鍾会と荀勖(荀勗) - 年下の叔父と年上の甥
魏末から西晋初、司馬昭・司馬炎らの腹心として活躍した、鍾会と荀勖(荀勗)の関係について。
目次
父を亡くした荀勖は母方のおじを頼った/荀勖の従外祖父は鍾繇
荀勖字公曾,潁川潁陰人,漢司空爽曾孫也。祖棐,射聲校尉。父肸,早亡。勖依于舅氏。岐嶷夙成,年十餘歲能屬文。從外祖魏太傅鍾繇曰:「此兒當及其曾祖。」
房玄齡等撰《晉書 四 傳》(中華書局,1974年) 荀勖傳 p.1152
荀勖は字を公曾といい、潁川郡潁陰県の人で、漢の司空・荀爽の曾孫である。祖父の荀棐は、射声校尉であった。父の荀肸は、早くに亡くなった。〔そこで〕荀勖は母方のおじを頼った。幼少時から優れて賢く早熟で、十歳ほどにしてよく文章を綴った。従外祖父である魏の太傅・鍾繇は言った、「この子はその曾祖父(荀爽)に匹敵するだろう。」
なお漢の司空・荀爽は荀彧の父・荀緄の弟にあたる。
荀勖は鍾会の従甥/荀勖は母方のおじの家で育った
及鍾會謀反,審問未至,而外人先告之。帝待會素厚,未之信也。勖曰:「會雖受恩,然其性未可許以見得思義,不可不速爲之備。」帝卽出鎭長安,主簿郭奕、參軍王深以勖是會從甥,少長舅氏,勸帝斥出之。帝不納,而使勖陪乘,待之如初。
房玄齡等撰《晉書 四 傳》(中華書局,1974年) 荀勖傳 p.1153
鍾会が謀叛を起こしたとき、まだ確かな情報がもたらされないうちに、外部の人間が先んじて報告してきた。文帝(司馬昭)は鍾会を平素から厚遇していたので、これを信じなかった。荀勖は言った、「鍾会は恩を受けていたといえども、その性格はおよそ『利を見れば道義を考える』ということができません。速やかに備えないのはよろしくないでしょう。」〔そこで〕文帝はただちに長安に出鎮したが、主簿の郭奕・参軍の王深は荀勖が鍾会の従甥であり、母方のおじの家で育ったことから、文帝に彼を排斥するよう勧めた。文帝は〔この意見を〕採用せず、荀勖を車に供として乗せ、以前と変わらぬ待遇をした。
荀勖は鍾会の従甥/荀勖は鍾会の家で育った
咸熙末,爲文帝相國主簿。時鍾會反於蜀,荀勖卽會之從甥,少長會家,勖爲文帝掾,奕啓出之。帝雖不用,然知其雅正。
房玄齡等撰《晉書 四 傳》(中華書局,1974年) 郭奕傳 p.1289
咸熙の末年に、〔郭奕は〕文帝(司馬昭)の相国主簿となった。そのころ鍾会が蜀で反乱を起こし、鍾会の従甥であり、鍾会の家で育った荀勖は、文帝の掾となっていたが、郭奕は彼を追放するようにと申し述べた。文帝は〔この進言を〕用いることはしなかったが、彼の正直な性格を理解した。
ここまでのまとめ
- 鍾繇は荀勖の「従外祖父」である。
- 荀勖は幼くして父を亡くしたため「舅氏」を頼り、その家で育った。
- 荀勖は鍾会(鍾繇の子)の家で育った。
- 荀勖は鍾会の「従甥」である。
「舅氏」は母方のおじ。「従」は本来父方の親族を示すようなのだが(?)荀勖から見て鍾一族は母方の親戚である。また「従甥」は少なくとも日本語では「いとこの子」となり、矛盾する。が、後述する『世説新語』の訳の語釈には「従甥は姉妹の子」とあったこともあってひとまず、荀勖の母の兄か弟が鍾会、と解釈して、幼い荀勖はおじの鍾会の家に身を寄せた、つまり鍾会と荀勖の関係は養父子に近いものかと思ってみた。
鍾会は最終的には独り身だったが、一方で兄の子の鍾毅・鍾峻・鍾辿(および鍾会とともに敗死した鍾邕もか)を養育していた(鍾会伝)。この兄とは前後関係から鍾毓のようだが、当時鍾毓はまだ存命だったので、孤児になった甥らを引き取ったというわけでもないようだ。実子のいなかった鍾会が、跡継ぎにすべく甥を養子に迎えたのだろうか。それにしては三、四人もというのは多すぎる気もするが、子供好きだったものか。ともかく、こうした兄の子らとともに、姉か妹の子である荀勖も養育されたのかと思った……が、Twitterで教えていただいて気づいたが、これは勘違いだった。
鍾会の年上の甥・荀勖
鍾会の父、書家として名高い鍾繇は、太和四年(230年)に八十歳で死去した(魏書、書断)。その末子である鍾会は、黄初六年(225年)生まれ(魏書、鍾会母伝など)。なんと、鍾繇七十五歳のときの子である。具体的な年齢は『魏書』にはないが、鍾会誕生の頃には「年老いていた」と裴松之が注釈で述べていることなどからも、高齢であった。
荀勖は太康十年(289年)に死去するが、生年は判明していない。しかし鍾繇に「十余歳」で評価されたということで、少なくとも鍾繇が死去する230年以前に、十歳には達していた。一方の鍾会は、鍾繇死去時にはまだ六歳なので、実は、甥の荀勖のほうが、おじの鍾会より年長だった。ということで、荀勖の母は、鍾会のかなり年上の姉にあたるのだろう。なおこの母の鍾夫人は、荀勖伝によれば西晋時代まで存命であった。
荀勖が頼ったのは母の実家・鍾繇の家?
