吾彦と陸機・陸雲

吾彦

 吾彦(ごげん)という人の話。

 晋がついに三国統一を果たすことになる呉平定戦(仮名)では、羊祜が生前構想した戦略に調整を加え、晋軍は各地から一斉に怒濤のように呉に押し寄せてきた。呉軍はなんとか抵抗を試み、僅かに自分の城を護りぬいた武将もいるものの、全体としてはどうにもならずに次々と要所を侵略されてしまう。呉軍が長江に築いてきた抵抗のための防備も、事前に羊祜が見抜いて対策されていたために役には立たず、どんどん晋軍は快進撃を続けた。

 この侵攻に際して辛うじて城を護ったのが、健平太守の吾彦である。このため、晋軍は重要拠点の一つであった建平を陥落させることはできなかった。

 吾彦は、かつて陸抗の部将として西陵の戦いに従軍したこともある人物。その後、建平太守となった。建平郡は、かつての蜀との国境方向、長江沿いの呉の西端である。晋軍がこの戦役に備えて大型船を建造していた折、下流まで木くずが流れてきた。ことを察知した吾彦は、帝・孫晧に建平の防備の強化を訴えるが、取り合ってもらえない。仕方なく自分たちだけで懸命に対策を講じて備えていた……という、この時代の呉には貴重な、まとも且つ健気な人だったりする。

 『三国志』にはほとんど記述のない吾彦だが、統一後は晋に仕えたため、『晋書』に伝がある。それによれば吾彦は寒門の出の下役だったところ、陸抗がその知勇を買って抜擢した。以前、陸抗関連の小説を書こうとして、あまりにキャラ化できそうな人少なさに悩んでいたけれど……ついに発見! という感じ。

吾彦と二陸

 吾彦の伝で気になる、吾彦と二陸(西晋の文人として活躍した、陸抗の子の陸機・陸雲兄弟)とのエピソード。

 西晋に仕え、やがて南中都督になった吾彦が、陸機・陸雲に贈り物をしようとした。陸機は受け取ったが、陸雲はといえば、吾彦は賤しい家から抜擢してくれた恩人である父のことを、帝に対して褒めなかった! という理由で拒否。つられて陸機も拒否。以降ふたりで吾彦の悪口を言いまくり、他人にたしなめられてやっと反省する始末。

 単に陸雲の性格が悪かった、という問題でもない気がする。呉では屈指の名門の貴公子だった二陸だが、新天地では軽んじられる立場となり、その矜持が災いして複雑な心境にあったのではないだろうか。逆に、貧しい境遇から身一つで出世した吾彦のようなタイプ、不当に見下されることにも慣れているだろうし、新しい環境も素直に受け止めて真っ直ぐに進んでいけたのかもしれない。しかし、陸雲が先にキレているあたり、兄と違っておとなしい子なのかと思っていたら全くそんなことはなかったようだ。

 陸機にも、呉や父を貶められてキレるエピソードがある。廬志という人物が、故意に衆人のいる中で「陸遜、陸抗とは君にとって何ものか?」と陸機に尋ねた。諱を呼ぶのは禁忌であり、ましてや敬うべき父や祖父を、知らないふりをして名指しするなど、無礼きわまりない嫌がらせ。そこで陸機は「あなたにとっての廬毓、廬珽のようなものだ」と廬志の父・祖父の諱をあげて切り返した。このときの陸雲は何故か、なんであんなこと言ったの、本気で知らなかったのかもよ? などと窘めるが、陸機は天下に名高い我々の父祖を知らない奴などいるか! とブチキレた。この態度の差によって、これまで世間でどちらが優れているか決められかねていた二陸の優劣が決まったとか。……え? これは、頭の回転の良さや父祖を思う気持の上で、陸機が優れているという意味でいいのかな?

 廬志という人の態度の根底には、呉出身者に対する侮蔑の意識もあるのではないだろうか。しかしその陸機・陸雲も、同郷ながら寒門出の吾彦に対しては侮蔑意識がある、という根深い構図である。

2006.12.18