Tags: 魏

  • 2020.08.04 「スリキン」の司馬懿は曹丕の忠臣だったか?
  • スリキンまたは新三国こと、2010年の中国ドラマ「三国志 Three Kingdoms」の司馬懿(演:倪大紅)について、曹丕(演:于濱)との関係、吹替版と元台詞の違いなど。全体の雑感は「三国志 Three Kingdoms(スリキン、新三国)」にて。「スリキン」の司馬懿と曹丕(※以降、ドラマのネタバ…
  • 司馬懿と曹丕、首陽山の二つの陵墓
  • 司馬懿の墓:晋の宣帝の高原陵司馬懿(しばい)は、曹魏の都・洛陽(らくよう)の東北方面にある首陽山(しゅようざん)に自ら築いた墓に埋葬された。曹操(そうそう)や曹丕(そうひ)の薄葬主義に倣った質素な陵墓は、のちに晋の宣帝の高原陵(こうげんりょう)と呼ばれることになる。もちろん、皇帝位はのちに晋王朝を開…
  • 2020.01.30 「三国機密」の司馬懿は首陽山に「陪葬」されるのか?
  • ドラマ「三国機密」こと「三国志 Secret of Three Kingdoms」の話。の前置きに、まず歴史上の司馬懿の墓の話。……を、ここに書いていたのですが、加筆してコラムページに移動しました(「司馬懿と曹丕、首陽山の二つの陵墓」)。前情報として読んでいただけると幸いです。「三国機密」の司馬懿と…
  • 2019.11.29 三国志展・曹丕は「鉤鑲」二刀流の使い手だったのか
  • 2019年の東京国立博物館の三国志展こと「特別展 三国志」(現在は九州国立博物館で2020年1月5日まで開催中)の展示品に、「鉤鑲(こうじょう)」という武器があり、「魏の曹丕も稽古した特殊な盾」というキャッチコピーで紹介されていた。どんな物かは画像参照。(写真撮影OKでした)これ自体は蜀方面の出土品…
  • 2018.11.06 司馬昭について(三国志末期オフ会)
  • 司馬昭について。春に開催された三国志末期オフ会に際して、推しについての語りを書いたものです。 ※アップ許諾済
  • 鄧艾と陳泰 - 「忘年の交わり」はあり得たか?(後編)
  • 「忘年の交わり 前編」の続きです。鄧艾は陳泰より年上だった?『三国志演義』の「忘年の交わり」は、鄧艾(とうがい)と陳泰(ちんたい)の年齢差が大きくあったことによるものだが、彼らは実際には、何歳差だったのか。残念ながら陳泰は、生年不詳である。「陳泰の生年について」で検証したが、確定的な情報がない。ここ…
  • 鄧艾と陳泰 - 「忘年の交わり」はあり得たか?(前編)
  • 魏の末期、いずれも蜀漢の姜維(きょうい)と戦った名将として知られる鄧艾(とうがい)と陳泰(ちんたい)は、年齢差にこだわらない友誼を意味する「忘年の交わり」を結んだとされる。しかし実はこれは、小説『三国志演義(三国演義)』によるフィクションであった。歴史書の『三国志』に記される鄧艾と陳泰の関係はどのよ…
  • 陳泰の葬儀
  • 陳泰(ちんたい)の葬儀がどのようなものだったか、直接の記述は残っていないが、推測できる記述が『晋書』にある。石苞の葬儀は、陳泰の葬儀に倣った泰始八年薨。帝發哀於朝堂,賜祕器,朝服一具,衣一襲,錢三十萬,布百匹。及葬,給節幢麾、曲蓋、追鋒車、鼓吹、介士、大車,皆如魏司空陳泰…
  • 鍾会と荀勖(荀勗) - 年下の叔父と年上の甥
  • 魏末から西晋初、司馬昭・司馬炎らの腹心として活躍した、鍾会(しょうかい)と荀勖(じゅんきょく)(荀勗)の関係について。父を亡くした荀勖は母方のおじを頼った/荀勖の従外祖父は鍾繇荀勖字公曾,潁川潁陰人,漢司空爽曾孫也。祖棐,射聲校尉。父肸,早亡。勖依于舅氏。岐嶷夙成,年十餘…
  • 2017.02.16 司馬兄弟による陳泰の呼び方
  • 三国志の人物が他の人物を呼ぶ際、姓名で、官職で、字(あざな)で、敬称で、などTPOによって様々なパターンがある。ふと、陳泰は誰にどう呼ばれているのか? と気になって調べてみた。陳泰は『三国志』『晋書』で計七回、名を呼ばれるが、うち六回が司馬昭の発言、他一回は司馬師の発言。司馬兄弟にしか名前を呼ばれな…
  • 司馬昭の性格と人物像 2 - 司馬昭は、他人の「負の心」が読めない
  • 「司馬昭の性格と人物像(白司馬昭編?)」の続編として、表題のような司馬昭(しばしょう)の性格の「欠点」を考える。司馬昭は、孫綝の行動を過大評価した司馬昭が敬愛し支えていた兄・司馬師(しばし)が、毌丘倹(かんきゅうけん)・文欽(ぶんきん)の乱の征伐に赴いた先で急逝する。司馬昭はその後を継いで政権を取る…
  • 司馬昭の性格と人物像 1 - 「白」司馬昭編?
