「虎嘯龍吟」に登場する古典 ① 1〜5話(軍師連盟 43〜47)

中国ドラマ「三国志〜司馬懿 軍師連盟〜」(原題:第一部「大軍師司馬懿之軍師聯盟」第二部「虎嘯龍吟」*注)の台詞に引用される故事・詩などの出典を調べた。赤枠は本編の字幕より引用。
*注:日本語字幕版は「虎嘯龍吟」1話を43話とし、全話連番。

目次

虎嘯龍吟 1話(43話 司馬懿、参内す)

曹丕そうひ「與朝歌令吳質書(朝歌令ちょうかれい呉質ごしつに与うるの書)」より

病で朦朧とした曹丕は、かつて親友の呉質に宛てた文を思い出せない。軍師聯盟38話39話にも登場した。

(曹丕)
白日既匿 继以朗月
同乘并载
以游后园

后面是什么来着

(郭照)
舆轮徐动
宾从无声
今果分别 各在一方

(曹丕)
“夜になれば 月明かりで”
“共に車に乗り
 裏の庭園に遊んだ”

このあとは?

(郭照)
“車輪は回り
 付き従う音もなし”
“今や 互いに遠く離れゆく”

五月十八日、丕白、季重無恙。塗路雖局、官守有限。願言之懷、良不可任。足下所治、僻左、書問致簡、益用增勞。每念昔日南皮之遊、誠不可忘。旣妙思六經、逍遙百氏、彈碁間設、終以六博。高談娛心、哀箏順耳。馳騁北場、旅食南館、浮甘瓜於淸泉、沈朱李於寒水。白日旣匿、繼以朗月、同乘竝載、以遊後園。輿輪徐動、參從無聲、淸風夜起、悲笳微吟。樂往哀來、愴然傷懷。余顧而言、斯樂難常、足下之徒、咸以爲然。今果分別、各在一方。元瑜長逝、化爲異物。每一念至、何時可言。
方今蕤賓紀時、景風扇物、天氣和暖、衆果具繁。時駕而遊、北遵河曲。從者鳴笳以啓路、文學託乘於後車。節同時異。物是人非。我勞如何。今遣騎到鄴、故使枉道相過。行矣自愛。丕白。

五月十八日。丕が申しあげます、季重どの、お変わりありませんか。近くにあるものの、おかみの仕事の関係上、制約があってお訪ねできません。お慕いするには誠に耐えがたいものがあります。[……]私はいつも過日の南皮での楽しい遊びのことを心に浮かべては、忘れられずにおります。[……]太陽が沈むと、月の明かりが輝きます。馬車に二人で乗って、後園へと出かけました。車輪が静かに動きだし、付き従う者は誰も声をたてず、清らかな夜風を身に浴びながら、咽ぶような葦笛あしぶえの悲しげな音色がかすかに聞こえます。やがて楽しさは消え去り哀しみがおとずれて、心は沈み気は滅入ってしまいました。私が顧みて、「この楽しみを保ち続けることは難しいでしょう」と言いますと、あなた方は皆そのとおりと言われました。今その言葉の如く、私たちはそれぞれあちらとこちらとに離ればなれになってしまいました。元瑜は此の世をとこしえに去って逝かれ、あの世の人となってしましました。この思い出が蘇ってくる度に、その心を述べようと思うのですが、いったいいつになったら語ることができるのでしょうか。[……]

竹田晃『新釈漢文大系 第83巻 文選(文章篇)中』(明治書院、1998年) 與朝歌令吳質書(魏文帝) pp.240-242

曹操そうそう短歌行たんかこう」より

第一部にも頻出した曹操の代表作「短歌行」の一節。

想不到 文治武功
还是输给了爹爹一筹
譬如朝露
去日苦多

朕年少的时候
只是想陪父亲平定天下
可即位之后才知道
这皇宫比战场
更加消磨人的心力
可惜
朕一生的文武抱负
却困在了帝王家

詩や武功 政に至るまで
父には何一つ勝てぬ
“朝露の如く”
“はかなく過ぎし日々”

父に従って
天下を取ることが夢だった
だが 皇宮に住むと
戦場にいるよりも
心と体が むしばまれる
皇帝よりも
文人や武人として
名を成したかった

對酒當歌 人生幾何
譬如朝露 去日苦多
慨當以慷 憂思難忘
何以解憂 唯有杜康
[……]

