「軍師連盟」に登場する古典 ⑥ 26〜30話

中国ドラマ「三国志〜司馬懿 軍師連盟〜」(原題:第一部「大軍師司馬懿之軍師聯盟」、第二部「虎嘯龍吟」)の台詞に引用される故事・詩などの出典を調べた。赤枠は本編の字幕より引用。

目次

軍師聯盟 26話 司馬懿の上奏

詩経しきょう小雅しょうが常棣じょうてい」より

曹丕が魏王となった後の一族の宴席で、曹洪にわだかまりを持つ曹真の様子を見て、曹休が語る。
多少表現は異なるが、同族の団結を歌う、詩経の一節か。「常棣」はニワザクラ(またはニワウメ)、集まって咲くため兄弟が仲の良い様子に例えられる。

子丹
凡今之人 皆如兄弟
过去的事啊 咱就不提啦
如今咱们一起扶保子桓
还须同心协力啊

子丹したん
皆 一族ではないか
過去は水に流そう
これからは団結して
子桓しかんをもり立てねば

常棣之華 鄂不韡韡
凡今之人 莫如兄弟

死喪之威 兄弟孔懷
原隰裒矣 兄弟求矣

脊今在原 兄弟急難
每有良朋 況也永歎

兄弟鬩于牆 外禦其務
每有良朋 烝也無戎

喪亂旣平 旣安且寧
雖有兄弟 不如友生

儐爾籩豆 飮酒之飫
兄弟旣具 和樂且孺

妻子好合 如鼓瑟琴
兄弟旣翕 和樂且湛

宜爾室家 樂爾妻帑
是究是圖 亶其然乎

通釈  にわざくらの花は、輝くばかりに咲きほこる。世に人あれど、同族の者にくはなし。
 死のおそれあれど、思い合うは同族なればこそ。原隰の地をひらかば、力寄せ合うは同族なればこそ。
[……]これを極め手本とせば、まことめでたき一族とならん。

莫如兄弟 「兄弟」は、単なる親族称呼として解すべきではなく、同族の人間同士をさす語と解すべきであろう。

石川忠久『新釈漢文大系 第111巻 詩経(中)』(明治書院、1998年) 小雅・常棣 pp.175-177

史記しき越王えつおう句踐こうせん世家せいか他より

新制について上奏しようとする司馬懿が、曹丕に恨まれるのではないかと心配する司馬孚
日本語字幕では意訳されているが、「飛鳥ひちょう尽きて良弓りょうきゅうかくされ、狡免こうと死して走狗そうくらる」の表現が用いられている。有能な人物も役目が済むと捨てられるという例えで、類似の表現が各書にある。

二哥 你常跟我说
在朝堂之上要谨言慎行
可现在倒好
你将自己置于火炉之中
这又是为何呀
有道是飞鸟尽 良弓藏
狡免死 走狗烹

仕官するなら身を慎めと
私に言い
自ら火に飛び込むようなことを
している
先の功労も帳消しになり
命を落とすやも

【飛鳥尽(盡)良弓蔵(藏)】ひちよう(てう)つきてりようきゆう(りやうきう)かくる
飛んでいる鳥がいなくなると、よいゆみがしまわれる。有能の臣も用がなくなるとすてられるたとえ。〔論衡・骨相〕

『角川新字源(改訂新版)』(角川書店、2017年)

【兔死狗烹】うさぎししていぬにらる
役目が済むとすてられるたとえ。〔史・越王勾践世家〕狡兔死シテ、走狗烹ラル

『角川新字源(改訂新版)』(角川書店、2017年)

[……]范蠡去越、自齊遺大夫種書、曰、飛鳥盡、良弓藏、狡兔死、走犬烹。越王爲人、長頸鳥(烏)喙、可與共患難、不可與共榮樂。子何不去。[……]

