司馬懿と曹丕、首陽山の二つの陵墓

目次

司馬懿の墓晋の宣帝の高原陵

 司馬懿しばいは、曹魏の都・洛陽らくようの東北方面にある首陽山しゅようざんに自ら築いた墓に埋葬された。曹操そうそう曹丕そうひの薄葬主義に倣った質素な陵墓は、のちに晋の宣帝の高原陵こうげんりょうと呼ばれることになるが、皇帝位はやがて晋王朝を開いた孫の司馬炎しばえんによる追贈である。埋葬当時の司馬懿はあくまで魏王朝の臣下であり、また曹操司馬昭しばしょうのような王位に就いていたわけでもなかった。

先是,預作終制,於首陽山爲土藏,不墳不樹;作顧命三篇,斂以時服,不設明器,後終者不得合葬。一如遺命。晉國初建,追尊曰宣王武帝受禪,上尊號曰宣皇帝,陵曰高原,廟稱高祖

房玄齡等撰《晉書 一 紀》(中華書局,1974年) 宣帝紀 p.20

これより先、〔司馬懿は〕予め終制(葬儀の制度)を定め、首陽山に土洞墓を作り、〔その墓には〕土盛りや植樹は行わなかった。遺言を三篇作り、普段着で棺に収めること、副葬品を入れないこと、後に死んだ者を合葬しないこととした。〔葬儀や埋葬は〕すべて遺命のとおりに行われた。晋国が建国されると、追尊して宣王とした。武帝司馬炎)が受禅すると、追尊して宣皇帝とし、陵墓を高原陵とし、廟号を高祖とした。

宣帝豫自於首陽山爲土藏,不墳不樹,作顧命終制,斂以時服,不設明器。皆謹奉成命,無所加焉。

房玄齡等撰《晉書 三 志》(中華書局,1974年) 礼志 p.633

宣帝(司馬懿)は予め自ら首陽山に土洞墓を作り、土盛りや植樹は行わず、葬儀の方法について遺言し、普段着で棺に収め、副葬品は入れないこととした。景帝司馬師)・文帝司馬昭)はともに謹んでその決定を守り、何も加えることはなかった。

 首陽山には、司馬懿に先立つこと二十五年前に世を去った魏の文帝・曹丕の陵墓(首陽陵しゅようりょう)がある。

 はじめ曹操に仕えた司馬懿は、その太子曹丕の側近となり、皇帝即位後には最も信頼厚い重臣の一人となった。彼自身より八歳年少であった曹丕が即位六年にして早世した後、曹叡そうえい曹芳そうほうと代々の皇帝に仕えた司馬懿は、七十三歳にして世を去ったが、自らの墓所に選んだのは、曹丕の眠る首陽山だった。亡き主君の側に永遠に……とのロマンを感じたいところだが、あくまで魏の臣下であった司馬懿が、現王朝の皇帝陵の付近に勝手に墓を建造できるものだろうか。これは魏の皇帝から、臣下への恩寵として墓所を賜った結果ではないか。

 つまり司馬懿は本来、魏の功臣として曹丕の首陽陵に陪葬(主君の墓の側に臣下を葬り墓を建てる)されたのだろう。その陪葬墓が図らずも後に、晋王朝の皇帝陵になってしまった。墓が作られた時期は不詳だが、『三国志』にも『晋書』にも首陽山に埋葬された魏臣の記述は他に見あたらず、かなり特権的なものだったと考えれば、司馬懿が権力を掌握した最晩年のことだろう。

 とはいえ、晩年の司馬懿と皇帝の力関係に鑑みれば、司馬懿自身が望んだ結果の「陪葬」とは充分考えられる。それゆえに、事実上の始祖である曹操でも、自身が最も活躍した時期の曹叡でもなく、若い頃からの絆を持つ曹丕の側を選んだのかもしれない。