  • 三国・魏の末期に相国(宰相)として政権を掌握、数々の功績を残し、後の晋王朝の礎を築いた司馬昭(しばしょう)。しかし、広く流布している人物像は「陰険な野心家」といった、あまり良いイメージとは言い難いものである。近年は多少見直される向きもある(?)が、依然として悪評も根強い。またそもそも世の三国志ファン…
  • 天候に愛された司馬昭
  • Twitterで見かけた「晴れ男司馬昭」から連想した話。どうやら「妖怪三国志」のキャラらしい? 「妖怪ウォッチ」シリーズとシミュレーション「三國志」がコラボしたゲーム……とのことだが、そもそもの「妖怪ウォッチ」の知識が皆無なため、完全にただのキーワード連想です。司馬昭(しばしょう)が諸葛誕(しょかつ…
  • 司馬昭の息子と娘
  • 司馬昭には、晋の武帝となった司馬炎、その弟の司馬攸をはじめ、全九人の息子および少なくとも一人の娘がいた。文帝九男,文明王皇后生武帝、齊獻王攸、城陽哀王兆、遼東悼惠王定國、廣漢殤王廣德,其樂安平王鑒、燕王機、皇子永祚、樂平王延祚不知母氏。燕王機繼淸惠亭侯,別有傳。永祚早亡,無傳。文帝(司…
  • 2015.11.26 三国志の親友たち - 司馬昭と陳泰は親友なのか
  • 司馬景王、文王皆與泰親友,及沛國武陔亦與泰善。司馬師・司馬昭の兄弟はともに、陳泰と親友だった。……という重要な事実に、司馬昭と陳泰の関係に心惹かれてかなり経ってから気が付いた。というのも、ちくま訳の三国志では「親交があり」という素っ気ない表現になっていたのと、『世説新語』に登場する陳泰の司馬兄弟の取…
  • 徐紹 - 司馬昭に仕えた呉の将軍
  • 小説「ある参軍の告白」の語り手にした徐紹(じょしょう)について。徐紹という人物は、『三国志』『晋書』を通しても、諸葛誕の乱の際に魏に降った呉の人物の一人に名がある(晋書文帝紀)魏から呉へ送られた降伏勧告の使者の一人に名がある(魏書陳留王紀、晋書文帝紀、孫楚伝)魏からの使者として呉にやってきたが、呉か…
  • 姜維の北伐・255年(魏・正元二年、蜀・延熙十八年)
  • 総司令官兵力結果蜀軍姜維数万勝利→敗北魏軍陳泰不明敗北→勝利※姜維の北伐のうち、陳泰と戦った時代について、個人的な理解のためにまとめています。不足・誤解などある可能性が高いです。登場人物魏軍陳泰(ちんたい)(征西将軍、都督雍・涼諸軍事)鄧艾(とうがい)(行安西将軍)胡奮(こふん)王秘(おうひつ)魏軍…
  • 姜維の北伐・254年(魏・嘉平六年、蜀・延熙十七年)
  • 総司令官兵力結果蜀軍姜維不明勝利魏軍?不明敗北※姜維の北伐のうち、陳泰と戦った時代について、個人的な理解のためにまとめています。不足・誤解などある可能性が高いです。登場人物魏軍 → 蜀軍李簡(りかん)(狄道県長)魏軍(襄武)徐質(じょしつ)(討蜀護軍?)魏軍(長安?)司馬昭(しばしょう)(安東将軍、…
  • 姜維の北伐・253年(魏・嘉平五年、蜀・延熙十六年)
  • 総司令官兵力結果蜀軍姜維数万敗北魏軍郭淮不明勝利※姜維の北伐のうち、陳泰と戦った時代について、個人的な理解のためにまとめています。不足・誤解などある可能性が高いです。登場人物魏軍郭淮(かくわい)(車騎将軍、都督雍・涼諸軍事)陳泰(ちんたい)(奮威将軍、雍州刺史)魏軍(長安)司馬昭(しばしょう)(安東…