さけたいしてはまさうたふべし。人生じんせい幾何いくばくぞ。
たとへば朝露てうろごとし。去日きょじつはなはおほし。
がいしてまさもっかうすべし、憂思いうしわすがたし。
なにもっうれひかん。ただ杜康とかうるのみ。
[……]

通釈 酒を飲んでは大いに歌うべきである。人生はどれだけ続き得るものぞ。それはあたかも朝露のように極めてはかないものである。されば過ぎ去った日はいやに多くても、功業はなかなか成らない。これを思えばなげかずにはいられず、心のうれいも忘れ難い。この憂を消すものはただ酒あるのみ。だから酒に対しては憂を忘れて歌うべきである。[……]

内田泉之助・網祐次『新釈漢文大系 第15巻 文選(詩篇)下』(明治書院、1964年) 楽府二首 短歌行(魏武帝) pp.475-476

曹丕そうひ大牆上蒿行だいしょうじょうこうこう」より

司馬懿を呼び戻すことに漸く同意した後、曹丕が吟じ、郭照が唱和する。かつて甄宓との不幸な婚姻の夜、厩の司馬懿を訪ねたときの台詞であり(軍師連盟8話)、過去を思い出しているという場面か。

(曹丕)
今日乐
不可忘
乐未央
为乐常苦迟
岁月逝
忽若飞

(曹丕・郭照)
何为自苦 使我心

(曹丕)
今宵こよいの楽しみ 忘れられず”
“喜びは遠い”
“楽しみをなすこと常に遅し”
“歳月は飛ぶがごとく過ぐる”
 

(曹丕・郭照)
“自ら苦しみて”
“我が心を痛ます”

[……]
今日楽、
不可忘。
楽未央。
為楽常苦遅、
歳月逝忽若飛。
何為自苦、
使我心悲。

[……]
今日 楽しむ
忘るべからず
楽しみ未だきず
楽しみを為す 常にはなはだ遅し
歳月の逝く 忽として飛ぶが若し
何為なんすれぞみずからを苦しめ
我が心をして悲ましむ

伊藤正文「曹丕詩補注稿(楽府)」(『論集:神戸大学教養部紀要』23、1979年、pp.74-76)

曹丕そうひ「終制」(『三国志』魏書 文帝紀)より

「万歳」を唱える曹真ら近臣に、死を前にした曹丕が語る。実際に曹丕が残した終制(生前に予め葬儀や埋葬について取り決めたもの)の内容。
※『三国志』自体の内容は基本載せていないが、曹丕の思想として好きな一節なので紹介。

万岁
这天下哪有不死之人
不亡之国
不掘之坟

“万歳”か
この世に死なぬ者はおらぬ
滅びぬ国もなく
暴かれぬ墓もない

冬十月甲子,表首陽山東為壽陵,作終制曰:「[……]壽陵因山為體,無為封樹,無立寢殿,造園邑,通神道。夫葬也者,藏也,欲人之不得見也。骨無痛痒之知,冢非棲神之宅,[……]為棺槨足以朽骨,衣衾足以朽肉而已。故吾營此丘墟不食之地,欲使易代之後不知其處。[……]存於所以安君定親,使魂靈萬載無危,斯則賢聖之忠孝矣。自古及今,未有不亡之國,亦無不掘之墓也。喪亂以來,漢氏諸陵無不發掘,至乃燒取玉匣金縷,骸骨幷盡,是焚如之刑,豈不重痛哉!禍由乎厚葬封樹。[……]

