ドラマ「三国機密」に登場する古典 ⑥ 26〜30話

中国ドラマ「三国志 Secret of Three Kingdoms」(原題「三国機密之潜龍在淵」)の台詞に引用される故事・詩などの出典を調べた。赤枠は本編の字幕より引用。

目次

第26話

詩経しきょう大序たいじょより

司馬懿らの計画により甄宓を騙して印信を手に入れようとする曹丕が、甄宓の接吻を思わず避けてしまったことを釈明する。日本語字幕では意訳されている。

『詩経』大序(『毛詩もうし』巻頭の序。『毛詩』は毛亨もうこう毛萇もうちょうが伝えた現行の『詩経』)の一節に由来するが、本来の意味からは変化し、(恋愛関係において)情愛のために礼を逸脱してはならないという意味の成語として使われるようである。

发乎情 止乎礼
这肌肤之亲 太突然了
我还没准备好呢

礼節は重んじなくては
突然すぎて
準備ができていなかった

[……]國史明乎得失之迹、傷人倫之廢、哀刑政之苛、吟詠情性、以風其上、達於事變、而懷其舊俗者也。故變風發乎情、止乎禮義。發乎情、民之性也。止乎禮義、先王之澤也。[……]

[……]國史(國の史官)得失のあとを明らかにし、人倫の廢をいたみ、刑政のかなしみ、情性を吟詠して、以て其の上を風す。事變に達して、其の舊俗をおもふ者なり。故に變風は情に發して、禮義に止まる。情に發するは、民の性なり。禮義に止まるは、先王の澤也なり。[……]

高田眞治『漢詩大系 第一巻 詩経 上』(集英社、1966年) 詩序 p.15

論語ろんご為政いせい篇より

伏寿たちが囚われたことを聞き、計略とは知らない学生たちが立ち上がろうとする。日本語でも同様に使われる表現だが、原語の台詞では「子曰〜」と言っている。

(卢毓)
我们若还坐视
就等于是看着屠刀
架到我们脖子上了

(刘毅)
子曰
见义不为 无勇也
今遇不义
我等当如何处之

(盧毓)
このまま黙って見ていては
身の破滅だ
 

(劉毅)
“義を見てさざるは
 勇 無きなり”

今こそ立ち上がるべきだ

義を見てせざるは勇ゆう無きなり〔論語為政
人として当然行うべきことと知りながら、それを実行しないのは勇気がないからである。

『大辞林 4.0』(三省堂、2019年)

子曰、非其鬼而祭之、諂也、見義不爲、無勇也

子の曰わく、其のに非ずしてこれを祭るは、へつらいなり。義を見てざるは、勇なきなり。

先生がいわれた、「わが精霊しょうりょうでもないのに祭るのは、へつらいである。〔本来、祭るべきものではないのだから。〕〔それと反対に〕行なうべきことを前にしながら行なわないのは、臆病おくびょうものである。〔ためらって決心がつかないのだから。〕」

金谷治訳注『論語』(岩波文庫、1963年) 為政第二 p.49

第27話

兵法へいほう三十六計さんじゅうろっけい」より

鄴から逃げる計画を立てる司馬懿らのやりとり。「兵法三十六計」の一つとして知られる「調虎離山ちょうこりざんの計」。続く場面の潘揚の台詞にも出てくる。日本語字幕の意訳でも「囮で誘い出す」点が主眼となっているが、本来は、「敵を誘い出すことで有利な地から引き離して戦う」という計略であり、ここで司馬懿が取ろうとした作戦とは少し要点が異なるようにも思う。

なお、古今の計略を36の熟語にまとめた「兵法三十六計」とは、現代中国の日常生活にも浸透しているが、著者は不明で、あくまで俗書として民間で読まれていた存在だそうである。

