三国志 命日一覧表

本日は……

423

  • とうたくの命日(後漢・初平三年四月辛巳 没)です。西暦192年5月22日に死去しました。
  • とうびん(董卓の弟)の命日(後漢・初平三年四月辛巳 没)です。西暦192年5月22日に死去しました。
  • とうこう(董卓の甥)の命日(後漢・初平三年四月辛巳 没)です。西暦192年5月22日に死去しました。
  • ぶんよう(おう)1730年前の西暦291423日 = 西晋・永平元年三月辛卯(八日)に54歳で死去しました。
  • よう駿しゅん1730年前の西暦291423日 = 西晋・永平元年三月辛卯(八日)に死去しました。
  • ようよう1730年前の西暦291423日 = 西晋・永平元年三月辛卯(八日)に死去しました。
  • ようせい1730年前の西暦291423日 = 西晋・永平元年三月辛卯(八日)に死去しました。
  • ぼう(武陔の弟)が1730年前の西暦291423日 = 西晋・永平元年三月辛卯(八日)に死去しました。
  • 司馬しばえつ(東海王、司馬泰の子、八王の乱の王の一人)が1710年前の西暦311423日 = 西晋・永嘉五年三月丙子(十九日)に死去しました。

月日は旧暦表示です。三国志・晋書に伝のある後漢末〜西晋の人物中心。年齢対照表の副産物。
強引な解釈や間違いの可能性もありますので、日付を引用する際は原典の確認をお勧めします。

名前没年月日出典
11*注

そうえい

曹叡

元仲げんちゅう

明帝

204-239

魏・景初三年正月丁亥
西暦239年1月22日

〔景初〕三年春正月丁亥,太尉宣王還至河內,帝驛馬召到,引入臥內,執其手謂曰:「吾疾甚,以後事屬君,君其與爽輔少子。吾得見君,無所恨!」宣王頓首流涕。卽日,帝崩于嘉福殿,時年三十六。(『三國志 一』p.52)

*注:正始元年に改元された際に、この月は12月となっている。

11

せきかん

石鑒

林伯りんはく

?-294

西晋・元康四年正月丁酉
西暦294年2月12日

〔元康〕四年春正月丁酉朔,侍中、太尉、安昌公石鑒薨。(『晉書 一』p.92)

*元号「元康」は本紀に記載がないが、永平元年の三月に改元されている。

年八十餘,克壯慷慨,自遇若少年,時人美之。尋薨,諡曰元。(『晉書 四』p.1266)

*死去時、80歳以上。

14

しゅうしょ

周処

子隠しいん

?-297

西晋・元康七年正月癸丑
西暦297年2月12日

〔元康〕七年春正月癸丑,周處及齊萬年戰於六陌,王師敗績,處死之。(『晉書 一』p.94)

16

きつほん

吉本

?-218

後漢・建安二十三年正月甲子
西暦218年2月18日

〔建安〕二十三年春正月,漢太醫令吉本與少府耿紀、司直韋晃等反,攻許,燒丞相長史王必營,必與潁川典農中郞將嚴匡討斬之。(『三國志 一』p.50)

〔建安〕二十三年春正月甲子,少府耿紀、丞相司直韋晃起兵誅曹操,不克,夷三族。(『後漢書 二』p.389)

16

こうき

耿紀

季行きこう

?-218

後漢・建安二十三年正月甲子
西暦218年2月18日

〔建安〕二十三年春正月,漢太醫令吉本與少府耿紀、司直韋晃等反,攻許,燒丞相長史王必營,必與潁川典農中郞將嚴匡討斬之。(『三國志 一』p.50)

〔建安〕二十三年春正月甲子,少府耿紀、丞相司直韋晃起兵誅曹操,不克,夷三族。(『後漢書 二』p.389)

16

いこう

韋晃

?-218

後漢・建安二十三年正月甲子
西暦218年2月18日

〔建安〕二十三年春正月,漢太醫令吉本與少府耿紀、司直韋晃等反,攻許,燒丞相長史王必營,必與潁川典農中郞將嚴匡討斬之。(『三國志 一』p.50)

〔建安〕二十三年春正月甲子,少府耿紀、丞相司直韋晃起兵誅曹操,不克,夷三族。(『後漢書 二』p.389)

17

そんけん

孫堅

文台ぶんたい

武烈帝

156-192
157-193

後漢・初平三年正月七日
西暦192年2月7日
または
後漢・初平四年正月七日
西暦193年2月25日

初平三年,術使堅征荊州,擊劉表。表遣黃祖逆於樊、鄧之間。堅擊破之,追渡漢水,遂圍襄陽,單馬行峴山,爲祖軍士所射殺。(『三國志 五』p.1100)

吳錄曰:堅時年三十七。(『三國志 五』p.1101)

〔初平〕三年春正月丁丑,大赦天下。袁術遣將孫堅攻劉表於襄陽,堅戰歿。(『後漢書 二』p.372)

英雄記曰:堅以初平四年正月七日死。(『三國志 五』p.1101)

19

とうしょう

董承

?-200

後漢・建安五年正月壬午
西暦200年2月11日

〔建安〕五年春正月,車騎將軍董承、偏將軍王服、越騎校尉种輯受密詔誅曹操,事洩。壬午,曹操殺董承等,夷三族。(『後漢書 二』p.381)

〔建安〕五年春正月,董承等謀泄,皆伏誅。(『三國志 一』p.18)

110

そうそう

曹爽

昭伯しょうはく

?-249

魏・正始十年正月戊戌
西暦249年2月9日

嘉平元年春正月[……]戊戌,有司奏收黃門張當付廷尉,考實其辭,爽與謀不軌。又尙書丁謐、鄧颺、何晏、司隸校尉畢軌、荊州刺史李勝、大司農桓範皆與爽通姦謀,夷三族。(『三國志 一』p.123)

*正始十年は四月に嘉平と改元。

110

かんはん

桓範

元則げんそく

?-249

魏・正始十年正月戊戌
西暦249年2月9日

嘉平元年春正月[……]戊戌,有司奏收黃門張當付廷尉,考實其辭,爽與謀不軌。又尙書丁謐、鄧颺、何晏、司隸校尉畢軌、荊州刺史李勝、大司農桓範皆與爽通姦謀,夷三族。(『三國志 一』p.123)

*正始十年は四月に嘉平と改元。

110

とうよう

鄧颺

玄茂げんぼう

?-249

魏・正始十年正月戊戌
西暦249年2月9日

嘉平元年春正月[……]戊戌,有司奏收黃門張當付廷尉,考實其辭,爽與謀不軌。又尙書丁謐、鄧颺、何晏、司隸校尉畢軌、荊州刺史李勝、大司農桓範皆與爽通姦謀,夷三族。(『三國志 一』p.123)

*正始十年は四月に嘉平と改元。

110

ていびつ(ひつ)

丁謐

彦靖げんせい

?-249

魏・正始十年正月戊戌
西暦249年2月9日

嘉平元年春正月[……]戊戌,有司奏收黃門張當付廷尉,考實其辭,爽與謀不軌。又尙書丁謐、鄧颺、何晏、司隸校尉畢軌、荊州刺史李勝、大司農桓範皆與爽通姦謀,夷三族。(『三國志 一』p.123)

*正始十年は四月に嘉平と改元。

110

ひつき

畢軌

昭先しょうせん

?-249

魏・正始十年正月戊戌
西暦249年2月9日

嘉平元年春正月[……]戊戌,有司奏收黃門張當付廷尉,考實其辭,爽與謀不軌。又尙書丁謐、鄧颺、何晏、司隸校尉畢軌、荊州刺史李勝、大司農桓範皆與爽通姦謀,夷三族。(『三國志 一』p.123)

*正始十年は四月に嘉平と改元。

110

りしょう

李勝

公昭こうしょう

?-249

魏・正始十年正月戊戌
西暦249年2月9日

嘉平元年春正月[……]戊戌,有司奏收黃門張當付廷尉,考實其辭,爽與謀不軌。又尙書丁謐、鄧颺、何晏、司隸校尉畢軌、荊州刺史李勝、大司農桓範皆與爽通姦謀,夷三族。(『三國志 一』p.123)

*正始十年は四月に嘉平と改元。

110

かあん

何晏

平叔へいしゅく

?-249

魏・正始十年正月戊戌
西暦249年2月9日

嘉平元年春正月[……]戊戌,有司奏收黃門張當付廷尉,考實其辭,爽與謀不軌。又尙書丁謐、鄧颺、何晏、司隸校尉畢軌、荊州刺史李勝、大司農桓範皆與爽通姦謀,夷三族。(『三國志 一』p.123)

*正始十年は四月に嘉平と改元。

110

ちょうとう

張当

?-249

魏・正始十年正月戊戌
西暦249年2月9日

嘉平元年春正月[……]戊戌,有司奏收黃門張當付廷尉,考實其辭,爽與謀不軌。又尙書丁謐、鄧颺、何晏、司隸校尉畢軌、荊州刺史李勝、大司農桓範皆與爽通姦謀,夷三族。(『三國志 一』p.123)

*正始十年は四月に嘉平と改元。

112

りゅうべん

劉弁

少帝

173-190

後漢・初平元年正月癸丑
西暦190年3月6日

中平六年[……]夏四月[……]丙辰,帝崩于南宮嘉德殿,年三十四。戊午,皇子辯卽皇帝位,年十七。[……]九月甲戌,董卓廢帝爲弘農王。(『後漢書 二』pp.357-359)

初平元年春正月,山東州郡起兵以討董卓。辛亥,大赦天下。癸酉,董卓殺弘農王。(『後漢書 二』p.369)

*初平元年正月の癸酉の日は存在しない。

初平元年 春正月[……]癸丑〔一〕,卓殺弘農王。
〔一〕范書獻帝紀作「癸酉」。按正月壬寅朔,無癸酉,范書誤。( 袁宏撰、周天游校注『後漢紀』卷第二十六 国学导航-後漢紀校注

115

しばゆう

司馬裕

濬度しゅんと

始平王

271-277

司馬炎の子

西晋・咸寧三年正月庚寅
西暦277年3月6日

〔咸寧〕三年春正月[……]庚寅,始平王裕薨。(『晉書 一』p.67)

咸寧三年受封,其年薨,年七歲。(『晉書 六』p.1721)

118

しょうかい

鍾会

士季しき

225-264

魏・景元五年正月十八日
西暦264年3月3日

咸熙元年春正月壬戌,檻車徵鄧艾。甲子,行幸長安。壬申,使使者以璧幣祀華山。是月,鍾會反于蜀,爲衆所討;鄧艾亦見殺。(『三國志 一』p.150)

〔景元〕五年正月[……]十八日日中,[……]姜維率會左右戰,手殺五六人,衆既格斬維,爭赴殺會。會時年四十,將士死者數百人。(『三國志 三』pp.792-793)

〔咸熙元年春正月〕鍾會遂反於蜀,監軍衞瓘、右將軍胡烈攻會,斬之。(『晉書 一』p.43)

*景元五年は五月に咸熙元年となる。

118

りゅうせん

劉璿

文衡ぶんこう

224-264

劉禅の長男

魏・景元五年正月十八日
西暦264年3月3日

延熙元年正月策曰[……]時年十五。(『三國志 五』p.908)

咸熙元年正月,鍾會作亂於成都,璿爲亂兵所害。(『三國志 五』p.908)

〔景元〕五年正月[……]十八日日中,[……]姜維率會左右戰,手殺五六人,衆既格斬維,爭赴殺會。(『三國志 三』pp.792-793)

118

きょうい

姜維

伯約はくやく

202-264

魏・景元五年正月十八日
西暦264年3月3日

建興六年,丞相諸葛亮軍向祁山,[……]亮辟維爲倉曹掾,加奉義將軍,封當陽亭侯,時年二十七。(『三國志 四』p.1063)

會既構鄧艾,艾檻車徵,因將維等詣成都,自稱益州牧以叛。欲授維兵五萬人,使爲前驅。魏將士憤怒,殺會及維,維妻子皆伏誅。(『三國志 四』p.1067)

〔景元〕五年正月[……]十八日日中,[……]姜維率會左右戰,手殺五六人,衆既格斬維,爭赴殺會。會時年四十,將士死者數百人。(『三國志 三』pp.792-793)

118

ちょうよく

張翼

伯恭はくきょう

?-264

魏・景元五年正月十八日
西暦264年3月3日

景耀二年,遷左車騎將軍,領冀州刺史。六年,與維咸在劍閣,共詣降鍾會于涪。明年正月,隨會至成都,為亂兵所殺。(『三國志 四』p.1075)

〔景元〕五年正月[……]十八日日中,[……]姜維率會左右戰,手殺五六人,衆既格斬維,爭赴殺會。(『三國志 三』pp.792-793)

118

さんとう

山濤

巨源きょげん

205-283

西晋・太康四年正月戊午
西暦283年3月3日

〔太康〕四年春正月[……]戊午,司徒山濤薨。(『晉書 一』p.74)

以太康四年薨,時年七十九。(『晉書 五』p.1227)

122

ていぼう

鄭袤

林叔りんしゅく

189-273

西晋・泰始九年正月辛酉
西暦273年2月26日

〔泰始〕九年春正月辛酉,司空、密陵侯鄭袤薨。(『晉書 一』p.62)

九年薨,時年八十五。(『晉書 四』p.1251)

122

しばかん

司馬幹

子良しりょう

平原王

232-311

司馬懿の子

西晋・永嘉五年正月庚辰
西暦311年2月26日

〔永嘉〕五年春正月[……]庚辰,太保、平原王幹薨。(『晉書 一』p.122)

永嘉五年薨,時年八十。(『晉書 四』p.1120)

123

そうそう

曹操

孟徳もうとく

武帝

155-220

後漢・建安二十五年正月庚子
西暦220年3月15日

〔建安〕二十五年春正月,[……]庚子,王崩于洛陽,年六十六。(『三國志 一』p.52)

124*注

おうさん

王粲

仲宣ちゅうせん

177-217

後漢・建安二十二年正月二十四日戊申
西暦217年2月17日

建安二十一年,從征吳。二十二年春,道病卒,時年四十一。(『三國志 三』p.599)

建安二十二年、正月二十四日戊申、魏故侍中關内侯王君卒。(竹田晃『新釈漢文大系 第93巻 文選(文章篇)下』(明治書院、2001年)p.416 曹植「王仲宣誄 幷序」)

*注:24日は戊午で、戊申は14日。「二」「一」で、14日の誤りの可能性。

128

そうりん

曹林

沛王

?-256

曹操の子

魏・正元三年正月乙巳
西暦256年3月11日

甘露元年春正月辛丑,青龍見軹縣井中。乙巳,沛王林薨。(『三國志 一』p.134)

*正元三年が六月から甘露元年となる。

130

かくわい

郭淮

伯済はくせい

?-255

魏・正元二年正月癸未
西暦255年2月23日

〔正元〕二年春正月乙丑,鎭東將軍毌丘儉、揚州刺史文欽反。(戊戌)〔戊寅〕,大將軍司馬景王征之。癸未,車騎將軍郭淮薨。(『三國志 一』pp.132-133)

正元二年薨,追贈大將軍,諡曰貞侯。子統嗣。(『三國志 三』p.736)

1?

げんこう

厳綱

?-192

後漢・初平三年正月

〔初平〕三年春正月[……]袁紹及公孫瓚戰于界橋,瓚軍大敗。(『後漢書 二』p.372)

[……]瓚軍大敗,斬其所置冀州刺史嚴綱,獲甲首千餘級。(『後漢書 九』p.2380)

1?

えんたん

袁譚

顕思けんし

?-205

袁紹の子

後漢・建安十年正月

〔建安〕十年春正月,曹操破袁譚於青州,斬之。(『後漢書 二』p.383)

〔建安〕十年春正月,攻譚,破之,斬譚,誅其妻子,冀州平。(『三國志 一』p.27)

〔建安〕十年正月,攻拔之,斬譚及圖等。(『三國志 一』p.206)

1?

かくと

郭図

公則こうそく

?-205

後漢・建安十年正月

〔建安〕十年正月,攻拔之,斬譚及圖等。(『三國志 一』p.206)

1?

りょうきょう(こう)

梁興

?-212

後漢・建安十七年正月

〔建安〕十七年,[……]圍遂、超餘黨梁興於鄠,拔之,斬興,封博昌亭侯。(『三國志 一』p.270)

〔建安〕十七年春正月,[……]馬超餘衆梁興等屯藍田,使夏侯淵擊平之。(『晉書 一』p.36)

1?

おうひつ

王必

?-218

後漢・建安二十三年正月

〔建安〕二十三年春正月,漢太醫令吉本與少府耿紀、司直韋晃等反,攻許,燒丞相長史王必營,必與潁川典農中郞將嚴匡討斬之。[二]三輔決錄注曰:[……]後十餘日,必竟以創死。(『三國志 一』p.50)

〔建安〕二十三年春正月甲子,少府耿紀、丞相司直韋晃起兵誅曹操,不克,夷三族。(『後漢書 二』p.389)

1?

かこうえん

夏侯淵

妙才みょうさい

?-219

後漢・建安二十四年正月

〔建安〕二十四年春正月,仁屠宛,斬音。夏侯淵與劉備戰於陽平,爲備所殺。(『三國志 一』p.52)

〔建安〕二十四年正月,備夜燒圍鹿角。淵使張郃護東圍,自將輕兵護南圍。備挑郃戰,郃軍不利。淵分所將兵半助郃,爲備所襲,淵遂戰死。諡曰愍侯。(『三國志 一』p.272)

1?

かこうえい

夏侯栄

幼権ようけん

207-219

夏侯淵の子

後漢・建安二十四年正月

世語曰[……]漢中之敗,榮年十三,左右提之走,不肯,曰:『君親在難,焉所逃死!』乃奮劍而戰,遂沒陳。(『三國志 一』pp.273-274)

〔建安〕二十四年春正月,仁屠宛,斬音。夏侯淵與劉備戰於陽平,爲備所殺。(『三國志 一』p.52)

1?

もうたつ

孟達

子度しと/たく

?-228

魏・太和二年正月

太和元年[……]十二月,[……]新城太守孟達反,詔驃騎將軍司馬宣王討之。二年春正月,宣王攻破新城,斬達,傳其首。(『三國志 一』pp.92-94)

1?

そんりょ

孫慮

子智しち

213-232

孫権の次男

呉・嘉禾元年正月

嘉禾元年春正月,建昌侯慮卒。(『三國志 五』p.1136)

*『建康実録』では同二月。

年二十,嘉禾元年卒。(『三國志 五』p.1367)

1?

そうき

曹徽

東平王

?-242

曹操の子

魏・正始三年正月

〔正始〕三年春正月,東平王徽薨。(『三國志 一』p.120)

正始三年薨。子翕嗣。(『三國志 二』p.589)

1?

ぜんそう

全琮

子璜しこう

196-247

呉・赤烏十年正月

〔赤烏〕十年春正月,右大司馬全琮卒。(『三國志 五』p.1146)

〔赤烏十二年〕冬,右大司馬全琮卒。[……]卒,時年五十二,帝流涕。(許嵩撰、張忱石点校『建康實録 上』(中華書局、1986年)pp.57-58 卷第二 太祖下)

*赤烏十二年・五十二歳卒の記述は『三国志』呉主伝の赤烏十年卒と矛盾する(全琮伝とは一致)が、『三国志』には没年齢の記載がない。

1?

ひい

費禕

文偉ぶんい

?-253

蜀・延熙十六年正月

〔延熙〕十六年春正月,大將軍費禕爲魏降人郭循所殺于漢壽。(『三國志 四』p.899)

1?*注

ぶんきん

文欽

仲若ちゅうじゃく

?-258

呉・太平三年正月

〔太平〕三年春正月,諸葛誕殺文欽。(『三國志 五』p.1155)

〔甘露〕三年正月,誕、欽、咨等大爲攻具,晝夜五六日攻南圍,欲決圍而出。[……]誕遂殺欽。(『三國志 三』p.772)

〔甘露〕三年春正月壬寅,誕、欽等出攻長圍,諸軍逆擊,走之。初,誕、欽內不相協,及至窮蹙,轉相疑貳。會欽計事與誕忤,誕手刃殺欽。(『晉書 一』p.35)

*注:正月壬寅(7日)に出陣したが勝てず、五、六日後に城に戻ったのち殺された。

1?