通釈[……]范蠡が越国を立ちのくと、斉国から大夫の種に手紙を出して、「空飛ぶ鳥がいなくなれば、りっぱな弓もしまい込まれ、逃げ足の早い兎が死ねば、逐いかける犬は料理されてしまうといわれる。越王の人相は首が長く口が突き出ていて、患難を分かちあえるが、安楽を共にすることはできない。君はなぜ立ちのかないのか」といった。[……]

山田勝美『新釈漢文大系 68 論衡』(明治書院、1976年)骨相第十一 pp.194-195

[……]范蠡遂去、自齊遺大夫種書曰、蜚鳥盡、良弓藏、狡兔死、走狗烹。越王爲人、長頸鳥喙、可與共患難、不可與共樂。子何不去。種見書、稱病不朝。人或讒、種且作亂、越王乃賜種劍曰、子敎寡人伐吳七術。寡人用其三而敗吳。其四在子。子爲我從先王試之。種遂自殺。

通釈 [……]范蠡はついに越を去り、斉から大夫の種に書簡を送って言った。「『飛鳥が射尽くされると、良弓が見棄てられ、狡兔が殺し尽くされると、猟に走り廻った良犬は煮られる』とか。越王の人柄は、頸が長く、口が烏のように尖っている。このような人物は、患難を共にすることができても、楽しみを共にすることができないのです。あなたは、どうして越を去らないのですか」と。大夫の種はこの書簡を見てから、病気と称して朝廷へ出なかった。ある人で、「種はまさに反乱を起こそうとしています」と、讒言するものがあった。越王は種に剣を賜い、「そちは、わしに呉を伐つに七術を教えてくれた。わしはそのうちの三つを用いて呉を破った。あとの四つは、まだそちの胸中に在る。そちは、わしのため地下に在る先王に従って、その術をためしてみよ」と、言わせた。大夫の種は、ついに自殺した。

吉田賢抗『新釈漢文大系 第86巻 史記 六(世家中)』(明治書院、1979年) 越世家第十一 pp.508-509

論語ろんご学而がくじ篇より

新制について上奏しようとする司馬懿を警戒する曹真が、反対意見を述べる。第21話に登場した表現の、本来の使い方。「天下の人は皆知っているように〜」と前置きしているように、このドラマの曹真でも知っているほどの常識らしい。

大王 天下人尽皆知
孔子曰
三年不改父之道 以为孝
如今先王国丧方毕
司马中丞就急于变先王之法
司马懿 你是何居心哪

大王
孔子こうしいわく
“3年 父の道を改めず
 これを孝とす”

先王の国葬が終わるや否や
改変を持ち出すとは
司馬懿しばい 何が狙いだ

子曰、父在觀其志、父沒觀其行、三年無改於父之道、可謂孝矣

子ののたまわく、父いませば其の志しを、父ぼっすれば其の行ないを観る。三年、父の道を改むること無きを、孝とうべし。

先生がいわれた、「父のあるうちはその人物の志しを観察し、父の死後ではその人物の行為を観察する。〔死んでから〕三年の間、父のやり方を改めないのは、孝行だといえる。

*志しを観察し——父の在世中は、子としては自由な行為ができないので、外には表われないその志しをみるのである(新注)。
*三年の間——親のに服している期間。[……]

金谷治訳注『論語』(岩波文庫、1963年) 學而第一 p.28

詩経しきょう大雅たいが蕩之什とうのじゅうよく」より

司馬懿の上奏に、曹洪ら一族の武官が反対し、騒ぎになったのを制止する曹丕
原文にはないが日本語字幕では「詩経にある」と補足されている。臣下が年若い王(諫言を聞かず暴政を行った周の厲王)を諌める教訓の詩で、衛の武公が戒めとしたとされる。長いため詩の全文は省略。

古有云
听用我谋
庶无大悔

乃君臣恳恳之求也
众爱卿的意见
孤都知道了
司马中丞
你也知道了吧

“臣の言葉を用い
 悔いなきを望む”

