ドラマ「三国機密」に登場する古典 ⑩ 46〜50話
中国ドラマ「三国志 Secret of Three Kingdoms」(原題「三国機密之潜龍在淵」)の台詞に引用される故事・詩などの出典を調べた。赤枠は本編の字幕より引用。
目次
第46話
『国語』越語下篇より
皇帝入れ替わりの真相を明かされ、伏寿の決意を聞いた荀彧が覚悟する。第2話、第10話、第42話にも登場した表現。(詳細は第2話参照)
陛下乃是千载难逢的明君
主辱臣死
就算要死
也该是我们做臣子的
粉身碎骨陛下は1000年に1人の
名君でしょう
私は陛下のために—
たとえ死んでも臣下として
全力を尽くしましょう
【君辱臣死】きみはずかしめ(はづかしめ)らるればしんしす
主君が他からはずかしめを受けることがあれば、その臣は命をなげ出して、そのはじをはらす。〔越語〕君憂ヘバ臣労シ、君辱メラルレバ臣死ス『角川新字源(改訂新版)』(角川書店、2017年)
『礼記』檀弓上篇より
偽の皇帝に不信感を募らせる曹操に対し、司馬懿を釈放して皇帝と協力すべきだと進言する荀彧。
『礼記』の言葉を元にしていると思われるが、本来は、一時しのぎの利益を与えるのではなく、徳義にかなうことを第一とするのが「君子の愛」である、という内容で、この場面の使われ方とはややニュアンスが異なるように思う。
朝廷君子
爱人以德
臣请丞相本仁恕之心
释放司马文学掾
与陛下握手言和
如此 则天下归心
四海之间
皆 仰望丞相之盛德身分の高い人は
広い心を持つべきです
司馬懿を解き放ち
陛下と手を握ってください
皆がその徳を敬い
天下の人心を得られます
曾子寢疾病。樂正子春坐於床下・曾元・曾申坐於足、童子隅坐而執燭。童子曰、華而睆、大夫之簀與。子春曰、止。曾子聞之、瞿然曰、呼。曰、華而睆、大夫之簀與。曾子曰、然、斯季孫之賜也、我未之能易也。元起易簀。曾元曰、夫子之病革矣、不可以變。幸而至於旦、請敬易之。曾子曰、爾之愛我也、不如彼。君子之愛人也以德、細人之愛人也以姑息。吾何求哉。吾得正而斃焉、斯已矣。舉扶而易之。反席未安而沒。
通釈 曾参が病んで床につき、重くなった。その枕もとには楽正子春が坐し、曾元と曾申とが足もとに坐し、また童子がひとり室の隅で燭を守っていた。その童子の言うには、「先生の簀(寝台の下敷)は、特に上等のできのようで、大夫の用いる品ではございませぬか」。すると子春が答えた、「やめなさい(そのような事を言い出すのは)」。しかし曾参は聞きつけて、驚いた様子で言った、「そうだ。これは(大夫)季孫から贈られた物で、まだ取換えることができずにいたのだ。元よ、来て取換えておくれ」。元は答えて、「父上の加減はさしせまっており、動かすことができませぬ。うまく変って朝になりましたら、そのとき取換えてさしあげましょう」。しかし参は言った、元よ、お前のわたしに対する情愛は、あの童子に及ばないようだな。君子は徳義にかなうようにして人を愛し、小人は目さきだけの感情で人を愛するのだ。わたしが今さら何を求めようか。ただ正道を踏んで死ぬことができれば、それで充分なのだよ」。そこで皆して病人をかかえあげて簀を取換え、それぞれ席に戻って腰をおろすや否や、曾参は没した。
竹内照夫『新釈漢文大系 第27巻 礼記(上)』(明治書院、1971年) 檀弓上第三 pp.89-90
なお、この言葉は歴史上の荀彧が、曹操を魏公の位に就けようと画策する董昭らに反対する際に引いており、ドラマの台詞もそれを踏まえているのだろう。だが残念ながら、荀彧の「君子の愛」は曹操の心に届かなかった。
十七年,董昭等謂太祖宜進爵國公,九錫備物,以彰殊勳,密以諮彧。彧以爲太祖本興義兵以匡朝寧國,秉忠貞之誠,守退讓之實;君子愛人以德,不宜如此。太祖由是心不能平。
陳壽撰、裴松之注《三國志 二 魏書〔二〕》(中華書局,1982年) 荀彧傳 p.317
十七年(二一二)、董昭らは、太祖の位を進めて国公とし、九錫の礼物を備えて、そのきわだった勲功を顕彰すべきだと考え、ひそかに荀彧にこの旨相談した。荀彧は、太祖が義兵を起したのは、本来朝廷を救い国家を安定させるためであり、まごころからの忠誠を保持し、いつわりのない謙譲さを守り通してきたのだ、君子は人を愛する場合徳義による(利益をもちいない)ものだ、そのようなことをするのはよろしくない、と主張した。太祖はこのことがあってから、内心穏やかではいられなかった。
