「虎嘯龍吟」に登場する古典 ⑦ 31〜35話(軍師連盟 73〜77)
中国ドラマ「三国志〜司馬懿 軍師連盟〜」(原題:第一部「大軍師司馬懿之軍師聯盟」第二部「虎嘯龍吟」*注)の台詞に引用される故事・詩などの出典を調べた。赤枠は本編の字幕より引用。
*注:日本語字幕版は「虎嘯龍吟」1話を43話とし、全話連番。
目次
- 虎嘯龍吟 31話(軍師連盟 73話 司馬懿の嘘)
- 虎嘯龍吟 32話(軍師連盟 74話 何晏と曹爽)
- 虎嘯龍吟 33話(軍師連盟 75話 私兵の証拠)
- 虎嘯龍吟 34話(軍師連盟 76話 三つ巴の争い)
- 虎嘯龍吟 35話(軍師連盟 77話 夏侯徽の失踪)
虎嘯龍吟 31話(73話「司馬懿の嘘」)
『詩経』衛風「木瓜」より
屋敷の氷箱から氷を取り出す侯吉の鼻歌。かつて、軍師連盟6話でも侯吉が歌っていた。
投之以木桃
报之以琼瑶
公子
这先帝想得太周到了
这个冰鉴太好了
大夏天的喝上一碗冰镇梅子汤
肯定美滋滋的
来桃をもってこれに投ずれば
美しき玉をもってこれに報ず
若様 先帝には感謝せねば
氷箱のおかげで
夏に冷たい酸梅湯が飲めます
お気に召すはずです どうぞ
投我以木瓜 報之以瓊琚
匪報也 永以爲好也投我以木桃 報之以瓊瑤
匪報也 永以爲好也投我以木李 報之以瓊玖
匪報也 永以爲好也[……]
我に投ずるに木桃を以てす 之に報ゆるに瓊瑤を以てす
匪れ報いたり 永く以て好を爲さん
[……]通釈 [……]私に木桃を投げてくれたから、美しい瓊瑤でこれに答えよう。これできまりさ。未永く仲良く暮らそう。[……]
(語釈より)〇匪報也「匪」は否定詞でとるよりも語助詞でとった方がつながりが自然である。彼れ。
石川忠久『新釈漢文大系 第110巻 詩経(上)』(明治書院、1997年) 衛風・木瓜 p.178
虎嘯龍吟 32話(74話「何晏と曹爽」)
曹操「歩出夏門行・神亀雖寿」より
呉の戦に出征することになった司馬懿が、厩で馬に飼葉をやりながら語りかける。
日本語字幕では意訳されているが、軍師連盟21話にも登場した曹操の詩の一節。
老骥伏枥 志在千里
又要一起出征了お前も老いたが
まだ1000里は走れるな
また出陣だぞ
神龜雖壽
猶有竟時
騰蛇乘霧
終爲土灰
老驥伏櫪
志在千里
烈士暮年
壯心不已
盈縮之期
不但在天
養怡之福
可得永年
幸甚至哉
歌以詠志[……]
老驥櫪に伏するも
志は千里に在り
[……]老驥 年をとった駿馬。底本は「驥老」。『詩紀』に従って改める。
櫪 かいば桶、また馬小屋。めでたき亀は長命とはいえ、命の尽きる時は来る。
天翔る龍は霧に乗るとも、ついには土塊に帰す。
老いたる名馬は厩に伏す身になろうとも、その意気は千里を駆け巡る。
老境を迎えた丈夫の、猛き心は衰えない。
[……]川合康三編訳『曹操・曹丕・曹植詩文選』(岩波文庫、2022年) 步出夏門行(神龜雖壽) pp.61-73
