「軍師連盟」に登場する古典 ⑤ 21〜25話

中国ドラマ「三国志〜司馬懿 軍師連盟〜」(原題:第一部「大軍師司馬懿之軍師聯盟」、第二部「虎嘯龍吟」)の台詞に引用される故事・詩などの出典を調べた。赤枠は本編の字幕より引用。

目次

軍師聯盟 21 孫権との同盟

論語ろんご子罕しかん篇より

関羽に対する策を曹操に進言した後、囚われている楊修に最後に会いたいと願い出る司馬懿の言。また、司馬懿が去った後、老いを自覚する曹操が呟き、賈逵に尋ねる。

逝者如斯夫
臣一路行来 没有敌人
看见的 具有朋友和师长

“人生は過ぎゆくもの”
私には敵など おりませぬ
友や先達せんだつ
会いたいだけなのです

逝者如斯夫
他的话
你以为如何
[……]
其实
人人都看得出
孤已无法攻克江东
一统天下了

“人生は過ぎゆくもの”
あやつの話を
どう思う?
[……]
本当は皆
見抜いておるのだな
もはや私に
天下統一など
成せるはずがないと

子在川上曰、逝者如斯夫、不舍晝夜、

子、川のほとりに在りてのたまわく、く者はくの如きか。昼夜をめず。

先生が川のほとりでいわれた、「すぎゆくものはこの〔流れの〕ようであろうか。昼も夜も休まない。」

金谷治訳注『論語』(岩波文庫、1963年) 子罕第九 p.176

曹操そうそう却東西門行きゃくとうざいもんこう」、「歩出夏門行ほしゅつかもんこう・神亀雖寿」より

楊修の助命嘆願をする曹植を退けた後、曹操が一人で述懐し、吟じる。曹操自身の詩の一節。

戎马不解鞍
铠甲不离傍

一年年 兴师征战
一年年 无功而返
孤今年 六十五喽
神龟虽寿 犹有竟时
老骥伏枥 志在千里

戎馬じゅうば くらを解かず
鎧甲がいこう かたわらを離れず

何年も 兵を挙げ
戦に赴いてきた
何年も
功を成せず 戻った
私は 今年で65歳になる
神亀しんき寿じゅなりといえども
なお終わる時 あり
駿馬しゅんめ うまやに伏すも
志は千里に在り

鴻雁出塞北
乃在無人鄕
舉翅萬餘里
行止自成行
冬節食南稻
春日復北翔
田中有轉蓬
隨風遠飄揚
長與故根絕
萬歲不相當
奈何此征夫
安得去四方
戎馬不解鞍
鎧甲不離傍

冉冉老將至
何時反故鄕
神龍藏深泉
猛獸步高岡
狐死歸首丘
故鄕安可忘

[……]
奈何いかん征夫せいふ
いずくんぞ四方しほうくを
戎馬じゅうば くらかず
鎧甲がいこう かたわらをはなれず

冉冉ぜんぜんとしていはまさいたらんとし
いずれのとき故郷こきょうかえらん
[……]

[……]
どうしたものか、この兵士は。地の果てへ行くことなどできようか。
いくさの馬から鞍をはずす時とてなく、よろいを身辺から遠ざけることもない。
しだいしだいに老いは迫り、いつになったら国に帰られよう。
[……]

川合康三編訳『曹操・曹丕・曹植詩文選』(岩波文庫、2022年) 卻東西門行 pp.70-73

神龜雖壽
猶有竟時
騰蛇乘霧
終爲土灰
老驥伏櫪
志在千里
烈士暮年
壯心不已
盈縮之期
不但在天
養怡之福
可得永年
幸甚至哉
歌以詠志

神龜しんき じゅなりといえど
くるとき
[……]
老驥ろうきれきふくするも
こころざし千里せんり
[……]