陳寿、裴松之注、井波律子・今鷹真訳『正史 三国志 2 魏書Ⅱ』(ちくま学芸文庫、1993年) 荀彧伝 pp.256-257
第47話
屈原 九歌「國殤」より
曲水の宴にて、先人の詩で思いを伝えるとして楊彪が吟ずる。楚の屈原の詩。「国家のために犠牲となった戦士の祭祀楽歌である」(『新釈漢文大系 第34巻 楚辞』より)。
诚既勇兮又以武
终刚强兮不可凌
身既死兮神以灵
魂魄毅兮为鬼雄誠に既に勇にして
又 以て武なり
終に剛強にして
凌ぐべからず
身は既に死すれども
神以て霊に
魂魄は毅く
鬼雄と為る
操吳戈兮被犀甲 車錯轂兮短兵接
旌蔽日兮敵若雲 矢交墜兮士爭先
凌余陣兮躐余行 左驂殪兮右刃傷
霾兩輪兮縶四馬 挼玉枹兮擊鳴鼓
天時懟兮威靈怒 嚴殺盡兮棄原野
出不入兮往不反 平原忽兮路超遠
帶長劍兮挾秦弓 首身離兮心不懲
誠旣勇兮又以武 終剛强兮不可凌
身旣死兮神以靈 子魂魄兮爲鬼雄吳戈を操りて犀甲を被り、車は轂を錯へて短兵接す。
旌は日を蔽ひて敵は雲の若く、矢は交〻墜ちて士は先を爭ふ。
余が陣を凌ぎて余が行を躐み、左驂は殪れて右は刃に傷つく。
兩輪を霾みて四馬を縶ぎ、玉枹を挼りて鳴鼓を擊つ。
天時は懟みて威靈は怒り、嚴殺して盡して原野に棄つ。
出でて入らず、往きて反らず、平原忽として路超遠なり。
長劍を帶びて秦弓を挾み、首身離るとも心懲りず。
誠に旣に勇んで又以て武く、終に剛强にして凌ぐ可からず。
身旣に死すれども神以て靈に、子の魂魄鬼雄と爲る。通釈 呉の国の鋭い矛を取り、犀の皮の堅い鎧を着て、戦車の轂は敵の車と嚙み合い、剣は相打つ。旗は天日を蔽い、敵は雲のように群がり、矢は互いに飛び交って落ち、兵士は先を争って進む。敵はわが陣を乗り越えて、わが隊をふみ通る。わが車の左の添え馬は倒れ、右の馬は刀に傷ついた。戦士はここを先途と、車の両輪を土に埋め、四頭の馬を繋ぎ合わせて一歩も退かぬ覚悟。玉の飾りの枹を振り上げて攻め太鼓を打ち鳴らす。
天の時節もこの悲壮な戦いを怨み、神霊も怒り、戦士を殺し尽くして、原野に棄てる。戦士は出陣してはまた入ることはなく、一たび征ってはまた返らない。平原ははてもなく、路ははるかに遠い。
長剣を帯び秦の強弓をたばさみ、首と身体とが離れても、心は懲り改まることはない。誠に既に勇ましい上にまた猛く、最後まで剛強で、犯すことはできなかった。身はもはや死んでしまっても、精神は活きている。あなたの魂魄は鬼神の英雄となっておられる。(語釈より)
〇子魂魄兮爲鬼雄 あなたのたましいは霊魂の中での英雄である。子は戦死者をさす。魂は精神の生命力、魄は肉体の生命、二字で霊魂と解する。一に「魂魄毅」に、また「子魄毅」に作る。鬼は亡霊、雄はすぐれたもの。亡霊の英雄。おにがみ。星川清孝『新釈漢文大系 第34巻 楚辞』(明治書院、1970年) pp.101-102
『詩経』国風・豳風「七月」より
朋酒斯飨 日杀羔羊
跻彼公堂 称彼兕觥
万寿无疆朋酒 斯に饗し
日に羔羊を殺す
彼の公堂に躋り
彼の兕觥を称え
万寿 疆なし
[……]
二之日鑿冰沖沖 三之日納于凌陰
四之日其蚤 獻羔祭韭
九月肅霜 十月滌場
朋酒斯饗 曰殺羔羊
躋彼公堂 稱彼兕觥
萬壽無疆[……]
二の日は冰を鑿つこと沖沖たり 三の日は凌陰に納る
四の日は其に蚤るに 羔を獻じて韭を祭る
九月は肅き霜 十月は場を滌む
朋酒 斯に饗し 曰に羔羊を殺す
彼の公堂に躋りて 彼の兕觥を稱げ
萬壽疆無けん[……]二月にはちょんちょんと氷切り、三月には氷室に入れる。四月には氷室開き、捧げるはこひつじとにら。九月には寒き霜降り、十月には稲打ち場を清め、みなを呼んで酒の宴、こひつじ殺して供物とし、御霊屋に参り、大杯を捧げ持ちて、一族の長寿を祖霊に願う。
石川忠久『新釈漢文大系 第111巻 詩経(中)』(明治書院、1998年) 國風・豳風・七月 pp.119-124
曹丕「芙蓉池作」より
曲水の宴にて曹丕が吟ずる。ここでやっと本人自作の詩が登場。芙蓉池は曹操が鄴に築いた銅雀台の庭園にあり、曹丕ら建安詩人がそこで宴を催していた。
丹霞夹明月
华星出云间
上天垂光彩
五色一何鲜
寿命非松乔
谁能得神仙
遨游快心意
保己终百年丹霞 明月を挟み
華星 雲間より出づ
上天 光彩を垂れ
五色 一に何ぞ鮮やかなる
寿命 松喬に非ず
誰か能く神仙たるを得ん
遨遊して心意を快くし
己を保ちて百年を終えん
乘輦夜行遊 逍遙步西園
雙渠相漑灌 嘉木繞通川
卑枝拂羽蓋 脩條摩蒼天
驚風扶輪轂 飛鳥翔我前