詩経しきょう」にある
私とて悔やむことはせぬ
皆の考えは よく分かった
司馬しば中丞も承知したな

[……]
於乎小子 告爾舊子
聽用我謀 庶無大悔
天方艱難 曰喪厥國
取譬不遠 昊天不忒
回遹其德 俾民大棘

[……]
於乎ああ 小子せうし なんぢふるきを
はかりごと聽用ちゃうようせば ねがはくは大悔たいくゎいからん
てん まさ艱難かんなんし ここくにほろぼさんとす
たとへをるにとほからず 昊天かうてん たがはず
とく回遹くゎいいつせば たみをしておほいにあやふからしむ

[……]
ああ、若者よ。そなたに(先の王たちの)教えを告げよう。我が謀を聴き用いれば、大きな悔いは残らぬであろう。天は今やまさに災禍を降し、この国を滅ぼそうとしている。(悪しき)譬えを昔に探すことはない。天にふた心はない。(もしそなたが継いだ)徳をないがしろにするようなことがあれば、民を大いに苦しめることになろう。

石川忠久『新釈漢文大系 第112巻 詩経(下)』(明治書院、2000年) 大雅・蕩之什・抑 pp.208-214

屈原くつげん漁父ぎょふ漁父辞ぎょほのじ)」より

曹一族の宴に上奏文を持ち込んで退けられ、酒を飲まされた司馬懿が去った後、曹丕が独り言で評する。直訳「衆人は皆酔っているが、おまえ一人だけは醒めている」。これは追放された屈原が、失意の中で出会った漁父に答えた言葉「衆人皆酔 我独醒」(台詞は司馬懿について言っているため二人称になっている)で、濁った世に迎合せず清らかに孤高を貫くというニュアンス。

众人皆醉 你独醒

衆人が酔う中
冷静だったな

[……]
屈原曰
舉世皆濁 我獨淸
衆人皆醉 我獨醒
是以見放
漁父曰
聖人不凝滯於物 而能與世推移
世人皆濁 何不淈其泥而揚其波
衆人皆醉 何不餔其糟而歠其釃
何故深思高舉 自令放爲
屈原曰 吾聞之
新沐者必彈冠 新浴者必振衣
安能以身之察察 受物之汶汶者乎
寧赴湘流 葬於江魚之腹中
安能以皓皓之白 而蒙世俗之塵埃乎
[……]

[……]
屈原くつげんいはく、
げてみなにごり、われひとめり。
衆人しゅうじんみなひて、われひとめたり。
ここもっはなたる、と。
[……]

[……]屈原は答えた、「世間の人々はこぞって濁り汚れているが、独り私だけが清らかで清潔である。誰もかれもが皆酔って道理も分からないが、独り私だけが醒めて正しい道を守っている。そういうわけで追放されたのである」と。[……]

竹田晃『新釈漢文大系 第82巻 文選(文章篇)上』(明治書院、1994年) 漁父(屈原) pp.67-70

軍師聯盟 27話 曹家一族との対立

曹丕そうひ典論てんろん論文ろんぶん篇より

かつて第7話で書き記した「典論」を今も大切に持っている郭照。

(郭照)
文章经国之大业
不朽之盛事

[……]

(曹丕)
孤的典论
己经重新颁布了
新的颁行到天下学宫
这些旧的就别留着了
有些事情
过去 就要让它过去

(郭照)
“文章は経国けいこくの大業にして
 不朽の盛事せいじなり”

[……]

(曹丕)
典論てんろん」は
すでに書き直し
天下の学堂に配った
古い物は捨てよ
捨てたほうがよい過去も
あるのだ

軍師聯盟 28話 3つの宝

漢書かんじょ王嘉おうか伝より

学生たちの嘆願を受け取った曹丕が、士族や学生たちの支持を得る策について鍾繇に語る。
多少表現は異なるが、「千人の指す所、病無くして死す」という諺。日本語字幕では意訳されている。

千夫所指
无疾而终

孤倒要看看
这些宗亲
能扛多久

これほど多くの民から
反感を買えば
我が親族たちも
そう長くはあらがえまい

千人所指、無病而死 せんにんノさスところ、やまいなクシテしス

千人の者から責められる人は、病気がなくても死んでしまう〈漢・王嘉伝〉

『全訳 漢辞海(第四版)』(三省堂、2017年)

琴操きんそう』「水仙操すいせんそう」(?)

