司馬懿は美形だったのか?

 司馬懿の容姿について、史料上の記述を調べてみた。

目次

前置き:ドラマ「三国機密」の司馬懿

 ドラマ「三国機密」(三国志 Secret of Three Kingdoms)にて、若き司馬懿しばいに面会を求められた荀彧じゅんいくのこんな台詞がある。

早就听闻清河名士崔琰
对贤侄的风评
聪亮明允 刚断英特
今日一见
果然是盛名之下无虚士啊
风姿俊朗
一表人才

そなたの評判は
かねがね伺っている
“聡明で決断力がある人物だ”と
その評判にたがわぬ方とお見受けした
そのうえ容姿まですばらしい

「三国志 Secret of Three Kingdoms」(原題:三国机密之潜龙在渊)5話

 「そのうえ容姿まですばらしい」に視聴者総つっこみの名シーン。皆がつっこむのも、三国志ファンの間で荀彧は美形として有名なせいだろう。だが、この作品では(整った顔のキャストばかりで判りづらいが)他の場面に鑑みても、司馬懿は随一の美形設定らしい。

 ちなみに『晋書』宣帝紀によれば、台詞にある崔琰さいえん(日本語字幕ではその名が省略されている)の司馬懿評は、実際に崔琰が、交友関係にあった司馬朗しばろう司馬懿の兄)に語ったものである。

尙書淸河崔琰與帝兄善,亦謂曰:「君弟聰亮明允,剛斷英特,非子所及也。」

房玄齡等撰《晉書 一 紀》(中華書局,1974年) 宣帝紀 p.1

尚書(官名)の清河の崔琰は、帝(司馬懿)の兄の司馬朗と仲が良く、にこう言った、「あなたの弟は聡明で誠があり、意志が強く決断力があり、才が優れて抜きんでている。あなたの及ぶところではない。」

 元となったであろう『三国志』崔琰伝では「聰哲明允,剛斷英跱(特)」と少し表現は異なるがほぼ同じで、司馬朗はこの意見に納得していなかったという。

 さて、荀彧と異なり、一般にあまり司馬懿に美形のイメージはないが、歴史上の司馬懿はどんな容貌だったのか?

司馬懿は「天挺之姿」を持っていた

 『晋書』宣帝紀の評(唐の太宗李世民による)には、こんな表現が出てくる。

宣皇天挺之姿,應期佐命,文以纘治,武以棱威。[……]

房玄齡等撰《晉書 一 紀》(中華書局,1974年) 宣帝紀 p.21

宣皇(司馬懿)は天性の抜きんでた姿(容貌、資質)をもって、運命に応え〔魏の〕建国の大業を助け、……

 文以〜のくだりはうまく訳せなかったので省略……この評は、最終的に司馬懿は帝位を窺う逆臣となったと見なし、酷評しているものの、前半生の功績自体は評価しており、佐命の臣となるに相応しい英雄的な風格があったというニュアンス。「姿」は容貌の意もあるが、「資」と通じて資質を表す意もあり、文脈的にこれは後者か。

 いずれにしても、古代においては、容貌は才能と密接な関係にあると考えられていたように思う。

「針鼠のようなびん紫石稜しせきりょうのような眼」の桓温は司馬懿と同類

 劉義慶『世説新語』の容止ようし篇には、次のような話がある。

劉尹道桓公、鬢如反猬皮、眉如紫石稜。自是孫仲謀・司馬宣王一流人。

通釈 劉尹(劉たん)が桓公(桓温)を評して言った。「鬢は逆立ったはりねずみの毛のようで、眉目は紫石稜のようにきりっとしている。もとより孫仲謀(孫権)や司馬宣王(司馬懿)のたぐいである。」

(語釈より)
猬 蝟に同じ。はりねずみ。 紫石稜 紫色のかどの立った石で、隴州に産するという。眼に稜角があり、眼光鋭いさまに喩えた。

目加田誠『新釈漢文大系 第78巻 世説新語(下)』(明治書院、1978年) 容止第十四 p.779

 東晋の劉惔りゅうたんという人が桓温かんおんの容貌を評するに際し、三国時代の孫権司馬懿を例に出している。経歴からの後付けか、桓温司馬懿父子に擬える話は他にも見られるが、ここでは孫権も並び称されていることから、純粋に非凡な傑物の風貌を評価したものか。