丹霞夾明月 華星出雲閒
上天垂光采 五色一何鮮
壽命非松喬 誰能得神仙
遨遊快心意 保己終百年輦に乘りて夜行いて遊び、逍遙して西園に步す。
雙渠は相漑灌し、嘉木は通川を繞る。
卑枝は羽蓋を拂ひ、脩條は蒼天を摩す。
驚風は輪轂を扶け、飛鳥は我が前に翔る。
丹霞は明月を夾み、華星は雲閒を出づ。
上天光采を垂れ、五色一に何ぞ鮮かなる。
壽命は松喬に非ず、誰か能く神仙を得ん。
遨遊して心意を快くし、己を保ちて百年を終へん。通釈 輦に乗って夜出かけ、ぶらりと西園に遊んだ。見れば二つの溝が流れそそぎ、美しい樹々が流れゆく川をめぐって繁っている。その低い枝は車の蓋をはらい、また長くのびた枝は天空に接するほどである。追風は急に吹き起って車の進みを助け、飛ぶ鳥はわが前をさえぎる。やがて明月が夕やけ雲に反映してあらわれると、きらめく星も雲間に光りをなげる。大空は美しく照り映え、雲気は五色に彩られて色あざやかにかがやく。
さて人の寿命は限りがあり赤松子・王子喬の神仙のように不老不死を得ることはできない。されば心ゆくばかり大いに遊んで、この限られた人生を持ち続けよう。内田泉之助・網祐次『新釈漢文大系 第14巻 文選(詩篇)上』(明治書院、1963年) 魏文帝「芙蓉池作」 pp.161-162
曹操「短歌行」より
曲水の宴にて曹操が吟ずる。曹操の代表作であり、緊迫したストーリー展開と相まって名場面となっている。
「歳月の過ぎ易いのを嘆じ、賢才を得て、すみやかに王業を建てようとの意を述べた四言詩で、曹操得意の作である」(『新釈漢文大系 第15巻 文選(詩篇)下』より)
对酒当歌 人生几何
譬如朝露 去日苦多
慨当以慷 忧思难忘
何以解忧 唯有杜康
青青子衿 悠悠我心
但为君故 沉吟至今
山不厌高 海不厌深
周公吐哺 天下归心酒に対して当に歌うべし
人生幾何ぞ
譬えば朝露の如し
去る日は苦だ多し
慨して当に以て慷すべし
憂思 忘れ難し
何を以て憂いを解かん
唯だ杜康 有るのみ
青青たる子が衿
悠悠たる我が心
但だ君が為の故に
沈吟して今に至る
山は高きを厭わず
海は深きを厭わず
周公は哺を吐きて
天下 心を帰す
對酒當歌 人生幾何
譬如朝露 去日苦多
慨當以慷 憂思難忘
何以解憂 唯有杜康
青青子衿 悠悠我心
但爲君故 沈吟至今
呦呦鹿鳴 食野之苹
我有嘉賓 鼓瑟吹笙
明明如月 何時可掇
憂從中來 不可斷絕
越陌度阡 枉用相存
契闊談讌 心念舊恩
月明星稀 烏鵲南飛
繞樹三匝 何枝可依
山不厭高 海不厭深
周公吐哺 天下歸心酒に對しては當に歌ふべし。人生は幾何ぞ。
譬へば朝露の如し。去日苦だ多し。
慨して當に以て慷すべし、憂思忘れ難し。
何を以て憂を解かん。唯杜康有るのみ。
青青たる子が衿、悠悠たる我が心。
但君が爲の故に、沈吟して今に至る。
呦呦として鹿鳴き、野の苹を食ふ。
我に嘉賓有らば、瑟を鼓し笙を吹かん。
明明として月の如し、何れの時にか掇る可けん。
憂は中より來つて、斷絕す可からず。
陌を越え阡を度り、枉げて用て相存せば、
契闊談讌して、心に舊恩を念ふ。
月明らかに星稀に、烏鵲南に飛ぶ。
樹を繞ること三匝、何れの枝にか依る可き。
山は高きを厭はず、海は深きを厭はず。
周公哺を吐きて、天下心を歸す。通釈 酒を飲んでは大いに歌うべきである。人生はどれだけ続き得るものぞ。それはあたかも朝露のように極めてはかないものである。されば過ぎ去った日はいやに多くても、功業はなかなか成らない。これを思えばなげかずにはいられず、心の憂も忘れ難い。この憂を消すものはただ酒あるのみ。だから酒に対しては憂を忘れて歌うべきである。
人生の短いのを思うにつけても賢才を得たいと思う心は、詩経の句に「青衿の若人よ、君を慕うわが心は、はてしも知らず思いなやむ」とあるように、わが心の休まるひまもなく、ただ君を得ようと思い思うて今に至った。
もし賢才を得て事を共にするを得るならば、彼の詩経に「さをしかは友を鳴きよびて、よもぎをはむ。われにめでたきまろうどがある。瑟をかなで、笙を吹いてもてなそう」と歌うように、よろこび迎えて楽しみを共にしたいと思う。しかし賢才の得難きは、明月の手にとり難いのと等しい。それを思うと憂いの心湧き来たって、たち難きを覚える。もし東西南北、道の遠きをいとわず、まげてわざわざ訪問されるならば、心をこめて酒宴談笑、旧恩を忘れまいと念じている。
