突然の陳泰ブーム

 追記:この日記は、現在の理解・意見と大幅に異なります。この内容は信じないでください。と追記したくなるほど間違っているが、自分用の思考過程として残す。詳しくはコラムページの陳泰コーナーを見てね。

呉信者の私が、唐突に魏の陳泰にハマった

 きっかけは、今さら三國志11をプレイしてみたことだった。例によってオールスター仮想シナリオで、末期の武将(今回は、司馬懿死去以降に存命だった人と定義した)のみ登用可、など適当に幾つか縛りを設定、諸葛誕軍で遊んでいた。これは、いつも呉軍ばかりだからたまには他の勢力にしよう、というのと、諸葛靚が使いたかったという理由で。そしてあるとき、ザコばかりだった諸葛誕軍が鄧艾軍を吸収し、初めてエース級の人たちがやってきたのである。おや? 中でも強くてかわいくてなんでもできる子がいますよ。陳泰、えーと誰だ陳羣の息子か、どんな人だったかな?日頃は本棚に眠っている魏や蜀の巻を引っ張り出して陳泰の出番を熟読(゜ω゜)(何かに開眼)

 これまで姜維の北伐などはあまり興味が持てずに(だって呉の出番ないし……)スルーしていた部分だったが、防衛側視点で見ると、俄然おもしろくなってくる。どうも私は防衛側が好きになる傾向がある。そして部下の意見をも退けて鮮やかに勝利する流れなんて、実に私好み。なんだこの人かっこいいじゃない!

 そんなわけでざっくり読んでみた陳泰の第一印象は「潔癖で頑固っぽい」「ザ・文官的な印象のある陳羣の息子なのに戦上手の武将キャラ」「何この人、友達多い!」みたいな感じだった。特に「友達多い」については、誰それと仲が良かった、と多数あちこちに書かれており、ゲームでも相互親愛設定の嵐、同世代人を見つけるのすら困難な呉末ファンには衝撃のリア充度である。さらに演義では鄧艾を「忘年の交わり」とかって可愛がっているらしいが、えっ? 年齢詐称か? 生年不詳だがどう考えても鄧艾よりは年下では?

 が、伝の注にある高貴郷公事件の逸話で、陳泰だけが召喚に応じなかったことが強調されているのは気になる。彼以外は堂々と司馬氏についており、ことの顛末についても一人だけスルーされ感がすごい。一見とても友達多いのに、実は孤独な人なのか?

曹髦と司馬昭と陳泰

 で、この逸話について。三国志にハマりはじめて間もない頃に、高貴郷公(曹髦)弑逆事件の逸話はドラマチックだなあと思ってかなり好きになったのだったが、長らくこの分野から離れていたせいもあって、陳泰のことはまったく記憶に残っていなかった。関心の偏りとは怖ろしいものである。

 干宝の『晋紀』にいう。高貴郷公が殺害されたとき、司馬文王は朝臣を集めてその事件について相談した。太常の陳泰が出席しなかったので、彼の舅の荀顗に彼を召し出させた。荀顗は訪れると事の理非について説明した。陳泰はいった、「世間の論者は私を舅殿に比べておりますが、今、舅殿は私に及びません。」子弟や内部外部のものがいっしよになって彼にせまったので、涙を流しながら参内した。文王は彼を曲室(密室)で待ち受け、「玄伯、卿は何をわしにさせたいのじゃ。」答えて、「賈充を処刑して天下に謝罪してください。」文王、「わしのために改めて別の手段を考えてくれ。」陳泰、「私の言葉はただこのことを進言するためにあるのです。別の手段など存じません。」文王はそこでそれ以上いわなかった。

 『魏氏春秋』にいう。帝が崩御すると、太傅の司馬孚と尚書右僕射の陳泰は帝の遺体をおのれの股に枕させる礼をとり、号泣して哀悼の意をつくした。そのとき大将軍(司馬文王)が宮中に参内した。陳泰は彼を見て悲しみ慟哭した。大将軍もまた彼に向って泣き、語りかけた、「玄伯、いったいわしをどうする。」陳泰、「ただ賈充を斬る手があるだけです。少しは天下に謝罪できましょう。」大将軍はしばらくしていった、「卿は改めてその他の手段を考えてくれ。」陳泰、「私にこれ以上の言葉をしゃべらせることができましょうや。」かくて血を吐いてなくなった。

陳寿、裴松之注、今鷹真訳『正史 三国志 3 魏書Ⅲ』(ちくま学芸文庫、1993年) pp.484-485

 『晋紀』の逸話だけを読むと、救いを求める司馬昭と、あくまで正義を譲らない陳泰、という話に見える。……と思ったら『魏氏春秋』では「(陳泰は)かくて血を吐いてなくなった。」と続いて、エッ?( ゜д゜)っていう。三国志にはよく(?)ある、自分の「正」を貫こうとして叶わなかった結果の憤死である。

 陳泰伝の本文には、

景元元年(二六〇)逝去し、司空を追贈され、穆公と諡された。

陳寿、裴松之注、今鷹真訳『正史 三国志 3 魏書Ⅲ』(ちくま学芸文庫、1993年) 陳泰伝 p.484

 とあるので、高貴郷公事件のあった年に死んだのは公式事実。裴松之はこの逸話の信憑性を疑っているようだが、本当にこの逸話のような発言を陳泰がしたとしたら、実は司馬昭サイドに暗殺されたんじゃ(゜ω゜)いかに仲が良かったとはいえども、後々のことを考えると、こんなことを言ってくる重臣というのは危険な存在だと思う。