 もちろん劉惔司馬懿を実際に見てはいないので、当時伝わっていたイメージによる類型ではあるが、司馬懿もこうしたタイプの、眼光鋭くいかつい険相であったと想像できる。

司馬懿は「天姿傑邁」だった

 一方、その注に引かれる『晋陽秋』にはこんな記述がある。

晉陽秋曰、宣王天姿傑邁、有英雄之略。

『晋陽秋』にいう、「宣王(司馬懿)は生まれつき風格が立派で、英雄の智略をそなえている。」

目加田誠『新釈漢文大系 第78巻 世説新語(下)』(明治書院、1978年) 容止第十四 p.780

【天姿】テンシ ①美しい容貌。〈三国・明帝紀・注〉 ②生まれつきの優れた才能。〈史・儒林伝〉

『全訳 漢辞海(第四版)』(三省堂、2017年)

 司馬懿は「天姿傑邁」であった。「姿」はやはり見た目の意とも内面の資質の意ともとれ、「風格が立派」とは絶妙な訳である。ただ、この世説新語の「容止篇」は見た目の話が集められている。先述のように容姿と資質は通じるものであり、立派な人物は見た目も立派、というのが一般的な感覚だったのだろう(中には曹操のような例外もあるが)。

 この「天姿〜」という表現は『三国志』の注に引かれる書にも頻出し、上記用例にもあるが、三国志ファンの間では美形として知られる魏の明帝・曹叡そうえいの容貌を表す表現としても出てくる。

孫盛曰:聞之長老,魏明帝天姿秀出,立髮垂地,口吃少言,而沉毅好斷。

陳壽撰、裴松之注《三國志 一 魏書〔一〕》(中華書局,1982年) 明帝紀 p.114

孫盛はいう。老人に次のようなことを聞いてる。明帝は天性容姿にすぐれ、立つと髪は地面に垂れ、どもりで口数は少なく、沈着剛毅で決断力があった。

陳寿、裴松之注、今鷹真・井波律子訳『正史 三国志 1 魏書Ⅰ』(ちくま学芸文庫、1992年) 明帝紀注 p.277

 『晋陽秋』の著者でもある東晋の孫盛そんせいが伝聞したものである。孫盛の認識では、司馬懿曹叡と同じく優れた「天姿」の持ち主だった。

 なお、明帝紀の注にはこんな記述もある。

魏書曰:帝容止可觀,望之儼然。

陳壽撰、裴松之注《三國志 一 魏書〔一〕》(中華書局,1982年) 明帝紀 p.114

『魏書』にいう。明帝は風姿にみるべきものがあり、望みみると犯しがたい威厳があった。

陳寿、裴松之注、今鷹真・井波律子訳『正史 三国志 1 魏書Ⅰ』(ちくま学芸文庫、1992年) 明帝紀注 p.276

 ゲームやドラマでは線の細い美青年として描かれることが多い曹叡だが、実際には威厳のあるタイプだったようだ。

司馬懿は「狼顧ろうこの相」だった

 有名な話だが、『晋書』宣帝紀によれば司馬懿は「狼顧の相」をしていた。

帝內忌而外寬,猜忌多權變。魏武察帝有雄豪志,聞有狼顧相,欲驗之。乃召使前行,令反顧,面正向後而身不動。[……]迹其猜忍,蓋有符於狼顧也。

房玄齡等撰《晉書 一 紀》(中華書局,1974年) 宣帝紀 p.20

帝(司馬懿)は内心では嫉み深かったが、外面は穏やかで、疑い深く、偽りの多い性格であった。魏の武帝(曹操)は〔司馬懿が〕英雄・豪傑の志を持っていることを察し、また狼顧の相であると聞いて、試してみたいと思った。そこで召し出して前に進ませ、命じて振り返らせると、顔は後ろを向いたのに、体は〔前向きのまま〕不動であった。〔中略、司馬懿曹爽そうそう公孫淵こうそんえんを滅ぼした際の行動、後の曹髦そうぼうの事件などを引き合いに出して〕その疑い深く不人情であること、けだし「狼顧」というにぴったりだった。

【狼顧】ろう(らう)こ
❶おそれてふり返る。おおかみはよく後ろをふり返る性質があるからいう。〔……
❷人相の名。からだは前向きのままで首がうしろをふり返ることのできるもの。〔晉・宣帝紀〕

『角川新字源(改訂新版)』(角川書店、2017年)