りゅうそう

劉琮

西河王

?-262

劉禅の子

蜀・景耀五年正月

〔景耀〕五年春正月,西河王琮卒。(『三國志 四』p.899)

1?*注

とうがい

鄧艾

士載しさい

?-264

魏・景元五年正月

咸熙元年春正月壬戌,檻車徵鄧艾。[……]是月,鍾會反于蜀,爲衆所討;鄧艾亦見殺。(『三國志 一』p.150)

會已死,艾本營將士追出艾檻車,迎還。瓘遣田續等討艾,遇於緜竹西,斬之。(『三國志 三』p.781)

*注:壬戌は1日。鍾会が殺されたのが18日なので、18日より後。景元五年は五月に咸熙元年となる。

1?

とうちゅう

鄧忠

?-264

魏・景元五年正月

咸熙元年春正月壬戌,檻車徵鄧艾。[……]是月,鍾會反于蜀,爲衆所討;鄧艾亦見殺。(『三國志 一』p.150)

瓘遣田續等討艾,遇於緜竹西,斬之。子忠與艾俱死,餘子在洛陽者悉誅,徙艾妻子及孫於西域。(『三國志 三』p.781)

1?

しさん

師纂

?-264

魏・景元五年正月

咸熙元年春正月壬戌,檻車徵鄧艾。[……]是月,鍾會反于蜀,爲衆所討;鄧艾亦見殺。(『三國志 一』p.150)

世語曰:師纂亦與艾俱死。(『三國志 三』p.781)

1?

えいけい

衛継

子業しぎょう

?-264

魏・景元五年正月

鍾會之亂,遇害成都。(『三國志 四』p.1091)

咸熙元年春正月[……]是月,鍾會反于蜀,爲衆所討;鄧艾亦見殺。(『三國志 一』p.150)

*景元五年は五月に咸熙元年となる。

111

ていちゅう

鄭沖

文和

?-274

西晋・泰始十年閏正月癸酉
西暦274年3月5日

〔泰始〕十年春正月[……]閏月癸酉,太傅、壽光公鄭沖薨。(『晉書 一』p.63)

〔泰始〕九年,沖又抗表致仕。詔曰:「太傅韞德深粹,履行高潔,恬遠淸虛,確然絕世。艾服王事,六十餘載,忠肅在公,慮不及私。[……]」明年薨。(『晉書 四』pp.992-993)

*没年齢は不明だが60代と思われる。

117

しばけい

司馬珪

子璋ししょう

高陽王

?-274

司馬孚の子

西晋・泰始十年閏正月己卯
西暦274年3月11日

〔泰始〕十年春正月[……]閏月癸酉,太傅、壽光公鄭沖薨。己卯,高陽王珪薨。(『晉書 一』p.63)

泰始六年入朝,[……]十年薨,詔遣兼大鴻臚持節監護喪事,贈車騎將軍、儀同三司。(『晉書 四』p.1091)

118

しばかい

司馬瓌

子泉しせん

太原王

?-274

司馬孚の子

西晋・泰始十年閏正月庚辰
西暦274年3月12日

〔泰始〕十年春正月[……]閏月癸酉,太傅、壽光公鄭沖薨。己卯,高陽王珪薨。庚辰,太原王瓌薨。(『晉書 一』p.63)

泰始二年就國。[……]十年薨,詔曰[……](『晉書 四』p.1091)

121

かんきゅうけん

毌丘倹

仲恭ちゅうきょう

?-255

魏・正元二年閏正月甲辰
西暦255年3月16日

〔正元〕二年春正月乙丑,鎭東將軍毌丘儉、揚州刺史文欽反。[……]閏月己亥,破欽于樂嘉。欽遁走,遂奔吳。甲辰,(安風淮津)〔安風津〕都尉斬儉,傳首京都。(『三國志 一』pp.132-133)

128

しばし

司馬師

子元しげん

景帝

208-255

魏・正元二年閏正月辛亥
西暦255年3月23日

〔正元〕二年[……]閏月疾篤,使文帝總統諸軍。辛亥,崩于許昌,時年四十八。(『晉書 一』p.31)

〔正元〕二年[……]春正月[……]閏月[……]司馬景王薨于許昌。(『三國志 一』p.133)

名前没年月日出典
21

ようし

楊芷

季蘭きらん

武悼皇后

259-292

司馬炎の皇后

西晋・元康二年二月己酉
西暦292年3月6日

以咸寧二年立爲皇后。(『晉書 四』p.955)

〔元康〕二年春二月己酉,賈后弒皇太后于金墉城。(『晉書 一』p.92)

初,太后尙有侍御十餘人,賈后奪之,絕膳而崩,時年三十四,在位十五年。(『晉書 四』p.956)

21

しばし

司馬熾

豊度ほうと

懐帝

284-313

西晋・永嘉七年二月丁未
西暦313年3月14日

〔永嘉〕七年[……]丁未,帝遇弒,崩于平陽,時年三十。(『晉書 一』p.125)

*「校文:御覽一九〇(按當作一一九)引前趙錄作「二月丁未」,通鑑同。按:正月丁丑朔,丁未宜在二月。」

23

はんちゅう

樊稠

?-195

後漢・興平二年二月乙亥
西暦195年3月2日

〔興平〕二年[……]二月乙亥,李傕殺樊稠而與郭汜相攻。(『後漢書 二』p.377)

23

ぐちゅう

虞忠

世方せいほう

?-280

西晋・咸寧六年二月庚申
西暦280年3月20日

會稽典錄曰:[……]晉征吳,忠與夷道監陸晏、晏弟中夏督景堅守不下,城潰被害。(『三國志 五』p.1327)

太康元年〔咸寧六年〕[……]二月庚申,克吳西陵,獲其鎭南將軍留憲、征南將軍成據、宜都太守虞忠。(『晉書 四』p.1209)

太康元年〔咸寧六年〕二月戊午,王濬、唐彬等克丹楊城。庚申,又克西陵,殺西陵都督、鎭軍將軍留憲,征南將軍成璩,西陵監鄭廣。(『晉書 一』p.71)

24

りくそん

陸遜

伯言はくげん

183-245

呉・赤烏八年二月乙卯
西暦245年3月19日

〔赤烏〕八年春二月,丞相陸遜卒。(『三國志 五』p.1146)

權累遣中使責讓遜,遜憤恚致卒,時年六十三,家無餘財。(『三國志 五』p.1354)

惟赤烏八年二月,粵乙卯,吳故使持節、郢州牧、左都護、丞相、江陵郡侯陸公薨。( 陸雲著、劉運好校注整理『陸士龍文集校注 上』鳳凰出版社、2010年、P636)

25

りくあん

陸晏

?-280

陸抗の長男

呉・天紀四年二月壬戌
西暦280年3月22日

天紀四年,[……]二月壬戌,晏爲王濬別軍所殺。(『三國志 五』p.1360)

太康元年[……]二月[……]壬戌,濬又克夷道樂鄉城,殺夷道監陸晏、水軍都督陸景。(『晉書 一』p.71)

26*注

りくけい

陸景

士仁しじん

250-280

陸抗の次男

呉・天紀四年二月癸亥
西暦280年3月23日

天紀四年,[……]二月壬戌,晏爲王濬別軍所殺。癸亥,景亦遇害,時年三十一。(『三國志 五』p.1360)

太康元年[……]二月[……]壬戌,濬又克夷道樂鄉城,殺夷道監陸晏、水軍都督陸景。(『晉書 一』p.71)

太康元年[……]二月[……]乙丑,克樂鄉,獲水軍督陸景。(『晉書 四』p.1209)

*『三国志』では呉・天紀四年二月癸亥(=西暦280年3月23日)に殺されているが、『晋書』武帝紀では晋・太康元年二月壬戌(同3月22日)のこととされており、王濬伝では二月乙丑(同3月25日)に捕らえられたことになっている。

28

かくじょおう

郭女王

*注

女王じょおう

文徳皇后

184-235

曹丕の皇后

魏・青龍三年二月丁巳
西暦235年3月14日

魏書曰:[……]后以漢中平元年三月乙卯生,生而有異常。(『三國志 一』p.164)

*中平元年(光和七年)三月乙卯(10日)=184年4月8日生まれ。

〔靑龍〕三年春正月[……]丁巳,皇太后崩。乙亥,隕石于壽光縣。三月庚寅,葬文德郭后,營陵于首陽陵澗西,如終制。(『三國志 一』p.104)

*不明な日付。三月庚寅(11日)に葬られており、二月(丁巳=8日、乙亥=26日)と思われる。

靑龍三年春,后崩于許昌,以終制營陵,三月庚寅,葬首陽陵西。(『三國志 一』p.166)

*注:「女王」は字で、名は不明。

211

しばこう

司馬衡

子平しへい

常山王

?-266

司馬孚の子

西晋・泰始二年二月己未
西暦266年4月2日

〔泰始〕二年[……]二月[……]己未,常山王衡薨。(『晉書 一』p.53)

〔泰始〕二年薨,[……](『晉書 四』p.1092)

212

りゅうさん

留賛

正明せいめい

183-255

魏・正元二年二月甲子
西暦255年4月5日

〔正元〕二年[……]二月[……]甲子,吳大將孫峻等衆號十萬至壽春,諸葛誕拒擊破之,斬吳左將軍留贊,獻捷于京都。(『三國志 一』p.133)

〔五鳳〕二年[……]二月,[……]留贊爲誕別將蔣班所敗于菰陂,贊及將軍孫楞、蔣脩等皆遇害。(『三國志 五』p.1152)

遂被害,時年七十三,衆庶痛惜焉。(『三國志 五』p.1445)

212

しばきん

司馬覲

思祖しそ

琅邪王

256-290

司馬伷の子

西晋・太熙元年二月辛丑
西暦290年3月9日

太熙元年[……]二月辛丑,東夷七國朝貢。琅邪王覲薨。(『晉書 一』p.80)

太熙元年薨,時年三十五。(『晉書 四』p.1122)

217

ごえん

伍延

?-280

西晋・咸寧六年二月甲戌
西暦280年4月3日

〔天紀〕四年春,[……]濬、彬所至,則土崩瓦解,靡有禦者。預又斬江陵督伍延,渾復斬丞相張悌、丹楊太守沈瑩等,所在戰克。(『三國志 五』p.1172)

太康元年〔咸寧六年〕[……]二月[……]甲戌,杜預克江陵,斬吳江陵督伍延;平南將軍胡奮克江安。(『晉書 一』p.71)

218

しばふ

司馬孚

叔達しゅくたつ

安平王

180-272

西晋・泰始八年二月壬辰
西暦272年4月3日

〔泰始〕八年[……]二月乙亥,禁彫文綺組非法之物。壬辰,太宰、安平王孚薨。(『晉書 一』p.61)

泰始八年薨,時年九十三。(『晉書 四』p.1085)

219*注

せきほう

石苞

仲容ちゅうよう

?-272

西晋・泰始八年二月癸巳
西暦272年4月4日
注:異説あり

泰始八年薨。帝發哀於朝堂,賜祕器,朝服一具,衣一襲,錢三十萬,布百匹。及葬,給節、幢、麾、曲蓋、追鋒車、鼓吹、介士、大車,皆如魏司空陳泰故事,車駕臨送於東掖門外。策諡曰武。(『晉書 四』p.1003)

〔泰始〕九年[……]二月癸巳,司徒、樂陵公石苞薨。(『晉書 一』p.62)

*注:武帝紀と石苞伝で年が異なる。

220

しょかつたん

諸葛誕

公休こうきゅう

?-258

魏・甘露三年二月乙酉
西暦258年4月10日

〔甘露〕三年[……]二月乙酉,攻而拔之,斬誕,夷三族。(『晉書 一』p.35)

220

うせん

于詮

?-258

魏・甘露三年二月乙酉
西暦258年4月10日

大將軍司馬胡奮部兵逆擊,斬誕,傳首,夷三族。[……]干寶晉紀曰:[……]吳將于詮曰:「大丈夫受命其主,以兵救人,旣不能克,又束手於敵,吾弗取也。」乃免冑冒陳而死。(『三國志 三』p.773)

〔甘露〕三年[……]二月乙酉,攻而拔之,斬誕,夷三族。(『晉書 一』p.35)

222*注

かこうげん

夏侯玄

太初たいしょ

209-254

魏・嘉平六年二月庚戌
西暦254年3月27日

〔嘉平〕六年春二月[……]庚戌,中書令李豐與皇后父光祿大夫張緝等謀廢易大臣,以太常夏侯玄爲大將軍。事覺,諸所連及者皆伏誅。辛亥,大赦。(『三國志 一』p.128)

嘉平六年二月,[……]於是豐、玄、緝、敦、賢等皆夷三族,其餘親屬徙樂浪郡。玄格量弘濟,臨斬東巿,顏色不變,舉動自若,時年四十六。(『三國志 一』p.299)

正元元年春正月,[……]逮捕玄、緝等,皆夷三族。(『晉書 一』p.27)

*注:『晋書』文帝紀では正月となっているが日は記されていない。

222*注

りほう

李豊

安国あんこく

?-254

魏・嘉平六年二月庚戌
西暦254年3月27日

〔嘉平〕六年春二月[……]庚戌,中書令李豐與皇后父光祿大夫張緝等謀廢易大臣,以太常夏侯玄爲大將軍。事覺,諸所連及者皆伏誅。辛亥,大赦。(『三國志 一』p.128)

嘉平六年二月,[……]大將軍微聞其謀,請豐相見,豐不知而往,卽殺之。(『三國志 一』p.299)

正元元年春正月,[……]帝密知之,使舍人王羨以車迎豐。豐見迫,隨羨而至,帝數之。豐知禍及,因肆惡言。帝怒,遣勇士以刀鐶築殺之。(『晉書 一』p.27)

*注:『晋書』文帝紀では正月となっているが日は記されていない。

222

りとう

李韜

?-254

李豊の子

魏・嘉平六年二月庚戌
西暦254年3月27日

〔嘉平〕六年春二月[……]庚戌,中書令李豐與皇后父光祿大夫張緝等謀廢易大臣,以太常夏侯玄爲大將軍。事覺,諸所連及者皆伏誅。辛亥,大赦。(『三國志 一』p.128)

魏書曰:豐子韜,以尙主,賜死獄中。(『三國志 一』p.302)

222*注

ちょうしゅう

張緝

敬仲けいちゅう

?-254

魏・嘉平六年二月庚戌
西暦254年3月27日

〔嘉平〕六年春二月[……]庚戌,中書令李豐與皇后父光祿大夫張緝等謀廢易大臣,以太常夏侯玄爲大將軍。事覺,諸所連及者皆伏誅。辛亥,大赦。(『三國志 一』p.128)

嘉平六年二月,[……]於是豐、玄、緝、敦、賢等皆夷三族,其餘親屬徙樂浪郡。(『三國志 一』p.299)

正元元年春正月,[……]逮捕玄、緝等,皆夷三族。(『晉書 一』p.27)

*注:『晋書』文帝紀では正月となっているが日は記されていない。

225*注

せきほう

石苞

仲容ちゅうよう

?-273

西晋・泰始九年二月癸巳
西暦273年3月30日
注:異説あり

〔泰始〕九年[……]二月癸巳,司徒、樂陵公石苞薨。(『晉書 一』p.62)

泰始八年薨。帝發哀於朝堂,賜祕器,朝服一具,衣一襲,錢三十萬,布百匹。及葬,給節、幢、麾、曲蓋、追鋒車、鼓吹、介士、大車,皆如魏司空陳泰故事,車駕臨送於東掖門外。策諡曰武。(『晉書 四』p.1003)

*注:武帝紀と石苞伝で年が異なる。

2?*注

ちょうよう

張楊

稚叔ちしゅく

?-199

後漢・建安四年二月
注:異説あり

〔建安〕四年,張楊爲其將楊醜所殺。(『後漢書 八』p.2343)

〔建安〕四年春二月,公還至昌邑。張楊將楊醜殺楊,眭固又殺醜,以其衆屬袁紹,屯射犬。夏四月,[……](『三國志 一』p.17)

〔建安〕三年[……]冬十一月,盜殺大司馬張楊。(『後漢書 二』p.380)

*注:後漢書孝献帝紀では三年十一月、魏書武帝紀では四年二月頃。

2?*注

ようしゅう

楊醜

?-199

後漢・建安四年二月

〔建安〕四年春二月,公還至昌邑。張楊將楊醜殺楊,眭固又殺醜,以其衆屬袁紹,屯射犬。夏四月,[……](『三國志 一』p.17)

*注:三月の可能性も。張楊殺害は三年十一月説もあり。

2?

じょかん

徐幹

偉長いちょう

171頃-218頃

後漢・建安二十三年二月

幹、琳、瑒、楨二十二年卒。(『三國志 三』p.602)

文義未究,年四十八,建安二十三年春二月遭厲疾,大命隕頹,豈不痛哉!( 徐幹『中論』序 Wikisource / Chinese Text Project

2?

ちょうしょう

張昭

子布しふ

156-236

呉・嘉禾五年二月

〔嘉禾〕五年春,[……]二月,武昌言甘露降於禮賓殿。輔吳將軍張昭卒。(『三國志 五』pp.1140-1141)

年八十一,嘉禾五年卒。(『三國志 五』p.1223)

2?

はんしゅく

潘淑

*注

?-252

孫権の妻、孫亮の母

呉・神鳳元年二月

〔太元〕二年[……]二月,大赦,改元爲神鳳。皇后潘氏薨。(『三國志 五』p.1149)

侍疾疲勞,因以羸疾,諸宮人伺其昬臥,共縊殺之,託言中惡。後事泄,坐死者六七人。權尋薨,合葬蔣陵。(『三國志 五』p.1199)

*注:呉書には諱の記載がないが、建康実録の伝に「后謹淑,會稽句章人。」とあり「謹」は「諱」の誤りという説。

2?

かんろ

管輅

公明こうめい

209-256

魏・正元三年二月

正始九年舉秀才。[一]輅別傳曰:[……]孔曜言:「平原管輅字公明,年三十六,[……](『三國志 三』p.819)

正元二年,[……]明年二月卒,年四十八。[一][……]臣松之案:[……]輅自說,云「本命在寅」,則建安十五年生也。至正始九年,應三十九,而傳云三十六,以正元三年卒,應四十七,傳云四十八,皆爲不相應也。(『三國志 三』p.826)

*注で矛盾が指摘されているが、記述に従えば生没年は209〜256年。

2?

ちょうしょうほ

張昌蒲

*注

昌蒲しょうほ

199-257

鍾繇の側室、鍾会の母

魏・甘露二年二月

其母傳曰[……]年五十有九,甘露二年二月暴疾薨。(『三國志 三』p.785)

*注:「昌蒲」は字で、名は不明。

2?*注

ちょうてい

張悌

巨先きょせん

?-280

西晋・咸寧六年二月

〔天紀〕四年春,[……]濬、彬所至,則土崩瓦解,靡有禦者。預又斬江陵督伍延,渾復斬丞相張悌、丹楊太守沈瑩等,所在戰克。(『三國志 五』p.1172)

太康元年〔咸寧六年〕二月[……]王渾、周浚與吳丞相張悌戰于版橋,大破之,斬悌及其將孫震、沈瑩,傳首洛陽。(『晉書 一』p.71)

*注:*2月の18日より後。

2?*注

しんえい

沈瑩

?-280

西晋・咸寧六年二月

〔天紀〕四年春,[……]濬、彬所至,則土崩瓦解,靡有禦者。預又斬江陵督伍延,渾復斬丞相張悌、丹楊太守沈瑩等,所在戰克。(『三國志 五』p.1172)

太康元年〔咸寧六年〕二月[……]王渾、周浚與吳丞相張悌戰于版橋,大破之,斬悌及其將孫震、沈瑩,傳首洛陽。(『晉書 一』p.71)

*注:*2月の18日より後。

2?*注

そんしん

孫震

?-280

西晋・咸寧六年二月

太康元年〔咸寧六年〕二月[……]王渾、周浚與吳丞相張悌戰于版橋,大破之,斬悌及其將孫震、沈瑩,傳首洛陽。(『晉書 一』p.71)

*注:*2月の18日より後。

2?