  • 姜維の北伐・250年(魏・嘉平二年、蜀・延熙十三年)
  • 司令官兵力結果蜀軍姜維不明敗北魏軍郭淮(鄧艾)不明勝利※姜維の北伐のうち、陳泰と戦った時代について、個人的な理解のためにまとめています。不足・誤解などある可能性が高いです。登場人物魏軍郭淮(かくわい)(征西将軍、都督雍・涼諸軍事)鄧艾(とうがい)(南安太守)蜀軍姜維(きょうい)(衛将軍、録尚書事、涼…
  • 姜維の北伐・249年(魏・嘉平元年、蜀・延熙十二年)
  • 総司令官兵力結果蜀軍姜維1万以下+羌族の兵敗北魏軍郭淮不明勝利※姜維の北伐のうち、陳泰と戦った時代について、個人的な理解のためにまとめています。不足・誤解などある可能性が高いです。登場人物魏軍(総司令官)郭淮(かくわい)(征西将軍、都督雍・涼諸軍事)魏軍(麴城包囲軍)陳泰(ちんたい)(奮威将軍、雍州…
  • 司馬昭キャリア年表
  • ※出来事は司馬昭に関連する、もしくは重大な事件のみ記載。〔 〕は「三国官職表」等を参照した官品。西暦年月日出来事官職爵齢帝211建安16司馬昭が司馬懿の次男として張春華との間に生まれる。1劉協219建安24祖父・司馬防が死去する。9220黄初110月28日曹丕(魏王)が禅譲を受け、魏王朝が成立する。…
  • 高貴郷公の孤独 - 誰が曹髦の味方だったのか
  • 魏の四代目皇帝曹髦(そうぼう)(高貴郷公)が、時の権力者司馬昭を殺そうと挙兵して敗死した事件(事件の流れは「高貴郷公の変」参照)の際、曹髦側についたとして今昔の三国志ファンの間でよく名を挙げられる人物に、王経、司馬孚(しばふ)、陳泰などがいる。だが、彼らは本当に曹髦の味方だったのか。陳泰結論から言え…
  • 2014.11.27 陳氏家系別バージョン、陳泰の妻の李氏、長男の陳奕など
  • 2014.06.01の続き?別件で検索していたときに拝見したブログ「列女志補説」> 収集大成と第二期まとめにて紹介されていた中国語圏のサイトより、さらに異なる陳氏家系図二種の話。陳泰の妻・李氏颍川世系43世祖,实,字仲弓。生于公元104年,卒于公元187年。少时家贫,但勤奋好学,深明大义,诎身…
  • 荀顗と王祥 - それぞれの選択と、司馬昭の迷い
  • 魏の最末期、司馬昭(しばしょう)が晋王となった際の、荀顗(じゅんぎ)と王祥(おうしょう)のやりとりについて。漢晉春秋曰:晉公旣進爵爲王,太尉王祥、司徒何曾、司空荀顗並詣王。顗曰:「相王尊重,何侯與一朝之臣皆已盡敬,今日便當相率而拜,無所疑也。」祥曰:「相國位…
  • 2014.06.01 陳泰の弟・陳訓、陳準が陳泰の子という説など
  • 陳羣の次男・陳訓?先日Twitterのフォロワーさんが紹介されていた「台北市台碩堂陳氏宗親會」のFBページを眺めていたら、こんな記述があった。三世祖群公生二子。 長子名諱泰 次子名諱訓〔中略〕四世祖泰公生二子 長子名諱訴 次子名諱準 泰公名俊字元伯,群公之長子。仕魏官至尚書左仆射。 四世祖訓公生二子…
  • 陳泰の死 2 - 陳泰は死をもって司馬昭を諫めた?