老驥 年をとった駿馬。底本は「驥老」。『詩紀』に従って改める。
櫪 かいば桶、また馬小屋。

めでたき亀は長命とはいえ、命の尽きる時は来る。
天翔あまがける龍は霧に乗るとも、ついには土塊つちくれに帰す。
老いたる名馬はうまやに伏す身になろうとも、その意気は千里を駆け巡る。
老境を迎えた丈夫ますらおの、猛き心は衰えない。
[……]

川合康三編訳『曹操・曹丕・曹植詩文選』(岩波文庫、2022年) 步出夏門行(神龜雖壽) pp.61-73

論語ろんご学而がくじ篇より

呉の孫権の元へ使者としてやってきた司馬懿が、張昭と論争する。原文にあるように、孔子の言葉。元の意味は、三年の喪の間は改めない(まだ独自性を発揮せずに父の志に倣った行いを続けるのが孝である?)ということである。

子曰 为人子者
无改父之道 是为孝

昔日孙将军之父受天子册封
讨伐逆贼
今日孙将军亦受天子册封
讨伐逆贼
有何不妥

“父の行いを改めぬのが
 孝である”
と申します
かつて将軍の父君は
天子の冊封を受け
逆賊を討った
再びそん将軍が
天子の冊封を受けたとして
何か問題が?

子曰、父在觀其志、父沒觀其行、三年無改於父之道、可謂孝矣

子ののたまわく、父いませば其の志しを、父ぼっすれば其の行ないを観る。三年、父の道を改むること無きを、孝とうべし。

先生がいわれた、「父のあるうちはその人物の志しを観察し、父の死後ではその人物の行為を観察する。〔死んでから〕三年の間、父のやり方を改めないのは、孝行だといえる。

*志しを観察し——父の在世中は、子としては自由な行為ができないので、外には表われないその志しをみるのである(新注)。
*三年の間——親のに服している期間。[……]

金谷治訳注『論語』(岩波文庫、1963年) 學而第一 p.28

軍師聯盟 22話 洛陽遷都へ

古詩「十五従軍征」(別名「紫騮馬歌しりゅうばか」)

曹操司馬懿を連れて洛陽の道を進んでいると、民の子供が歌を歌いながら通り過ぎ、曹操に尋ねられた司馬懿が歌詞を教える。
漢末の作者不明の民歌。メロディは現存しないが、ドラマでは印象的な節が付けられている(「十五従軍征」作曲:董冬冬)。

十五从军征
八十始得归
道逢乡里人
家中有阿谁
遥看是君家
松柏冢累累
(兔从狗窦入
雉从梁上飞)*
中庭生旅谷
井上生旅葵
舂谷持作饭
采葵持作羹
羹饭一时熟
不知贻阿谁
出门东向看
泪落沾我衣

大王
这首民歌
唱的是一位少小离家的老兵
回到家中 做好了饭
但不知拿给谁吃
家中的人 都死光了

“わずか15で従軍し
よわい80にして帰途に就く
道で郷里の人に会い
家族の無事を尋ねたり
はるか先に我が家を見れば
松柏しょうはくの茂る墓が連なれり
野兎のうさぎが土塀の穴を抜け
きじはりから飛び立てり
(庭には雑穀が はびこりて
井戸の周りにあおいが生える)*
雑穀を集めてうすでつき
葵を摘んで汁を煮る
温かな食事を作れども
食べてくれる者もなし
門から出て東を眺むれば
涙がとめどなく衣をらす”

大王
これを歌ったのは
若くして徴兵された老人です
家に帰って食事を作っても
食べさせる者がいません
家族は皆 死んでいたからです

* ( )部分は司馬懿の台詞にはないが、子供が歌っている。日本語字幕では異なる箇所が略されている。

十五從軍征 八十始得歸
道逢鄕里人 家中有阿誰
遙望是君家 松柏冢纍纍
兔從狗竇入 雉從梁上飛
中庭生旅穀 井上生旅葵
烹穀持作飯 采葵持作羹
羹飯一時熟 不知貽阿誰
出門東向望 淚落沾我衣