こふん

胡奮

玄威げんい

?-288

西晋・太康九年二月

〔太康〕九年[……]二月,尙書右僕射、陽夏侯胡奮卒,以尙書朱整爲尙書右僕射。(『晉書 一』p.78)

名前没年月日出典
34

おうしゅん

王浚

彭祖ほうそ

252-314

西晋・建興二年三月癸酉
西暦314年4月4日

年十五,沈薨,無子,親戚共立浚爲嗣,拜駙馬都尉。(『晉書 四』p.1146)

〔泰始〕二年[……]夏五月[……]壬子,驃騎將軍博陵公王沈卒。(『晉書 一』p.54)

〔建興〕二年[……]三月癸酉,石勒陷幽州,殺侍中、大司馬、幽州牧、博陵公王浚,焚燒城邑,害萬餘人。(『晉書 一』p.128)

36

りゅうきょう

劉協

伯和はくか

献帝

181-234

魏・青龍二年三月庚寅
西暦234年4月21日

中平六年四月,少帝卽位,封帝爲勃海王,徙封陳留王。九月甲戌,卽皇帝位,年九歲。(『後漢書 二』p.367)

魏靑龍二年三月庚寅,山陽公薨。自遜位至薨,十有四年,年五十四,謚孝獻皇帝。(『後漢書 二』p.391)

37

はいしゅう

裴秀

季彦きげん

224-271

西晋・泰始七年三月丙戌
西暦271年4月3日

〔泰始〕七年[……]三月,[……]丙戌,司空、鉅鹿公裴秀薨。(『晉書 一』p.60)

泰始七年薨,時年四十八。(『晉書 四』p.1040)

38

ぶんよう(おう)

文鴦

*注

238-291

西晋・永平元年三月辛卯
西暦291年4月23日

〔正元〕二年春正月,[……]鎭東大將軍毋丘儉、揚州刺史文欽舉兵作亂,[……]欽進軍將攻艾,帝潛軍銜枚,徑造樂嘉,與欽相遇。欽子鴦,年十八,勇冠三軍,[……](『晉書 一』p.30)

永平元年[……]三月辛卯,誅太傅楊駿,駿弟衞將軍珧,太子太保濟,中護軍張劭,散騎常侍段廣、楊邈,左將軍劉預,河南尹李斌,中書令蔣俊,東夷校尉文淑,尙書武茂,皆夷三族。(『晉書 一』p.90)

*注:別名「淑」または「俶」。鴦は幼名とも。

38

ようしゅん

楊駿

文長ぶんちょう

?-291

西晋・永平元年三月辛卯
西暦291年4月23日

永平元年[……]三月辛卯,誅太傅楊駿,駿弟衞將軍珧,太子太保濟,中護軍張劭,散騎常侍段廣、楊邈,左將軍劉預,河南尹李斌,中書令蔣俊,東夷校尉文淑,尙書武茂,皆夷三族。(『晉書 一』p.90)

38

ようよう

楊珧

文琚ぶんきょ

?-291

西晋・永平元年三月辛卯
西暦291年4月23日

永平元年[……]三月辛卯,誅太傅楊駿,駿弟衞將軍珧,太子太保濟,中護軍張劭,散騎常侍段廣、楊邈,左將軍劉預,河南尹李斌,中書令蔣俊,東夷校尉文淑,尙書武茂,皆夷三族。(『晉書 一』p.90)

38

ようせい

楊済

文通ぶんつう

?-291

西晋・永平元年三月辛卯
西暦291年4月23日

永平元年[……]三月辛卯,誅太傅楊駿,駿弟衞將軍珧,太子太保濟,中護軍張劭,散騎常侍段廣、楊邈,左將軍劉預,河南尹李斌,中書令蔣俊,東夷校尉文淑,尙書武茂,皆夷三族。(『晉書 一』p.90)

38

ぶぼう

武茂

季夏きか

?-291

武陔の弟

西晋・永平元年三月辛卯
西暦291年4月23日

永平元年[……]三月辛卯,誅太傅楊駿,駿弟衞將軍珧,太子太保濟,中護軍張劭,散騎常侍段廣、楊邈,左將軍劉預,河南尹李斌,中書令蔣俊,東夷校尉文淑,尙書武茂,皆夷三族。(『晉書 一』p.90)

潁川荀愷年少于茂,卽武帝姑子,自負貴戚,欲與茂交,距而不答,由是致怨。及楊駿誅,愷時爲僕射,以茂駿之姨弟,陷爲逆黨,遂見害。(『晉書 四』p.1285)

314

しばゆう

司馬攸

大猷たいゆう

斉王

248-283

西晋・太康四年三月癸丑
西暦283年4月27日

〔太康〕四年[……]三月辛丑朔,日有蝕之。癸丑,大司馬齊王攸薨。(『晉書 一』p.74)

辭出信宿,歐血而薨,時年三十六。(『晉書 四』pp.1134-1135)

315

ろきん

盧欽

子若しじゃく

?-278

西晋の尚書左僕射、盧毓の子

西晋・咸寧四年三月甲申
西暦278年4月24日

〔咸寧〕四年[……]三月甲申,尙書左僕射盧欽卒。(『晉書 一』p.68)

咸寧四年卒,[……]諡曰元。(『晉書 四』p.1255)

319

そうじん

曹仁

子孝しこう

168-223

魏・黄初四年三月丁未
西暦223年5月6日

〔黃初〕四年[……]三月丙申,行自宛還洛陽宮。癸卯,月犯心中央大星。丁未,大司馬曹仁薨。是月大疫。(『三國志 一』p.82)

黃初四年薨,諡曰忠侯。(『三國志 一』p.276)

魏書曰:仁時年五十六。(『三國志 一』p.276)

319

しばえつ

司馬越

元超げんちょう

東海王

?-311

司馬泰の子、八王の乱の王の一人

西晋・永嘉五年三月丙子
西暦311年4月23日

〔永嘉〕五年[……]三月戊午,詔下東海王越罪狀,告方鎭討之。以征東大將軍苟晞爲大將軍。丙子,東海王越薨。(『晉書 一』p.122)

321

おうげんき

王元姫

文明皇后

217-268

王粛の娘、司馬昭の妻

西晋・泰始四年三月戊子
西暦268年4月20日

〔泰始〕四年[……]三月戊子,皇太后王氏崩。(『晉書 一』p.57)

〔泰始〕四年,后崩,時年五十二,合葬崇陽陵。(『晉書 四』p.951)

322

しばいつ

司馬遹

熙祖きそ

愍懐太子

278-300

司馬衷の太子

西晋・永康元年三月癸未
西暦300年4月27日

永康元年[……]三月,尉氏雨血,妖星見于南方。癸未,賈后矯詔害庶人遹于許昌。(『晉書 一』p.96)

三月,矯詔使黃門孫慮齎至許昌以害太子。[……]時年二十三。(『晉書 五』p.1462)

3?

こうそんさん

公孫瓚

伯珪はくけい

?-199

後漢・建安四年三月

〔建安〕四年春三月,袁紹攻公孫瓚于易京,獲之。(『後漢書 二』p.380)

建安四年,紹悉軍圍之。[……]瓚自知必敗,盡殺其妻子,乃自殺。(『三國志 一』p.244)

3?

かんせい

関靖

士起しき

?-199

後漢・建安四年三月

〔建安〕四年春三月,袁紹攻公孫瓚于易京,獲之。(『後漢書 二』p.380)

關靖見瓚敗,歎恨曰:「前若不止將軍自行,未必不濟。吾聞君子陷人於危,必同其難,豈可以獨生乎!」乃策馬赴紹軍而死。(『後漢書 八』p.2365)

3?

こうかん

高幹

元才げんさい

?-206

後漢・建安十一年三月

〔建安〕十一年春正月,公征幹。幹聞之,乃留其別將守城,走入匈奴,求救於單于,單于不受。公圍壺關三月,拔之。幹遂走荆州,上洛都尉王琰捕斬之。(『三國志 一』p.28)

〔建安〕十一年[……]三月,曹操破高幹於幷州,獲之。[一]典論曰:「上洛都尉王琰敗之,追斬其首。」(『後漢書 二』p.384)

3?

ごらん

呉蘭

?-218

後漢・建安二十三年三月

〔建安〕二十三年,先主率諸將進兵漢中。分遣將軍吳蘭、雷銅等入武都,皆爲曹公軍所沒。(『三國志 四』p.884)

〔建安〕二十三年正月[……]曹洪破吳蘭,斬其將任夔等。三月,張飛、馬超走漢中,陰平氐強端斬吳蘭,傳其首。(『三國志 一』p.51)

3?

そうしん

曹真

子丹したん

?-231

魏・太和五年三月

〔太和〕五年春正月,帝耕于籍田。三月,大司馬曹眞薨。(『三國志 一』p.98)

3?

そんしょう

孫韶

公礼こうれい

188-241

呉・赤烏四年三月

〔建安〕九年,權弟丹楊太守翊爲左右所害,以從兄瑜代翊。(『三國志 五』p.1116)

及翊遇害,河馳赴宛陵,[……]遂殺河,[……](『三國志 五』p.1214)

韶年十七,收河餘衆,繕治京城,起樓櫓,脩器備以禦敵。(『三國志 五』p.1216)

赤烏四年卒。(『三國志 五』p.1216)

〔赤烏〕四年[……]三月,右將軍孫韶卒。(許嵩撰、張忱石点校『建康實録 上』(中華書局、1986年)p.47 卷第二 太祖下)

3?

まんちょう

満寵

伯寧はくねい

?-242

魏・正始三年三月

〔正始〕三年春正月,東平王徽薨。三月,太尉滿寵薨。(『三國志 一』p.120)

正始三年薨,諡曰景侯。(『三國志 三』p.725)

3?

しゅぜん

朱然

義封ぎほう

182-249

呉・赤烏十二年三月

至權統事,以然爲餘姚長,時年十九。(『三國志 五』p.1305)

〔建安〕五年,策薨,以事授權,權哭未及息。(『三國志 五』p.1115)

〔赤烏〕十二年春三月,左大司馬朱然卒。(『三國志 五』p.1147)

年六十八,赤烏十二年卒,權素服舉哀,爲之感慟。(『三國志 五』p.1308)

3?

ろいく

盧毓

子家しか

183-257

魏・甘露二年三月

盧毓字子家,涿郡涿人也。父植,有名於世。毓十歲而孤,遇本州亂,二兄死難。(『三國志 三』p.650)

初平三年卒。(『後漢書 八』p.2119)

〔甘露〕二年春二月,青龍見溫縣井中。三月,司空盧毓薨。(『三國志 一』p.139)

甘露二年薨,諡曰成侯。(『三國志 三』p.652)

3?

じょしょう

徐紹

*注

?-265

呉・元興二年三月

咸熙元年[……]冬十月丁亥,奏遣吳人相國參軍徐劭、散騎常侍水曹屬孫彧使吳,喻孫晧以平蜀之事,致馬錦等物,以示威懷。(『晉書 一』p.44)

甘露元年〔元興二年〕三月,晧遣使隨紹、彧報書曰[……]紹行到濡須,召還殺之,徙其家屬建安,始有白紹稱美中國者故也。夏四月,蔣陵言甘露降,於是改年大赦。(『三國志 五』p.1164)

*注:姓名が『三国志』では「徐紹」、『晋書』では「徐韶」「徐劭」「符劭」と異なる。

3?

ていこ

丁固

子賤しせん

198-273

呉・鳳皇二年三月

〔鳳皇〕二年春三月,[……]司徒丁固卒。(『三國志 五』p.1170)

會稽典錄曰:[……]覽子固,字子賤,本名密,避滕密,改作固。[……]晧悖虐,固與陸凱、孟宗同心憂國,年七十六卒。(『三國志 五』pp.1323-1324)

3?*注

しんこん

岑昬

?-280

呉・天紀四年三月丙寅

〔天紀〕四年[……]三月丙寅,殿中親近數百人叩頭請晧殺岑昬,晧惶憒從之。(『三國志 五』p.1176)

*注:不明な日付。

3?

かんぽう

干宝

令升れいしょう

?-336

東晋・咸康二年三月

〔咸康〕二年[……]三月,散騎常侍干寶卒。(許嵩撰、張忱石点校『建康實録 上』(中華書局、1986年)p.188 卷第七 顯宗成皇帝)

名前没年月日出典
41

おうえん

王衍

夷甫いほ/ふ

256-311

西晋・永嘉五年四月戊子
西暦311年5月5日

〔永嘉〕五年[……]四月戊子,石勒追東海王越喪,及于東郡,將軍錢端戰死,軍潰,太尉王衍、吏部尙書劉望、廷尉諸葛銓、尙書鄭豫、武陵王澹等皆遇害,王公已下死者十餘萬人。(『晉書 一』p.122)

時年五十六。(『晉書 四』p.1238)

42

おうしょう

王祥

休徴きゅうちょう

184-268

西晋・泰始四年四月戊戌
西暦268年4月30日

〔泰始〕四年[……]夏四月戊戌,太保、睢陵公王祥薨。(『晉書 一』p.57)

*王祥伝では泰始五年だが、記述の前後関係から四年が正しいと思われる。王隠の『晋書』も四年とする。

及疾篤,著遺令訓子孫曰:「夫生之有死,自然之理。吾年八十有五,啓手何恨。…」[……]泰始五年薨,詔賜東園祕器,朝服一具,衣一襲,錢三十萬,布帛百匹。時文明皇太后崩始踰月。(『晉書 四』p.989)

*「吾年八十有五」と言っているが、王隠の『晋書』では八十九歳没とされる。遺言から実際の死去まで数年経過?

43

ちょうか

張華

茂先ぼうせん

232-300

西晋・永康元年四月癸巳
西暦300年5月7日

永康元年[……]夏四月[……]癸巳,梁王肜、趙王倫矯詔廢賈后爲庶人,司空張華、尙書僕射裴頠皆遇害,侍中賈謐及黨與數十人皆伏誅。(『晉書 一』p.96)

遂害之於前殿馬道南,夷三族,朝野莫不悲痛之。時年六十九。(『晉書 四』p.1074)

43

かびつ(ひつ)

賈謐

長淵ちょうえん

?-300

西晋・永康元年四月癸巳
西暦300年5月7日

永康元年[……]夏四月[……]癸巳,梁王肜、趙王倫矯詔廢賈后爲庶人,司空張華、尙書僕射裴頠皆遇害,侍中賈謐及黨與數十人皆伏誅。(『晉書 一』p.96)

44

そんさく

孫策

伯符はくふ

長沙桓王

175-200

後漢・建安五年四月四日
西暦200年5月5日

建安五年,曹公與袁紹相拒於官渡,策陰欲襲許,迎漢帝,密治兵,部署諸將。未發,會爲故吳郡太守許貢客所殺。[……]至夜卒,時年二十六。(『三國志 五』p.1109)

〔建安〕五年,策薨,以事授權,權哭未及息。(『三國志 五』p.1115)

志林曰:[……]喜推考桓王之薨,建安五年四月四日。(『三國志 五』p.1110)

49

かんき

韓曁

公至こうし

?-238

魏・景初二年四月庚子
西暦238年4月10日

〔景初〕二年[……]夏四月庚子,司徒韓曁薨。(『三國志 一』p.112)

景初二年春,詔曰[……]夏四月薨,遺令斂以時服,葬爲土藏。諡曰恭侯。(『三國志 三』p.678)

49

かなんぷう

賈南風

恵賈皇后

257-300

司馬衷の皇后、賈充の娘

西晋・永康元年四月己亥
西暦300年5月13日

更娶南風,時年十五,大太子二歲。(『晉書 四』p.963)

*司馬衷が十三歳の時=泰始七年。

永康元年[……]夏四月[……]己亥,趙王倫矯詔害賈庶人于金墉城。(『晉書 一』p.96)

倫乃矯詔遣尚書劉弘等持節齎金屑酒賜后死。后在位十一年。(『晉書 四』p.966)

49

しばい

司馬威

景曜けいよう

義陽王

?-301

司馬洪の子、司馬望の嗣子

西晋・永寧元年四月癸亥
西暦301年6月1日

永寧元年[……]夏四月,癸亥,詔曰:[……]於是大赦,改元,孤寡賜穀五斛,大酺五日。誅趙王倫、義陽王威、九門侯質等及倫之黨與。(『晉書 一』pp.97-98)

49

しばりん

司馬倫

子彝しい

趙王

?-301

司馬懿の九男、八王の乱の王の一人

西晋・永寧元年四月癸亥
西暦301年6月1日

永寧元年[……]夏四月,癸亥,詔曰:[……]於是大赦,改元,孤寡賜穀五斛,大酺五日。誅趙王倫、義陽王威、九門侯質等及倫之黨與。(『晉書 一』pp.97-98)

411

りゅうこう

劉宏

霊帝

156-189

後漢・中平六年四月丙辰
西暦189年5月13日

建寧元年春正月壬午,城門校尉竇武爲大將軍。己亥,帝到夏門亭,使竇武持節,以王靑蓋車迎入殿中。庚子,卽皇帝位,年十二。改元建寧。(『後漢書 二』p.328)

中平六年[……]夏四月[……]丙辰,帝崩于南宮嘉德殿,年三十四。(校勘)年三十四 按:當作「三十三」。張燴讀史舉正謂帝卽位年十二,是年改元建寧,至此凡二十二年,時帝年三十三。(『後漢書 二』pp.357、365-366)

416

さんかん

山簡

季倫きりん

253-312

西晋・永嘉六年四月丙寅
西暦312年6月6日

〔永嘉〕六年[……]夏四月丙寅,征南將軍山簡卒。(『晉書 一』p.124)

年六十卒,追贈征南大將軍、儀同三司。(『晉書 五』p.1230)

419

しょうせい

蒋済

子通しつう

?-249

魏・嘉平元年四月乙丑
西暦249年5月18日

嘉平元年[……]夏四月乙丑,改年。丙子,太尉蔣濟薨。(『三國志 一』p.124)

420

しばえん

司馬炎

安世あんせい

武帝

236-290

西晋・太熙元年四月己酉
西暦290年5月16日

太熙元年[……]夏四月[……]己酉,帝崩于含章殿,時年五十五,葬峻陽陵,廟號世祖。(『晉書 一』p.80)

423

とうたく

董卓

仲穎ちゅうえい

?-192

後漢・初平三年四月辛巳
西暦192年5月22日

〔初平〕三年[……]夏四月辛巳,誅董卓,夷三族。(『後漢書 二』p.372)

423

とうびん

董旻

叔穎しゅくえい

?-192

董卓の弟

後漢・初平三年四月辛巳
西暦192年5月22日

弟旻、璜等及宗族老弱在郿,皆爲其羣下所斫射死。(『資治通鑑 5』p.1975)

〔初平〕三年[……]夏四月辛巳,誅董卓,夷三族。(『後漢書 二』p.372)

423

とうこう

董璜

?-192

董卓の甥

後漢・初平三年四月辛巳
西暦192年5月22日

弟旻、璜等及宗族老弱在郿,皆爲其羣下所斫射死。(『資治通鑑 5』p.1975)

〔初平〕三年[……]夏四月辛巳,誅董卓,夷三族。(『後漢書 二』p.372)

424

りゅうび

劉備

玄徳げんとく

昭烈帝

161-223

蜀・章武三年四月二十四日
西暦223年6月10日

〔章武〕三年[……]夏四月癸巳,先主殂于永安宮,時年六十三。
 亮上言於後主曰:「伏惟大行皇帝邁仁樹德,覆燾無疆,昊天不弔,寢疾彌留,今月二十四日奄忽升遐,臣妾號咷,若喪考妣。…(『三國志 四』p.891)

*章武三年四月二十四日は癸巳ではない(癸巳の日は存在しない)。

424

おうき

王基

伯輿はくよ

190-261

魏・景元二年四月辛丑
西暦261年6月9日

景元二年,[……]是歲基薨,追贈司空,諡曰景侯。(『三國志 三』p.755)

年七十二景元二年四月辛丑薨( 「魏東武侯王基碑」京都大学人文科学研究所所蔵 石刻拓本資料

425

かこうとん

夏侯惇

元譲げんじょう

?-220

後漢・延康元年四月庚午
西暦220年6月13日

〔延康〕元年[……]夏四月丁巳,饒安縣言白雉見。庚午,大將軍夏侯惇薨。(『三國志 一』p.59)

425

かじゅう

賈充

公閭こうりょ

217-282

西晋・太康三年四月庚午
西暦282年5月19日

〔太康〕三年[……]夏四月庚午,太尉、魯公賈充薨。(『晉書 一』p.73)

太康三年四月薨,時年六十六。(『晉書 四』p.1170)

426*注

そんけん

孫権

仲謀ちゅうぼう

大帝

182-252

呉・神鳳元年四月乙未
西暦252年5月21日

〔太元〕二年[……]二月,大赦,改元爲神鳳。[……]夏四月,權薨,時年七十一,諡曰大皇帝。(『三國志 五』p.1149)

與弟公安督融書曰:「今月十六日乙未,大行皇帝委棄萬國,羣下大小,莫不傷悼。…(『三國志 五』p.1434)

*神鳳元年四月乙未は26日にあたるので、「二」が脱落していると思われる。「潘眉曰吳主以四月薨推神鳳元年四月乙未乃二十六日傳文脫二字也」(盧弼『三國志集解』中華書局、1982年、P1120)

〔神鳳元年〕夏四月乙未,帝崩於内殿,遣詔太子太傅諸葛恪與太常滕胤、衞將軍孫峻等輔太子亮。(許嵩撰、張忱石点校『建康實録 上』(中華書局、1986年)p.61 巻第二 太祖下)

428

じゅんぎ

荀顗

景倩けいせん

205-274

西晋・泰始十年四月己未
西暦274年6月19日

〔泰始〕十年[……]夏四月己未,太尉、臨淮公荀顗薨。(『晉書 一』p.53)

太始十年亡,年七十,諡曰康公。( 陶弘景撰『真誥』卷十六 闡幽微第二 WikisourceInternet Archive >『欽定四庫全書』卷十六 P4|吉川忠夫、麥谷邦夫「眞誥研究 : 譯注篇」

4?