『史記』高祖本紀/『漢書』高帝紀より
屋敷で五石散を片手に悠然としている何晏。「運籌帷幄之中、決勝千里之外」は劉邦が張良を評した言葉より。なお『史記』では「運籌策帷帳之中、決勝於千里之外」という表現である。
(丁谧)
国家正在两面作战
何驸马此时还有如此闲情(何晏)
丁尚书不闻
运筹帷幄之中
决胜千里之外(丁謐)
2つの戦の最中だというのに
のんきなことだ(何晏)
“謀を帷幄の内で運らし
勝ちを千里の外に決す”
帝置酒雒陽南宮。上曰:「通侯諸將毋敢隱朕,皆言其情。吾所以有天下者何?項氏之所以失天下者何?」高起、王陵對曰:「陛下嫚而侮人,項羽仁而敬人。然陛下使人攻城略地,所降下者,因以與之,與天下同利也。項羽妒賢嫉能,有功者害之,賢者疑之,戰勝而不與人功,得地而不與人利,此其所以失天下也。」上曰:「公知其一,未知其二。夫運籌帷幄之中,決勝千里之外,吾不如子房;填國家,撫百姓,給餉餽,不絕糧道,吾不如蕭何;連百萬之眾,戰必勝,攻必取,吾不如韓信。三者皆人傑,吾能用之,此吾所以取天下者也。項羽有一范增而不能用,此所以為我禽也。」群臣說服。
帝が雒陽の南宮で酒宴を催した。主上は言った。「通侯・諸将はあえて朕に隠しだてしないで、みなその真情を言え。吾が天下を手に入れた所以のものは何か。項氏が天下を失うた所以のものは何か。」高起と王陵が答えて言った。「陛下は人をあなどりさげすまれますのに、項羽は情ぶかくて人を敬います。しかるに陛下は城や土地を人に攻略させて、降した所をその人に与え、天下の人と利を共になさいます。項羽は賢を妬み能を嫉み、功労ある者を害み、賢者を疑い、戦勝しても人に功を譲らず、地を得ても人に利を与えません。これが天下を取ることに失敗した所以であります。」主上、「公はその一を知って、まだその二を知らない。いったい計りごとを帷幄の中に運らし、勝利を千里の外に決することでは、吾は子房に及ばない。国家を鎮め、百姓を撫り、兵粮を供給し、糧道を絶たぬことでは、吾は蕭何に及ばない。百万の衆を連ね、戦えばかならず勝ち、攻めればかならず取ることでは、吾は韓信に及ばない。この三人はいずれも傑物であるが、吾はこれを用いることができる。このことこそ吾が天下を取ることのできた所以である。項羽には一人笵増あるのみで、しかもこれを用いることさえできなかった。これが我に捕われた所以である。」群臣はこのことばに悦服した。
小竹武夫訳『漢書 上巻 帝紀 表 志』(筑摩書房、1977年) 高帝紀第一下 p.19
虎嘯龍吟 33話(75話「私兵の証拠」)
『荘子』山木篇より
司馬家の叛意の証拠を突き止めようとする何晏が丁謐に語る。
螳螂捕蝉 黄雀在后
你想啊
他司马家要是发现一个死士失踪
他急是不急呀
打草就是为了要惊蛇蝉を狙う蟷螂は
背後の黄雀を知らぬ
私兵の行方が知れぬと
なれば—
司馬家は?