十五のときに従軍して
八十になってやっと帰れた
道で郷里の人に逢い
「わが家には誰がおります?」
「かなたに見えるがそなたの家じゃ」
松柏の間に墓がごろごろ
犬の穴から兎が出入りし
梁の上からきじが飛び立ち
中庭には野生のあわ
井戸のほとりに野生のあおい
その粟を煮て飯をつくり
葵を摘んで汁をつくった
汁と飯はまもなくできたが
さてこれを誰と食べよう
門を出て東の方を眺めやる
涙あふれてわが衣をぬらす

伊藤正文『中国古典文学大系 第16巻 漢・魏・六朝詩集』(平凡社、1972年) 老兵の歌 pp.55-56

軍師聯盟 23話 曹操の最期

曹操そうそう短歌行たんかこう」より

年老いて死を前にした曹操が、新年の大宴で槍を手に舞い、歌う。後半は臣下や兵士たちが涙ながらに合唱し、曹操はついに倒れる。
詩人としても名高い曹操の代表作で、第4話にも登場した。「短歌行」は楽府題で、それに曹操が詩を付けたものだが、元のメロディは現存しないため、ドラマではオリジナルの曲が付けられている(「短歌行」作詞:曹操、作曲:董冬冬)。

明明如月
何时可掇
忧从中来
不可断绝
越陌度阡
枉用相存
契阔谈宴
心念旧恩
山不厌高
海不厌深
周公吐哺
天下归心

明るき月のごとく
いつの時にか ひろうべき
憂いは 心中より来たり
断ち切るべからず
はくを越え せんを渡り
道理をげ 共に在らしめん
久しき友と うたげに談じ
心はふるき恩を思う
山は高きを いとわず
海は深きを いとわず
しゅう公はを吐きて
天下は心を帰す

對酒當歌 人生幾何
譬如朝露 去日苦多
慨當以慷 憂思難忘
何以解憂 唯有杜康
青青子衿 悠悠我心
但爲君故 沈吟至今
呦呦鹿鳴 食野之苹
我有嘉賓 鼓瑟吹笙
明明如月 何時可掇
憂從中來 不可斷絕
越陌度阡 枉用相存
契闊談讌 心念舊恩

月明星稀 烏鵲南飛
繞樹三匝 何枝可依
山不厭高 海不厭深
周公吐哺 天下歸心

[……]
明明めいめいとしてつきごとし、いづれのときにかけん。
うれひうちよりきたつて、斷絕だんぜつからず。
はくせんわたり、げてもっあひそんせば、
契闊けつくゎつ談讌だんえんして、こころ舊恩きうおんおもふ。
[……]
やまたかきをいとはず、うみふかきをいとはず。
周公しうこうきて、天下てんかこころす。

通釈 [……]しかし賢才の得難きは、明月の手にとり難いのと等しい。それを思うと憂いの心湧き来たって、たち難きを覚える。もし東西南北、道の遠きをいとわず、まげてわざわざ訪問されるならば、心をこめて酒宴談笑、旧恩を忘れまいと念じている。
[……]
 山は高きをいとわず、海は深きをいとわない。いくらでも高くまた深くなることを欲する。われもまたいくらでも多くの賢才を包容して用いよう。かの周公は一食事中に三度も口中の食を吐いて、天下の士に接し、賢才を採用したという。わが理想もまさにここにある。

内田泉之助・網祐次『新釈漢文大系 第15巻 文選(詩篇)下』(明治書院、1964年) 楽府二首 短歌行(魏武帝) pp.475-476

曹操「精列」より

死の床にある曹操が、側室たちに別れを告げる。

黯然销魂啊
造化之陶物 莫不有终期

悲しき別れよ
陶器が割れるがごとく
万物には
いつか終わりが訪れる

厥初生,造化之陶物,莫不有終期。莫不有終期,聖賢不能免,何為懷此憂。原螭龍之駕,思想崑崙居。思想崑崙居,見期於迂怪,志意在蓬萊。志意在蓬萊,周、孔聖徂落,會稽以墳丘。會稽以墳丘,陶陶誰能度?君子以弗憂。年之暮奈何,時過時來微。