りゅうたい

劉岱

公山こうざん

?-192

後漢・初平三年四月

〔初平〕三年[……]夏四月[……]靑州黃巾擊殺兗州刺史劉岱於東平。(『後漢書 二』p.372)

4?

ほうしん

鮑信

152-192

後漢・初平三年四月

〔初平〕三年[……]夏四月,劉岱欲擊之,[……]遂進兵擊黃巾于壽張東。信力戰鬭死,僅而破之。(『三國志 一』p.9)

信殊死戰,以救太祖,太祖僅得潰圍出,信遂沒,時年四十一。(『三國志 二』p.384)

4?

りかく

李傕

稚然ちぜん

?-198

後漢・建安三年四月

〔建安〕三年夏四月,遣謁者裴茂率中郞將段煨討李傕,夷三族。(『後漢書 二』p.380)

4?

すいこ

眭固

白兔はくと

?-199

後漢・建安四年四月

〔建安〕四年[……]夏四月,[……]固使楊故長史薛洪、河內太守繆尙留守,自將兵北迎紹求救,與渙、仁相遇犬城。交戰,大破之,斬固。(『三國志 一』p.17)

4?

かこうしょう

夏侯尚

伯仁はくじん

?-226

魏・黄初七年四月

黃初[……]六年,尙疾篤,還京都,帝數臨幸,執手涕泣。尙薨,諡曰悼侯。(『三國志 一』p.294)

魏文帝黃初[……]七年[……]四月,征南大將軍夏侯尙薨。(『晉書 二』p.362)

4?

そうれい

曹礼

元城王

?-229

曹丕の子

魏・太和三年四月

〔太和〕三年夏四月,元城王禮薨。(『三國志 一』p.96)

太和三年薨。(『三國志 二』p.591)

4?

しょうよう

鍾繇

元常げんじょう

151-230

魏・太和四年四月

〔太和〕四年[……]夏四月,太傅鍾繇薨。(『三國志 一』p.97)

太和四年,繇薨。(『三國志 二』p.399)

魏鍾繇字元常穎川長社人〔…〕太和四年薨八十矣( 張懷瓘撰『書斷 卷中』景印文淵閣四庫全書)

4?

こうけん

黄権

公衡こうこう

?-240

魏・正始元年四月

正始元年[……]夏四月,車騎將軍黃權薨。(『三國志 一』p.119)

景初三年,蜀延熙二年,權遷車騎將軍、儀同三司。明年卒,諡曰景侯。(『三國志 四』p.1044)

4?

りゅうり

劉理

奉孝ほうこう

安平王

?-244

蜀・延熙七年四月

〔延熙〕七年[……]夏四月,安平王理卒。(『三國志 四』p.898)

延熙七年卒,諡曰悼王。(『三國志 四』p.908)

4?

ちょうしゅんか

張春華

宣穆皇后

189-247

司馬懿の妻

魏・正始八年四月

〔正始〕八年夏四月,夫人張氏薨。(『晉書 一』p.16)

魏正始八年崩,時年五十九,葬洛陽高原陵,追贈廣平縣君。追號宣穆妃。及武帝受禪,追尊爲皇后。(『晉書 四』p.949)

4?

しゅせき

朱績

公緒こうしょ

?-270

呉・建衡二年四月

〔建衡〕二年[……]夏四月,左大司馬施績卒。(『三國志 五』p.1167)

建衡二年卒。(『三國志 五』p.1309)

4?

りきょく

李勖

?-270

呉・建衡二年四月

〔建衡〕二年[……]李勖以建安道不通利,殺導將馮斐,引軍還。[……]四月[……]殿中列將何定曰:「少府李勖枉殺馮斐,擅徹軍退還。」勖及徐存家屬皆伏誅。(『三國志 五』pp.1167-1168)

4?

けんこう

牽弘

?-271

西晋・泰始七年四月

〔泰始〕七年[……]夏四月,[……]北地胡寇金城,涼州刺史牽弘討之。羣虜內叛,圍弘於靑山,弘軍敗,死之。(『晉書 一』p.60)

4?

とうげん

董元

?-271

西晋・泰始七年四月

〔泰始〕七年[……]夏四月,九眞太守董元爲吳將虞氾所攻,軍敗,死之。(『晉書 一』p.60)

4?

いしょう

韋昭

弘嗣こうし

201-273

呉・鳳皇二年四月

晧以爲不承用詔命,意不忠盡,遂積前後嫌忿,收曜付獄,是歲鳳皇二年也。[……]而華覈連上疏救曜曰:[……]曜年已七十,[……]晧不許,遂誅曜,徙其家零陵。子隆,亦有文學也。(『三國志 五』p.1462)

*『三国志』の華覈の上奏文からすると70歳以上。『建康實録』によると73歳。

積前後事,遂收下獄。死,時年七十三。(許嵩撰、張忱石点校『建康實録 上』(中華書局、1986年)p.104 卷第四 後主)

夏,四月,[……]吳人多言祥瑞者,吳主以問侍中韋昭,[……]而吳主怪其書垢故,更被詰責,遂誅昭,徙其家於零陵。五月[……](『資治通鑑 6』pp.2576-2578)

4?*注

ようちょう

楊肇

秀初しゅうしょ

?-275

西晋・咸寧元年四月乙丑

維咸寧元年、夏四月乙丑、晉故折衝將軍、荊州刺史、東武戴侯、滎陽楊君薨。(竹田晃『新釈漢文大系 第93巻 文選(文章篇)下』(明治書院、2001年)p.429 潘岳「楊荊州誄 幷序」)

*注:*不明な日付。

41

りいん

李胤

宣伯せんはく

?-282

西晋の司徒

西晋・太康三年閏四月丙子
西暦282年5月25日

〔太康〕三年[……]〔四〕月丙子,司徒、廣陸侯李胤薨。(『晉書 一』p.73)

太康三年薨,詔遣御史持節監喪致祠,諡曰成。(『晉書 四』p.1253)

名前没年月日出典
51

そうちゅう

曹沖

倉舒そうじょ

鄧王

198-210

後漢・建安十五年五月甲戌
西暦210年6月10日
注:異説あり

惟建安十有五年五月甲戌童子曹倉舒卒[……]十三而卒[……]( 曹丕「曹蒼舒誄」『古文苑』卷二十 Internet Archive

魏文帝蒼舒誄曰.建安十二年.五月甲戌.童子曹蒼舒卒.[……]十三而卒.( 曹丕「蒼舒誄」『藝文類聚』第四十五卷 中央研究院 漢籍電子文獻 > 人文資料庫師生版1.1Internet Archive

51*注

がくちん

楽綝

?-257

魏・甘露二年五月辛未
西暦257年5月31日
注:異説あり

〔甘露〕二年夏五月辛未,鎭東大將軍諸葛誕殺揚州刺史樂綝,(『晉書 一』p.33)

〔甘露〕二年[……]五月[……]乙亥,諸葛誕不就徵,發兵反,殺揚州刺史樂綝。(『三國志 一』p.139)

*注:晋書では5月1日、魏書では5月5日。

51

しばちゅう

司馬伷

子将ししょう

琅邪王

227-283

司馬懿の子

西晋・太康四年五月己亥
西暦283年6月12日

〔太康〕四年[……]五月己亥,大將軍、琅邪王伷薨。(『晉書 一』p.74)

太康四年薨,時年五十七。(『晉書 四』p.1121)

55*注

がくちん

楽綝

?-257

魏・甘露二年五月乙亥
西暦257年6月4日
注:異説あり

〔甘露〕二年[……]五月[……]乙亥,諸葛誕不就徵,發兵反,殺揚州刺史樂綝。(『三國志 一』p.139)

〔甘露〕二年夏五月辛未,鎭東大將軍諸葛誕殺揚州刺史樂綝,(『晉書 一』p.33)

*注:晋書では5月1日、魏書では5月5日。

57

そうぼう

曹髦

彦士げんし

高貴郷公

241-260

魏・甘露五年五月己丑
西暦260年6月2日

帝集載帝自敍始生禎祥曰:[……]惟正始三年九月辛未朔,二十五日乙未直成,予生。(『三國志 一』p.138)

*『正史 三国志 1』(ちくま学芸文庫)の訳注より「銭大昕と潘眉は正始三年を二年の誤りとする。二年の九月一日は辛未に当り、没年からいって二年でなければならないとするのである。」(「三年」に傍点)

〔甘露〕五年[……]五月己丑,高貴鄉公卒,年二十。(『三國志 一』p.143)

57

ちんたい

陳泰

玄伯げんはく

?-260

魏・甘露五年五月己丑
西暦260年6月2日

景元元年薨,追贈司空,諡曰穆侯。(『三國志 三』p.641)

*景元元年=甘露五年。

魏氏春秋曰:帝之崩也,[……]遂嘔血薨。(『三國志 三』p.642)

漢晉春秋曰、曹髦之薨、[……]昭垂涕問陳泰曰[……]歸而自殺。(目加田誠『新釈漢文大系 第77巻 世説新語(中)』(明治書院、1976年)p.364 方正第五 8 注『漢晋春秋』)

〔甘露〕五年[……]五月己丑,高貴鄉公卒,[……](『三國志 一』p.143)

57

おうけい

王経

彦緯げんい

?-260

魏・甘露五年五月己丑
西暦260年6月2日

〔甘露〕五年[……]五月己丑,高貴鄉公卒,年二十。皇太后令曰:「[……]又尙書王經,凶逆無狀,其收經及家屬皆詣廷尉。」庚寅,[……](『三國志 一』p.143)

[……]天子崩于車中。[……]太后令曰:[……]殺尙書王經,貳於我也。戊申[……](『晉書 一』p.36)

57

しばゆう

司馬肜

子徽しき

梁王

?-302

司馬懿の子

西晋・永寧二年五月乙酉
西暦302年6月18日

太安元年[……]五月乙酉,侍中、太宰、領司徒、梁王肜薨。(『晉書 一』p.99)

永康二年薨*,喪葬依汝南文成王亮故事。(『晉書 四』p.1128)

*諸史考異:惠紀,太安元年五月肜薨,是年十二月改元,五月尙是永寧二年。斠注:永康無二年,當是永寧之譌。

510

おうりょう

王淩

彦雲げんうん

172頃-251

魏・嘉平三年五月甲寅
西暦251年6月15日

〔嘉平三年〕四月[……]丙午,聞太尉王淩謀廢帝,立楚王彪,太傅司馬宣王東征淩。五月甲寅,淩自殺。(『三國志 一』p.124)

淩行到項,夜呼掾屬與決曰:「行年八十,身名並滅邪!」遂自殺。(『三國志 三』p.760)

*およそ80歳?

510

かこうたん

夏侯湛

孝若こうじゃく

243-291

西晋・元康元年五月壬辰
西暦291年6月23日

元康初,卒,年四十九。(『晉書 五』p.1499)

元康元年、夏五月壬辰、寢疾卒于延喜里第。(竹田晃『新釈漢文大系 第93巻 文選(文章篇)下』(明治書院、2001年)p.450 潘岳「夏侯常侍誄 幷序」)

510

しょかつかい

諸葛恢

道明どうめい

284-345

東晋・永和元年五月戊寅
西暦345年6月25日

永和元年[……]五月戊寅,大雩。尙書令、金紫光祿大夫、建安伯諸葛恢卒。(『晉書 一』p.192)

卒,年六十二。(『晉書 七』p.2043)

513

とうしょう

董昭

公仁こうじん

156-236

魏・青龍四年五月乙卯
西暦236年7月4日

〔靑龍〕四年[……]五月乙卯,司徒董昭薨。(『三國志 一』p.107)

昭年八十一薨,諡曰定侯。(『三國志 二』p.442)

514

そうちゅう

曹沖

倉舒そうじょ

鄧王

195-207

後漢・建安十二年五月甲戌
西暦207年6月26日
注:異説あり

魏文帝蒼舒誄曰.建安十二年.五月甲戌.童子曹蒼舒卒.[……]十三而卒.( 曹丕「蒼舒誄」『藝文類聚』第四十五卷 中央研究院 漢籍電子文獻 > 人文資料庫師生版1.1Internet Archive

惟建安十有五年五月甲戌童子曹倉舒卒[……]十三而卒[……]( 曹丕「曹蒼舒誄」『古文苑』卷二十 Internet Archive

517

そうひ

曹丕

子桓しかん

文帝

187-226

魏・黄初七年五月丁巳
西暦226年6月29日

中平四年冬,生于譙。(『三國志 一』p.57)

〔黃初七年〕夏五月丙辰,帝疾篤,召中軍大將軍曹眞、鎭軍大將軍陳羣、征東大將軍曹休、撫軍大將軍司馬宣王,並受遺詔輔嗣主。遣後宮淑媛、昭儀已下歸其家。丁巳,帝崩于嘉福殿,時年四十。(『三國志 一』p.86)

518

そうずい

曹蕤

北海王

?-233

曹丕の子

魏・青龍元年五月戊寅
西暦233年6月13日

靑龍元年[……]夏五月[……]戊寅,北海王蕤薨。(『三國志 一』p.99)

靑龍元年薨。(『三國志 二』p.590)

521

えんしょう

袁紹

本初ほんしょ

?-202

後漢・建安七年五月庚戌
西暦202年6月28日

〔建安〕七年夏五月庚戌,袁紹薨。(『後漢書 二』p.382)

建安[……]自軍敗後發病,七年夏,薨。(『後漢書 九』p.2403)

526

せいさい

成倅

?-260

魏・甘露五年五月戊申
西暦260年6月21日

〔甘露〕五年[……]五月[……]戊申,大將軍文王上言:「高貴鄉公率將從駕人兵,拔刃鳴金鼓向臣所止;[……]濟凶戾悖逆,干國亂紀,罪不容誅。輒勑侍御史收濟家屬,付廷尉,結正其罪。」(『三國志 一』p.146)

五月,[……]戊申,昭上言:「成濟兄弟大逆不道,夷其族。」(『資治通鑑 6』p.2502)

526

せいせい

成済

?-260

魏・甘露五年五月戊申
西暦260年6月21日

〔甘露〕五年[……]五月[……]戊申,大將軍文王上言:「高貴鄉公率將從駕人兵,拔刃鳴金鼓向臣所止;[……]濟凶戾悖逆,干國亂紀,罪不容誅。輒勑侍御史收濟家屬,付廷尉,結正其罪。」(『三國志 一』p.146)

五月,[……]戊申,昭上言:「成濟兄弟大逆不道,夷其族。」(『資治通鑑 6』p.2502)

5?

じゅんそう

荀爽

慈明じめい

128-190

荀淑の六男

後漢・初平元年五月

初平元年[……]夏五月,司空荀爽薨。(『後漢書 二』p.370)

會病薨,年六十三。(『後漢書 七』p.2057)

5?*注

ばとう

馬騰

寿成じゅせい

?-212

後漢・建安十七年五月癸未

〔建安〕十七年夏五月癸未,誅衞尉馬騰,夷三族。(『後漢書 二』p.386)

*注:不明な日付。

5?

かんすい

韓遂

文約ぶんやく

146頃-215

後漢・建安二十五年五月

〔建安〕二十年[……]五月,公攻屠之。西平、金城諸將麴演、蔣石等共斬送韓遂首。[一]典略曰:遂字文約,[……]至是乃死,年七十餘矣。(『三國志 一』p.45)

5?

そんしょう

孫邵

長緒ちょうしょ

163-225

呉の丞相

呉・黄武四年五月

〔黃武〕四年夏五月,丞相孫邵卒。(『三國志 五』p.1131)

吳錄曰:[……]年六十三卒。(『三國志 五』p.1132)

5?

そういん

曹殷

安平王

231-232

曹叡の子

魏・太和六年五月

〔太和〕五年[……]秋七月丙子,以亮退走,封爵增位各有差。乙酉,皇子殷生,大赦。(『三國志 一』p.98)

*太和五年七月乙酉(15日)=231年8月30日生まれ。

〔太和〕六年[……]五月,皇子殷薨,追封諡安平哀王。(『三國志 一』p.99)

5?

そんとう

孫登

子高しこう

209-241

孫権の長男

呉・赤烏四年五月

黃龍元年,權稱尊號,立爲皇太子,[……](『三國志 五』p.1363)

〔赤烏〕四年[……]五月,太子登卒。(『三國志 五』p.1144)

立凡二十一年,年三十三卒。[……]是歲,赤烏四年也。(『三國志 五』p.1365)

5?

ほしつ

歩騭

子山しさん

?-247
?-248

呉・赤烏十年五月
または
呉・赤烏十一年五月

〔赤烏〕十年[……]夏五月,丞相步騭卒。(『三國志 五』p.1146)

赤烏九年,代陸遜爲丞相,[……](一)年卒,子協嗣,統騭所領,加撫軍將軍。(『三國志 五』p.1240)

〔赤烏〕十一年[……]秋,丞相、冀州牧、番禺侯步騭薨。(許嵩撰、張忱石点校『建康實録 上』(中華書局、1986年)p.55 卷第二 太祖下)

5?