(司马懿)
等到他去追捕你们的时候
我就和刘平带着士子们
暗度陈仓

(伏寿)
连环调虎离山
亏你想得出来

(司馬懿)
審栄しんえいがお前たちを追う間に
儒学生を集める
 

(伏寿)
おとりで誘い出すとは
いい考えだわ

(唐瑛)
轮到我来调虎离山
你们一定要逃出去

(唐瑛)
私が囮になります
その間に逃げて

第十五計「調ちょうざん」(とら調あしらってやまはなれしむ)

虎をだまして山からおびき出す。敵を有利な地から誘導して撃つ。

虎穴こけつらずんば虎子こしを得ず」の成句がある通り、虎は山奥にひそんでいて、なかなか人前にその姿を現しません。そのようなときは、利益をちらつかせて山奥から誘い出し、その虚をつく必要があります。[……]さすがの虎も、山から出てしまえば、その威力は半減するのです。

てんちてもっこれくるしめ、ひともちいてもっこれさそう。けばなやたればかえる。

天以困之、用人以誘之。往蹇来返。

自然の条件に恵まれるのを待って敵を苦しめ、間者を使って敵を誘導する。無理に敵の根拠地にいこうとすればかえって悩むことになり、思いとどまって自分本来の場所に帰り来たれば、安泰な場所に帰ったという安心感を得ることができる。

相手が天然の要害にこもっているときは攻めづらいものです。そのようなときは、こちらが有利となるような自然(地形や気象)の条件が整うのを待つ必要があります。また、そのような条件を作り出すため、人(間者)を使って敵を誘い出さなければなりません。[……]

湯浅邦弘『ビギナーズ・クラシックス 中国の古典 孫子・三十六計』(角川文庫、2008年)218〜220

调虎离山 diào hǔ lí shān

事をうまく運ぶために,策を練って相手を本拠地からおびき出す.

『超級クラウン中日辞典』(三省堂、2008年)

日本語字幕では意訳されているが、司馬懿の台詞には「暗度陳倉」という劉邦の故事に基づく成語も使われている。

暗度陈仓 àn dù Chén cāng

相手の眼をくらまし,意表をついた行動に出る.男女の密通を言うことが多い.
由来 漢の劉邦が楚の項羽に先んじ,桟橋を築くと見せかけひそかに陳倉ちんそう(現陝西省宝鶏ほうけい市の東)を制圧したことから.

『超級クラウン中日辞典』(三省堂、2008年)

論語ろんご為政いせい篇より/『易経えききょう乾為天けんいてんより

鄴の学生たちを救うため、崔琰の協力を得ようとするお忍びの劉平崔琰を説得する伏寿が皇帝について「譬えば北辰の其の所に居て、衆星のこれに共うがごとし」と論語を引用する。「政を為すに徳を以てすれば〜」の部分は前提知識として共有されている模様(崔琰にとっては当然だが、中国では一般視聴者にもわかるのだろうか)。また、これまでにも登場し、タイトルでもある「潜龍 淵に在り」については第9話参照。いずれも日本語字幕では意訳されている。

譬如北辰 众星拱之
崔琰
天子心怀天下
虽因于局势
潜龙在渊
但心中没有一日忘记
中原和江南的百姓
若天子毫无势力
又怎么会派我们来河北

陛下は仁徳で世を治めんと
天下のことを思っておられる
今は雌伏の時ですが
中原ちゅうげん江南こうなんの民を
忘れることはない
我らが河北かほくに来たのは陛下のめい

〔論語、為政〕為政以(まつりごとをなすにトクをもってすれば)、譬如北辰居其所、而衆星共(たとえ(へ)ばホクシンのそのところにい(ゐ)て、シュウセイのこれにむかう(ふ)がごとし)政治を行うのに道徳によれば、ちょうど北極星が自らの位置にいて、多くの星がそれを中心に正しくめぐるようなものである。

『新漢語林(第二版)』(大修館書店、2011年)

子曰、爲政以德、譬如北辰居其、而衆星共之、

子ののたまわく、せいすに徳を以てすれば、たとえば北辰ほくしんの其の所にて、衆星しゅうせいのこれにきょうするがごとし。
*共する——新注では「向かう」と読んで、衆星がとりまいてその方を向いていることと解したが、注はきょう(手を前にくむ礼)と同じとみて衆星が挨拶していると解した。今それに従う。