われ今幸いに群雄を伐って天下を得た。それはあたかも月の光が輝いて、群星の光がうすれたのにも比べられよう。月明に乗じて南に飛んだかささぎが、宿るべき樹を求めて、ぐるぐる回っても、身を寄せる枝もないのは、世の賢才が依るべき人を得ずして、いたずらに奔走するにも似ている。
山は高きをいとわず、海は深きをいとわない。いくらでも高くまた深くなることを欲する。われもまたいくらでも多くの賢才を包容して用いよう。かの周公は一食事中に三度も口中の食を吐いて、天下の士に接し、賢才を採用したという。わが理想もまさにここにある。内田泉之助・網祐次『新釈漢文大系 第15巻 文選(詩篇)下』(明治書院、1964年) 魏武帝「短歌行」 pp.475-476
『孟子』告子章句上より
皇帝入れ替わりの証拠がないと主張する楊彪と、対立する曹操のやりとり。第5話にも登場した「舎生取義」が使われている。日本語字幕では意訳されている。
(杨彪)
若是司马家人
也是舎生取义的忠臣
请问丞相
你还有什么证据
来指认此事(曹操)
太尉这个也字用得好
那孤就成全这群忠臣义士
去舎生取义(楊彪)
司馬家の者が
命を惜しまず沈黙を守れば—
曹丞相には
確かな証しなどないではないか
(曹操)
楊太尉がそう言うのなら
命を惜しまぬ者たちには
願いどおり—
死んでもらおう
舎㆑生而取㆑義者也 せいヲおキテぎヲとルものなり
〔訳〕命をさしおいて義を求める〈孟・告子上〉『全訳 漢辞海(第四版)』(三省堂、2017年)
孟子曰、[……]生亦我所欲也、義亦我所欲也、二者不可得兼、舍生而取義者也、生亦我所欲、所欲有甚於生者、故不爲茍得也、[……]
孟子がいわれた。[……]生命もぜひ守りたいし、義もまたぜひ守りたい。だがもし、どちらか一方を選ばねばならぬ場合には、自分は生命を捨てても、義の方を守りたい。もちろん、生命は自分の望むところだが、それよりも以上に望むところのもの(すなわち義)があるから、それを捨ててまでも、生命を守ろうとはしないまでだ。[……]
小林勝人訳注『孟子(下)』(岩波文庫、1972年) 告子章句上 pp.248-250
第48話
『荘子』逍遥遊篇より
唐瑛らに陥れられ窮地にある曹操が、劉平がこの機を利用するのではないかと猜疑する。日本語字幕では意訳されているが、「鵬」(想像上の巨鳥。英雄の喩えに使われる)が旋風に乗って九万里を上り、何にも遮られない状態となって飛んでいくという伝説に擬えることで、曹操にとってはその風は「狂風驟雨」(激しい風とにわか雨。逆境を指す)であるという表現にも繋がっている。
『荘子』のこの節は、第31話にも登場した。
鹏飞九万里
而风斯在下
陛下积蓄了这么久
这样一场狂风骤雨
他会不用吗天下を治めるには—
時勢の後押しが要る
陛下は随分 力を蓄えた
予にとっての逆風に—
つけ込まぬわけがない
北冥有魚、其名爲鯤。鯤之大 不知其幾千里也。化而爲鳥。其名爲鵬。[……]鵬之徙於南冥也、水擊三千里、摶扶搖而上者九萬里、去以六月息者也。[……]故九萬里、則風斯在下矣。而後乃今培風、背負青天、而莫之夭閼者。而後乃今將圖南。
通釈 北の海に鯤という名の魚がいた。鯤の大きさは幾千里あるか分からないほどだ。この魚が変化して鵬という名の鳥になった。[……]鵬が南の海に移ろうとするとき、水は三千里にわたって波立ち荒れる。鵬はそのとき起る旋風に羽ばたいて九万里も上にのぼり、それから(南を指して)飛び去り、六箇月の後に(南の海に着いて)休息する。[……]故に九万里のぼるとすれば、風(大気)が翼の下にあるはずだ。そこで始めて風に乗る。青空を背にし、邪魔者がなく、そこで始めて南を指して進もうとする。
阿部吉雄・山本敏夫・市川安司・遠藤哲夫『新釈漢文大系 第7巻 老子・荘子(上)』(明治書院、1966年) 内篇・逍遙遊第一 pp.137-139
『孟子』公孫丑章句下より
世間に簒奪の野心ありと疑われる曹操を、それでも自分は疑っていないとして、協力しようと語りかける劉平。「天の時・地の利・人の和」の大切さを説く、劉平が常々敬愛する孟子の言葉から来ている。ただし孟子は「人の和」こそが最も重要であると説いており、深読みすれば、漢室側の力がより勝っていることを示して牽制しているのかもしれない。
なお、日本語字幕は一貫して「汉室(漢室)」を「漢王朝」と訳しているのだが、「漢王朝」は漢という国そのものを指す印象を(個人的には)受ける。当然曹操らも漢王朝の臣下であり、彼らの勢力に対する「漢室」とは、あくまで漢の皇室である劉氏(とその腹心の一派)という狭義の存在である。