中國哲學書電子化計劃 > 樂府詩集 > 卷二十六 相和歌辭一 精列 魏・武帝

詩経しきょう国風こくふう鄭風ていふう子衿しきん」、曹操そうそう短歌行たんかこう」より

曹彰張春華を人質にしたと偽り魏王の玉璽を手に入れようと司馬懿を脅すが、屈さずに返答する司馬懿の言葉。
元は詩経「子衿」の一節だが、ここで司馬懿が引いたのは、曹操が「短歌行」に借用して、才人を得て王業を成したいという思いを歌ったものだろう(第4話参照)。
元の詩の意味については、「青衿」は学生の衣服として学校の荒廃を風刺する、祭祀で春の神に扮した青年として神霊の訪れが遅いことを憂えるなど、様々な説がある。

青青子衿
悠悠我心

大王所创功业不易
公子不要毁了大魏基业

“青々たる君がえり
“悠々たる我が心”

大王が築いてきたものを
子文しぶん殿は
台なしにするつもりか

靑靑子衿 悠悠我心
縱我不往 子寧不嗣音

靑靑子佩 悠悠我思
縱我不往 子寧不來

挑兮達兮 在城闕兮
一日不見 如三月兮

青々と春色の君の衿、訪れを待ちわびる我が心。たとえ私が行かなくても、きっと便りをよこしてくださいな。[……]

石川忠久『新釈漢文大系 第110巻 詩経(上)』(明治書院、1997年) 鄭風・子衿 pp.238-239

軍師聯盟 24話 印綬の在り処

曹植そうしょく箜篌引くごいん」より

共に王位を狙おうと企てる曹彰に逆らう決意をした曹植が、司馬懿らを解放し、賈逵を鄴へ送り出した帰り道、兄弟三人で仲良く過ごした昔を思い起こしながら吟じる。「箜篌引(くごいん/こうこういん)」は楽府題で、元の歌詞は第3話他に登場したが、内容は無関係。

置酒高殿上
亲交从我游
中厨办丰膳
烹羊宰肥牛
秦筝何慷慨
齐瑟和且柔
主称千金寿
宾奉万年酬

酒を高殿の上に置き
友は我に従いて遊ぶ
厨房に豊かな膳を調え
羊を煮て 肥えた牛をほふる
しんそうは 激しき音色
せいしつは 柔らかな音色
主は称す 千金の寿
客は奉ず 万年のしゅう

置酒高殿上 親友從我遊
中廚辦豐膳 烹羊宰肥牛
秦箏何慷慨 齊瑟和且柔

陽阿奏奇舞 京洛出名謳
樂飮過三爵 緩帶傾庶羞
主稱千金壽 賓奉萬年酬
久要不可忘 薄終義所尤
謙謙君子德 磬折欲何求
驚風飄白日 光景馳西流
盛時不可再 百年忽我遒
生存華屋處 零落歸山丘
先民誰不死 知命亦何憂

さけ高殿かうでんうへき、親友しんいうわれしたがつてあそぶ。
中廚ちゅうちゅう豐膳ほうぜんそなへ、ひつじ肥牛ひぎうをさむ。
秦箏しんさうなん慷慨かうがいたる、齊瑟せいしつにしてじうなり。
陽阿やうあ奇舞きぶそうし、京洛けいらく名謳めいおういだす。
たのしみんで三爵さんしゃくぎ、おびゆるめて庶羞しょしうかたむく。
しゅ千金せんきんじゅしょうし、ひん萬年まんねんしうほうず。
[……]
先民せんみんたれせざらん。めいらばまたないをかうれへん。