そんしょ

孫諝

?-263

呉・永安六年五月

〔永安〕六年夏四月,泉陵言黃龍見。五月,交阯郡吏呂興等反,殺太守孫諝。(『三國志 五』p.1161)

5?*注

おうしん

王沈

処道しょどう

?-266

西晋・泰始二年五月壬子

〔泰始〕二年[……]夏五月戊辰,詔曰:[……]壬子,驃騎將軍博陵公王沈卒。六月壬申,[……](『晉書 一』p.54)

泰始二年,薨。[……]諡曰元。(『晉書 四』p.1145)

*注:不明な日付。6月の誤りなら5日(266年7月24日)となる。

5?

かかく

華覈

永先えいせん

219-278

呉・天紀二年五月

天册元年以微譴免,數歲卒。(『三國志 五』p.1469)

〔天紀〕二年夏五月,右國史徐陵亭侯華覈卒。[……]卒,時年六十。(許嵩撰、張忱石点校『建康實録 上』(中華書局、1986年)p.107 卷第四 後主)

5?

しばきん

司馬歆

弘舒こうじょ

新野王

?-303

西晋・太安二年五月

〔太安〕二年[……]五月,義陽蠻張昌舉兵反,以山都人丘沈爲主,改姓劉氏,僞號漢,建元神鳳,攻破郡縣,南陽太守劉彬,平南將軍羊伊,鎭南大將軍、新野王歆並遇害。(『晉書 一』p.100)

名前没年月日出典
63

しばたい

司馬泰

子舒しじょ

高密王

?-299

西晋・元康九年六月戊戌
西暦299年7月17日

〔元康〕九年[……]六月戊戌,太尉、隴西王泰薨。(『晉書 一』p.95)

*「隴西王」は「高密王」の誤り。

元康九年薨,追贈太傅。(『晉書 四』p.1095)

64

これつ

胡烈

玄武げんぶ *注

?-270

西晋・泰始六年六月戊午
西暦270年7月9日

〔泰始〕六年[……]六月戊午,秦州刺史胡烈擊叛虜於萬斛堆,力戰,死之。(『晉書 一』p.59)

*注:晋書の伝では字「武玄」、鍾会伝注『晋諸公賛』では「玄武」。なお兄は「玄威」。

64

おうじゅう

王戎

濬沖しゅんちゅう

234-305

西晋・永興二年六月甲子
西暦305年7月11日

〔永興〕二年[……]六月甲子,侍中、司徒、安豐侯王戎薨。(『晉書 一』p.105)

永興二年,薨于郟縣,時年七十二,諡曰元。(『晉書 四』p.1235)

67

おういん

王允

子師しし

137-192

後漢・初平三年六月甲子
西暦192年7月4日

〔初平〕三年[……]六月[……]甲子,殺司徒王允,皆滅其族。(『後漢書 二』p.373)

允時年五十六。(『後漢書 八』p.2177)

67

そうせつ

曹節

献穆皇后

?-260

劉協の皇后、曹操の娘

魏・景元元年六月己未
西暦260年7月2日

景元元年夏六月[……]己未,故漢獻帝夫人節薨,帝臨于華林園,使使持節追諡夫人爲獻穆皇后。(『三國志 一』p.147)

自後四十一年,魏景(初)〔元〕元年薨,合葬禪陵,車服禮儀皆依漢制。(『後漢書 二』p.455)

611

べん

卞氏

武宣皇后

160*-230

曹操の妻

魏・太和四年六月戊子
西暦230年7月9日

魏書曰:后以漢延熹三年十二月己巳生齊郡白亭,有黃氣滿室移日。(『三國志 一』p.156)

*不明な日付。延熹三年十二月は西暦161年1月15日〜2月12日の間。

〔太和〕四年[……]六月戊子,太皇太后崩。丙申,省上庸郡。秋七月,武宣卞后祔葬于高陵。(『三國志 一』p.97)

至太和四年春,[……]其年五月,后崩。(『三國志 一』p.158)

*明帝紀では六月戊子(11日)となっている。

611

しばぼう

司馬楙

孔偉こうい

竟陵王

?-311

司馬望の子

西晋・永嘉五年六月丁酉
西暦311年7月13日

〔永嘉〕五年[……]六月[……]丁酉,劉曜、王彌入京師。帝開華林園門,出河陰藕池,欲幸長安,爲曜等所追及。曜等遂焚燒宮廟,逼辱妃后,吳王晏、竟陵王楙、尙書左僕射和郁、右僕射曹馥、尙書閭丘沖、袁粲、王緄、河南尹劉默等皆遇害,[……](『晉書 一』p.123)

611

しばあん

司馬晏

平度へいと

呉王

281-311

司馬炎の子

西晋・永嘉五年六月丁酉
西暦311年7月13日

〔永嘉〕五年[……]六月[……]丁酉,劉曜、王彌入京師。帝開華林園門,出河陰藕池,欲幸長安,爲曜等所追及。曜等遂焚燒宮廟,逼辱妃后,吳王晏、竟陵王楙、尙書左僕射和郁、右僕射曹馥、尙書閭丘沖、袁粲、王緄、河南尹劉默等皆遇害,[……](『晉書 一』p.123)

及洛京傾覆,晏亦遇害,時年三十一。(『晉書 六』p.1725)

613

しばい

司馬瑋

彦度げんと

楚王

271-291

司馬炎の五男、八王の乱の王の一人

西晋・元康元年六月乙丑
西暦291年7月26日

永平元年[……]六月,賈后矯詔使楚王瑋殺太宰、汝南王亮,太保、菑陽公衞瓘。乙丑,以瑋擅害亮、瓘,殺之。(『晉書 一』p.91)

*永平元年三月に元康に改元。

[……]詔以瑋矯制害二公父子,又欲誅滅朝臣,謀圖不軌,遂斬之,時年二十一。(『晉書 五』p.1597)

613

しばか

司馬遐

深度しんと

清河王

273-300

司馬炎の子

西晋・永康元年六月壬寅
西暦300年7月15日

永康元年[……]六月壬寅,葬愍懷太子于顯平陵。撫軍將軍、淸河王遐薨。癸卯,震崇陽陵標。(『晉書 一』p.96)

*癸卯は14日。

永康元年薨,時年二十八。(『晉書 六』p.1723)

617

そうしょう

曹彰

子文しぶん

任城王

?-223

曹操の子

魏・黄初四年六月甲戌
西暦223年8月1日

〔黃初〕四年[……]六月甲戌,任城王彰薨於京都。(『三國志 一』p.83)

621

そうぼく

曹穆

繁陽王

?-229

曹叡の子

魏・太和三年六月癸卯
西暦229年7月29日

〔太和〕三年夏四月,元城王禮薨。六月癸卯,繁陽王穆薨。(『三國志 一』p.96)

624

しばぼう

司馬望

子初ししょ

義陽王

205-271

司馬孚の子

西晋・泰始七年六月辛丑
西暦271年8月16日

〔泰始〕七年[……]六月,詔公卿以下舉將帥各一人。辛丑,大司馬義陽王望薨。(『晉書 一』p.61)

泰始七年薨,時年六十七,賻贈有加。(『晉書 四』p.1087)

625

しばすい

司馬遂

子伯

済南王

?-266

西晋・泰始二年六月壬申
西暦266年8月13日

〔泰始〕二年[……]六月壬申,濟南王遂薨。(『晉書 一』p.54)

泰始二年薨。(『晉書 四』p.1102)

627

かく

賈詡

文和ぶんか

147-223

魏・黄初四年六月甲申
西暦223年8月11日

〔黃初〕四年[……]六月甲戌,任城王彰薨於京都。甲申,太尉賈詡薨。(『三國志 一』p.83)

詡年七十七,薨,諡曰肅侯。(『三國志 一』p.331)

628

しん

甄氏

文昭皇后

182*-221

曹丕の皇后

魏・黄初二年六月丁卯
西暦221年8月4日

魏書曰:〔……〕后以漢光和五年十二月丁酉生。(『三國志 一』p.159)

*光和五年十二月丁酉(15日)=183年1月26日生まれ。

〔黃初〕二年[……]六月[……]丁卯,夫人甄氏卒。(『三國志 一』p.78)

黃初[……]二年六月,遣使賜死,葬于鄴。(『三國志 一』p.160)

魏書曰:[……]會后疾遂篤,夏六月丁卯,崩于鄴。(『三國志 一』p.161)

629

しばし

司馬袛

敬度けいと

東海王

271-273

司馬炎の子

西晋・泰始九年六月乙未
西暦273年7月30日

〔泰始〕九年[……]六月乙未,東海王祗薨。(『晉書 一』p.63)

泰始九年五月受封。殤王薨,復以祗繼兆,其年薨,時年三歲。(『晉書 六』p.1721)

6?

ちょうばんせい

張曼成

?-184

黄巾の将

後漢・光和七年六月

中平元年[……]六月,南陽太守秦頡擊張曼成,斬之。(『後漢書 二』p.349)

*光和七年の十二月己巳に中平に改元。

6?

えんじゅつ

袁術

公路こうろ

?-199

後漢・建安四年六月

〔建安〕四年[……]夏六月,袁術死。(『後漢書 二』p.381)

6?

ちんき

陳紀

元方げんほう

129-199
128-199

後漢・建安四年六月

年七十一,卒於官。(『後漢書 七』p.2068)

紀卒於建安四年六月,見邯鄲淳陳君碑。(陳壽撰、裴松之注、盧弼集解、錢劍夫整理『三國志集解 肆』(上海古籍出版社、2012年)p.1753)

君諱紀字元方太邱公之元子也[……]年七十有二建安四年六月[……]( 邯鄲淳「後漢鴻臚陳君碑」甄汝舟撰『許州志』卷十一 古漢籍善本 數位化資料庫檢索系統

6?

ていげん

鄭玄

康成こうせい

127-200

後漢・建安五年六月

〔建安〕五年春,[……]時袁紹與曹操相拒於官度,令其子譚遣使逼玄隨軍。不得已,載病到元城縣,疾篤不進,其年六月卒,年七十四。(『後漢書 五』p.1211)

6?

ちょうひ

張飛

益徳えきとく

?-221

蜀・章武元年六月

章武元年[……]六月,以子永爲魯王,理爲梁王。車騎將軍張飛爲其左右所害。(『三國志 四』p.890)

先主伐吳,飛當率兵萬人,自閬中會江州。臨發,其帳下將張達、范彊殺飛,持其首,順流而奔孫權。(『三國志 四』p.944)

6?

ほう(ふう)しゅう

馮習

休元きゅうげん

?-222

蜀・章武二年六月

〔章武〕二年[……]夏六月,黃氣見自秭歸十餘里中,廣數十丈。後十餘日,陸議大破先主軍於猇亭,將軍馮習、張南等皆沒。(『三國志 四』p.890)

6?

ちょうなん

張南

文進ぶんしん

?-222

蜀・章武二年六月

〔章武〕二年[……]夏六月,黃氣見自秭歸十餘里中,廣數十丈。後十餘日,陸議大破先主軍於猇亭,將軍馮習、張南等皆沒。(『三國志 四』p.890)

6?

ちょう

張氏

敬哀皇后

?-237

劉禅の皇后、張飛の娘

蜀・建興十五年六月

〔建興〕十五年夏六月,皇后張氏薨。(『三國志 四』p.897)

建興元年,立爲皇后。十五年薨,葬南陵。(『三國志 四』p.907)

6?

ちょうげん

趙儼

伯然はくぜん

171-245

魏・正始六年六月

建安二年,年二十七,遂扶持老弱詣太祖,太祖以儼爲朗陵長。(『三國志 一』p.668)

〔正始〕六年春二月丁卯,南安郡地震。丙子,以驃騎將軍趙儼爲司空;夏六月,儼薨。(『三國志 一』p.121)

6?

そうひゅう

曹彪

朱虎しゅこ

楚王

195-251

曹操の子

魏・嘉平三年六月

〔嘉平〕三年[……]四月[……]丙午,聞太尉王淩謀廢帝,立楚王彪,太傅司馬宣王東征淩。五月甲寅,淩自殺。六月,彪賜死。(『三國志 一』p.124)

曹彪封楚王,年五十七,坐與王淩通謀,賜死。(『三國志 三』p.809)

6?

おうちょう

王昶

文舒ぶんじょ

?-259

魏・甘露四年六月

〔甘露〕四年春正月,黃龍二,見寧陵縣界井中。夏六月,司空王昶薨。(『三國志 一』p.143)

甘露四年薨,諡曰穆侯。(『晉書 三』p.750)

6?

ようきゆ

羊徽瑜

景献皇后

214-278

司馬師の妻、羊祜の姉

西晋・咸寧四年六月

〔咸寧〕四年[……]六月丁未,陰平、廣武地震,甲子又震。[……]弘訓皇后羊氏崩。(『晉書 一』p.69)

咸寧四年,太后崩,時年六十五,祔葬峻平陵。(『晉書 四』p.950)

6?

ようきん

楊欣

?-278

西晋・咸寧四年六月

〔咸寧〕四年[……]六月丁未,陰平、廣武地震,甲子又震。涼州刺史楊欣與虜若羅拔能等戰于武威,敗績,死之。(『晉書 一』p.69)

*丁未=10日、甲子=27日。

6?*注

えいかん

衛瓘

伯玉はくぎょく

220-291

西晋・元康元年六月

永平元年[……]六月,賈后矯詔使楚王瑋殺太宰、汝南王亮,太保、菑陽公衞瓘。乙丑,以瑋擅害亮、瓘,殺之。(『晉書 一』p.91)

*元康元年(永平元年三月に改元)六月の乙丑(13日)以前。

瓘不從,遂與子恒、嶽、裔及孫等九人同被害,時年七十二。(『晉書 四』p.1059)

6?*注

しばりょう

司馬亮

子翼しよく

汝南王

?-291

司馬懿の四男、八王の乱の王の一人

西晋・元康元年六月

永平元年[……]六月,賈后矯詔使楚王瑋殺太宰、汝南王亮,太保、菑陽公衞瓘。乙丑,以瑋擅害亮、瓘,殺之。(『晉書 一』p.91)

*元康元年(永平元年三月に改元)六月の乙丑(13日)以前。

6?

しょかつきん

諸葛瑾

子瑜しゆ

174-241

呉・赤烏四年閏六月

〔赤烏〕四年[……]六月,軍還。閏月,大將軍瑾卒。(『三國志 五』p.1144)

赤烏四年,年六十八卒,遺命令素棺斂以時服,事從省約。(『三國志 五』p.1235)

名前没年月日出典
72

ちんきょう

陳矯

季弼きひつ

?-237

魏・景初元年七月丁卯
西暦237年7月11日

景初元年[……]秋七月丁卯,司徒陳矯薨。(『三國志 一』p.109)

景初元年薨,諡曰貞侯。(『三國志 一』p.644)

75

こじゅん

胡遵

?-256

魏・甘露元年七月己卯
西暦256年8月12日

甘露元年[……]秋七月己卯,衞將軍胡遵薨。(『三國志 一』p.139)

76

ようえん

楊艶

瓊芝けいし

武元皇后

238-274

司馬炎の皇后

西晋・泰始十年七月丙寅
西暦274年8月25日

〔泰始〕十年[……]秋七月丙寅,皇后楊氏崩。(『晉書 一』p.64)

泰始十年,崩於明光殿,絕于帝膝,時年三十七。(『晉書 四』p.953)

716

しばかい

司馬恢

思度しと

渤海王

283-284

司馬炎の子

西晋・太康五年七月戊申
西暦284年8月14日

〔太康〕五年[……]秋七月戊申,皇子恢薨。(『晉書 一』p.75)

太康五年薨,時年二歲,追加封諡。(『晉書 六』p.1725)

719

しん

甄氏

懐皇后

?-251

曹芳の皇后

魏・嘉平三年七月壬戌
西暦251年8月22日

〔嘉平〕三年[……]秋七月壬戌,皇后甄氏崩。(『三國志 一』p.124)

722

しばそん

司馬遜

子悌してい

譙王

?-266

司馬懿の甥

西晋・泰始二年七月戊戌
西暦266年9月8日

〔泰始〕二年[……]秋七月[……]戊戌,譙王遜薨。(『晉書 一』p.54)

泰始二年薨。(『晉書 四』p.1103)

722

しばけい

司馬景

景度けいと

城陽王

?-270

司馬炎の子、司馬兆の嗣子

西晋・泰始六年七月乙巳
西暦270年8月25日

〔泰始〕六年[……]秋七月[……]乙巳,城陽王景度薨。(『晉書 一』p.60)

城陽懷王景字景度,出繼叔父城陽哀王兆後。泰始五年受封,六年薨。(『晉書 六』p.1720)

724

けいしょう

嵇紹

延祖えんそ

253頃-304

嵇康の子、西晋の侍中

西晋・永安元年七月己未
西暦304年9月9日

嵇紹字延祖,魏中散大夫康之子也。十歲而孤,事母孝謹。(『晉書 八』p.2298)

會因譖[……]昭遂殺安及康。(『資治通鑑 6』p.2512)

永興元年[……]秋七月[……]己未,六軍敗績于蕩陰,矢及乘輿,百官分散,侍中嵇紹死之。(『晉書 一』p.103)

*永興元年は四度改元されており、正月に永安、七月庚申(25日)には建武となった。

725

そんきゅう

孫休

子烈しれつ

景帝

235-264

呉・永安七年七月癸未
西暦264年9月3日

〔永安〕七年[……],秋七月,[……],癸未,休薨,時年三十,諡曰景皇帝。(『三國志 五』p.1162)

726

がじゅん

賀循

彦先げんせん

260-319

賀邵の子、東晋の太常

東晋・太興二年七月乙丑
西暦319年8月28日

〔太興〕二年[……]秋七月乙丑,太常賀循卒。(『晉書 一』p.152)

太興二年卒,時年六十。(『晉書 六』p.1824)

7?

ようじん

楊任

?-215

後漢・建安二十年七月

〔建安〕二十年[……]秋七月,公至陽平。張魯使弟衞與將楊昂等據陽平關,橫山築城十餘里,攻之不能拔,乃引軍還。賊見大軍退,其守備解散。公乃密遣解〓、高祚等乘險夜襲,大破之,斬其將楊任,進攻衞,衞等夜遁,魯潰奔巴中。(『三國志 一』p.45)

7?

りょいつ

呂壱

?-238

呉・赤烏元年七月

赤烏元年[……]初,權信任校事呂壹,壹性苛慘,用法深刻。太子登數諫,權不納,大臣由是莫敢言。後壹姦罪發露伏誅,權引咎責躬,乃使中書郞袁禮告謝諸大將,因問時事所當損益。(『三國志 五』p.1142)

〔赤烏元年〕秋七月,典校事呂壹坐奸事,伏誅。(許嵩撰、張忱石点校『建康實録 上』(中華書局、1986年)p.45 卷第二 太祖下)

7?

ばぼう

馬茂

?-245

呉・赤烏八年七月

〔赤烏〕八年[……]秋七月,將軍馬茂等圖逆,夷三族。(『三國志 五』p.1146)

7?

そんぎ

孫儀

?-255

孫静の子

呉・五鳳二年七月

〔五鳳〕二年[……]秋七月,將軍孫儀、張怡、林恂等謀殺峻,發覺,儀自殺,恂等伏辜。(『三國志 五』p.1152)

7?

そんろいく

孫魯育

小虎しょうこ

?-255

孫権の娘

呉・五鳳二年七月

〔五鳳〕二年[……]秋七月,將軍孫儀、張怡、林恂等謀殺峻,發覺,儀自殺,恂等伏辜。(『三國志 五』p.1152)

是歲,蜀使來聘,將軍孫儀、(孫邵綝恂)〔張怡、林恂〕等欲因會殺峻。事泄,儀等自殺,死者數十人,幷及公主魯育。(『三國志 五』p.1445)

五鳳中,孫儀謀殺峻,事覺被誅。全主因言朱主與儀同謀,峻枉殺朱主。(『三國志 五』p.1200)

7?