你我的愿望都是平定天下
一统山河
丞相占了天时地利
而汉室却独占了人和
这个愿望
仅凭丞相或是仅凭汉室
都没办法实现
我们彼此争斗
只会两败俱伤我ら2人が
目指しているのは—
天下統一だ
曹丞相は天の時と地の利を—
漢王朝は人の和を占めている
どちらかだけでは
天下統一は成し遂げられぬ
互いに争えば—
共倒れになるだけだ
孟子曰、天時不如地利。地利不如人和。三里之城、七里之郭、環而攻之而不勝。夫環而攻之、必有得天時者矣。然而不勝者、是天時不如地利也。城非不高也。池非不深也。兵革非不堅利也。米粟非不多也。委而去之、是地利不如人和也。
通釈 孟子がいうに、「国君がすべて事をなす場合には、天の時(天然自然の現象のその時々の変移や状態。たとえば四季・晴雨・寒暑・昼夜・方角など)の宜い時を選ぶことも大切だが、それよりも地の利(土地の自然状態が都合よくなっていること。たとえば山河の険、城池の堅固さ)の宜いのを選ぶことには及ばない。しかし、その地の利の宜いということも、一国中の人心がよく和合し固く団結していることには、なお及ばないものである。一国民心の和合しているということは、君が国事を行なう場合に、このように、最も大切な条件である。[……]」
語釈
〇天時 四季・晴雨・寒暑・風水・昼夜・方角など、すべて天然自然の現象のその時々の変移や状態を言う。[……]
〇地利 山河の険とか、城池の深さとか、すべて攻められ難い地勢の有利さのあることを言う。
〇人和 民が皆心を合わせ一致団結して国のためにつくすことをいう。
[……]内野熊一郎『新釈漢文大系 第4巻 孟子』(明治書院、1962年) 公孫丑章句下 pp.121-122
『詩経』小雅・谷風之什「北山」より
司馬防父子が逃亡したことを告げる曹操に、曹丕が必ず捕まるだろうと語る(実は曹丕が逃がしたのだが)。
なお(日本語字幕では省略されているが)続く「天网恢恢(天網恢恢)」は「悪人は必ず捕らえられる」の意で使われる成語で、『老子』に由来する。
普天之下 莫非王土
天网恢恢
凭他们跑到天涯海角
总有疏而不漏之时“普天の下
王土に非ざる莫し”
たとえ奴らが
地の果てまで逃げても—
逃げ切れませぬ
〔詩経、小雅、北山〕溥天之下(フテンのもと)、莫㆑非㆓王土㆒(オウドにあらざるはなく)、率土之浜(ソットのヒン)、莫㆑非㆓王臣㆒(オウシンにあらざるはなし)。→ 天のあまねくおおう下は、天子の土地でないところはなく(みな天子の土地であり)、陸地の続き果てるどこまでも、(そこに住む人は)天子の臣でないものはいない(みな天子の臣である)。
『新漢語林(第二版)』(大修館書店、2011年)
陟彼北山 言采其杞
偕偕士子 朝夕從事
王事靡盬 憂我父母溥天之下 莫非王土
率土之濱 莫非王臣
大夫不均 我從事獨賢
[……]彼の北山に陟る 言に其の杞を采る
偕偕たる士子 朝夕事に從ふ
王事盬むこと靡く 我が父母を憂へしむ溥天の下 王土に非ざる莫し
率土の濱も 王臣に非ざる莫し
大夫 均しからず 我のみ事に從ひて獨り賢づく
[……]あの北方の山に登り、枸杞の葉を摘みとる。(それを捧げて山の神霊に申し上げる。)強くたくましい私は(群臣らと共に)、朝に晩に王命に従う。王の征役は休む(間も)なく(続き、故郷の)私の父母を憂えさせ(心配させ)る。
大いなる天の下、王の土地でないところはない。地の続く極みまでも、(そこに住む人は誰一人として)王の臣でない者はいない。(なのに王が)大夫(を使うのを)公平にせず、私だけが王命によって(多くの役を与えられ)独り苦労をする。[……]語釈[……]〇溥天之下 「溥」は、大いなる、「溥天」は、大いなる天の意(毛伝・集伝)。屈万里はあまねくとする。 〇率土之浜 その四方の行き着く先を挙げて、その広さを示す意(孔穎達)。「率」は、循う、沿う意(高亨)。「率土」は、地が続くの意。「浜」は、涯、きわみの意(毛伝)。[……]
余説[……]詩中、「普天之下、莫非王土、率土之浜、莫非王臣」は、天子の天下統治の絶対性を表す言葉として古来有名な句であるが、その本来の意味は、このように国が広く人が多いのに、なぜ自分だけかくも不公平に使役せられ、このように王事に苦しむのかという心持ちである。[……]
石川忠久『新釈漢文大系 第111巻 詩経(中)』(明治書院、1998年) 小雅・谷風之什・北山 pp.387-391