陳壽撰、裴松之注《三國志 一 魏書〔一〕》(中華書局,1982年) 文帝紀 pp.81-82

冬十月甲子の日(三日)、首陽しゅよう山の東を指定して寿陵じゅりょう(生前中に作る陵墓)を築き、葬礼の制度を〔あらかじめ〕制定し、述べた、「[……]寿陵は山を利用して本体を作り、土盛りや植樹をすることはならぬ。寝殿(陵の上の正殿)を建て、園邑えんゆう(陵を守るための村落)を作り、神道(墓への道)を通ずることはならぬ。そもそもそうというのはぞう(かくす)であり、人に見られないのを欲する。骨には痛みかゆみといった知覚はなく、塚穴は精神を住まわすすみかではないのだ。[……]棺槨かんかく(内棺と外棺)は骨を朽ちさせ、衣衾いきん(衣服としとね)は肉を朽ちさせるだけのもので充分と考える。したがってわたしは空虚にして生活の場でない地を造営して、代が変わった後にはその場所をわからなくさせたいと考える。[……]君を安んじ親をおちつかせ、万年ののちまで霊魂を危険にさらさない方法を講ずること、それこそが賢人聖者の忠孝である。古代から現代まで、滅亡しない国家は存在しなかったし、また発掘されない墳墓は存在しなかったのである。動乱以来、漢氏の諸陵墓には発掘されないものなく、〔身体にまとう〕玉の匣と〔それを綴る〕金のいとを焼き取るため、骸骨もいっしょに滅び去るに至っている。これは火あぶりの刑であって、いったい激しい痛みを感じないでおれようか。災難は厚葬と土盛り・植樹に原因がある。[……]

陳寿、裴松之注、今鷹真・井波律子訳『正史 三国志 1 魏書Ⅰ』(ちくま学芸文庫、1992年) 文帝紀 pp.194-197

曹丕そうひ燕歌行えんかこう」(其一)より

曹丕が手のひらに記した詩を読む郭照(手に記すのは曹丕郭照の若い頃からの秘密の様式)と、続きを吟じる曹丕
郭照が結婚を決意して飛び出した日、魚に隠されていたメッセージ(軍師聯盟11話)。死後も忘れないという心か。本来は、帰ってこない遠征の夫を思う妻の詩であり、曹丕が涙を流しながら見る幻からすると、司馬懿の帰りを待つ曹丕の心境も表しているように思われる。

(郭照)
忧来思君不可忘

(曹丕)
不觉泪下沾衣裳

(郭照)
“あなたを忘れる時はない”

(曹丕)
“我知らず 涙が流れ”
“衣を濡らす”

秋風蕭瑟天氣涼 草木搖落露爲霜
群燕辭歸雁南翔
念君客遊思斷腸 慊慊思歸戀故鄕
何爲淹留寄他方
賤妾煢煢守空房 憂來思君不敢忘
不覺淚下霑衣裳
 援琴鳴弦發淸商
短歌微吟不能長
明月皎皎照我牀 星漢西流夜未央
牽牛織女遙相望 爾獨何辜限河梁

[……]
賤妾せんせう煢煢けいけいとして空房くうばうまもり、うれひきたりてきみおもひてあへわすれず。
おぼえずなみだくだりて衣裳いしゃううるほすを。
ことげんらせば淸商せいしゃうはっし、短歌たんか微吟びぎんながうするあたはず。
[……]

通釈 秋風もの寂しく吹いて気冷やかに、草木の葉もこぼれ落ちて、露も霜となり、燕はみな南に飛び去り、雁も北から飛び帰る。
 それにあなたのみは旅立ったままお帰りがない。それを思うと腸もたちきられるように悲しい。夫も定めしくよくよと故郷を恋い慕うておられるでしょうのに、なぜ長く滞在して、他国に身を寄せられるのやら。
 わたしは独り寂しく空閨を守っていると悲しくなって来て、あなたのことがどうにも忘れられず、涙がこぼれて衣裳をぬらすのも知らぬありさま。琴を引きよせ、いとをかき鳴らせば、その悲しげな、すんだ音色は、聞くに堪えず、微かにロずさむ歌声も切れぎれにとだえて、長く続けることができない。
 おりから明月の光はきらきらとわが床を照らし、天の川は西に傾いたが、まだ夜明けにはならず、その天の川を隔てて牽牛・織女の二星が遙かに相対している。ああ、この二星に何の罪があって、かくは河に隔てられる身となったのであろう。それはまたわが身の境遇に異ならない。

内田泉之助・網祐次『新釈漢文大系 第15巻 文選(詩篇)下』(明治書院、1964年) 楽府上・魏文帝 楽府二首・燕歌行 pp.478-479

虎嘯龍吟 2話(44話 新しい生活)

番外編:『荀子じゅんし宥坐ゆうざ篇より

司馬懿曹叡に賜った邸宅に置かれた「宥座の器」(原語では「欹器满覆」と言っているが意訳されている)について張春華に説明する。
司馬懿曹叡からの戒めと解説したのみだが、引用後半にある、満ちた状態を維持するための孔子の教えは、ドラマの司馬懿の生き様と重なるようで興味深い。