通釈 高座敷に酒宴の用意をすると、親友たちはぞろぞろと集まって来る。料理場では羊を煮たり牛を料理したりして、たくさんの珍味をととのえた。秦の国のそうは悲壮な調べをかなで、斉の国のしつはなごやかな又やわらかな響きをあげる。名高い陽河の舞は世にも見事な手振りを示し、都洛陽の歌はいともすぐれたふしを聞かせる。
 されば各々楽しみ飲んで大盃三杯を傾け、帯をゆるめうちくつろいで酒の肴を平らげた。主人は客のために千金の寿をことほげば、客は主人に酬いて万年の長寿を祝う。
 [……]昔の人で死なぬものが誰あろう。長寿を祈っても甲斐ないこと、天命を知れば何を憂えることがあろうぞ。

内田泉之助・網祐次『新釈漢文大系 第15巻 文選(詩篇)下』(明治書院、1964年) 楽府四首 箜篌引(曹子建) pp.481-482

曹操そうそう短歌行たんかこう」より

曹植司馬懿と酒を酌み交わし、初めて胸中を語る。第4話第23話にも登場した曹操「短歌行」の表現が使われている。

唯有杜康 可以解忧
为这
动荡不安之夜 干
[……]
譬如朝露 去日苦多
天意 何其残酷

酒だけが憂いを消してくれる
では
この激動の夜に乾杯を
[……]
“朝露の如く
 はかなく過ぎし日々”

天意とは実に残酷だな

また、翌朝の場面ではすっかり酔った二人が引き続き歌っている。

慨当以慷
忧思难忘
何以解忧
唯有杜康

“嘆きて まさに心高ぶり”
“憂いは忘れ難し”
“憂いを解くは”
“ただ杜康とこうあるのみ”

乾杯

對酒當歌 人生幾何
譬如朝露 去日苦多
慨當以慷 憂思難忘
何以解憂 唯有杜康

[……]

さけたいしてはまさうたふべし。人生じんせい幾何いくばくぞ。
たとへば朝露てうろごとし。去日きょじつはなはおほし。
がいしてまさもっかうすべし、憂思いうしわすがたし。
なにもっうれひかん。ただ杜康とかうるのみ。

[……]

通釈 酒を飲んでは大いに歌うべきである。人生はどれだけ続き得るものぞ。それはあたかも朝露のように極めてはかないものである。されば過ぎ去った日はいやに多くても、功業はなかなか成らない。これを思えばなげかずにはいられず、心のうれいも忘れ難い。この憂を消すものはただ酒あるのみ。だから酒に対しては憂を忘れて歌うべきである。[……]

内田泉之助・網祐次『新釈漢文大系 第15巻 文選(詩篇)下』(明治書院、1964年) 楽府二首 短歌行(魏武帝) pp.475-476

軍師聯盟 25話 新政のはじまり

曹植そうしょく銅雀台賦どうじゃくだいふ」より

夜の銅雀台から曹操の陵墓を眺めて、司馬懿曹丕が語る。14話にも登場した。

(曹丕)
休矣 美矣
惠泽远扬
翼佐我皇家兮
宁彼四方
同天地之规量兮
齐目月之晖光

(司马懿)
永贵尊而无极兮
等年寿于东王

大王 为何吟诵
子建公子的铜雀台赋啊

(曹丕)
“麗しきかな”
“恩恵が及ぶ”
“我が皇室を支えて
 四方を安んずる”
“天地の大きさと同じく”
“日月の輝きにも等しい”

(司馬懿)
“父の長寿は
 とう王公に等しかれ”

大王
なにゆえ子建しけん殿の
“銅雀台のを?