そうしゅん

曹峻

子安しあん

陳留王

?-259

曹操の子

魏・甘露四年七月

〔甘露〕四年[……]秋七月,陳留王峻薨。(『三國志 一』p.143)

7?

らくしゅう

駱秀

?-264

呉・永安七年七月

〔永安〕七年秋七月,海賊破海鹽,殺司鹽校尉駱秀。(『三國志 五』p.1161)

7?

しゅ

朱夫人

?-265

孫休の皇后、朱拠の娘

呉・甘露元年七月

甘露元年[……]秋七月,晧逼殺景后朱氏,亡不在正殿,於苑中小屋治喪,衆知其非疾病,莫不痛切。(『三國志 五』p.1164)

甘露元年七月,見逼薨,合葬定陵。(『三國志 五』p.1201)

7?

そんわん

わん

きつ

豫章王

?-265

呉・甘露元年七月

甘露元年[……]秋七月[……]又送休四子於吳小城,尋復追殺大者二人。(『三國志 五』p.1164)

元興二年[……]五月,大赦,改甘露元年。秋七月[……]又遷其四子於呉,道追殺(許嵩撰、張忱石点校『建康實録 上』(中華書局、1986年)p.92 卷第四 後主)

7?

そんこう

こう

汝南王

?-265

呉・甘露元年七月

甘露元年[……]秋七月[……]又送休四子於吳小城,尋復追殺大者二人。(『三國志 五』p.1164)

元興二年[……]五月,大赦,改甘露元年。秋七月[……]又遷其四子於呉,道追殺(許嵩撰、張忱石点校『建康實録 上』(中華書局、1986年)p.92 卷第四 後主)

7?

りくこう

陸抗

幼節ようせつ

226-274

呉・鳳皇三年七月

遜卒時,年二十,拜建武校尉,領遜衆五千人,送葬東還,詣都謝恩。(『三國志 五』p.1354)

〔鳳皇〕三年,[……]秋七月,[……]大司馬陸抗卒。(『三國志 五』p.1170)

〔鳳皇〕三年夏,[……]秋遂卒,子晏嗣。(『三國志 五』p.1360)

7?*注

おうこん

王渾

玄沖げんちゅう

223-297

西晋・元康七年七月丁丑

〔元康〕七年[……]秋七月,雍、梁州疫。大旱,隕霜,殺秋稼。關中饑,米斛萬錢。詔骨肉相賣者不禁。丁丑,司徒、京陵公王渾薨。九月[……](『晉書 一』p.94)

*元号「元康」は本紀に記載がないが、永平元年の三月に改元されている。

元康七年薨,時年七十五,諡曰元。(『晉書 四』p.1204)

*注:不明な日付。8月の誤りなら1日。

名前没年月日出典
82

しんはい

審配

正南せいなん

?-204

後漢・建安九年八月戊寅
西暦204年9月13日

〔建安〕九年[……]八月,審配兄子榮夜開所守城東門內兵。配逆戰,敗,生禽配,斬之,鄴定。(『三國志 一』p.25)

〔建安〕九年秋八月戊寅,曹操大破袁尙,平冀州,自領冀州牧。(『後漢書 二』p.383)

83

そうかん

曹幹

趙王

216-261

曹操の子

魏・景元二年八月戊寅
西暦261年9月14日

魏略曰:幹一名良。[……]良年五歲而太祖疾困,遺令語太子曰:「此兒三歲亡母,五歲失父,以累汝也。」(『三國志 二』p.586)

〔建安〕二十五年春正月,[……]庚子,王崩于洛陽,年六十六。(『三國志 一』p.52)

〔景元〕二年[……]八月戊寅,趙王幹薨。(『三國志 一』p.148)

85

しばい

司馬懿

仲達ちゅうたつ

宣帝

179-251

魏・嘉平三年八月戊寅
西暦251年9月7日

〔嘉平〕三年[……]秋八月戊寅,崩於京師,時年七十三。(『晉書 一』p.20)

〔嘉平〕三年[……]秋七月[……]戊寅,太傅司馬宣王薨,以衞將軍司馬景王爲撫軍大將軍,錄尙書事。(『三國志 一』p.124)

*七月戊寅の日は存在しない。

89

しばしょう

司馬昭

子上しじょう

文帝

211-265

魏・咸熙二年八月辛卯
西暦265年9月6日

〔咸熙〕二年[……]秋八月辛卯,帝崩于露寢,時年五十五。(『晉書 一』p.44)

〔咸熙〕二年[……]秋八月辛卯,相國晉王薨。(『三國志 一』p.153)

815

ちんしょく

陳寔

仲弓ちゅうきゅう

104-186

後漢・中平三年八月丙午
西暦186年9月16日

錢大昕曰碑雲春秋八十三中平三年卒惠棟曰趙明誠云案蔡邕集陳仲弓三碑其一碑云中平三年秋八月丙子卒而三碑皆云春秋八十有三傳以爲四年年八十四誤( 王先謙撰『後漢書集解』Internet Archive

*中平三年八月丙子は存在しない。

先生諱寔、字仲弓、潁川許人也。[……]年八十有三、中平三年八月丙午、遭疾而終。(竹田晃『新釈漢文大系 第93巻 文選(文章篇)下』(明治書院、2001年)pp.526-530 蔡邕「陳太丘碑文 并序」)

818

しばけい

司馬景

子文しぶん

沛王

?-275

司馬孚の子

西晋・咸寧元年八月壬寅
西暦275年9月25日

咸寧元年[……]八月壬寅,沛王子文薨。(『三國志 一』p.65)

立十一年,咸寧元年薨,子韜立。(『晉書 四』p.1092)

819

しばけん

司馬憲

城陽王

?-271

司馬炎の子

西晋・泰始七年八月丙申
西暦271年10月10日

〔泰始〕七年[……]八月[……]丙申,城陽王憲薨。(『晉書 一』p.61)

825

かしん

何進

遂高すいこう

?-189

後漢・光熹元年八月戊辰
西暦189年9月22日

〔中平〕六年[……]大赦天下,改元為光(喜)〔熹〕。[……]八月戊辰,中常侍張讓、段珪等殺大將軍何進,於是虎賁中郞將袁術燒東西宮,攻諸宦者。(『後漢書 二』p.358)

827

そんし

孫資

彦龍げんりょう

?-251

魏・嘉平三年八月庚子
西暦251年9月29日

〔嘉平〕三年[……]秋七月[……]〔八月〕庚子,驃騎將軍孫資薨。(『三國志 一』p.124)

*七月庚子は存在しない。前後関係から八月と思われる。

829

こうゆう

孔融

文挙ぶんきょ

153-208

後漢・建安十三年八月壬子
西暦208年9月26日

〔建安〕十三年[……]八月[……]壬子,曹操殺太中大夫孔融,夷其族。(『後漢書 二』p.385)

書奏,下獄弃市。時年五十六。妻子皆被誅。(『後漢書 八』p.2278)

8?

ていげん

丁原

建陽けんよう

?-189

後漢・中平六年八月

〔中平〕六年[……]八月[……]幷州牧董卓殺執金吾丁原。(『後漢書 二』p.359)

8?

りゅうひょう

劉表

景升けいしょう

142-208

後漢・建安十三年八月

〔建安〕十三年[……]八月[……]是月,劉表卒,少子琮立,琮以荊州降操。(『後漢書 二』p.385)

惠棟曰:「鎭南碑云:年六十七。」(陳壽撰、裴松之注、盧弼集解、錢劍夫整理『三國志集解 貳』(上海古籍出版社、2012年)p.759 劉表傳)

君諱表字景升山陽高平人也[……]年六十有七建安十三年八月遘疾隕薨( 蔡邕「劉鎮南碑」『欽定四庫全書 蔡中郎集 卷六』Internet Archive

8?

ほうとく

龐悳

令明れいめい

?-219

後漢・建安二十四年八月

〔建安〕二十四年[……]秋七月[……]遣于禁助曹仁擊關羽。八月,漢水溢,灌禁軍,軍沒,羽獲禁,遂圍仁。使徐晃救之。(『三國志 一』p.52)

侯音、衞開等以宛叛,悳將所領與曹仁共攻拔宛,斬音、開,遂南屯樊,討關羽。[……]遂爲羽所殺。(『晉書 二』p.546)

8?

きょせい

許靖

文休ぶんきゅう

?-222

蜀・章武二年八月

〔章武〕二年[……]秋八月,收兵還巫。司徒許靖卒。(『三國志 四』p.890)

靖雖年逾七十,愛樂人物,誘納後進,淸談不倦。丞相諸葛亮皆爲之拜。章武二年卒。(『三國志 四』p.967)

*死去時、少なくとも70歳以上。

8?

りょはん

呂範

子衡しこう

?-228

呉・黄武七年八月

〔黃武〕七年[……]秋八月,權至皖口,使將軍陸遜督諸將大破休於石亭。大司馬呂範卒。是歲,改合浦爲珠官郡。(『三國志 五』p.1134)

黃武七年,範遷大司馬,印綬未下,疾卒。(『三國志 五』p.1311)

8?

しょかつりょう

諸葛亮

孔明こうめい

181-234

蜀・建興十二年八月

〔建興〕十二年春二月,亮由斜谷出,始以流馬運。秋八月,亮卒于渭濱。(『三國志 四』p.897)

〔建興〕十二年[……]其年八月,亮疾病,卒于軍,時年五十四。(『三國志 四』p.925)

8?

そうしゅん

曹詢

秦王

231-244

曹叡の養子、曹芳の兄

魏・正始五年八月

〔景初〕三年春正月丁亥,太尉宣王還至河內,帝驛馬召到,引入臥內,執其手謂曰:「吾疾甚,以後事屬君,君其與爽輔少子。吾得見君,無所恨!」宣王頓首流涕。[一][……]魏氏春秋曰:時太子芳年八歲,秦王九歲,在于御側。(『三國志 一』p.114)

〔正始〕五年[……]秋八月,秦王詢薨。(『三國志 一』p.120)

8?

呉氏

穆皇后

?-245

劉備の皇后

蜀・延熙八年八月

〔延熙〕八年秋八月,皇太后薨。(『三國志 四』p.898)

延熙八年,后薨,合葬惠陵。(『三國志 四』p.906)

8?

そんは

孫覇

子威しい

魯王

?-250

孫権の四男

呉・赤烏十三年八月

〔赤烏〕十三年[……]八月[……]廢太子和,處故鄣。魯王霸賜死。(『三國志 五』p.1148)

8?

ぜんき

全寄

?-250

呉・赤烏十三年八月

吳書曰:[……]次子寄,坐阿黨魯王霸賜死。(『三國志 五』p.1383)

〔赤烏〕十三年[……]八月[……]廢太子和,處故鄣。魯王霸賜死。(『三國志 五』p.1148)

8?

ばんいく

万彧

文彬ぶんひん

?-272

呉・鳳皇元年八月

鳳皇元年[……]是歲右丞相萬彧被譴憂死,徙其子弟於廬陵。(『三國志 五』p.1169)

〔鳳皇元年〕秋八月、左丞相萬彧以泄禁中語,因會飮毒,不死,自殺。(許嵩撰、張忱石点校『建康實録 上』(中華書局、1986年)p.102 卷第四 後主)

8?

かひょう

華表

偉容いよう

204-275

西晋・咸寧元年八月

咸寧元年八月卒,時年七十二,諡曰康,詔賜朝服。(『晉書 四』p.1260)

8?*注

りゅうりゃく

劉略

?-279

呉・天紀三年八月

〔天紀〕三年[……]八月,[……]馬殺南海太守劉略,逐廣州刺史徐旗。(『三國志 五』p.1172)

*注:八月に続く記述ではないかもしれない。

8?

せきすう

石崇

季倫きりん

249-300

石苞の子

西晋・永康元年八月

時趙王倫專權,[……]秀怒,乃勸倫誅崇、建。崇、建亦潛知其計,乃與黃門郞潘岳陰勸淮南王允、齊王冏以圖倫、秀。[……]崇時年五十二。(『晉書 四』p.1008)

永康元年[……]秋八月,淮南王允舉兵討趙王倫,不克,允及其二子秦王郁、漢王迪皆遇害。(『晉書 一』p.96)

8?

はんがく

潘岳

安仁あんじん

247-300

西晋・永康元年八月

晉十有四年,余春秋三十有二,始見二毛.(注)十四年,晉武帝太始十四年也.( 潘安仁「秋興賦 并序」『文選』第十三卷 中央研究院 漢籍電子文獻 > 人文資料庫師生版1.1

*西晋建国(泰始元年)から十四年後(咸寧四年)?

[……]俄而秀遂誣岳及石崇、歐陽建謀奉淮南王允、齊王冏爲亂,誅之,夷三族。(『晉書 五』p.1506)

永康元年[……]秋八月,淮南王允舉兵討趙王倫,不克,允及其二子秦王郁、漢王迪皆遇害。(『晉書 一』p.96)

8?

しばいん

司馬允

欽度きんと

淮南王

272-300

司馬炎の子

西晋・永康元年八月

永康元年[……]秋八月,淮南王允舉兵討趙王倫,不克,允及其二子秦王郁、漢王迪皆遇害。(『晉書 一』p.96)

[……]允不之覺,開陳納之,下車受詔,爲胤所害,時年二十九。(『晉書 六』p.1722)

名前没年月日出典
91

しゅい

朱異

季文きぶん

?-257

呉・太平二年九月朔己巳
西暦257年9月26日

〔太平〕二年[……]朱異以軍士乏食引還,綝大怒,九月朔己巳,殺異於鑊里。(『三國志 五』p.1154)

97

ちんはん

陳蕃

仲挙ちゅうきょ

?-168

後漢・建寧元年九月辛亥
西暦168年10月25日

建寧元年[……]九月(丁)〔辛〕亥,中常侍曹節矯詔誅太傅陳蕃、大將軍竇武及尙書令尹勳、侍中劉瑜、屯騎校尉馮述,皆夷其族。(『後漢書 二』p.329)

*集解引惠棟說,謂是年九月乙巳朔,無丁亥,當從袁紀作「辛亥」。今據改。

97

こうそんえん

公孫淵

文懿ぶんい

?-238

魏・景初二年九月丙寅
西暦238年9月3日

〔景初〕二年[……]秋八月[……]癸丑,有彗星見張宿。丙寅,司馬宣王圍公孫淵於襄平,大破之,傳淵首于京都,海東諸郡平。冬十一月[……](『三國志 一』p.113)

*八月丙寅は存在しない日付。

魏明帝景初二年,宣帝圍公孫文懿於襄平。[……]九月,文懿突圍走,至星墜所被斬,城,坑其衆。(『晉書 二』p.396)

914

そんしゅん

孫峻

子遠しえん

219-256

呉・太平元年九月丁亥
西暦256年10月19日

太平元年[……]九月丁亥,峻卒,以從弟偏將軍綝爲侍中、武衞將軍,領中外諸軍事,召還據等。(『三國志 五』p.1153)

據御軍齊整,峻惡之,稱心痛去,遂夢爲諸葛恪所擊,恐懼發病死,時年三十八,以後事付綝。(『三國志 五』p.1466)

914

しばかん

司馬柬

弘度こうと

秦王

262-291

司馬炎の子、司馬衷の同母弟

西晋・元康元年九月甲午
西暦291年10月23日

元康元年薨,時年三十,朝野痛惜之。(『晉書 六』p.1720)

永平元年[……]九月甲午,大將軍、秦王柬薨。(『晉書 一』p.91)

*三月に元康に改元。

915

りかん

李堪

?-211

後漢・建安十六年九月庚戌
西暦211年11月8日

〔建安〕十六年[……]是時關中諸將疑繇欲自襲,馬超遂與韓遂、楊秋、李堪、成宜等叛。[……]九月,[……]公乃與克日會戰,先以輕兵挑之,戰良久,乃縱虎騎夾擊,大破之,斬成宜、李堪等。(『三國志 一』pp.34-35)

〔建安〕十六年秋九月庚戌,曹操與韓遂、馬超戰於渭南,遂等大敗,關西平。(『後漢書 二』p.386)

915

せいぎ

成宜

?-211

後漢・建安十六年九月庚戌
西暦211年11月8日

〔建安〕十六年[……]是時關中諸將疑繇欲自襲,馬超遂與韓遂、楊秋、李堪、成宜等叛。[……]九月,[……]公乃與克日會戰,先以輕兵挑之,戰良久,乃縱虎騎夾擊,大破之,斬成宜、李堪等。(『三國志 一』pp.34-35)

〔建安〕十六年秋九月庚戌,曹操與韓遂、馬超戰於渭南,遂等大敗,關西平。(『後漢書 二』p.386)

916

もう

毛氏

明悼皇后

?-237

曹叡の皇后

魏・景初元年九月庚辰
西暦237年9月22日

景初元年[……]九月[……]庚辰,皇后毛氏卒。(『三國志 一』p.110)

景初元年,[……]賜后死,然猶加諡,葬愍陵。(『三國志 一』p.168)

916

りょたい

呂岱

定公ていこう

161-256

呉・太平元年九月己丑
西暦256年10月21日

太平元年[……]九月[……]己丑,大司馬呂岱卒。(『三國志 五』p.1153)

太平元年,年九十六卒,子凱嗣。(『三國志 五』p.1387)

922

ようげんし

羊玄之

?-303

西晋・太安二年九月癸巳
西暦303年10月19日

〔太安〕二年[……]九月[……]癸巳,尚書右僕射、興晉侯羊玄之卒,帝旋于城東。(『晉書 一』p.101)

926

りゅうじょう

劉丞

?-258

呉・太平三年九月戊午
西暦258年11月9日

〔太平〕三年[……]亮以綝專恣,與太常全尙,將軍劉丞謀誅綝。九月戊午,綝以兵取尙,遣弟恩攻殺丞於蒼龍門外,…(『三國志 五』p.1155)

926

ぜんき

全紀

?-258

呉・太平三年九月戊午
西暦258年11月9日

江表傳曰:亮召全尙息黃門侍郞紀密謀,[……]紀承詔,以告尙,尙無遠慮,以語紀母。母使人密語綝。綝夜發嚴兵廢亮,比明,兵已圍宮。亮大怒,[……]歎咤二日不食,[……]又呼紀,紀曰:「臣父奉詔不謹,負上,無面目復見。」因自殺。(『三國志 五』p.1448)

〔太平〕三年[……],九月戊午,綝以兵取尙,遣弟恩攻殺丞於蒼龍門外,召大臣會宮門,黜亮爲會稽王,時年十六。(『三國志 五』p.1155)

*江表伝では孫綝が行動してから全紀の死の間に孫亮が二日不食…とある。

929

しばしゅん

司馬駿

子臧しそう

扶風王

232-286

司馬懿の子

西晋・太康七年九月戊寅
西暦286年11月2日

齊王芳立,駿年八歲,爲散騎常侍侍講焉。(『晉書 四』p.1124)

景初三年正月丁亥朔,帝病甚,乃立爲皇太子。是日,卽皇帝位,大赦。(『三國志 一』p.117)

〔太康〕七年[……]九月戊寅,驃騎將軍、扶風王駿薨。(『晉書 一』p.77)

929

ちょうゆう

趙誘

元孫げんそん

?-317

東晋・建武元年九月戊寅
西暦317年11月19日

建武元年[……]九月戊寅,王敦使武昌太守趙誘、襄陽太守朱軌、陵江將軍黃峻討猗,爲其將杜曾所敗,誘等皆死之。(『晉書 一』pp.148-149)

9?

きょうずい

橋蕤

?-197

後漢・建安二年九月

〔建安〕二年[……]秋九月,術侵陳,公東征之。術聞公自來,棄軍走,留其將橋蕤、李豐、梁綱、樂就;公到,擊破蕤等,皆斬之。(『三國志 一』p.15)

9?