  • 「陳泰の死」では、陳泰の死の理由は、曹髦を返り討ちにした賈充の罪を司馬昭が見逃したこと、つまり臣下による皇帝殺害を容認したことによって、陳泰自身がその潔癖すぎる正義感に基づき、友であり実質上の主である司馬昭に求めた理想が破壊されたことである、と仮定した。ここでは、その他の理由も考えてみることに。死を…
  • 高貴郷公の変 - 曹髦の決意と「司馬昭の心」
  • 魏の四代目皇帝となった元の高貴郷公・曹髦(そうぼう)は、初代皇帝曹丕(そうひ)の孫で、曹霖(そうりん)の子である。前皇帝曹芳(そうほう)が時の権力者、司馬師(しばし)(司馬懿(しばい)の子)によって廃位された後、新たな帝に立てられた。正元元年(254年)の即位当時には、まだ十四歳の若さであった。司馬…
  • 将に五厄あり - 諸葛誕の乱の勝敗
  • 『孫子』九変篇の最後にこんな言葉がある。故に将に五厄あり。必死は殺され、必生は虜(とりこ)にされ、忿速(ふんそく)は侮(あなど)られ、廉潔(れんけつ)は辱(はずか)しめられ、愛民は煩(わずらわ)さる。凡そ此の五つの者は将の過(あやま)ちなり、用兵の災(わざわい)なり。軍を覆(くつがえ)し将を殺すは、…
  • 陳泰挂壁 - 賄賂は晒します!
  • 陳泰挂壁(ちんたいけいへき)意味 三国・魏の陳泰は匈奴の吏民を懐柔して誉れが高かった人であるが、都の貴人が宝貨を贈ってしきりに奴婢の購入を頼んでも、ことごとく贈り物を壁に掛けておいて取り合わなかった故事。のち、尚書になったとき、贈り物はことごとく贈り主に返還したという。『蒙求』の標題。 出典 「京邑…
  • 2014.03.13 陳泰の妻は、荀顗の娘ではない
  • ※疑問点を調べたときのメモ。 ※引用部分の本題に無関係なルビは省略。シミュレーションゲームの三國志には、陳泰の妻が荀顗の娘であると書かれている。ウェブ上にもしばしば書かれている。この根拠が不明だったが、どうやら荀顗が陳泰の「舅」という記述があることから来ているようである。「舅」の意味太常陳泰不至,使…
  • 陳泰の生年について
  • 陳泰は景元元年(260年)に死去したが、没年齢が記されていないため、生年がわからない。おおまかにでも推測できないものかと思い、調べてみたメモ。長いわりに実りがないので注意。仕官年による推測陳泰の伝は、「青龍年間、散騎侍郎に任命された。」(『正史 三国志 3』ちくま学芸文庫)という内容で始まり、明記は…
  • 陳泰の評価
  • 陳寿による評価評曰:[……]陳羣動仗名義,有淸流雅望;泰弘濟簡至,允克堂構矣。[……]陳羣は名誉と道義によって行動し、高潔な人がらで高い声望をもっていた。陳泰は広く世を救いきわめて簡潔、まことによく父業を受けついだ。『三国志』魏書陳羣(ちんぐん)伝の評価より。「簡」は「つつましい」「志が大きい」とい…
  • 諸葛靚の兄弟姉妹
  • 諸葛靚の兄諸葛誕(しょかつたん)の乱の際の記述等によれば、諸葛靚(しょかつせい)は諸葛誕の末子である。遣長史吳綱將小子靚至吳請救。長史の呉綱に末子の諸葛靚をつれて呉に行き、救援を要請するよう命じた。晉諸公贊曰、靚字仲思、琅邪人、司空誕少子也。雅正有才望。誕以壽陽叛、遣靚入質於吳、以靚爲右將軍、大司馬…
  • 陳泰の死 1 - 司馬昭に見た理想と絶望
  • 『三国志』が記さなかった陳泰の死因陳泰(ちんたい)の死について、『三国志』魏書陳泰伝の本文には、景元元年薨,追贈司空,諡曰穆侯。〔一〕景元元年(二六〇)逝去し、司空を追贈され、穆公と諡された。〔一〕とあるのみだが(訳本『正史 三国志』の「穆公」は誤植と思われる)、その詳細について、裴松…
  • 諸葛誕の乱
  • 総司令官兵力結果魏軍司馬昭26万以上勝利呉軍諸葛誕・孫綝22〜23万以上敗北諸葛誕の乱(呉軍:諸葛誕率いる反乱軍&孫綝率いる救援軍 vs 魏軍:司馬昭率いる討伐軍の戦い)の時系列と位置関係のまとめ。『三国志』と『晋書』では日付の不一致があります。小文字部分は推測や感想含む。登場人物呉軍(寿春城)諸葛…