 容姿の記述というよりは、性格が陰険であったことの描写である。曹髦の事件は司馬昭政権下の出来事で、現代の感覚からするととばっちりの評価も含まれるが。

三国志演義の司馬懿は「鷹視狼顧」だった

 『三国志演義』では、諸葛亮の離間の計によって司馬懿曹叡に疑われた際、かつて曹操司馬懿は「鷹視狼顧」であり国家の禍となると評したとして、華歆かきんが警告する台詞になっている。

 「鷹視」が付け加えられたのは物語上の脚色だとしても、やはり眼光鋭い容貌が想像される。

曹叡覽畢,大驚失色,急問群臣。太尉華歆奏曰:「司馬懿上表乞守雍、涼,正爲此也。先時太祖武皇帝嘗謂臣曰:『司馬懿鷹視狼顧,不可付以兵權;久必爲國家大禍。』今日反情已萌,可速誅之。」

《三國演義》 第九十一回 祭瀘水漢相班師 伐中原武侯上表 中央研究院 漢籍電子文獻

【鷹視(視)】ヨウシ タカのような鋭い凶悪な目つき。

『全訳 漢辞海(第四版)』(三省堂、2017年)

司馬懿は「身体壮大」だった

 実際の司馬懿の具体的な容貌を推測する手がかりとしては、兄・司馬朗の伝にこんな話がある。

司馬朗伯達河內人也。[……]十二,試經爲童子郞,監試者以其身體壯大,疑匿年,劾問。曰:「之內外,累世長大雖穉弱,無仰高之風,損年以求早成,非志所爲也。」監試者異之。

陳壽撰、裴松之注《三國志 二 魏書〔二〕》(中華書局,1982年) 司馬朗傳 p.465

司馬朗しばろうあざな伯達はくたつといい、河内かだいおん県の人である。[……]十二のとき、経書の試験を受けて童子郎となった。試験監督はその身体が大きくりっぱなことから、司馬朗が年をかくしているのではないかと疑いを抱き、訊問した。司馬朗はいった、「わたくしの父方母方の親類とも代々大柄なのです。朗は幼弱ではありますが、出世を願う気持ちはありません。年をいつわって早成を望むのは、私の願うところではありません。」試験監督はその言葉に見どころがあると思った。

陳寿、裴松之注、今鷹真訳『正史 三国志 3 魏書Ⅲ』(ちくま学芸文庫、1993年) 司馬朗伝 p.102

 司馬一族(および司馬朗の母方の一族。が同母兄弟かどうかは不明?)は、代々大柄な家系であった。ということは司馬師司馬昭なども大柄であったと思われる。仮に司馬朗が疑いを晴らすため大袈裟に言ったとしても、司馬朗本人は間違いなく大柄であったことから、実弟の司馬懿が似た体格である可能性は高いだろう。

 というわけで司馬懿は、兄同様に「長大」「身体壮大」な大男であったと推定される。

司馬懿は「魁傑雄特」だった

 曹植そうしょくが魏の臣を評した「輔臣論」には、司馬懿について以下のようにある。

魁傑雄特,秉心平直。威嚴足憚,風行草靡。[在朝廷則匡贊時俗,百僚侍儀;一臨事則戎]我昭果毅,折衝厭難者,司馬驃騎也。

曹植《輔臣論》 中國哲學書電子化計劃 > 曹子建文集

 「司馬驃騎ひょうき」は驃騎大将軍であった司馬懿のこと(“謹案司馬驃騎晉宣王也” 虞世南《北堂書鈔》巻六十三 中國哲學書電子化計劃 > 北堂書鈔卷第六十三

 曹植司馬懿の文武の才を評価していた。他の例とは異なり、実際に司馬懿と面識があった、近しい人物による評価である。この冒頭には「魁傑雄特」という表現があり、例によって内面的な評価も含まれるが、やはり司馬懿は武人らしい大柄で立派な容姿をしていたと考えられる。

【魁傑】かい(くわい)けつ ❶からだがたくましく、すぐれている。 ❷かしら。頭目。

『角川新字源(改訂新版)』(角川書店、2017年)

まとめ:司馬懿はたくましいタイプの美形だった

 これらの情報から、司馬懿は、大柄でたくましく、眼光鋭い、天性の優れた容貌の持ち主であったことが判る。

 意外にも(?)「三国機密」の司馬懿は、そのイメージに忠実な容貌だったのでした。

三国機密の司馬懿

 韓東君演じる「三国機密」の司馬懿电视剧《三国机密之潜龙在渊》官方微博 2018-4-2 11:41

2021.04.28

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