【天網▽恢▽恢疎▽而不㆑失】テンモウカイカイソにしてうしなわず
天の網は広大で目があらいようだが、取り逃がすことはない。悪人は必ず捕らえられる意。〈老・七三〉注「不㆑失」は、「不㆑漏」として用いられることが多い。『全訳 漢辞海(第四版)』(三省堂、2017年)
『論語』衛霊公篇より
我らは兄弟だという劉平を拒絶し、自分の道を行くとしてその元を去る司馬懿。
晩了
道不同 不相为谋
早知今日 何必当初呢もう遅い
“道 同じからざれば
相 為に謀らず”
分かっていたら関わらなかった
道不㆑同、不㆓相為謀㆒ みちおなジカラざレバ、あヒためニはかラず
立場が異なれば、いっしょに何かを計画していくことができない〈論・衛霊公〉『全訳 漢辞海(第三版)』(三省堂、2011年)
子曰、道不同、不相爲謀、
子の曰わく、道同じからざれば、相い為めに謀らず。
先生がいわれた、「志す道が同じでなければ、たがいに相談しあわない。」
金谷治訳注『論語』(岩波文庫、1963年) 衛霊公第十五 p.323
第49話
『孟子』公孫丑章句下より
曹操と並び立つことで協力して天下統一を目指す劉平に対し、優位に立った今こそ曹操を滅ぼすべきだと主張する伏完。第48話に登場した「天の時・地の利・人の和」がここでも使われる。(詳細は48話参照)
可当今的形勢
不同于桓灵之时
这次的机会
让我们占尽了天时地利人和
陛下
比时不灭曹操 更待何时啊かつてとは情勢が違う
天の時 地の利
人の和を占める今—
曹操を討たねば
いつ討つのですか
古詩十九首・第十五首より
曹操に失望され不遇を託つ曹植が、一人で酒に酔いながら吟ずる。『文選』に収められる、作者不詳の古詩。
生年不满百
常怀千岁忧
昼短苦夜长
何不秉烛游生年は
百に満たず
常に千歳の憂いを懐く
昼は短くして
夜の長きに苦しむ
何ぞ燭を秉りて遊ばざる
生年不滿百 常懷千歲憂
晝短苦夜長 何不秉燭游
爲樂當及時 何能待來茲
愚者愛惜費 但爲後世嗤
仙人王子喬 難可與等期生年は百に滿たず、常に千歲の憂を懷く。
晝は短くして夜の長きに苦しむ、何ぞ燭を秉つて游ばざる。
樂しみを爲すは當に時に及ぶべし、何ぞ能く來茲を待たん。
愚者は費を愛惜し、但後世の嗤と爲るのみ。
仙人王子喬は、與に期を等しうす可きこと難し。通釈 人間は百歳までは生きられぬのに、千年後のことまで考えて、日夜憂いの種をまくのは愚かなことである。もし昼が短く、夜が長いのを苦にするなら、なぜに燭をてらして、夜を日につぎ遊ばぬのだ。楽しみを求めようとなら、つとめて今の機会を逃さぬようにせよ。当にもならぬ来年を待ったとて、どうなるものか。然るに、世の愚か者は、いたずらに費用を出し惜しんで金を貯めているが、後の世の人々に笑われるだけ。仙人王子喬は不老長生を得たと伝えるが、常人にそれと競争などはとてもできぬことだ。
内田泉之助・網祐次『新釈漢文大系 第15巻 文選(詩篇)下』(明治書院、1964年) 雑詩上(古詩十九首) pp.568-569
第50話
『易経』乾為天より
崔琰と孔融が儒者の集会のために建てた建物を「潜龍観」と名付けたことを語る司馬懿に、劉平が返す。ドラマの原題にも使われる「潜龍」(未だ世に出ていない英雄の喩え)の語はこれまでにも何度も登場したキーワード。詳細は第9話参照。
初九 潜龙 勿用
孔融在比喻朕的弱小
和曹氏的专权“初九 潜龍なり
用うるなかれ”
私の弱さと
曹氏の専横の比喩だな
【潜竜(龍)▽勿㆑用】センリョウもちいることなかれ
水中にひそみ、まだ天に昇る時節がこない竜は、活動してはならない。君子や大人物であっても、機会に恵まれないうちは、強いて活動をしてはいけないということ。〈易・乾初九〉
『全訳 漢辞海(第三版)』(三省堂、2011年)
初九、潛龍。勿用。
初九、潛龍なり。用ふること勿れ。
初九は最下の陽爻、陽気の地下に潜在することを示す。龍が乾の象であるから、初九は淵に潜み隠れている龍の象である。まだその才徳を施用すべき時ではないので、その占は施し用いることなかれとの戒辞である。
今井宇三郎『新釈漢文大系 第23巻 易経(上)』(明治書院、1987年) 周易上經(1)乾 pp.94-95
『孟子』公孫丑章句上より
もはや道義にかなった方法では漢を救えないと考えた崔琰による、儒学生たちを犠牲に曹操を滅ぼす計画に、孔融が反対する。