りほう

李豊

?-197

後漢・建安二年九月

〔建安〕二年[……]秋九月,術侵陳,公東征之。術聞公自來,棄軍走,留其將橋蕤、李豐、梁綱、樂就;公到,擊破蕤等,皆斬之。(『三國志 一』p.15)

9?

りょうこう

梁綱

?-197

後漢・建安二年九月

〔建安〕二年[……]秋九月,術侵陳,公東征之。術聞公自來,棄軍走,留其將橋蕤、李豐、梁綱、樂就;公到,擊破蕤等,皆斬之。(『三國志 一』p.15)

9?

がくしゅう

楽就

?-197

後漢・建安二年九月

〔建安〕二年[……]秋九月,術侵陳,公東征之。術聞公自來,棄軍走,留其將橋蕤、李豐、梁綱、樂就;公到,擊破蕤等,皆斬之。(『三國志 一』p.15)

9?

ほうき

逢紀

元図げんと

?-202

後漢・建安七年九月

太祖北征譚、尙。譚軍黎陽,尙少與譚兵,而使逢紀從譚。譚求益兵,配等議不與。譚怒,殺紀。太祖渡河攻譚,譚告急於尙。(『三國志 一』p.201)

〔建安〕七年[……]秋九月,公征之,連戰。譚、尙數敗退,固守。(『三國志 一』p.23)

9?

えんしょう

袁尚

顕甫けんほ/ふ

?-207

袁紹の子

後漢・建安十二年九月
注:異説あり

〔建安〕十二年,太祖至遼西擊烏丸。尙、熙與烏丸逆軍戰,敗走奔遼東,公孫康誘斬之,送其首。(『三國志 一』p.207)

〔建安〕十二年[……]九月,公引兵自柳城還,康卽斬尙、熙及速僕丸等,傳其首。[……]十一月至易水,代郡烏丸行單于普富盧、上郡烏丸行單于那樓將其名王來賀。(『三國志 一』p.29)

〔建安〕十二年[……]十一月,遼東太守公孫康殺袁尙、袁熙。(『後漢書 二』p.385)

9?

えんき

袁熙

顕雍けんよう *注

?-207

袁紹の子

後漢・建安十二年九月
注:異説あり

〔建安〕十二年,太祖至遼西擊烏丸。尙、熙與烏丸逆軍戰,敗走奔遼東,公孫康誘斬之,送其首。(『三國志 一』p.207)

〔建安〕十二年[……]九月,公引兵自柳城還,康卽斬尙、熙及速僕丸等,傳其首。[……]十一月至易水,代郡烏丸行單于普富盧、上郡烏丸行單于那樓將其名王來賀。(『三國志 一』p.29)

〔建安〕十二年[……]十一月,遼東太守公孫康殺袁尙、袁熙。(『後漢書 二』p.385)

*注:魏志袁紹伝に引く『典略』では字「顕奕」だが名との対応からは「顕雍」が正しいとされる。

9?

ぎふう

魏諷

子京しけい

?-219

後漢・建安二十四年九月

〔建安〕二十四年[……]九月,相國鍾繇坐西曹掾魏諷反免。[一]世語曰:諷字子京,沛人,有惑衆才,傾動鄴都,鍾繇由是辟焉。大軍未反,諷潛結徒黨,又與長樂衞尉陳禕謀襲鄴。未及期,禕懼,告之太子,誅諷,坐死者數十人。(『三國志 一』p.52)

9?*注

そうきゅう

曹休

文烈ぶんれつ

?-228

魏・太和二年九月庚子

〔太和〕二年[……]秋九月,曹休率諸軍至皖,與吳將陸議戰於石亭,敗績。乙酉,立皇子穆爲繁陽王。庚子,大司馬曹休薨。冬十月,[……](『三國志 一』p.94)

*注:不明な日付。十月庚子の誤りなら14日(228年11月28日)となる。

9?

こうじゅう

高柔

文恵ぶんけい

174-263

魏・景元四年九月

〔景元〕四年[……]秋九月,太尉高柔薨。(『三國志 一』p.149)

景元四年,年九十薨,諡曰元侯。(『三國志 三』p.690)

9?

りょきょう(こう)

呂興

?-264

魏・咸熙元年九月

咸熙元年[……]九月[……]辛未,詔曰:「吳賊政刑暴虐,賦斂無極。孫休遣使鄧句,勑交阯太守鎖送其民,發以爲兵。吳將呂興因民心憤怒,又承王師平定巴蜀,卽糾合豪傑,誅除句等,驅逐太守長吏,撫和吏民,以待國命。[……]」策命未至,興爲下人所殺。(『三國志 一』pp.151-152)

9?

もうそう

孟宗

*注

恭武きょうぶ

?-271

呉・建衡三年九月

〔建衡〕三年[……]右大司馬丁奉、司空孟仁卒。(『三國志 五』p.1168)

九月,吳司空孟仁卒。(『資治通鑑 6』p.2564)

*注:元の名は「宗」だが孫晧の字「元宗」を避け「仁」に改名。

9?

じゅんはん

荀藩

大堅たいけん

245-313

荀勖の子

西晋・建興元年九月

建興元年[……]九月,司空荀藩薨于滎陽。(『晉書 一』p.127)

建興元年薨於開封,年六十九,因葬亡所。(『晉書 四』p.1158)

名前没年月日出典
102

しばいん

司馬殷

常山王

?-275

西晋・咸寧元年十月乙酉
西暦275年11月7日

咸寧元年[……]冬十月乙酉,常山王殷薨。(『晉書 一』p.65)

103

そうえん

曹兗

中山王

?-235

魏・青龍三年十月己酉
西暦235年11月1日

〔靑龍〕三年[……]冬十月己酉,中山王兗薨。(『三國志 一』p.106)

104

とういん

滕胤

承嗣しょうし

?-256

呉・太平元年十月丁未
西暦256年11月8日

〔太平元年〕冬十月丁未,遣孫憲及丁奉、施寬等以舟兵逆據於江都,遣將軍劉丞督步騎攻胤。胤兵敗夷滅。(『三國志 五』p.1153)

108*注

りょきょ

呂拠

世議せいぎ

?-256

呉・太平元年十月辛亥
西暦256年11月12日

太平元年[……]冬十月丁未,遣孫憲及丁奉、施寬等以舟兵逆據於江都,遣將軍劉丞督步騎攻胤。胤兵敗夷滅。己酉,大赦,改年。辛亥,獲呂據於新州。(『三國志 五』p.1153)

*孫亮伝では捕らえられているが、呂拠伝では自殺したとなっており、食い違いがある。

太平元年,帥師侵魏,未及淮,聞孫峻死,以從弟綝自代,據大怒,引軍還,欲廢綝。[……]左右勸據降魏,據曰:「恥爲叛臣。」遂自殺。夷三族。(『三國志 五』p.1312)

*注:8日は捕らえられた日付なので、厳密にこの日に死去したかどうかは不明。

1010

しばけん

司馬権

子輿しよ

彭城王

?-275

西晋・咸寧元年十月癸巳
西暦275年11月15日

咸寧元年[……]冬十月乙酉,常山王殷薨。癸巳,彭城王權薨。(『晉書 一』p.65)

10?

ちょうりょう

張梁

?-184

張角の弟

後漢・光和七年十月

中平元年[……]冬十月,皇甫嵩與黃巾賊戰於廣宗,獲張角弟梁。角先死,乃戮其屍。(『後漢書 二』p.350)

*光和七年の十二月己巳に中平に改元。

10?

かんこく(こう)

観鵠

?-187

後漢・中平四年十月

〔中平〕四年[……]冬十月,零陵人觀鵠自稱「平天將軍」,寇桂陽,長沙太守孫堅擊斬之。(『後漢書 二』p.354)

10?

りゅうぐ

劉虞

伯安はくあん

?-193

後漢・初平四年十月

〔初平〕四年[……]冬十月,[……]公孫瓚殺大司馬劉虞。(『後漢書 二』p.375)

10?

じゅんうけい

淳于瓊

仲簡ちゅうかん

?-200

後漢・建安五年十月

〔建安〕五年[……]冬十月,[……]士卒皆殊死戰,大破瓊等,皆斬之。(『三國志 一』p.21)

10?

そうけい

曹冏

元首げんしゅ *注

清河王

?-226

曹叡の子

魏・黄初七年十月

〔黄初〕七年[……]冬十月,清河王冏薨。(『三國志 一』p.92)

*注:「曹冏,字元首,少帝族祖也。」(曹冏『六代論』注・魏氏春秋)

10?

はんしゅん

潘濬

承明しょうめい

?-239

呉・赤烏二年十月

赤烏二年,濬卒,子翥嗣。(『三國志 五』p.1399)

冬,十月,吳太常潘濬卒。(『資治通鑑 5』p.2392)

10?*注

しょかつゆう

諸葛融

叔長しゅくちょう

?-253

諸葛瑾の子、諸葛恪の弟

呉・建興二年十月

〔建興〕二年[……]冬十月,大饗。武衞將軍孫峻伏兵殺恪於殿堂。(『三國志 五』p.1152)

恪既誅,遣無難督施寬就將軍施績、孫壹、全熙等取融。融卒聞兵士至,惶懼猶豫,不能決計,兵到圍城,飮藥而死,三子皆伏誅。(『三國志 五』p.1235)

〔建興〕二年[……]冬,恪、融被害,[……](『三國志 五』p.1308)

*注:厳密に10月中かどうかは曖昧。

10?

しょかつかく

諸葛恪

元遜げんそん

203-253

呉・建興二年十月

〔嘉禾三年〕秋八月,以諸葛恪爲丹楊太守,討山越。(『三國志 五』p.1140)

權拜恪撫越將軍,領丹楊太守,授棨戟武騎三百。拜畢,命恪備威儀,作鼓吹,導引歸家,時年三十二。(『三國志 五』p.1431)

〔建興〕二年[……]冬十月,大饗。武衞將軍孫峻伏兵殺恪於殿堂。(『三國志 五』p.1152)

冬十月,大饗公卿,因會,乃恪於殿内,[……]時年五十一。(許嵩撰、張忱石点校『建康實録 上』(中華書局、1986年)p.71 卷第三 廢帝 )

10?

おうかん

王観

偉台いたい

?-260

魏・景元元年十月

景元元年[……]〔六月〕癸亥,以尙書右僕射王觀爲司空,冬十月,觀薨。(『三國志 一』p.148)

10?

したん

施但

?-266

呉・宝鼎元年十月

寶鼎元年[……]冬十月,永安山賊施但等聚衆數千人,劫晧庶弟永安侯謙出烏程,[……]丁固、諸葛靚逆之於牛屯,大戰,但等敗走。獲謙,謙自殺。[……][三]漢晉春秋曰:[……]既聞但反,自以爲徙土得計也。使數百人鼓譟入建業,殺但妻子,云天子使荊州兵來破揚州賊,以厭前氣。(『三國志 五』p.1166)

10?

そんけん

孫謙

公遜こうそん *注

?-266

孫和の三男

呉・宝鼎元年十月

寶鼎元年[……]冬十月,永安山賊施但等聚衆數千人,劫晧庶弟永安侯謙出烏程,[……]丁固、諸葛靚逆之於牛屯,大戰,但等敗走。獲謙,謙自殺。(『三國志 五』p.1166)

*注:「謙字公遜,太祖孫,故太子孫和次子,景帝封永安侯。」(『建康實録』巻第四 後主)

10?

りゅうしゅん

劉俊

?-268

呉・宝鼎三年十月

〔泰始〕四年[……]冬十月[……]吳將顧容寇鬱林,太守毛炅大破之,斬其交州刺史劉俊、將軍修則。(『晉書 一』p.58)

〔宝鼎〕三年[……]是歲,遣交州刺史劉俊、前部督脩則等入擊交阯,爲晉將毛炅等所破,皆死,兵散還合浦。(『三國志 五』p.1167)

10?

しゅうそく

脩則

?-268

呉・宝鼎三年十月

〔泰始〕四年[……]冬十月[……]吳將顧容寇鬱林,太守毛炅大破之,斬其交州刺史劉俊、將軍修則。(『晉書 一』p.58)

〔宝鼎〕三年[……]是歲,遣交州刺史劉俊、前部督脩則等入擊交阯,爲晉將毛炅等所破,皆死,兵散還合浦。(『三國志 五』p.1167)

10?

せつく

薛珝

?-271

薛綜の子

呉・建衡三年十月

建衡元年[……]遣監軍虞汜、威南將軍薛珝、蒼梧太守陶璜由荊州,監軍李勖、督軍徐存從建安海道,皆就合浦擊交阯。(『三國志 五』p.1167)

子珝,宮至威南將軍,征交阯還,道病死。(『三國志 五』p.1254)

〔建衡〕三年[……]是歲,汜、璜破交阯,禽殺晉所置守將,九眞、日南皆還屬。(『三國志 五』p.1168)

〔建衡〕三年[……]冬十月,蒼梧太守陶璜與虞汜大破晉交阯太守楊稷,稷降。因定日南、九真[……]十一月[……](許嵩撰、張忱石点校『建康實録 上』(中華書局、1986年)p.102 卷第四 後主)

10?

しばえい

司馬穎

章度しょうと

成都王

279-306

司馬炎の十六男、八王の乱の王の一人

西晋・光熙元年十月

光熙元年[……]冬十月,司空、范陽王虓薨。虓長史劉輿害成都王穎。(『晉書 一』p.107)

屬虓暴薨,虓長史劉輿見穎爲鄴都所服,慮爲後患,祕不發喪,僞令人爲臺使,稱詔夜賜穎死。[……]乃散髮東首臥,命徽縊之,時年二十八。(『晉書 五』p.1619)

10?

せつけん

薛兼

令長れいちょう

?-323

薛瑩の子

東晋・太寧元年十月

明帝卽位,加散騎常侍。[……]是歲,卒。(『晉書 六』p.1832)

太寧元年[……]冬十月,散騎常侍薛兼卒。(許嵩撰、張忱石点校『建康實録 上』(中華書局、1986年)p.154 卷第六 肅宗明皇帝)

10?

しゅうさくし

習鑿歯

彦威げんい

?-384

東晋・太元九年十月

〔太元〕九年[……]冬十月[……]是月,前滎陽太守習鑿齒卒。(許嵩撰、張忱石点校『建康實録 上』(中華書局、1986年)p.275 卷第九 烈宗孝武皇帝)

名前没年月日出典
114

こうこう

高光

宣茂せんぼう

?-308

高柔の子

西晋・永嘉二年十一月乙巳
西暦308年12月3日

〔永嘉〕二年[……]十一月乙巳,尙書令高光卒;(『晉書 一』p.118)

118

おうすい

王粋

弘遠?こうえん

?-308

西晋・永嘉二年十一月己酉
西暦308年12月7日

〔永嘉〕二年[……]十一月[……]己酉,石勒寇鄴,魏郡太守王粹戰敗,死之。(『晉書 一』p.118)

1114

しばふ(ほ)

司馬輔

太原王

?-284

司馬孚の子

西晋・太康五年十一月甲辰
西暦284年12月8日

〔太康〕五年[……]冬十一月甲辰,太原王輔薨。(『晉書 一』p.75)

1118

そんいつ

孫壱

?-259

魏・甘露四年十一月癸卯
西暦259年12月19日

〔甘露〕四年[……]十一月癸卯,車騎將軍孫壹爲婢所殺。(『三國志 一』p.143)

1118

けい

邢氏

?-259

曹芳の側室、後に孫壱の妻

魏・甘露四年十一月癸卯
西暦259年12月19日

魏以壹爲車騎將軍、儀同三司,封吳侯,以故主芳貴人邢氏妻之。邢美色妒忌,下不堪命,遂共殺壹及邢氏。壹入魏(黃初)三年死。(『三國志 五』pp.1208-1209)

〔甘露〕四年[……]十一月癸卯,車騎將軍孫壹爲婢所殺。(『三國志 一』p.143)

1118

しばちゅう

司馬衷

正度せいと

恵帝

259-306*

西晋・光熙元年十一月庚午
西暦307年1月8日

光熙元年[……]十一月庚午,帝崩于顯陽殿,時年四十八,葬太陽陵。(『晉書 一』p.107)

*光熙元年十一月庚午(18日)=西暦307年1月8日

1120

ふくじゅ

伏寿

献帝伏皇后

?-214*

後漢・建安十九年十一月丁卯
西暦215年1月8日

〔建安〕十九年[……]十一月丁卯,曹操殺皇后伏氏,滅其族及二皇子。(『後漢書 二』p.388)

1122

そんか

孫夏

?-184*

黄巾の将

後漢・光和七年十一月癸巳
西暦185年1月11日

中平元年[……]十一月,[……]癸巳,朱儁拔宛城,斬黃巾別帥孫夏。(『後漢書 二』p.350)

*光和七年の十二月己巳に中平に改元。光和七年十一月癸巳(22日)=西暦185年1月11日

1122

しばがい

司馬該

玄度げんと

新都王

272-283

司馬炎の子

西晋・太康四年十一月戊午
西暦283年12月28日

〔太康〕四年[……]冬十一月戊午,新都王該薨。(『晉書 一』p.75)

太康四年薨,時年十二。(『晉書 六』p.1723)

1125

ちんけん

陳騫

休淵きゅうえん

201-281

西晋・太康二年十一月壬寅
西暦281年12月22日
注:異説あり

〔太康二年〕十一月壬寅,大司馬陳騫薨。(『晉書 一』p.73)

元康二年薨,年八十一。(『晉書 四』p.1037)

*本紀では「太康」二年。「元康」は恵帝の時代であるため、誤りとされる。

1126

ようこ

羊祜

叔子しゅくし

221-278

西晋・咸寧四年十一月辛卯
西暦278年12月27日

〔咸寧四年〕十一月辛巳,太醫司馬程據獻雉頭裘,帝以奇技異服典禮所禁,焚之於殿前。甲申,敕內外敢有犯者罪之。吳昭武將軍劉翻、厲武將軍祖始來降。辛卯,以尙書杜預都督荊州諸軍事。征南大將軍羊祜卒。(『晉書 一』p.69)

尋卒,時年五十八。(『晉書 四』p.1021)

1128

そうしょく

曹植

子建しけん

陳王

192-232

魏・太和六年十一月庚寅
西暦232年12月27日

〔太和〕六年[……]十一月丙寅,太白晝見。有星孛于翼,近太微上將星。庚寅,陳思王植薨。(『三國志 一』p.99)

又植以前過,事事復減半,十一年中而三徙都,常汲汲無歡,遂發疾薨,時年四十一。(『三國志 二』p.576)

1128

ちんけん

陳騫

休淵きゅうえん

212-292

西晋・元康二年十一月壬寅
西暦292年12月24日
注:異説あり

元康二年薨,年八十一。(『晉書 四』p.1037)

*本紀では「太康」二年。「元康」は恵帝の時代であるため、誤りとされる。

〔太康二年〕十一月壬寅,大司馬陳騫薨。(『晉書 一』p.73)

11?

ちょうほう

張宝

?-184

張角の弟

後漢・光和七年十一月

中平元年[……]十一月,皇甫嵩又破黃巾于下曲陽,斬張角弟寶。(『後漢書 二』p.350)

*光和七年の十二月己巳に中平に改元。

11?*注

ちょうよう

張楊

稚叔ちしゅく

?-198

後漢・建安三年十一月
注:異説あり

〔建安〕三年[……]冬十一月,盜殺大司馬張楊。(『後漢書 二』p.380)

〔建安〕四年,張楊爲其將楊醜所殺。(『後漢書 八』p.2343)

〔建安〕四年春二月,公還至昌邑。張楊將楊醜殺楊,眭固又殺醜,以其衆屬袁紹,屯射犬。夏四月,[……](『三國志 一』p.17)

*注:後漢書孝献帝紀では三年十一月、魏書武帝紀では四年二月頃。

11?