曹丕の名を受けた柏霊筠が、琴を弾きながら司馬懿を迎える。「知音ちいん」の語源である琴の名人伯牙と親友鍾子期の故事に擬えた問答。
蔡邕が編纂した『琴操』(古代の琴曲を解説した書。旋律は後世に伝わらない)の中には伯牙の「水仙操」があるが、その内容は鍾子期とは関係していないように思える。台詞にも曲名は出てこないため、ドラマの創作アレンジかもしれない。

(柏灵筠)
中丞驻足聆听许久
可听得出来 妾弹的是何曲

(司马懿)
此曲乃是琴操
相传 伯牙遇子期
有情乃作此曲

(柏灵筠)
琴若遇到知音 便能生情
中丞以为
妾弹此曲
当中可有情

(柏霊筠)
足を止めて聴いたなら
この曲が何だかお分かりに?

(司馬懿)
琴操きんそう」に載る曲です
伯牙はくが子期しきと出会い
この曲を作ったと伝わります

(柏霊筠)
知音ちいんを得て 情が生まれる
御史中丞はこの曲を聞いて
情を感じますか

【知音】ちいん(いむ)

音楽を理解する者。転じて、自分の心をよく理解してくれる人。真の友人。むかし、鍾子期しょうしきは、伯牙はくがの琴の音によって伯牙の心境までを理解できたという故事による。〔列・湯問〕

『角川新字源(改訂新版)』(角川書店、2017年)

伯牙善鼓琴,鍾子期善聽。伯牙鼓琴,志在登高山。鍾子期曰:「善哉!峨峨兮若泰山!」志在流水。鍾子期曰:「善哉!洋洋兮若江河!」伯牙所念,鍾子期必得之。伯牙游於泰山之陰,卒逢暴雨,止於巖下;心悲,乃援琴而鼓之。初為霖雨之操,更造崩山之音,曲每奏,鍾子期輒窮其趣。伯牙乃舍琴而歎曰:「善哉善哉!子之聽夫志,想象猶吾心也。吾於何逃聲哉?」

中國哲學書電子化計劃 > 列子 > 湯問

伯牙鼓琴,鍾子期聽之,方鼓琴而志在太山,鍾子期曰:「善哉乎鼓琴,巍巍乎若太山。」少選之間,而志在流水,鍾子期又曰:「善哉乎鼓琴,湯湯乎若流水。」鍾子期死,伯牙破琴絕弦,終身不復鼓琴,以為世無足復為鼓琴者。非獨琴若此也,賢者亦然。雖有賢者,而無禮以接之,賢奚由盡忠?猶御之不善,驥不自千里也。

中國哲學書電子化計劃 > 呂氏春秋 > 孝行覽 > 本味

水仙操者,伯牙之所作也。伯牙學琴於成連先生,先生曰:「吾能傳曲,而不能移情。吾師有方子春者,善於琴,能作人之情,今在東海上。子能與我同事之乎?」伯牙曰:「夫子有命,敢不敬從。」乃相與至海上,見子春受業焉。

中國哲學書電子化計劃 > 琴操 > 卷上 > 水仙操

論語ろんご季氏きし篇より

逃げようとする司馬懿を引き止める柏霊筠。「既に之を来せば、則ち之を安んず」という『論語』由来の表現だが、現代中国語では「すでに来た以上、居心地をよくして落ち着くことだ」という意味の慣用表現になっているようである。

中丞这是要抗旨吗
在新的旨意到来之前
中丞不如
既来之 则安之

勅命に背くと?
次の勅命を待ち
ひとまず落ち着いて
身を任せ
てみては?