[……]銅爵臺新成,太祖悉將諸子登臺,使各爲賦。援筆立成,可觀,太祖甚異之。〔一〕

〔一〕陰澹魏紀賦曰「從明后而嬉游兮,登層臺以娛。見太府之廣開兮,觀聖德之所營。建高門之嵯峨兮,浮雙闕乎太淸。立中天之華觀兮,連飛閣乎西城。臨漳水之長流兮,望園果之滋榮。仰春風之和穆兮,聽百鳥之悲鳴。天雲垣其旣立兮,家願得而獲逞。揚仁化於宇內兮,盡肅恭於上京。惟之爲盛兮,豈足方乎聖明!休矣美矣!惠澤遠揚。翼佐我皇家兮,寧彼四方。同天地之規量兮,齊日月之暉光。永貴尊而無極兮,等年壽於東王」云云。太祖深異之。

陳壽撰、裴松之注《三國志 二 魏書〔二〕》(中華書局,1982年) 陳思王植傳 pp.557-558

[……]そのとき、ぎょう銅爵台どうじゃくだいが新しく完成し、太祖は子供たち全部をつれて台に登り、それぞれ賦を作らせた。曹植は筆をとるとたちまち作りあげたが、りっぱなものだった。太祖はたいそう彼のすぐれた才能に感心した。〔一〕

〔一〕陰澹いんたんの『魏紀』に載せる曹植のにいう、「明らかなるきみに従ってたのしみあそび、かさなれるうてなに登りてこころたのしましむ。おおいなるみやこの広く開くを見、とうとき徳の営む所を観る。高き門の嵯峨さがとしてそびゆるを建て、双闕そうけつ(門の両側にあるものみ)を太清おおぞらに浮かばす。中天なかぞらうるわわしきたかどのを立て、〔そらを〕飛ぶたかどのを西の城につらぬ。漳水しょうすいの長き流れに臨み、園果えんかしげれるはなながむ。春風のやわらやわらぐを仰ぎ、百鳥の悲しみ鳴くを聴く。天の雲はの既に立てるをまもり、家の願いは得てほしいままにするを。仁のめぐみくにの内に揚げ、粛恭つつしみ上京みやこに尽くす。おもうに桓・文(春秋五霸の斉の桓公と晋の文公)の盛んなるも、あに聖明にくらぶるに足らんや。うるわしきかな美しきかな。恵沢めぐみは遠く揚がる。我が皇家をたすたすけ、の四方をやすんず。天地の規量おおいさに同じく、日月の暉光かがやきひとし。永く貴尊にして極まり無く、年寿としを東の王に等しくす」云々。太祖はそれをたいそう見事だと感心した。

陳寿、裴松之注、今鷹真訳『正史 三国志 3 魏書Ⅲ』(ちくま学芸文庫、1993年) 陳思王植伝 pp.292-293

詩経しきょう小雅しょうが北山ほくさん」より

司馬懿がどのような人間か自ら確かめたいと申し出る柏霊筠に、曹丕が碁盤を示しながら語る。多少表現は異なるが、第6話他に複数回登場した、定番の表現。

(曹丕)
天下之大 莫非王土
率土之滨 莫非王臣

这纵横的阡陌
即是天下的棋局

(柏灵筠)
这棋子总会明白
握着他的
是谁的手

(曹丕)
“この世の土地も臣民も”
“あまねく君主のものなり”

天下という盤には
縦横に道が走る

(柏霊筠)
己が誰の手中にあるか
盤上の駒は知っています

番外編:袁昂えんこう『古今書評』より

司馬防が、秘蔵の蔡邕の拓本を持ち出し、その書を評価する。この言葉が、巡り巡って……という展開。
「骨気洞達」は南梁・袁昂『古今書評』による蔡邕書評にある表現のようで、他の部分も元ネタがある?
なお、作中に登場する作品は「漢北海淳于長夏承碑」と思われる。(後漢の夏承という人物の事績を記した碑文で、書道の世界では著名なようだ。蔡邕の書とされるが、異論もある)

[……]笔法 寄崛
骨气洞达 精彩飞动
气凌百代
好东西呀

斬新なる筆遣い
力強く躍動感あふれる筆致
気迫に富む
よき品だぞ

蔡邕書骨氣洞達,爽爽有神。

袁昂『古今書評』(Wikisource)

公開:2022.05.12 更新:2022.05.15

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