这叫欹器满覆
不是计时用的
夫人你看
从这个龙头里吐出的水
如果注滿了这个铜盆
铜盆就会倾覆
这件器物
是告诫君子谦受益 满招损
这是当今少年天子
在提醒我 切莫贪心太多呀

いや これは“宥座ゆうざ”だ
見てみよ
竜の口から流れ出た水が
盆に満ちると
傾いて水がこぼれる
過剰に利を得ると
すべて失うという戒めだ
これは若き天子からの
警告であろう
“私利私欲に走るな”と

孔子觀於魯桓公之廟,有欹器焉,孔子問於守廟者曰:「此為何器?」守廟者曰:「此蓋為宥坐之器,」孔子曰:「吾聞宥坐之器者,虛則欹,中則正,滿則覆。」孔子顧謂弟子曰:「注水焉。」弟子挹水而注之。中而正,滿而覆,虛而欹,孔子喟然而歎曰:「吁!惡有滿而不覆者哉!」子路曰:「敢問持滿有道乎?」孔子曰:「聰明聖知,守之以愚;功被天下,守之以讓;勇力撫世,守之以怯,富有四海,守之以謙:此所謂挹而損之之道也。」

中國哲學書電子化計劃 > 荀子 > 宥坐

 《満を戒しめる——宥坐ゆうざの器》
 孔子がの国の桓公の霊廟を拝観したとき、そこに傾いた器があった。孔子は霊廟の係役人に「これは何という器ですか。」と問うたところ、その役人は「これは恐らく坐右の戒しめの器というものでしょう。」と答えた。そこで孔子はいった、「わたくしは聞いたことがあります。坐右の戒しめの器というものは、からっぽのときには傾き、半分ぐらい入ったときにはまっすぐになり、一ぱいに満したときにはひっくりかえるものだそうです。」そこで孔子は弟子たちをふりかえって「水を入れてみなさい。」といった。弟子が水をくんでそのなかに入れてみると、〔はたして〕半分ぐらいでまっすぐになり、一ぱいに満すとひっくりかえり、空っぽになると傾いた。孔子は長い息をはいて歎息すると「ああ、一ぱいに満ちてひっくりかえらないものがどうしてありえよう。〔何事もこの器の戒しめどおりだ。〕」といった。そこで弟子の子路が「しいてお訊ねいたしますが、満ち満ちた状態を維持してゆける方法がありましようか。」と質問すると、孔子はそれに答えて次のようにいった。「聡明聖知——ずばぬけた頭の良さ——を持っていれば愚かなありさまをしてそれを守り、世界中にゆきわたるほどの功績があるときには人に譲るようにしてそれを守り、世の中にひびきわたる勇力があるときには臆病なありさまでそれを守り、世界の財を保有するほどの金持ちであるばあいには人にヘり下る謙虚さでそれを守ってゆく。これがいわゆるおさえて減損する〔——最高の状態にあるときは自分の持つ力をすべて出しきらない——〕やり方である。」と。

金谷治訳注『荀子(下)』(岩波文庫、1962年) 巻第二十 宥坐篇第二十八 pp.295-296

虎嘯龍吟 5話(47話 石亭の戦い)

曹操そうそう短歌行たんかこう」より

司馬懿の幼い孫・司馬柔が詩を暗唱して聞かせるが、途中で忘れ、そこに鍾会がやってくる。これまでにも登場した曹操の「短歌行」。

(司马柔)
对酒当歌
人生几何
譬如朝露
去日苦多
慨当以慷
忧思难忘

难忘 难忘

(钟会)
何以解忧 唯有杜康
青青子衿 悠悠我心
但为君故 沉吟至今

(司馬柔)
酒に向かえば歌うべし
人生 幾ばくぞ
朝露ちょうろのごとく
はかなく過ぎし日々
嘆きて まさに高ぶり
憂いは忘れ難し

憂いを

(鍾会)
憂いを解くは
ただ杜康とこうあるのみ
青々たる 君がえり
悠々たる 我が心
君がために
沈吟ちんぎんし 今に至る

荘子そうじ逍遥遊しょうようゆう篇より

石亭の戦の結果、謹慎となった司馬懿に意見しに訪れた鍾会司馬昭が呼び止め、司馬懿は好機を待っていると推測する。

钟大哥
你觉得我爹是真的无心兵权吗
[……]
就这次这点兵权我爹才不稀罕呢
庄子说 风之积也不厚
则其负大翼也无力

我爹的万里长风 尚未到

父は本当に
兵権を欲していないと?
[……]
今の父には兵権は不用です
“風の積むも厚からざれば
 大鵬の翼 無力なり”