 ……と、思っていた。

 が、陳泰の言う「これ以上の」手段とは何なのか。これはつまり(賈充でなく)司馬昭自身を処刑するということである、らしい。エーそうだったのか( ゜д゜)そもそも賈充が曹髦を斬らせたのは、司馬昭の指示なのか、それとも賈充個人の判断なのか? この件について、ウェブ上の意見や手持ちの本(というのは主に例のアンチ司馬氏の本なのが問題だけど 笑)など見てみたところでは、司馬昭の差し金とされているようだが、特に証拠はない。

 それにしても密室に呼び出し「わしのために改めて別の手段を考えてくれ。」とは。(余談だが、今鷹氏の訳は妙に小説調で一人称「わし」とか飛び出すから、呉書の淡々とした訳に慣れていると焦る……)陳泰は帝(曹氏)に忠誠を尽くそうとしたものの、帝ではなく私を選んでくれるだろう? と決断を迫られたということになる。その結果、死んでしまった。つまりこれは自分の正を貫いて司馬昭を断罪するか、あるいは自分の正を捨てて司馬昭を選ぶか、という局面だった。けれど彼はどちらも選ばずに・あるいは選べずに、第三の選択肢として自分の死を選んでしまった。もっというと、物理的に自害したのかも。

モエ的に考える司馬昭と陳泰

 しかし、魏の臣下としての忠義を貫きはしたけれど、同時に「これ以上の言葉」をは選ばなかった、というのは結構重いポイントのような気がする。結局陳泰は、司馬昭を断罪することができずに、自分が死んでしまった。さすがは荀彧の孫( ゜д゜)事実としての考察なら司馬昭に暗殺され説を推すが、モエ的には司馬昭×陳泰ということにしておく(゜ω゜)

 ひとまず『晋紀』と『魏氏春秋』のいいとこどりして、「呼ばれたけれど出席しなかった」「が強引に密室に呼び出され」そしてあのやりとりがあって「そしてその場で亡くなった」という解釈でいきたい。とにかく、その場で死んでしまった。私的にここはちょっと重要。

 密室っていうのは、事件対策室なのか、陳泰を個別にさらに別のとこに呼び出したのか、後者だとするとつまり二人きりで、他の人はいなかった。憤死にせよ自害にせよ、ともかく司馬昭としては自分のせいで死に追いやってしまったのだが、その真相は司馬昭本人以外、誰も知らないのである。

 血を吐いて死んだ、というのはパターン表現だろうが、個人的にはもちろん採用。しかしリアルに突然血を吐いて死ぬ憤死ってなんか間抜けであるので……もともと病気だったところがショックで悪化したか、あるいは自害して血を吐く状況に至ったか。この場合どちらかというと後者寄りのイメージである。ショックで不本意に死んだというよりは、ある程度選択的に死に至ったと思いたい。

 さらに具体的に自害とする場合、毒を服んだとかよりも、剣で一突き、みたいなのがいいな。当時、司馬昭は剣を履いて参内していいよっていうのを辞退していた、と、いうことはつまり二人とも帯剣していないのかもしれないが……まあ考察ではなく妄想だから細かいことはいいのだ。というか、辞退せずに司馬昭だけ持っていればベストな状況だったのに。司馬昭の腰から剣を抜き、司馬昭本人に突きつけて、「これ以上の言葉」をちらつかせつつ、さいごに自分の胸を貫くとかがお約束じゃなかろうか。ねえ!


 この逸話はさらに別バージョンが『世説新語』にあるようだ。持っていないので、今度図書館でチェックしてみよう。

 ちなみに今『世説新語』で手元にあった陳泰が登場する話は、鍾会のおもしろネタとしてコピーしたこの話くらいしか……

 晋の文帝(司馬昭)は、陳騫、陳泰と車に同乗し、途中、鍾会のところを通りすぎ、一緒に乗るように声をかけておいて、そのまま車を走らせて置き去りにした。鍾会が表に出たときには、すでにはるか彼方であった。やっとのことで追いつくと、文帝は嘲っていった。「人と同行を約束しておきながら、どうしてぐずぐずしていたのか。君をまち望んでいても遙遙としてなかなか来なかったではないか。」会は答えていった。「矯くすぐれて懿しく実ある者は、どうして群をなして行く必要がありましょう。」文帝はまた会にたずねた。「皐繇はどのような人物であったか。」答えていった。「上は尭・舜に及ばず、下は周公・孔子に及びませんが、また一代の懿き人物です。」[一]

[一]二陳とは、陳騫と陳泰である。会の父が繇という名であるので、わざと「遙遙」と言ってからかったのである。また陳騫の父の諱は矯、文帝の父(宣帝)の諱は懿、泰の父の諱は群、祖父の諱は寔(実)、そこで自分も相手の父祖の諱を使って応酬したのである。

目加田誠『新釈漢文大系 第78巻 世説新語(下)』(明治書院、1978年) 排調第二十五 pp.978-979

 司馬昭いじめっ子! 陳騫・陳泰は一緒にいじめるイメージでもないので、単なるとばっちりだろう。


 追記:2011.10.18 に続く……

2011.10.13

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