先生がいわれた、「政治をするのに道徳によっていけば、ちょうど北極星が自分の場所にいて、多くの星がその方に向かってあいさつしているようになるものだ。(人心がすっかり為政者に帰服する。)

金谷治訳注『論語』(岩波文庫、1963年) 為政第二 p.49

史記しき陳渉世家ちんしょうせいかより

鄴の学生たちの元へ戻った劉平が城を出ようと語りかけ、呼応する学生たち。秦末に起きた陳勝呉広の乱の決起の際の言葉。

如果诸位信任我刘平
就请与我并肩而行
就算是会死
也能够像先贤大儒一样
青史留名
等死 死国可乎

私を信用してくれるなら
一緒に来てほしい
たとえ死んでも
いにしえの聖人のように
歴史に名が残る
同じ死ぬなら国のために

等死、死国可乎 ひとシクしスルナラバ、くにニしスルハかナランか
同様に死ぬのなら、楚国再建のために死んだほうがましだ〈史・陳渉世家〉

『全訳 漢辞海(第三版)』(三省堂、2011年)

二世元年七月、發閭左、適戍漁陽、九百人、屯大澤鄉。陳勝・吳廣皆次、當行、爲屯長。會天大雨、道不通。度已失期。失期法皆斬。陳勝・吳廣乃謀曰、今亡亦死。舉大計亦死。等死、死國可乎。陳勝曰、天下苦秦久矣。吾聞、二世少子也。不當立。當立者乃公子扶蘇。扶蘇以數諫故、上使外將兵。今或聞、無罪、二世殺之。百姓多聞其賢、未知其死也。項燕爲楚將、數有功、愛士卒、楚人憐之。或以爲死、或以爲亡。今誠以吾衆詐自稱公子扶蘇・項燕、爲天下唱、宜多應者。

秦の二世皇帝の元年七月、閭門の左側に居住していた囚人や貧弱者が徴発され、辺境の河北漁陽の守備に当てられる者九百人が、安徽の大沢郷に宿営した。陳勝も呉広もみな順番に当たってこの行役に従い、その駐屯団の長であった。大雨があって道路の不通に出会った。日数を計算してみると、もはや期限が切れそうになった。期限が切れれば、法に照らしてみな死罪である。そこで陳勝と呉広が相談し合って言った。「今、逃亡しても殺される。大計を立て謀反の兵を挙げても死ぬだろう。同じ死ぬなら国を建てて死んだ方がましだ」と。陳勝が言った。「天下が秦のために苦しんでいることが久しい。わしは、『二世は末子であった。位に即くべきでなかった。即位すべきは公子の扶蘇だったが、扶蘇がしばしば諌めたので、始皇帝が国外に出して将軍としたのだ』と、聞いている。今、或いは又、罪もないのに二世皇帝が扶蘇を殺したとも聞いている。民衆の多くは、扶蘇が賢明であったことは聞いているが、彼の死んだことはまだ聞いていない。又、項燕は楚の将となって、しばしば功勲があり、士卒を愛した。楚の人びとからなつかれているが、彼が死んだとも云われ、或いは逃亡したとも云われている。今、もし、我らが役徒を率いて、詐って自ら公子扶蘇・項燕と称して、天下の主謀者となったら、きっと呼応する者が多いにちがいない」と。

語釈[……]死国 国を建てて死ぬ。上句から四つの「死」の字を連用した。文章の彩だろう。[……]

吉田賢抗『新釈漢文大系 第87巻 史記 七(世家下)』(明治書院、1982年) 陳渉世家第十八 pp.890-916

第28話

竇玄とうげん妻「古怨歌こえんか」より

曹丕の招きを断る司馬懿の言。出典については諸説あるようだが、後漢の竇玄妻の作という説によって元の詩を見ると、意外にもこれは既に捨てられた(厳密には権力によって別れさせられた)「故い」側による、新しい相手より私の方が相応しいのに、という恨み言なのだった。