既来之,则安之

すでに来た以上,(多少不満はあっても)居心地をよくして落ち着くことだ.

『中日辞典(第3版)』(小学館、2016年)

既来之、則安すでニこれヲきたセバ、すなわチこれヲやすンズ
彼らを呼び寄せたからには、彼らを安定させるであろう〈論・季氏〉

『全訳 漢辞海(第四版)』(三省堂、2017年)

季氏將伐顓臾、冉有季路見於孔子曰、季氏將有事於顓臾、孔子曰、求、無乃爾是過與、夫顓臾、昔者先王以爲東蒙主、且在邦域之中矣、是社稷之臣也、何以伐爲也、冉有曰、夫子欲之、吾二臣者、皆不欲也、孔子曰、求、周任有言、曰、陳力就列、不能者止、危而不持、顛而不扶、則將焉用彼相矣、且爾言過矣、虎兕出於柙、龜玉毀於櫝中、是誰之過與、冉有曰、今夫顓臾固而近於費、今不取、後世必爲子孫憂、孔子曰、求、君子疾夫舍曰欲之而必更爲之辭、丘也聞、有國有家者、不患寡而患不均、不患貧而患不安、蓋均無貧、和無寡、安無傾、夫如是、故遠人不服、則修文德以來之、旣來之則安之、今由與求也、相夫子、遠人不服、而不能來也、邦分崩離析而不能守也、而謀動干戈於邦內、吾恐季孫之憂、不在於顓臾、而在蕭牆之內也、

[……]遠人服せざれば則ち文徳を修めて以てこれを来たし、既にこれを来たせば則ちこれを安んず。今、由と求とは夫の子を相け、遠人服せざれども来たすこと能わず、邦分崩離析すれども守ること能わず、而して干戈を邦内に動かさんことを謀る。[……]

[……]遠方の人が従わないばあいは、〔武には頼らないで〕文の徳を修めてそれをなつけ、なつけてからそれを安定させるのだが、今、由(子路)と求とはあの方(季氏)を輔佐していながら、遠方の人が従わないでいるのになつけることもできず、国がばらばらに分かれているのに守ることもできない、それでいて国内で戦争を起こそうと企てている。[……]

金谷治訳注『論語』(岩波文庫、1963年) 季氏第十六 pp.324-329

軍師聯盟 29話 甘い罠

漢書かんじょ孝宣許皇后こうせんきょこうごう伝より

司馬懿が妻の張春華について柏霊筠に答える。直接の引用ではないが、「故剣情深」で故事成語のようである。権力を得ても、貧しい時代から連れ添った妻を選ぶというニュアンスか。

前漢の宣帝が帝位に即いた後、かつて民間に落とされていた時代に妻となった許平君を皇后に立てたい心を暗に示すため、微賤であった頃の故い剣を探し求めると詔した故事。

要是非说出个所以
那就是
故剑情深不离不弃
别人说是怕
我以为是长情

あえて語るとしたら
“古き剣こそ手放し難い”
というもの
恐れではなく
愛着を抱いている

[……]曾孫立為帝,平君為倢伃。是時,霍將軍有小女,與皇太后有親。公卿議更立皇后,皆心儀霍將軍女,亦未有言。上乃詔求微時故劍,大臣知指,白立許倢伃為皇后。既立,霍光以后父廣漢刑人不宜君國,歲餘乃封為昌成君。[……]