日本語字幕では前後の流れで意訳されているが、「天下を味方につける」の部分は本来、天下を「得る」と言っている。孔融が『孟子』の一節を引き、「天下を得る」ために罪なき者を殺すなと批判したので、崔琰は「天下を得るだと? 私は天下を救おうとしているのだ」と声を荒らげて反論したのである。
(孔融)
那也不能
用那么多学子去殉葬
行一不义 杀一不辜而得天下
皆不为也(崔琰)
我是要得天下吗
我是要救天下(孔融)
ならば儒学生を道連れにするな
天下を味方につけるため
罪なき者を殺すな
(崔琰)
味方につけるのではない
天下を救うのです
伯夷・伊尹於孔子、若是班乎。曰、否。自有生民以來、未有孔子也。曰、然則有同與。曰、有。得百里之地而君之、皆能以朝諸侯、有天下。行一不義、殺一不辜、而得天下 皆不爲也。是則同。
[……]一不義を行ひ、一不辜を殺して、而して天下を得るは、皆爲さざるなり。[……]
通釈 (前に伯夷・伊尹・孔子の三人を、「皆古の聖人なり。」と孟子が言ったので、)公孫丑は疑問をおこして問うた、「伯夷や伊尹の孔子に対する関係は、このように等しいのでしょうか。」と。孟子が言うに、「いや、ひとしくはない。一体、この天地間に人が生まれて以来、いまだ孔子のような立派な人格はないのだから。」と。公孫丑がいうに、「それなら、何か同じところがあるのですか。」と。孟子がいうに、「それはある。百里四方の土地を得て、これに君となったならば、三人とも皆よく諸侯を朝見させ、以て天下を領有することが出来るであろう。しかし、一つの不義な事を行ない、一人の罪無き人を殺して、そして天下を得るなどということは、三人とも決してしない。この点は、則ち三人とも全く同じなのである。」と。
内野熊一郎『新釈漢文大系 第4巻 孟子』(明治書院、1962年) 公孫丑章句上 pp.101-102
『書経』湯誓篇より
打倒曹操の陰謀を決意した崔琰が、日を見上げながら語る。湯王(殷の開祖)が、暴虐な夏の桀王を討つ際の話。「日」は君の意で、人民が桀王を指したもの(あるいは桀王自身が擬えたとも)。ここでは曹操を擬え、犠牲を伴ってでも曹操を討つ覚悟の言となっている。
时日曷丧
予及汝皆亡時の日 曷か喪びん
予と汝と皆に亡びん
湯王夏を討たざるべからざるを說く
王曰、「格爾衆庶。悉聽朕言。非台小子敢行稱亂。有夏多辠、天命殛之。今爾有衆、汝曰、『我后不恤我衆、舍我穡事、而割正。』予惟聞汝衆言、夏氏有辠、予畏上帝。不敢不正。今汝其乃曰、『夏辠其如台。』夏王、率遏衆力、率割夏邑。有衆率怠弗協、曰、『時日曷喪、予及汝皆亡。』夏徳若茲、今朕必往。爾尙輔予一人、致天之罰。予其大賚汝。爾無不信、朕不食言。爾不從誓言、予則奴戮汝、罔有攸赦。」
王曰く、「格れ爾衆庶。悉く朕が言を聽け。台小子敢へて行(=枉)に亂を稱ぐるに非ず。有夏多辠にして、天命じて之を殛せしむ。今爾有衆、汝曰く、『我が后、我が衆を恤まず、我が穡事を舍きて、割ぞ正つ』と。予惟れ汝衆の言を聞くも、夏氏辠有れば、予上帝を畏る。敢へて正たずんばあらず。今汝其れ乃ち曰はん、『夏の辠其如台』と。夏王、率に衆力を遏して、率に夏邑を割す。有衆率に怠って協せずして、曰く、『時の日曷か喪びん、予と汝と皆に亡びん』と。夏徳茲の若し、今朕必ず往かん。爾尙くは予一人を輔け、天の罰を致せ。予は其れ大いに汝に賚へん。爾信無ぜざるなかれ、朕は言を食らず。爾誓言に從はざれば、予則ち汝を奴戮して、赦す攸有る罔からん」と。
通釈 〔商の湯〕王が〔大衆に誓って〕いう、「来たれ、汝衆庶よ。一人残らず朕が言うことを〔心して〕聴け。予小子(王の自称の語)が敢えて枉に乱を挙げようとするのではない。有夏が多くの罪〔を犯しているので〕、天が〔朕に〕命じて懲らしめようとするのだ。今、汝ら大衆、汝らは『わが后はわれわれ衆民のことを憐まず、われわれの農耕のつとめを捨ておいて、害で征伐するのか。』といっている。予は汝ら衆民の〔この〕言を聞いているが、夏氏に罪があるので、予は上帝〔の有罪者は罰せよとの命令〕を畏れる。〔だから〕どうしても征伐しなければならないのだ。〔この朕が言を聞いて〕今、汝らは、『夏の罪はいったい如何であるか。』と、あやしむであろう。〔それは〕夏の王(桀王をさす)は、衆民の力をつきさせ、夏の邑々を害った〔からだ〕。そこで大衆は怠って協力せず、『この君は何時亡びるであろうか。〔その亡びる時には、〕われわれも汝(桀王をいう)とともにみな亡びてしまうだろう。』といっているのだ。夏の徳(なしわざ)は此の如くである。だから予は必ず往くのだ。汝らこいねがわくは予一人(天子の国民に対する自称の語)を輔けて、天の罰を致せ。予は大いに汝ら〔の功に対し、賞を〕あたえるであろうぞ。汝らは〔予を〕信じなくてはいけない。予は食言することはないのだ。汝らが〔この〕誓に従わないならば、予は汝らを奴隷にして辱め、赦すことはないであろう。」