二公子似乎忘了
衣不如新
人不如故

或是我和陛下早就相识
为何我要捐弃故剑
而侍奉新主呢

忘れているようだが
“衣は新しきにかず
 人はふるきに如かず”

陛下とは古い知り合いだ
それを捨てて
新しい主君には仕えぬ

煢煢けいけいたる白兎はくとひがしはし西にしかへりみる。
しんなるにかず、ひとなるにかず。

ひとりよるべない白うさぎ。東に走ったり、西をふり返ったり、それはわたしの姿です。着物は新しいのがよいでしょうが、人はふるなじみにはおよびますまい。

(訳注より)
・竇玄妻 後漢書によれば竇玄は容貌がすぐれていたために、天子がその妻を出させて、かわりに公主(天子のむすめ)をめあわせたと伝える。
・古怨歌 時に竇玄の妻が悲しみ怨み、書とこの歌とを玄に寄せたという。時の人々がこれをあわれんで伝えたのである。

内田泉之助『漢詩大系 第四巻 古詩源 上』(集英社、1964年) 巻三 漢詩 竇玄妻「古怨歌」 p.125

詩経しきょう国風こくふう召南しょうなん小星しょうせい」より/古楽府「古出夏北門行」より(?)

官渡の戦場で張繍に語りかける楊修の言葉。冒頭が漢詩風だが、字幕では引用として訳されてはいない。「肅肅宵征」は詩経「小星」にある表現。

肃肃宵征 白骨不覆
好一场血战啊

しかばねが野ざらしに
すさまじい戦いの跡だ

嘒彼小星 三五在東
肅肅宵征 夙夜在公
寔命不同

嘒彼小星 維參與昴
肅肅宵征 抱衾與裯
寔命不猶

けいたる小星せうせい 三五さんご ひがし
肅肅しゅくしゅくとしてよる 夙夜しゅくせきとしてこう
寔命しょくめいあざむかず

けいたる小星せうせい しんぼう
肅肅しゅくしゅくとしてよる きんちうとをいだ
寔命しょくめいあざむかず

石川忠久『新釈漢文大系 第110巻 詩経(上)』(明治書院、1997年) 國風・召南・小星 pp.60-62

続く「白骨不覆」をネットで検索すると、『文選』の潘岳「関中詩」の注に引く「古出夏北門行」のフレーズが出てくるが、断片しか残っていないようで、詳細不明。

[……]
哀此黎元,無罪無辜。
〈孝經鉤命決曰:天有顧眄之義,受圖于黎元。孔安國尚書傳曰:黎,眾也。高誘戰國策注曰:元元,善也。毛詩曰:無罪無辜,讒口嗷嗷。〉
肝腦塗地,白骨交衢。
〈檄蜀文曰:肝腦塗中原。漢書曰:一敗塗地。古出夏北門行曰:白骨不覆,疫癘淫行。魏許昌碑表曰:白骨既交,橫於曠野。〉
夫行妻寡,父出子孤。
〈鄭玄孝經注曰:五十無夫曰寡。禮記曰:少而無父謂之孤。〉
俾我晉民,化為狄俘
〈芳于切。其七。詩曰:覆俾我悖。賈逵國語注曰:伐國取人曰俘。〉
[……]

文選 > 巻二十 > 潘安仁・關中詩

[……]これらの表現の源をたずねてみると、古楽府にゆきあたる。潘岳「關中詩」で『文選』李善注は「古出夏北門行」の「白骨不覆、疫癘淫行」を引いている。前後が残されていない断片なので、全体の内容を把握できないが、建安詩に先立つ(同時期の可能性もある)同様の表現と考えられる。[……]

道家春代「王粲の『七哀詩』と建安詩」『中国中世文学研究(24)』広島大学文学部中国中世文学研究会、1993年

公開:2019.12.02 更新:2022.03.27

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