藪をつついたのは
蛇を出すためだ
螳螂捕蝉,黄雀在后 táng láng bǔ chán, huáng què zài hòu
〈成〉カマキリがヒワにねらわれているのも知らずに,セミを捕らえようとしている;
〈喩〉目前の利益に目がくらんで,災いが近づきつつあるのに気がつかない(こと).『中日辞典(第3版)』(小学館、2016年)
莊周遊乎雕陵之樊。覩一異鵲自南方來者。翼廣七尺、目大運寸、感周之顙而集於栗林。莊周曰、此何鳥哉。翼殷不逝、目大不覩。蹇裳躩步、執彈而留之。覩、一蟬方得美蔭而忘其身、螳蜋執翳而搏之、見得而忘其形。異鵲從而利之、見利而忘其眞。莊周怵然曰、噫物固相累、二類相召也。捐彈而反走。虞人逐而誶之。[……]
通釈 ある日、荘子が雕陵という栗園の垣をめぐらした中を散歩していると、南の方から一羽の見なれぬかささぎが飛んで来るのが目にとまった。[……]すそをまくりあげ、足早に近寄り、弾き弓を手にしてこれを射とめようとうかがった。その時ふと見ると、一匹の蟬が心地よさそうな木蔭にとまって、わが身を忘れたように鳴いている。そしてそのかたわらには、一匹のかまきりが葉かげに身をかくしながらこの蟬を捕らえようとしており、それに気をとられて自分の身を忘れている。そこへ例の見なれぬかささぎは目をつけて、これに乗じてかまきりを捕らえようとし、そのことに夢中になって、自分の身のことを忘れ、自身が荘子にねらわれていることも知らずにいる。荘子はこれを見てはっと驚き、「ああ、すべての物は元来互いにわずらわし合い、利と害とは互いに招き合っているのだ。恐ろしいことだ。」と言い、弾き弓をうち捨てて逃げ帰った。すると栗林の番人は荘子が栗を盗んだと思い、後を追いかけてきてののしった。[……]
阿部吉雄・山本敏夫・市川安司・遠藤哲夫『新釈漢文大系 第8巻 荘子(下)』(明治書院、1967年) 山木第二十 pp.545-546
『論語』季氏篇より
司馬懿の私兵を暴くために蜀討伐を装って出陣した曹爽が、夏侯玄に責められるが、真の敵は司馬懿だと主張する。軍師連盟4話や6話に登場した「季孫の憂いは蕭牆の内に在り」に基づく表現か。
(曹爽)
表弟 你可知道
我们现在真正的敌人是谣(夏侯玄)
大将军领兵伐蜀
到如令连故人是谁都不知道了吗(曹爽)
大祸起于萧墙之内(曹爽)
従兄弟であろう
我々にとって
真の敵は誰だと思う?(夏侯玄)
蜀討伐に来ておいて
今さら何を?(曹爽)
災いとは内輪で起こるものだ
季氏、将に顓臾を伐たんとす。[……]夫れ是くの如し、故に遠人服せざれば則ち文徳を修めて以てこれを来たし、既にこれを来たせば則ちこれを安んず。今、由と求とは夫の子を相け、遠人服せざれども来たすこと能わず、邦分崩離析すれども守ること能わず、而して干戈を邦内に動かさんことを謀る。吾れ恐る、季孫の憂いは顓臾に在らずして蕭牆の内に在らんことを。
〔魯の〕季氏が顓臾の国を攻め取ろうとしていた。[……]そもそもこういう次第だから、そこで遠方の人が従わないばあいは、〔武には頼らないで〕文の徳を修めてそれをなつけ、なつけてからそれを安定させるのだが、今、由(子路)と求とはあの方(季氏)を輔佐していながら、遠方の人が従わないでいるのになつけることもできず、国がばらばらに分かれているのに守ることもできない、それでいて国内で戦争を起こそうと企てている。わたしは恐れるが、季孫の心配ごとは顓臾にはなくて、〔身近い〕屛の内がわにあるだろう。」