風はまだ父に吹いていない

北冥有魚、其名爲鯤。鯤之大 不知其幾千里也。化而爲鳥。其名爲鵬。[……]鵬之徙於南冥也、水擊三千里、摶扶搖而上者九萬里、[……]且夫水之積也不厚、則負大舟也無力。[……]風之積也不厚、則其負大翼也無力。故九萬里、則風斯在下矣。而後乃今培風、背負青天、而莫之夭閼者。而後乃今將圖南。

[……]かぜむことあつからざれば、すなは大翼だいよくふにちからし。[……]

通釈 北の海に鯤という名の魚がいた。鯤の大きさは幾千里あるか分からないほどだ。この魚が変化して鵬という名の鳥になった。[……]鵬が南の海に移ろうとするとき、水は三千里にわたって波立ち荒れる。鵬はそのとき起る旋風つむじかぜに羽ばたいて九万里も上にのぼり、[……]さて、水の深さが足りないと、大きな舟を負い浮かべたときに、それをささえる力がない。[……]風の厚さが足りないと、大きな翼を負い浮かべようにも支える力がない。故に九万里のぼるとすれば、風(大気)が翼の下にあるはずだ。そこで始めて風に乗る。青空を背にし、邪魔者がなく、そこで始めて南を指して進もうとする。

阿部吉雄・山本敏夫・市川安司・遠藤哲夫『新釈漢文大系 第7巻 老子・荘子(上)』(明治書院、1966年) 内篇・逍遙遊第一 pp.137-139

兵法へいほう三十六計さんじゅうろっけい」より

日本語字幕では意訳されているが、孟達への書を敢えて魏に読ませるという諸葛亮の策に馬謖が「調虎離山ちょうこりざん」の計(敵を誘い出し有利な地から引き離して戦う計略)ですね、と応え、それを受けて諸葛亮司馬懿を虎に喩える。ちなみに第二部の原題「虎嘯龍吟」でも司馬懿が虎である。
古今の計略を36の熟語にまとめた「兵法三十六計」は有名だが、正式な(?)兵書ではなく、著者不明の民間で読まれる存在だそうである。

(马谡)
调虎离山 学生这就去办
就用普通的信使
要是魏国连这点本事都没有
丞相就可以高枕无忧了

(诸葛亮)
幼常 切记不可托大
司马懿要是得了兵权
如龙乘云 虎得风
我们在调虎也是在养虎

(馬謖)
おびき出すのですね
すぐに使者を送り出します
魏が罠にかかれば
丞相のご懸念も一掃できます

(諸葛亮)
幼常ようじょう
心してかかるのだぞ
兵権を得た司馬懿しばい
風をまとい威勢を増す虎となるやも
おびき出した虎に
かまれぬようにせねば

调虎离山 diào hǔ lí shān

事をうまく運ぶために,策を練って相手を本拠地からおびき出す.

『超級クラウン中日辞典』(三省堂、2008年)

第十五計「調ちょうざん」(とら調あしらってやまはなれしむ)

虎をだまして山からおびき出す。敵を有利な地から誘導して撃つ。

虎穴こけつらずんば虎子こしを得ず」の成句がある通り、虎は山奥にひそんでいて、なかなか人前にその姿を現しません。そのようなときは、利益をちらつかせて山奥から誘い出し、その虚をつく必要があります。[……]さすがの虎も、山から出てしまえば、その威力は半減するのです。

てんちてもっこれくるしめ、ひともちいてもっこれさそう。けばなやたればかえる。

天以困之、用人以誘之。往蹇来返。

自然の条件に恵まれるのを待って敵を苦しめ、間者を使って敵を誘導する。無理に敵の根拠地にいこうとすればかえって悩むことになり、思いとどまって自分本来の場所に帰り来たれば、安泰な場所に帰ったという安心感を得ることができる。

相手が天然の要害にこもっているときは攻めづらいものです。そのようなときは、こちらが有利となるような自然(地形や気象)の条件が整うのを待つ必要があります。また、そのような条件を作り出すため、人(間者)を使って敵を誘い出さなければなりません。[……]