となると、荀勖が頼った「舅氏」とは誰なのか。鍾会以外の鍾繇の子には、少なくとも後を継いだ鍾毓がいる。しかし郭奕伝では「鍾会の家」にいたとされることから、これがそもそも鍾繇の家なのかもしれない。荀勖の父・荀肸が死去した後、その妻である鍾繇の娘は実家を頼り、荀勖はそこで育つ。その後に叔父にあたる鍾会が誕生し、二人は同じ家で育った。結果、鍾会の謀反時に、荀勖が疑いをかけられることになった。ということかもしれない。つまり、鍾会と荀勖の関係は、血縁上は叔父・甥ながら、兄弟・それも弟・兄に近いものだった。
鍾会が荀勖の宝剣を詐取する話
『世説新語』巧芸篇に、鍾会と荀勖に関するこんな逸話がある。
通釈 鍾会は荀済北(荀勗)のおじであったが、二人は仲が悪かった。荀勗は百万銭ほどもする宝剣を持っていたが、いつも母の鍾夫人のところに置いていた。鍾会は書が上手であったので、荀勗の筆跡をまねて、荀勗の母に手紙を書いて剣を取り寄せ、そのまま盗んでかえさなかった。荀勗は鍾会の仕業だとわかったが、取り返すすべもなく、仕返しをする方法を考えていた。後に鍾会兄弟(鍾会・鍾毓)は千万銭をかけて邸宅を作った。出来上がると、たいそう見事なものであったが、まだ移り住むことはできないでいた。荀勗は非常に絵が上手であったので、ひそかにでかけていって鍾会の新宅の門のわき部屋に、父の太傅(鍾繇)の肖像を描いた。衣冠や容貌は生前そっくりであった。鍾会兄弟は門に入るやいなや、ひどく悲しみ、そのまま新居は廃屋となってしまった。
目加田誠『新釈漢文大系 第78巻 世説新語(下)』(明治書院、1978年) 巧芸第二十一 p.367
原文は省略するが、それぞれ書と画の才に秀でた二人が、その芸術的才能を悪用する話である。なお鍾会の筆跡模写の特技は、謀反を起こした際の情報操作にも大いに活用された。
これが仮に実話とすると、鍾会が剣を盗んだ頃には既に、鍾会も荀勖も、実家(母のいる、元・鍾繇の家)には住んでいないようである。最終的に独身であった鍾会だが、実家を出た後、兄と住んでいた時期もあったのかもしれない。
またこの話で荀勖は、昔の記憶のみを頼りに、鍾繇の肖像画をリアルに描く。鍾繇の元で育ったために、その風貌をよく覚えていたのだろう。鍾繇死去時の荀勖は、最少で十歳だが、十歳の記憶がそこまで鮮明かと考えると、もう少し年齢が高かったのかもしれない。もっとも六歳で喪った父の風貌をはっきり覚えている鍾会の記憶力もなかなか、ということになるが。
余談だが、現代の感覚なら、鍾兄弟は写真さながらの肖像画で亡父を偲びながら新居で過ごせるのだから、荀勖のこの「仕返し」はむしろ親切にも思える。しかし当時としては、父の姿を見ること自体が大きな悲しみをもたらしてしまう、もしくはその傍らで楽しく日常生活を送るなど不謹慎で、とても暮らしてはいけない、という考え方だったのだろうか?
2017.04.28