*顓臾——魯に保護されていた小国の名。季(孫)氏は魯の公室をおかして自分の領地をひろげていた。[……]*屛の内がわに……——国内について、公平と和合と安定をつとめるのでなければ、内乱が起こるぞということ。
金谷治訳注『論語』(岩波文庫、1963年) 季氏第十六 pp.324-329
【蕭▽牆▽之憂・蕭▽牆▽之患】ショウショウのうれい
身近に起こる心配事。身内の内輪もめや内乱など。[論・季氏]『全訳 漢辞海(第四版)』(三省堂、2017年)
『易経』繋辞伝より
捕らえた司馬懿の私兵を密かに拷問している曹爽が、夏侯玄に忠告する。孔子の言葉とされる「臣 密ならざれば則ち身を失う」が引用されているが、日本語字幕では意訳されている。
(夏侯玄)
想不到你的官署
还有这样的地方(曹爽)
臣不密 失其身(夏侯玄)
官署に このような場所が
あるとは(曹爽)
他言すれば命はないぞ
(九)不出戶庭。无咎。子曰、亂之所生也、則言語以爲階。君不密則失臣、臣不密則失身、幾事不密則害成。是以君子愼密而不出也。
戶庭を出でず。咎无し。子曰く、亂の生ずる所は、則ち言語以て階と爲す。君密ならざれば則ち臣を失ひ、臣密ならざれば則ち身を失ひ、幾事密ならざれば則ち害成る。是を以て君子は愼密にして出ださざるなり、と。
通釈 「節」卦の初九の爻辞に、「戸庭を出でず。咎无し」とある。先生(孔子)がいわれるのには、乱逆が生ずるのは、みな言語に由来し、言語が階悌となって広がってゆくものである。君主が言語を慎重にしないと臣下に背かれ失う結果となるし、臣下が言語を慎重にしないと禍害をこうむってその身を失う結果となる。重要で微妙なことがらについては言葉を発するに慎重に扱わないと、妨害があらわれ禍害をうけることになる。だから君子は言語に慎重かつ厳密にしなければならないのである。
今井宇三郎・堀池信夫・間嶋潤一『新釈漢文大系 第36巻 易経(下)』(明治書院、2008年) 繫辭上傳 pp.1459-1460
張衡『東京賦』より
曹爽の新しい大将軍府の楼から洛陽の街を見下ろす何晏。後漢の文人張衡が洛陽を描いた賦の一節。
芙蓉覆水 秋兰被涯
这洛阳城的夏秋之交确实是绝美
“芙蓉 水を覆い
秋蘭 岸を被う”
洛陽の夏と秋は美しい
[……]其內則含德章臺、天祿宣明、溫飭迎春、壽安永寧。飛閣神行、莫我能形。濯龍芳林、九谷八溪。芙蓉覆水、秋蘭被涯。渚戲躍魚、淵游龜〓。永安離宮、脩竹冬靑、陰池幽流、玄泉洌淸。鵯鶋秋棲、鶻鵃春鳴、鴡鳩麗黃、關關嚶嚶。於南則前殿靈臺、龢驩安福。謻門曲榭、邪阻城洫、奇樹珍果、鉤盾所職。西登少華、亭候修勑。九龍之內、寔曰嘉德。西南其戶、匪雕匪刻。我后好約。乃宴斯息。[……]
通釈 [……](洛陽宮)宮殿の正門内にある御殿は、含徳・章台・天祿・宣明・温飭・迎春・寿安・永寧の八殿。八殿をつなぐ高いかけはしの複道があり、その中を行幸されて、我が天子自身が人目に現れなさることはできない。また北宮近く、濯龍と呼ぶ池もあり、芳林と呼ぶ苑もあり、それに九谷、八溪と称する養魚の池もある。荷の花は水面をおおい、秋蘭は岸辺一面に密生する。魚は跳ねて渚にたわむれ、亀は淵にゆうゆうあそぶ。北宮の東北にある、永安という離宮には、長い竹が冬も青々と枯れもせず、池の水や伏流があり、地の底からわく泉は、冷たく澄んでにごりがない。みやま烏は秋には巣ごもりし、いかるがは春には来て鳴き、みさごも来れば、うぐいすも来て、あるいはカンカンあるいはホーホーとさえずりあう。南宮では、正殿と霊台と呼ぶ殿があり、また徳陽殿の南にある二つの御殿は、龢驩、安福と呼ぶ。そして氷室の門、曲折してつらなる堂とが、ななめに城下の池によりそって道を形づくる。見たこともない樹木、珍しい果物があり、これらは小苑の役人が管理する。西園に至り、小華という山に登ると、亭候があり、きれいに整備されている。九龍と呼ぶ門の中に見える建物は、これを嘉徳殿という。「その戸を、あるいは西に、あるいは南に開く。」とうたう詩と全く同じ作り、そこには、彫刻の一つさえなく質素なもの。我が君明帝は、険約をよろこばれ、この宮殿に、おちつかれてくつろがれる。[……]