加藤常賢『新釈漢文大系 第25巻 書経(上)』(明治書院、1983年) 湯誓 pp.98-99
孟子見梁惠王、王立於沼上、顧鴻雁麋鹿曰、賢者亦樂此乎、孟子對曰、賢者而後樂此、不賢者雖有此不樂也、詩云、經始靈臺、經之營之、庶民攻之、不日成之、經始勿亟、庶民子來、王在靈囿、麀鹿攸伏、麀鹿濯濯、白鳥鶴鶴、王在靈沼、於牣魚躍、文王以民力爲臺爲沼、而民歡樂之、謂其臺曰靈臺、謂其沼曰靈沼、樂其有麋鹿魚鱉、古之人與民偕樂、故能樂也、湯誓曰、時日害喪、予及女皆亡、民欲與之偕亡、雖有臺池鳥獸、豈能獨樂哉、
孟子が梁の恵王にお目にかかった。[……]〔書経の〕湯誓篇に、「人民は夏の桀王を太陽になぞらえて『〔ああ、苦しい。〕この太陽はいったい、いつ亡びるのだろう。その時がくるなら、自分もいっしょに亡んだとてかまわない』といって呪ったとありますが、こんなに人民から『いっしょになら、この身を棄ててもかまわぬ』とまで怨まれるようになっては、いくら立派な台や池や鳥・獣があったとて、いつまでも自分ひとりで楽しんでなどおられましょうや。」
小林勝人訳注『孟子(上)』(岩波文庫、1968年) 梁恵王章句上 pp.36-38
『韓非子』主道より
崔琰の計画を阻止しようと潜龍観の集会にやってきた劉平が演説する。
崔尚书聚众位于此论道
道者 道者
万物之始
是非之紀也
[……]
朕希望诸位
心在君子之道
[……]ここに集まった皆に話がある
道のことだ
“道とは—”
“万物の始め 是非の紀なり”
[……]
皆には心の中に
賢者の道を持ってほしい
[……]
道者萬物之始、是非之紀也。是以明君守始以知萬物之源、治紀以知善敗之端。故虛靜以待、令名自命也、令事自定也。虛則知實之情、靜則知動之正。有言者自爲名、有事者自爲形。形名參同、君乃無事焉、歸之其情。故曰、君無見其所欲、君見其所欲、臣自將雕琢、君無見其意、君見其意、臣將自表異。故曰、去好去惡臣乃見素、去賢去智臣乃自備。
道者萬物の始にして、是非の紀なり。是を以て明君は始を守りて以て萬物の源を知り、紀を治めて以て善敗の端を知る。故に虛靜にして以て待ち、名をして自ら命らしめ、事をして自ら定めしむ。虛ならば則ち實の情を知り、靜ならば則ち動の正を知らむ。言有る者は自ら名を爲し、事有る者は自ら形を爲す。形と名と參同せば、君乃ち事無く、之を其の情に歸せむ。故に曰く、君は其の欲する所を見す無かれ、君其の欲する所を見すときは、臣將に自ら彫琢せむとす、君は其の意を見す無かれ、君見の意を其すときは、臣將に自ら異を表せむとすと。故に曰く、好を去り惡を去らば臣乃ち素を見し、賢を去り智を去らば臣乃ち自ら備へむ、と。
道と申すものが万物の根源であり、是非の基本であります。そこで賢君は何事にも根元を求め、根元において物ごとの性質を理解し、また是非善悪の基本をよく知って、人の行動の成否が何によるかを察するのです。即ち賢君は虚と静とを心構えにして臣下の出ようを待ち、かれらの(能力に関する)名声を自由に宣伝させ、また実地の仕事で自由に成績を示させるのです。このさい君主の心が虚で先入観がないから臣下の実情がよく分り、静にしてじっと待ち構えているから相手の動きが正確に分ります。そもそも志があってそれを言う人には自然に名声が立ち、また腕があって仕事をすれぱ自然に成績が出てきますから、名声と実績とを比べて検査すれば、君主は苦労をせずに臣下の性質や能力をすべて真相でとらえることができます。ゆえに古人は申しました、君は欲望を知られてはいけない、君の欲望を知ると臣は自分を飾ろうとする、君は意志を知られてはいけない、君の意志を知ると臣は自分を変えて見せようとする、と。また、こうも申しました、君が好みと悪しみをかくせば臣は始めて正体を見せる、君が賢こさや知恵をかくせば臣は始めて正直にふるまう、と。
(語釈より)〇道 原理・根源者・神というような物。 〇是非之紀 紀は小綱をたばねたもの、総括者・基本点。
竹内照夫『新釈漢文大系 第11巻 韓非子(上)』(明治書院、1960年) 主道第五 pp.48-56
公開:2020.01.07 更新:2022.03.26