『漢書』(中央研究院 漢籍電子文獻) 卷九十七上 外戚傳第六十七上 孝宣許皇后

[……]曾孫は立って皇帝となり、平君は倢伃となった。当時、霍将軍には小さな女があり、皇太后と親戚関係があった。公卿たちはあらためて皇后の冊立を論議し、みな心に霍将軍の女を擬していたが、まだ言い出す者がなかった。主上はそこで詔を下して、微賤であったころのふるい剣を捜し求めた。大臣たちは主上の意向を知り、言上して許倢伃を立て皇后とした。[……]

小竹武夫訳『漢書 下巻 列伝 Ⅱ』(筑摩書房、1979年) 外戚伝第六十七上 pp.372-373

孟子もうし離婁章句りろうしょうく下篇より

褒美を受け取らないと中傷されて疑われると迫る柏霊筠の理屈に、反論する司馬懿

下官与陛下两心相知
君视臣如手足
臣视君如腹心

下官不惧小人短长

陛下と私は通じ合っている
君の信頼を得て
臣は心服するのです

小人しょうじんの中傷など恐れませぬ

孟子告齊宣王曰、君之視臣如手足、則臣視君如腹心、君之視臣如犬馬、則臣視君如國人、君之視臣如土芥、則臣視君如寇讎、[……]

[……]君の臣をること手足てあしの如くなれば、則ち臣の君を視ること腹心ふくしんの如し。[……]

孟子がせいせん王に向っていわれた。「人君が臣下を自分の手や足のように大切に扱えば、臣下はその恩義に感じて君主を自分の腹やむね(胸)のように大切に思います。君主が臣下を飼い犬や馬のように考えて追い使うだけで礼敬うやまいの心がないと、臣下もまた君主をただ路傍みちばたの人のように見て恩義を感じなくなります。また君主が臣下を泥やあくたのように見なして踏みつけにすると、臣下もまた君主をあだ(仇)やかたき(敵)のように恨み憎むものです。」[……]

小林勝人訳注『孟子(下)』(岩波文庫、1972年) 離婁章句下 pp.64-66

論語ろんご里仁りじん篇より

新政について司馬懿と語る柏霊筠

君子喻以义 小人喻以利
中丞是智者
这努力推行的新政
自然是既符合大义
又符合利益

“君子は義にさと
 小人は利に喩る”

中丞は賢人です
新しい政策は
大義に沿うだけでなく
利にも合致する

子曰、君子喩於義、小人喩於利、

子ののたまわく、君子は義にさとり、小人は利に喩る。

先生がいわれた、「君子は正義に明るく、小人は利益に明るい。」

金谷治訳注『論語』(岩波文庫、1963年) 里仁第四 p.78

漢書かんじょ鄭崇ていすう伝より

上記に続く場面。この後の場面の内容に続くため、引用はそちらを参照。

这从利益上来看呢
中丞与陈群
一跃成为士族的领䄂
从此之后 天下熙熙攘攘的人才
皆出于中丞之门中
君门如市
这 才是利益

利という点では
中丞と陳羣ちんぐん殿は
士族の領袖りょうしゅうとなった
今後はあまたの人材が
中丞のもとに集うでしょう
“門前 市をなす”
これぞ利でしょう

論語ろんご季氏きし篇より

『詩経』と『易経』を学んでいると答える幼い曹叡曹丕が語る。「詩」は『詩経』のこと。原文では古人いわく〜と前置きしているように、孔子が長子の孔鯉伯魚)に言った言葉。


古人云
不学诗无以言

そうか
詩を学ばねば ものが言えぬ

陳亢問於伯魚曰、子亦有異聞乎、對曰、未也、嘗獨立,鯉趨而過庭、曰、學詩乎、對曰、未也、曰、不學詩無以言也、』鯉退而學詩、他日又獨立,鯉趨而過庭、曰、學禮乎、對曰、未也、不學禮無以立也、鯉退而學禮、聞斯二者、陳亢退而喜曰、問一得三、聞詩、聞禮、又聞君子之遠其子也、

[……]のたまわく、詩を学びたりや。対えてわく、いまだし。詩を学ばずんば、以て言うこと無し。鯉退きて詩を学ぶ。[……]