 ちなみに、村元健一漢魏晋南北朝時代の都城と陵墓の研究』(汲古書院、2016年)には、……皇后以下、皇帝の肉親ですら首陽陵の付近には埋葬されていないことを考えると、首陽陵に陪葬者がいた可能性は極めて低い。(p.277)という考察がある。この論文では、司馬懿の墓は「首陽山の周辺に厚く堆積した黄土をうがった土洞墓だったと考えられる。(p.279)とされるものの、曹丕の墓との位置関係に関する言及はない。しかし『晋書』の記述からは、司馬懿の墓は、曹丕の墓と同様(後述)の地形を利用する手法で、「付近に」作られた、と考えるのが自然ではないだろうか。

曹丕の首陽陵の孤独、および司馬懿の陪葬(?)墓

 魏の初代皇帝である曹丕は、禅譲による即位から二年後の黄初こうしょ三年(222年)冬、礼法に従い予め自身の陵墓を築いたが、その際の詳しい仕様や思想が『三国志』魏書文帝紀に記されている。長文のため全文は省略するが、一部を引用。

冬十月甲子,表首陽山東為壽陵,作終制曰:「[……]穀林,通樹之,會稽,農不易畝,故葬於山林,則合乎山林。封樹之制,非上古也,吾無取焉。壽陵因山為體,無為封樹,無立寢殿,造園邑,通神道。夫葬也者,藏也,欲人之不得見也。骨無痛痒之知,冢非棲神之宅,[……]為棺槨足以朽骨,衣衾足以朽肉而已。故吾營此丘墟不食之地,欲使易代之後不知其處。[……]存於所以安君定親,使魂靈萬載無危,斯則賢聖之忠孝矣。自古及今,未有不亡之國,亦無不掘之墓也。喪亂以來,漢氏諸陵無不發掘,至乃燒取玉匣金縷,骸骨幷盡,是焚如之刑,豈不重痛哉!禍由乎厚葬封樹。[……]其皇后及貴人以下,不隨王之國者,有終沒皆葬澗西,前又以表其處矣。[……]魂而有靈,無不之也,一澗之閒,不足為遠。若違今詔,妄有所變改造施,吾為戮尸地下,戮而重戮,死而重死。臣子為蔑死君父,不忠不孝,使死者有知,將不福汝。[……]

陳壽撰、裴松之注《三國志 一 魏書〔一〕》(中華書局,1982年) 文帝紀 pp.81-82

冬十月甲子の日(三日)、首陽しゅよう山の東を指定して寿陵じゅりょう(生前中に作る陵墓)を築き、葬礼の制度を〔あらかじめ〕制定し、述べた、「[……]昔、ぎょう穀林こくりんに埋葬されたが、〔その林に〕通じて〔墓の〕木を植えた。会稽かいけいに埋葬されたが、農民は〔墓作りのため〕田畑から離れずにすんだ。したがって山や林に埋葬すれば、その山や林と一つになった。土盛りをし木を植える制度は、上古の精神にはずれており、わたしは採用しない。寿陵は山を利用して本体を作り、土盛りや植樹をすることはならぬ。寝殿(陵の上の正殿)を建て、園邑えんゆう(陵を守るための村落)を作り、神道(墓への道)を通ずることはならぬ。そもそもそうというのはぞう(かくす)であり、人に見られないのを欲する。骨には痛みかゆみといった知覚はなく、塚穴は精神を住まわすすみかではないのだ。[……]棺槨かんかく(内棺と外棺)は骨を朽ちさせ、衣衾いきん(衣服としとね)は肉を朽ちさせるだけのもので充分と考える。したがってわたしは空虚にして生活の場でない地を造営して、代が変わった後にはその場所をわからなくさせたいと考える。[……]君を安んじ親をおちつかせ、万年ののちまで霊魂を危険にさらさない方法を講ずること、それこそが賢人聖者の忠孝である。古代から現代まで、滅亡しない国家は存在しなかったし、また発掘されない墳墓は存在しなかったのである。動乱以来、漢氏の諸陵墓には発掘されないものなく、〔身体にまとう〕玉の匣と〔それを綴る〕金のいとを焼き取るため、骸骨もいっしょに滅び去るに至っている。これは火あぶりの刑であって、いったい激しい痛みを感じないでおれようか。災難は厚葬と土盛り・植樹に原因がある。[……]皇后から貴人(女官の位)以下に及ぶまで、王について領国に赴かない者は、死亡した場合、すべてかん水の西の前方(洛陽寄り)に埋葬し、さらにその場所に標識を立てよ。[……]霊魂が存在するのならば、どこへでも赴くのである。一澗水のへだたりは、遠いというほどではあるまい。もし現在の詔勅に違反し、かってに変更して造作・設置を行なうようなことがあれば、わたしは地下にあって遺体にはずかしめを受けることになる。はずかしめを受けたうえにはずかしめを重ねられ、死んでさらに死ぬめにあうことになるのだ。臣や子でありながら君や父に対して侮辱と死を加えることは、不忠不孝である。死者がもし知覚をもつならば、汝に福を授けないであろう。[……]