湯浅邦弘『ビギナーズ・クラシックス 中国の古典 孫子・三十六計』(角川文庫、2008年)218〜220

孟子もうし梁恵王章句りょうけいおうしょうく上篇より(?)
孟子もうし公孫丑章句こうそんちゅうしょうく下篇より

曹真らの策により孟達の討伐に抜擢された司馬懿が拒否しようとする。

(辟邪)
司马公你这是不想立功了

(司马懿)
非不为也 实不能也
下官只领过两次兵 从未实战
这孟达文武双全 久据新城
又有蜀国做后援
实是占尽了天时地利人和
若是派下官前去
恐误了国之大事

(辟邪)
立身出世の欲はないのですか

(司馬懿)
欲はあっても
才がありませぬ

私では実戦の経験が足りませぬ
孟達もうたつは知恵の回る猛将で
蜀の後ろ盾もありましょう
時の運も地の利もある
私が出陣しては
大事を誤ります

「欲はあっても 才がありませぬ」と意訳されている「非不为也 实不能也」は、「しない(不為)のではなく、できない(不能)のだ」という理屈。ここでは単に一般的な表現かもしれないが、『孟子』梁恵王章句上篇に、「不為」と「不能」の違いとは、という内容がある。

曰、不爲者與不能者之形、何以異、曰、挾大山以超北海、語人曰我不能、是誠不能也、爲長者折枝、語人曰我不能、是不爲也、非不能也、故王之不王、非挾太山以超北海之類也、王之不王、是折枝之類也、老吾老、以及人之老、幼吾幼、以及人之幼。天下可運於掌。[……]

王がたずねられた。「しないのと、できないのとでは、具体的にはどう違うのだろう。」孟子はこたえられた。「たとえて申せば、泰山たいざん小脇こわきにかかえて渤海ぼっかいをとびこえることは、自分にはとてもできないと人にいうのは、これこそ本当にできないのです。目上の人に腰をまげてお辞儀じぎをすることは、〔礼儀でもあり、たやすいことでもあるのに〕自分にはとてもできないと人にいうのは、これはできないのではなくて、しないのです。ですから、王様が〔仁政を施かれて〕王者となられないのは、泰山を小脇にかかえて渤海をとびこえようとするたぐいではなくて、目上の人に腰をまげてお辞儀をする方のたぐいなのです。[……]自分の父母を尊敬するのと同じ心で他人の父母も尊敬し、自分の子弟を可愛がるのと同じ心で他人の子弟も可愛がる。さすれば、広い天下もちょうど手のひらに物でものせてころがすように、思うがままに治めていけるものです。[……]

内野熊一郎『新釈漢文大系 第4巻 孟子』(明治書院、1962年) 梁惠王章句上 pp.56-58

日本語字幕では短縮されているが、同じく『孟子』に由来する「天の時、地の利、人の和」はよく登場する表現で、これ以前にも使われていたかもしれない。

孟子曰、天時不如地利地利不如人和。三里之城、七里之郭、環而攻之而不勝。夫環而攻之、必有得天時者矣。然而不勝者、是天時不如地利也。城非不高也。池非不深也。兵革非不堅利也。米粟非不多也。委而去之、是地利不如人和也。

通釈 孟子がいうに、「国君がすべて事をなす場合には、天の時(天然自然の現象のその時々の変移や状態。たとえば四季・晴雨・寒暑・昼夜・方角など)のい時を選ぶことも大切だが、それよりも地の利(土地の自然状態が都合よくなっていること。たとえば山河の険、城池の堅固さ)の宜いのを選ぶことには及ばない。しかし、その地の利の宜いということも、一国中の人心がよく和合し固く団結していることには、なお及ばないものである。一国民心の和合しているということは、君が国事を行なう場合に、このように、最も大切な条件である。[……]

語釈
天時 四季・晴雨・寒暑・風水・昼夜・方角など、すべて天然自然の現象のその時々の変移や状態を言う。[……]
地利 山河の険とか、城池の深さとか、すべて攻められ難い地勢の有利さのあることを言う。
人和 民が皆心を合わせ一致団結して国のためにつくすことをいう。
[……]

内野熊一郎『新釈漢文大系 第4巻 孟子』(明治書院、1962年) 公孫丑章句下 pp.121-122

公開:2022.06.12 更新:2022.06.17

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