中島千秋『新釈漢文大系 第79巻 文選(賦篇)上』(明治書院、1977年) 東京賦(張衡) pp.148-149
※龜〓:〓は虫偏に雋。
虎嘯龍吟 34話(76話「三つ巴の争い」)
『献帝春秋』(『三国志』魏書董卓伝の注に引く)他より
曹爽・夏侯玄と司馬家の争いを憂う夏侯徽。霊帝の時代に流行った童謡。董卓の専横を予言したものだが、洛陽の東北にある北邙山(王侯の墓所がある)はドラマ作中で死士を密かに養成していた場所でもあり、夏侯徽が感づいているのかと司馬師が案じる流れに繋がっている。
侯非侯
王非王
千乘万骑上北邙
这些争斗
到底是图什么呢
“侯は侯にあらず
王は王にあらず”
“千乗万騎 北邙に走る”
何のために争うのですか
張璠漢紀曰:帝以八月庚午爲諸黃門所劫,步出穀門,走至河上。諸黃門旣投河死,時帝年十四,陳留王年九歲,兄弟獨夜步行欲還宮,闇暝,逐螢火而行,數里,得民家以露車載送。辛未,公卿以下與卓共迎帝於北芒阪下。
獻帝春秋曰:先是童謠曰:「侯非侯,王非王,千乘萬騎走北芒。」卓時適至,屯顯陽苑。聞帝當還,率衆迎帝。
陳壽撰、裴松之注《三國志 一 魏書〔一〕》(中華書局,1982年) 董二袁劉傳第六 p.171
張璠の『漢紀』にいう。少帝は〔光熹元年(一八九)〕八月庚午の日(二十七日)、宦官どもに脅迫され、徒歩で穀門を出て、黄河のほとりまで逃走した。宦官どもが、黄河に身を投げて自殺してから、当時十四歳だった少帝と、九歳の陳留王の兄弟は、夜間二人だけで歩いて御所に戻ろうとした。真暗闇のなかを、蛍の光を追って歩き、数里行ったところで、民家に出会い、大八車にのせられ送られた。辛未の日(二十八日)、三公九卿以下群臣は董卓とともに帝を北芒阪の下で迎えたのである。
『献帝春秋』にいう。これよりさき、「侯は侯にあらず、王は王にあらず、千乗万騎北芒に走る」という童謡が歌われた。董卓はそのときちょうど到着したばかりで、顕陽苑に駐屯していた。少帝が帰還するはずだと聞くと、軍勢をひきいて帝を出迎えた。陳寿、裴松之注、今鷹真・井波律子訳『正史 三国志 1 魏書Ⅰ』(ちくま学芸文庫、1992年) 董二袁劉伝 第六 pp.411-412
靈帝之末、京都童謠曰、侯非侯、王非王、千乘萬騎上北芒。案到中平六年、史侯登躡至尊。獻帝(末)〔未〕有爵號、爲中常侍段珪等數十人所執、公卿百官皆隨其後、到河上、乃得來還。此爲非侯非王上北芒者也。
靈帝期の末、都の童謡が、「侯、侯ならず。王、王ならず。千乗万騎、北芒へ行く」といっていた。考えてみると中平六(一八九)年に、史侯は登って帝位に即いた。(このとき)獻帝はまだ爵號を持っていなかった。中常侍の段珪たち数十人に捕らえられ、公卿・百官がみなその後に従い、黄河の辺まで来たところで、ようやく(解放されて)洛陽へ戻ることができた。これが「侯ならず、王ならず、北芒へ行く」ということである。
渡邉義浩主編『全譯後漢書 第七册 五行志』(汲古書院、2012年) 卷十三 五行一 謡 pp.84-85
公開:2022.07.23 更新:2022.08.02