陳亢ちんこうが〔孔子の子である〕伯魚はくぎょにたずねて「あなたはもしや何か変ったことでも教えられましたか。」というと、答えて「いいえ。いつか〔父上が〕ひとりで立っておられたとき、このわたしが小走りで庭を通りますと、『詩を学んだか。』といいましたので、『いいえ。』と答えますと、『詩を学ばなければ立派にものがいえない。』ということで、わたしはひきさがってから詩を学びました。[……]この二つのことを教えられました。」陳亢は退出すると喜んでいった、「一つのことをたずねて三つのことがわかった。詩のことを教えられ、礼のことを教えられ、また君子が自分の子供を近づけない(特別扱いをしない)ということを教えられた。」

金谷治訳注『論語』(岩波文庫、1963年) 季氏第十六 pp.337-339

古詩「箜篌引くごいん」より

琴曲を弾いてみせる柏霊筠。かつて第9話司馬懿曹丕が語り合った詩。(詩の詳細は第3話参照)
続く、司馬懿の得意な曲(原文「深谙」熟知している)だと曹丕に聞いた、という言葉にも含みがあると思われる。

公无渡河 公竟渡河
这世上
能够安然渡河的又有几人
妾期许中丞
能够逆流而上
平安渡河

“川を渡るなかれ
 それでも川を渡る”

心安く川を渡る者は
何人いると?
中丞が逆流を上るというなら
私は無事を祈りましょう

漢書かんじょ鄭崇ていすう伝より

引き続き、柏霊筠司馬懿の問答。
前漢の哀帝に諫言を繰り返して疎んじられていた鄭崇が、佞臣の讒言を受け詰問された際の言葉で、前シーンに登場した「君門如巿」に続く内容。門前にまるで市場のように人が集まっているが、(結託して謀反を起こすような意思はなく)心は水の如く清廉である。(しかし鄭崇は却って帝の怒りを買い、獄死した)

(司马懿)
陛下在上
臣对陛下
臣心如水

(柏灵筠)
臣心如水
这是汉哀帝时期
郑崇说的话
至于中丞
究竟是心静如水
亦或是凤急浪险
还得让妾听听 才能够明白啊

(司馬懿)
陛下を敬う心は
清らかなること水のごとしです
 

(柏霊筠)
“臣心 水のごとし”
確か鄭崇ていすうの言葉でしたね
水のごとく静かな心なのか
風雲急を告げる心なのか
琴の音を聴けば明らかです

[……]尚書令趙昌佞讇,素害崇,知其見疏,因奏崇與宗族通,疑有姦,請治。上責崇曰:「君門如巿人,何以欲禁切主上?」崇對曰:「臣門如巿,臣心如水。願得考覆。」上怒,下崇獄,窮治,死獄中。

『漢書』(中央研究院 漢籍電子文獻) 卷七十七 蓋諸葛劉鄭孫毌將何傳第四十七 鄭崇

[……]尚書令趙昌ちょうしょう佞諂へつらいの徒で、平素から崇をじゃま者にしていたが、崇が主上からうとんぜられているのを知り、そこで崇が宗族の者と内通し、姦を行のうている疑いがあるから、取り調べていただきたい、と奏上した。主上は崇を貴め、「君の門はまるで市人あきんどのように賓客の往来が多いが、何のため主上のわしをきびしくとめだてしようとするのか」と言うと、崇は、「臣の門はさかりばのそれのようではありますが、臣の心は水のように清く澄んでおります。どうかとくとおしらべ願いとうぞんじます」とこたえた。主上は怒って、崇を獄に下し、徹底的に取り調べ、崇は獄中で死んだ。

小竹武夫訳『漢書 下巻 列伝 Ⅱ』(筑摩書房、1979年) 蓋諸葛劉鄭孫毌将何伝第四十七 p.96

公開:2022.05.18 更新:2022.06.19

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