  • 陳泰キャリア年表
  • ※出来事は陳泰に関連する、もしくは重大な事件のみ記載。〔 〕は「三国官職表」等を参照した官品。西暦年月出来事官職等帝226黄初75月曹丕が崩御し、曹叡が即位する。曹叡12月父の陳羣が司空となる。233 〜237青龍1年2月 〜青龍5年2月この頃、陳泰が散騎侍郎となる。散騎侍郎〔五〕237青龍412月…
  • 2011.10.25 司馬昭はいい人である
  • 司馬昭に対する古典的三国志ファンの評価は、想像以上に「腹黒い悪人」という感じらしい。しかも、同じ悪役でも司馬懿・司馬師より微妙に小物扱いのような気がする。おそらくその古典的ファン感情の基礎は『三国志演義』のキャラ付けだろうけれど、私は斜め読みなのと、「物語上のキャラ付け」と割り切っているせいで、実感…
  • 2011.10.25 陳泰の正義のこと
  • 追記:この日記は、現在の理解・意見と大幅に異なります。この内容は信じないでください。と追記したくなるほど間違っているが、自分用の思考過程として残す。詳しくはコラムページの陳泰コーナーを見てね。曹髦弑逆事件絡みの逸話における、陳泰の死について改めて考えるこの事件において、陳泰が文字どおり「死ぬほど許せ…
  • 2011.10.18 司馬昭×陳泰、世説新語&漢晋春秋バージョン
  • 追記:この日記は、現在の理解・意見と大幅に異なります。この内容は信じないでください。と追記したくなるほど間違っているが、自分用の思考過程として残す。詳しくはコラムページの陳泰コーナーを見てね。2011.10.13の続き。問題のやりとりの世説新語バージョンをチェック。高貴郷公(曹髦)が亡くなると、朝廷…
  • 2011.10.18 陳泰の254年防衛戦メモ(自分用)
  • 追記:こちらは解説でも考察でもない、ただの自分用覚え書きです。解説はコラムページの「姜維の北伐」シリーズを見てね。陳泰の関わった対蜀の防衛戦は、249年(総司令官は郭淮)、254年、255年と少なくとも三回はあるようなのだが、254年の戦は陳泰伝ではスルーされている。254年・北伐防衛戦254年6月…
  • 2011.10.13 突然の陳泰ブーム
  • 追記:この日記は、現在の理解・意見と大幅に異なります。この内容は信じないでください。と追記したくなるほど間違っているが、自分用の思考過程として残す。詳しくはコラムページの陳泰コーナーを見てね。呉信者の私が、唐突に魏の陳泰にハマったきっかけは、今さら三國志11をプレイしてみたことだった。例によってオー…
  • 永安の戦い 2 - 敗戦はやはり陸抗のせいかもしれない
  • 蜀漢滅亡直後に起きた永安の戦い(仮称)で陸抗が羅憲に敗北したと言われていることについて、個人的には、敗戦は総司令官がむやみと援軍を送ったせいで、そして総司令官は少なくとも陸抗ではない、という結論に一度は達してみた。が。蜀漢滅亡の報と『建康実録』による微妙な異説蜀が滅亡したという報せを呉の都にもたらし…
  • 2007.09.13 諸葛靚の年齢がわからない
  • 某サイトさんで諸葛恢の生年から諸葛靚の年齢にふれられていたのに影響され、早速真似して調べてみる。『晋書』穆帝紀によると「永和元年(中略)五月戊寅,大雩。尚書令、金紫光祿大夫、建安伯諸葛恢卒。」とある。永和元年とは西暦345年で、当サイトの年齢比較ツールで想定していた範囲を超えている!(※急遽延長しま…
  • 2007.04.29 諸葛靚
  • 諸葛靚は、父の決意に共感し、ともに目的を果たそうと能動的に呉に降った! というキャラにもできそうな気もする。が、私の彼の第一印象は、確かに父に共感し多大な影響を受けてはいるものの、どちらかというとなりゆきに翻弄され、気が付いたら呉の将軍位を与えられていた……という人だった。その印象を拡張した創作設定…
  • 永安の戦い 1 - 永安の敗戦は陸抗のせいではない