陳寿、裴松之注、今鷹真・井波律子訳『正史 三国志 1 魏書Ⅰ』(ちくま学芸文庫、1992年) 文帝紀 pp.194-197

 ※省略した箇所には、埋葬方法の詳細、および過去の帝王陵の例などが記されている。

 魏の建国者でありながら(あるがゆえに?)「古代から現代まで、滅亡しない国家は存在しなかったし、また発掘されない墳墓は存在しなかった」と悲観的に、あるいは現実的に語る曹丕は、自身の墓を自然の山に埋もれさせ、王朝滅亡の後には「その場所をわからなくさせ」たかった。また墓を死後の住処とする考えを否定し、薄葬を徹底して盗掘による破壊を防ぐことが、むしろ魂を守る手段となると考える。同時に、建造を担う民の負担も軽減できる。当時一般的(?)な、壮大な陵墓で帝王の権勢を誇示し、立派な副葬品を入れて死後の世界でも豊かな暮らしを求めるといった価値観からは離れた、独特の感性の産物のようにも思われる。いずれにせよ、やはり薄葬を旨とした曹操の陵墓では行われた、妃の合葬や親族の陪葬すらも禁じた曹丕が、臣下の陪葬を望むことは確かに考え難い。

 だが、司馬懿の墓所の決定はおそらく曹芳時代のことであり、必ずしも曹丕の主義に沿ったものとは限らない。次世代の曹叡が既に、曹丕の徹底した薄葬主義にはやや否定的に見える。曹丕の意向にかかわらず、後から陪葬墓が作られることはあり得るのではないか。

 いつかはその存在すらわからなくしようとする墓で、孤独な眠りを望むかのように他者を近づけず、この詔勅に違反することは自分へのはずかしめであり不忠不孝である、とまで断言した曹丕の魂に、ある意味「勝手に」陪葬墓として付近に建造されたのかもしれない司馬懿の墓は、どう映ったことだろう。司馬懿自身が望んだものと仮定して、果たしてそれは忠なのか、反逆なのか。あるいは不忠な愛という矛盾かもしれない。

 冒頭に引用した遺言でわかるように、司馬懿も同様に自分の墓を目立たせないことや、副葬品、合葬の禁止などを徹底させた。「陪葬」を望んだとしても、それは権勢を後世に誇示する目的ではなかっただろう。近年、曹操の墓である高陵こうりょうが発掘され話題となったが、曹丕司馬懿の墓はともに(曹丕の望みどおり、山と同化して所在不明となり)現在まで発見されていない。

 晩年、司馬懿は、政敵であった皇族曹爽そうそう(帝位簒奪を狙っていたとされる)をクーデターで倒し、魏の権力を掌握する。それは少なくとも表向きには、時の皇帝・曹芳への忠義ゆえの行いだが、同時に、かつて漢魏革命による王朝交代をリアルタイムに見つめてきた司馬懿が、いずれ来る司馬氏の天下を全く予感しなかったとは思えない。それでもなお、自身は魏の臣として、曹丕の臣として全うしたい、という願いの表れが、首陽山に築いた自らの陵墓であった、と思いたいところである。

公開:2020.01.30 更新:2020.08.12

※この記事は三国志ドラマ雑記「『三国機密』の司馬懿は首陽山に『陪葬』されるのか?」から切り分け、加筆しました。

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