということなのだろうか。

 とりあえず、曹丕は戟の二刀流の使い手ではあったようだが、三国志展のいう「一対の鉤鑲(鉤楯)を両手で扱う特殊な武芸」を学んだ、というのは、誤解であろう……と私は思う。


 三国志展の簡単な感想と写真はTwitterのモーメント 特別展「三国志」@htjk にまとめています。

2019.11.29

Tags: 展覧会 曹丕 三国志の文化