  • 陸抗の敗戦経歴として知られる、対羅憲の攻城戦、永安の戦い(264年2〜7月)について。なお「永安の戦い」という名前はここでの仮称。陸抗伝には、この戦に関する記述は皆無である。結果として敗戦であろうとも、何らか部分的な活躍があれば記されることもある中(陸抗の例でいえば諸葛誕の乱の際の活躍)、完全スルー…
  • 羊祜 - 天真爛漫な徳の人
  • 陸抗(りくこう)とも縁の深い西晋の武将、羊祜(ようこ)は、純粋で高潔で正義感が強く無欲な人格者であった。反面、軽々しくお忍びで出かけようとしては配下の徐胤(じょいん)に咎めらたり、大自然の風景の悠久さに対して人の生の儚さを思うなど、天真爛漫で繊細なところも。(徐胤は、後の歩闡の乱の際に巴東監軍として…
  • 諸葛靚と父と司馬炎 - 友情と孝道の狭間で
  • 諸葛靚と父・諸葛誕諸葛靚(しょかつせい)は、諸葛誕(しょかつたん)の末子である。諸葛誕は、呉の諸葛瑾・蜀の諸葛亮らと同じ琅邪の諸葛氏の一族で、魏に仕えていた。だが魏王朝の末期、司馬氏の専横に対して反旗を翻すことになる。諸葛誕は呉に帰順して救援を要請するべく、子の諸葛靚を人質として呉に送った。だが、一…
  • 魏晋の美男子はどこまでも色白だった
  • 『世説新語』の容止編を読んでいると、どうやら魏晋において、色白であることは美形男性の条件として重要だったことがわかる。何晏の場合何平叔(何晏)は姿うるわしく、顔はきわめて色が白かった。魏の明帝(曹叡)は彼が白粉をつけているのではないかと疑い、真夏の日に、熱い湯䴵を食べさせた。何晏は食べおわると大汗を…
  • 2006.10.24 関羽のヒゲ袋
  • 珍しく呉以外の話題、しかも演義の話題です。前々から特定一部で話題の「ヒゲ袋」(仮称)について……これはどうやら曹操が関羽を囲っていたときプレゼントしたものだった模様。関公は酒がまわると、その髯をしごきながら呟いた。 「生きながらえて国に報ゆることもできず、その上兄者に背くとは、全くあさましい限りじゃ…
  • 永安の戦い 3 - 永安侵略の理由:呉軍は火事場泥棒ではない
  • この蜀漢滅亡直後に起きた永安の戦い(仮称)について、三国志ファンの間では呉を蜀の滅亡に乗じた火事場泥棒かのように評する風潮があり、「だから呉が嫌いだ」という主張を少なからず見かける。その最大の原因は、おそらく羅憲の発言によるイメージだろう。「わが王朝が転覆し、呉は唇と歯のごとき密接な関係にありながら…
  • 諸葛靚の人柄 - 剛毅なリアリスト
  • 孫晧(そんこう)伝の注に引く干宝『晋紀』によれば、晋呉の決戦の折、呉の丞相・張悌(ちょうてい)率いる軍勢に、敵の張喬の軍勢が降伏してきた。諸葛靚(しょかつせい)は、降伏が見せかけであることを見抜き、受け容れずに全員殺して味方の士気を高めようと進言。しかし張悌はこの進言を却下する。張悌はいった、「強敵…
  • 諸葛靚と孫晧
  • 暴君として知られる呉末の帝・孫晧(そんこう)は、後年、臣下が権力を持って反乱を起こすことを相当に怖れていたようである。実際に多くの臣下が晋に逃亡し、歩闡(ほせん)のように、代々の有力な臣下さえ反旗を翻しはじめた。陸氏一族では陸凱が丞相として内政面で、陸抗が国境において軍事的に権力を持っていたが、彼ら…
  • 諸葛靚の字
  • 諸葛靚(しょかつせい)の字(あざな)は「仲思」という。「仲」が付くことからして、彼は諸葛誕(しょかつたん)の次男なのだろう。諸葛靚の字に関しては、『世説新語』言語篇にこんな逸話がある。諸葛靚在吳、於朝堂大會。孫皓問、卿字仲思、爲何所思。對曰、在家思孝、事君思忠、朋友思信。如斯而已。通釈…
  • 呉最後の大司馬・副軍師
  • 諸葛靚と晋と呉諸葛靚(しょかつせい)の生没年は不明だが、晋の武帝司馬炎(しばえん)の幼なじみというところから、彼と同年代と推測される。仮に同い年とした場合、諸葛誕(しょかつたん)の乱が起きたころには二十二歳。当時の初出仕の目安は二十歳くらいだが、特に魏時代の官名の記述はないことから、諸葛靚は魏では官…