えんしょう

袁尚

顕甫けんほ/ふ

?-207

後漢・建安十二年十一月
注:異説あり

〔建安〕十二年[……]十一月,遼東太守公孫康殺袁尙、袁熙。(『後漢書 二』p.385)

〔建安〕十二年,太祖至遼西擊烏丸。尙、熙與烏丸逆軍戰,敗走奔遼東,公孫康誘斬之,送其首。(『三國志 一』p.207)

〔建安〕十二年[……]九月,公引兵自柳城還,康卽斬尙、熙及速僕丸等,傳其首。[……]十一月至易水,代郡烏丸行單于普富盧、上郡烏丸行單于那樓將其名王來賀。(『三國志 一』p.29)

11?

えんき

袁熙

顕奕けんえき

?-207

後漢・建安十二年十一月
注:異説あり

〔建安〕十二年[……]十一月,遼東太守公孫康殺袁尙、袁熙。(『後漢書 二』p.385)

〔建安〕十二年,太祖至遼西擊烏丸。尙、熙與烏丸逆軍戰,敗走奔遼東,公孫康誘斬之,送其首。(『三國志 一』p.207)

〔建安〕十二年[……]九月,公引兵自柳城還,康卽斬尙、熙及速僕丸等,傳其首。[……]十一月至易水,代郡烏丸行單于普富盧、上郡烏丸行單于那樓將其名王來賀。(『三國志 一』p.29)

11?

ししょう

士燮

威彦いげん

137-226

呉・黄武五年十一月

燮在郡四十餘歲,黃武五年,年九十卒。(『三國志 五』p.1193)

〔黄武〕五年[……]冬十一月[……]衞將軍、交趾太守、龍編侯士燮卒。(許嵩撰、張忱石点校『建康實録 上』(中華書局、1986年)p.26 卷第一 太祖上)

11?*注

おうろう

王朗

景興けいこう

?-228

魏・太和二年十一月

〔太和〕二年[……]十一月,司徒王朗薨。(『三國志 一』p.94)

太和二年薨,諡曰成侯。(『三國志 二』p.414)

*注:太和2年11月は西暦228年12月14日〜229年1月12日の間

11?

ちょうこう

張紘

子綱しこう

170-229
169-229

呉・黄龍元年十一月

紘建計宜出都秣陵,權從之。令還吳迎家,道病卒。[……]時年六十卒。(『三國志 五』p.1245)

黃龍元年[……]秋九月,權遷都建業,[……](『三國志 五』p.1135)

黃武八年[……]改元黃龍元年。[……]十一月,右長史張紘卒,遺令戒子孫,無爲不善。[……]及帝都秣陵,辭還東迎家,道病卒,年六十一。(許嵩撰、張忱石点校『建康實録 上』(中華書局、1986年)p.39 卷第二 太祖下)

11?

こよう

顧雍

元歎げんたん

168-243

呉・赤烏六年十一月

〔赤烏六年〕冬十一月,丞相顧雍卒。(『三國志 五』p.1145)

雍爲相十九年,年七十六,赤烏六年卒。(『三國志 五』p.1227)

11?

かんたく

闞沢

徳潤とくじゅん

?-243

呉・赤烏六年十一月

赤烏五年,拜太子太傅,領中書如故。[……]六年冬卒,權痛惜感悼,食不進者數日。(『三國志 五』p.1250)

〔赤烏六年〕冬十一月,丞相顧雍卒。是月,太子太傅、都鄕侯闞澤薨。(許嵩撰、張忱石点校『建康實録 上』(中華書局、1986年)p.50 卷第二 太祖下)

11?

しょうえん

蒋琬

公琰こうえん

?-246

蜀・延熙九年十一月

〔延熙〕九年夏六月,費禕還成都。秋,大赦。冬十一月,大司馬蔣琬卒。(『三國志 四』p.898)

11?

れいこぐ

令狐愚

公治こうち

?-249

魏・嘉平元年十一月

嘉平元年九月,愚遣將張式至白馬,與彪相問往來。淩又遣舍人勞精詣洛陽,語子廣。[……]其十一月,愚復遣式詣彪,未還,會愚病死。(『三國志 三』p.758)

11?

そんれい

孫礼

徳達とくたつ

?-250

魏・嘉平二年十一月

〔嘉平〕二年[……]十一月,司空孫禮薨。(『三國志 一』p.124)

嘉平二年薨,諡曰景侯。(『三國志 三』p.691)

11?

そんりょ

孫慮

?-256

呉・太平元年十一月

太平元年[……]十一月[……]孫憲與將軍王惇謀殺綝,事覺,綝殺惇,迫憲令自殺。(『三國志 五』p.1153)

綝遇慮薄於峻時,慮怒,與將軍王惇謀殺綝。綝殺惇,慮服藥死。(『三國志 五』p.1447)

*孫権の次男と同名だが別人、孫綝・孫峻の従兄弟。「孫憲」の表記も。

11?

おうとん

王惇

?-256

呉・太平元年十一月

太平元年[……]十一月[……]孫憲與將軍王惇謀殺綝,事覺,綝殺惇,迫憲令自殺。(『三國志 五』p.1153)

11?

しょかつせん

諸葛瞻

思遠しえん

227-263

魏・景元四年十一月

建興十二年,亮出武功,與兄瑾書曰:「瞻今已八歲,聰慧可愛,嫌其早成,恐不爲重器耳。」(『三國志 四』p.897)

景耀[……]六年冬,魏征西將軍鄧艾伐蜀,[……]遂戰,大敗,臨陳死,時年三十七。(『三國志 四』p.897)

〔景元〕四年[……]十一月,鄧艾帥萬餘人自陰平踰絕險至江由,破蜀將諸葛瞻於緜竹,斬瞻,傳首。(『晉書 一』p.43)

〔景元〕四年[……]冬十月,艾自陰平道行無人之地七百餘里,[……]蜀衞將軍諸葛瞻自涪還緜竹,列陳待艾。[……]忠、纂馳還更戰,大破之,斬瞻及尙書張遵等首,進軍到雒。(『三國志 四』p.779)

11?

りゅうしん

劉諶

北地王

?-263

劉禅の子

蜀・炎興元年十一月

改元爲炎興。冬,鄧艾破衞將軍諸葛瞻於綿竹。用光祿大夫譙周策,降於艾,[……]是日,北地王諶傷國之亡,先殺妻子,次以自殺。(『三國志 四』p.900)

〔景元〕四年[……]十一月,[……]是月,蜀主劉禪詣艾降,巴蜀皆平。(『三國志 一』p.149)

11?

しょかつしょう

諸葛尚

?-263

魏・景元四年十一月

瞻長子尙,與瞻俱沒。(『三國志 四』p.932)

〔景元〕四年[……]十一月,鄧艾帥萬餘人自陰平踰絕險至江由,破蜀將諸葛瞻於緜竹,斬瞻,傳首。(『晉書 一』p.43)

11?

ぼくようきょう(こう)

濮陽興

子元しげん

?-264

呉・元興元年十一月

元興元年[……]晧既得志,麤暴驕盈,多忌諱,好酒色,大小失望。興、布竊悔之。或以譖晧,十一月,誅興、布。(『三國志 五』p.1163)

11?

ちょうふ

張布

?-264

呉・元興元年十一月

元興元年[……]晧既得志,麤暴驕盈,多忌諱,好酒色,大小失望。興、布竊悔之。或以譖晧,十一月,誅興、布。(『三國志 五』p.1163)

11?

りくがい

陸凱

敬風けいふう

198-269

呉・建衡元年十一月

建衡元年[……]十一月,左丞相陸凱卒。(『三國志 五』p.1167)

建衡元年,疾病,晧遣中書令董朝問所欲言,[……]遂卒,時年七十二。(『三國志 五』p.1403)

11?

はんしん

范慎

孝敬こうけい

?-273
?-274

呉・鳳皇二年十一月
または
呉・鳳皇三年十一月

〔鳳皇〕二年[……]是歲,太尉范慎卒。(『三國志 五』p.1170)

〔鳳皇〕三年[……]十一月,侍中、太尉范愼薨。(許嵩撰、張忱石点校『建康實録 上』(中華書局、1986年)p.105 卷第四 後主)

*同年十二月の後に記述されており、誤りの可能性。

11?*注

じゅんきょく

荀勖

公曾こうそう

?-289

西晋・太康十年十一月丙辰

〔太康十年〕冬十月壬子,徙南宮王承爲武邑王。十一月丙辰,守尙書令、左光祿大夫荀勖卒。帝疾瘳,賜王公以下帛有差。含章殿鞠室火。甲申,以汝南王亮爲大司馬、大都督、假黃鉞。(『晉書 一』p.79)

*注:不明な日付。次に記される甲申は23日なので、それ以前? 十月丙辰の誤りなら25日となる。

名前没年月日出典
128

そんちん

孫綝

子通しつう

231-258*

呉・永安元年十二月戊辰
西暦259年1月18日

〔永安元年〕十二月戊辰臘,百僚朝賀,公卿升殿,詔武士縛綝,卽日伏誅。(『三國志 五』p.1157)

*永安元年十二月戊辰(8日)=西暦259年1月18日

綝死時年二十八。(『三國志 五』p.1451)

1213

かそう

何曾

穎考えいこう

199-278*

西晋・咸寧四年十二月丁未
西暦279年1月12日

〔咸寧〕四年[……]十二月乙未,西河王斌薨。丁未,太宰朗陵公何曾薨。(『晉書 一』p.69)

*咸寧四年十二月丁未(13日)=279年1月12日

咸寧四年薨,時年八十。[……](『晉書 四』p.997)

1215

しばさん

司馬賛

景期けいき

広漢王

275-280*

司馬攸の子

西晋・太康元年十二月戊辰
西暦281年1月22日

太康元年[……]十二月戊辰,廣漢王贊薨。(『晉書 一』p.72)

年六歲,太康元年薨,諡沖王。(『晉書 四』p.1136)

1217

おうしゅん

王濬

士治しち

206-285*

西晋・太康六年十二月庚子
西暦286年1月28日

〔太康六年〕十二月甲申,大閱于宣武觀,旬日而罷。庚子,撫軍大將軍、襄陽侯王濬卒。(『晉書 一』p.76)

太康六年卒,時年八十,諡曰武。(『晉書 四』p.1216)

*太康六年十二月庚子(17日)=西暦286年1月28日

1218

しばぎょう

司馬顒

文載ぶんさい

河間王

?-306*

司馬瓌の子、八王の乱の王の一人

西晋・光熙元年十二月己亥
西暦307年2月6日

光熙元年[……]十二月壬午朔,日有食之。己亥,封彭城王植子融爲樂城縣王。南陽王模殺河閒王顒于雍谷。(『晉書 一』p.116)

*光熙元年十二月己亥(18日)=西暦307年2月6日

1220

かきん

華歆

子魚しぎょ

157-231*

魏・太和五年十二月戊午
西暦232年1月30日

〔太和〕五年[……]十二月甲辰,月犯鎭星。戊午,太尉華歆薨。(『三國志 一』p.98)

*太和五年十二月戊午(20日)=232年1月30日

太和五年,歆薨,諡曰敬侯。(『三國志 二』p.406)

魏書云:歆時年七十五。(『三國志 二』p.406)

1220

しばぎょう

司馬鄴

彦旗げんき

愍帝

300-317*

西晋・建興五年十二月戊戌
西暦318年2月7日

〔建興〕五年[……]十二月戊戌,帝遇弒,崩于平陽,時年十八。(『晉書 一』p.132)

*建興五年十二月戊戌(20日)=西暦318年2月7日

1223

かんそう

韓綜

?-252*

呉・建興元年十二月戊午
西暦253年2月8日

〔建興元年〕冬十月,太傅恪率軍遏巢湖。城東興,使將軍全端守西城,都尉留略守東城。十二月[……]戊午,兵及東興,交戰,大破魏軍,殺將軍韓綜、桓嘉等。(『三國志 五』p.1151)

東興之役,綜爲前鋒,軍敗身死,諸葛恪斬送其首,以白權廟。(『三國志 五』p.1286)

1223

かんか

桓嘉

?-252*

呉・建興元年十二月戊午
西暦253年2月8日

〔建興元年〕冬十月,太傅恪率軍遏巢湖。城東興,使將軍全端守西城,都尉留略守東城。十二月[……]戊午,兵及東興,交戰,大破魏軍,殺將軍韓綜、桓嘉等。(『三國志 五』p.1151)

1224

りょふ

呂布

奉先ほうせん

?-198*

後漢・建安三年十二月癸酉
西暦199年2月7日

〔建安〕三年[……]十二月癸酉,曹操擊呂布於徐州,斬之。(『後漢書 二』p.380)

1224

ちんぐん

陳羣

長文ちょうぶん

?-236*

魏・青龍四年十二月癸巳
西暦237年2月7日

〔靑龍〕四年,[……]十二月癸巳,司空陳羣薨。(『三國志 一』pp.107-108)

靑龍四年薨,諡曰靖侯。(『三國志 三』p.638)

1224

しばがい

司馬乂

士度しと

長沙王

276-303*

司馬炎の六男、八王の乱の王の一人

西晋・太安二年十二月癸亥
西暦304年1月17日

及武帝崩,乂時年十五,孺慕過禮。(『晉書 五』p.1612)

〔太安〕二年[……]〔十二月〕壬寅夜,赤氣竟天,隱隱有聲。丙辰,地震。癸亥,東海王越執長沙王乂,幽於金墉城,尋爲張方所害。(『晉書 一』p.101)

*十一月に続く記述だが、壬寅・丙辰・癸亥の日は十二月にある。

越懼難作,欲遂誅乂。黃門郞潘滔勸越密告張方,方遣部將郅輔勒兵三千,就金墉收乂,至營,炙而殺之。乂寃痛之聲達於左右,三軍莫不爲之垂涕。時年二十八。(『晉書 五』pp.1614-1615)

1227

そうりん

曹霖

東海王

?-250*

曹丕の子、曹髦の父

魏・嘉平二年十二月甲辰
西暦251年2月5日

〔嘉平〕二年[……]十二月甲辰,東海王霖薨。(『三國志 一』p.124)

嘉平元年薨。(『三國志 二』p.590)

*本紀では二年で月日も記されているため、元年は誤りと思われる。

1230

しゃきゅう

謝玖

?-299*

司馬衷の側室、司馬遹の母

西晋・元康九年十二月壬戌
西暦300年2月6日

〔元康〕九年[……]十二月壬戌,廢皇太子遹爲庶人,及其三子幽于金墉城,殺太子母謝氏。(『晉書 一』p.95)

12?*注

かんう

関羽

雲長うんちょう

?-219*

後漢・建安二十四年十二月

〔建安〕二十四年[……]十二月,璋司馬馬忠獲羽及其子平、都督趙累等於章鄉,遂定荊州。(『三國志 五』p.1121)

權遣將逆擊羽,斬羽及子平于臨沮。(『三國志 四』p.941)

*注:建安24年12月は西暦220年1月23日〜220年2月21日の間。

12?*注

かんへい

関平

?-219*

関羽の子

後漢・建安二十四年十二月

〔建安〕二十四年[……]十二月,璋司馬馬忠獲羽及其子平、都督趙累等於章鄉,遂定荊州。(『三國志 五』p.1121)

權遣將逆擊羽,斬羽及子平于臨沮。(『三國志 四』p.941)

*注:建安24年12月は西暦220年1月23日〜220年2月21日の間。

12?

さいりん

崔林

徳儒とくじゅ

?-244*

魏・正始五年十二月

〔正始〕五年[……]十二月,司空崔林薨。(『三國志 一』p.120)

*正始5年12月は西暦245年1月15日〜245年2月13日の間。

正始五年薨,諡曰孝侯。(『三國志 三』p.682)

12?

かく

郭氏

明元皇后

?-263*

曹叡の皇后

魏・景元四年十二月

〔景元四年〕十二月[……]乙卯,以征西將軍鄧艾爲太尉,鎭西將軍鍾會爲司徒。皇太后崩。(『三國志 一』p.149)

景元四年十二月崩,五年二月,葬高平陵西。(『三國志 一』p.169)

*24日(乙卯)〜30日の間とすると、西暦では264年2月になる。

12?

ほせん

歩闡

仲思ちゅうし

?-272*

歩騭の子

西晋・泰始八年十二月

鳳皇元年秋八月,徵西陵督步闡。闡不應,據城降晉。遣樂鄉都督陸抗圍取闡,闡衆悉降。闡及同計數十人皆夷三族。(『三國志 五』p.1169)

〔泰始〕八年[……]九月,吳西陵督步闡來降,[……]十二月,肇攻抗,不克而還。闡城陷,爲抗所禽。(『晉書 一』p.62)

*泰始8年12月は西暦273年1月6日〜273年2月4日の間。

12?*注

とくはつじゅきのう

禿髪樹機能

?-279*

西晋・咸寧五年十二月

〔咸寧〕五年[……]十二月,馬隆擊叛虜樹機能,大破,斬之,涼州平。(『晉書 一』p.70)

*注:咸寧5年12月は西暦280年1月19日~280年2月17日の間。

12?

そんこう

孫晧

元宗げんそう

末帝

242-284
242-283*

西晋・太康五年十二月
または
西晋・太康四年十二月

於是遂迎立晧,時年二十三。改元,大赦。是歲,於魏咸熙元年也。(『三國志 五』pp.1162-1163)

〔太康〕五年,晧死于洛陽。(『三國志 五』p.1177)

*太康5年12月は西暦284年12月25日〜285年1月22日の間。

吳錄曰:晧以〔太康〕四年十二月死,時年四十二,葬河南縣界。(『三國志 五』p.1178)

*太康4年12月は西暦284年1月5日〜284年2月3日の間。

歸命侯孫晧卒。(『資治通鑑 6』p.2632)

*十一月の後に記載

潘眉曰:「蕭常續漢書考異引世紀:晧以赤烏五年壬戌生,太康四年癸卯死,如是則於登位年二十三亦合。蓋吳錄之所謂四年者,晉太康年也。」(陳壽撰、裴松之注、盧弼集解、錢劍夫整理『三國志集解 柒』(上海古籍出版社、2012年)p.3063)

12?

かしょう

何劭

敬祖けいそ

236-301*

何曾の子

西晋・永寧元年十二月

劭字敬祖,少與武帝同年,有總角之好。(『晉書 四』p.998)

永寧元年[……]十二月,司空何劭薨。(『晉書 一』p.99)

永寧元年薨,贈司徒,諡曰康。(『晉書 四』p.999)

12?*注

しばけい

司馬冏

景治けいち

斉王

?-302

司馬攸の子、八王の乱の王の一人

西晋・永寧二年十二月

太安元年[……]十二月丁卯,河閒王顒表齊王冏窺伺神器,有無君之心,與成都王穎、新野王歆、范陽王虓同會洛陽,請廢冏還第。長沙王乂奉乘輿屯南止車門,攻冏,殺之,幽其諸子于金墉城,廢冏弟北海王寔。大赦,改元。(『晉書 一』pp.99-100)

*永寧二年(太安に改元)十二月の丁卯(22日)以降。

12?

とよ

杜預

元凱げんがい

222-284*

西晋・太康五年閏十二月

〔太康〕五年[……]〔十二〕月,鎭南大將軍、當陽侯杜預卒。(『晉書 一』p.75)

*太康5年閏12月は西暦285年1月23日〜285年2月21日の間。

其後徵爲司隸校尉,加位特進,行次鄧縣而卒,時年六十三。(『晉書 四』p.1032)

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※個人的用途を優先して調べているため人選に偏りがあります。

出典

  • 范曄撰、李賢等注『後漢書 一〜十二』(中華書局、1965年)
  • 陳壽撰、裴松之注『三國志 一〜五』(中華書局、1982年)
  • 房玄齡等撰『晉書 一〜十』(中華書局、1974年)
  • 司馬光編著、胡三省音注『資治通鑑 1〜20』(中華書局、1956年)
  • その他、個別に記載

データ更新:2017/08/12

Tags: 資料 生没年