「軍師連盟」に登場する古典 ③ 11〜15話

中国ドラマ「三国志〜司馬懿 軍師連盟〜」(原題:第一部「大軍師司馬懿之軍師聯盟」、第二部「虎嘯龍吟」)の台詞に引用される故事・詩などの出典を調べた。赤枠は本編の字幕より引用。

目次

軍師聯盟 11話 使者の任務

飲馬長城窟行いんばちょうじょうくつこう(馬を長城のいわやみずかう行)」より

義妹を曹丕の側室にすることに反対する張春華に閉じ込められている郭照に、司馬孚が魚料理を届ける。第3話郭照曹丕を説得する際に引用した詩の続きの部分。

(司马孚)
客从远方来 遗我双鲤鱼
不一句

(郭照)
呼儿烹鲤鱼 中有尺素书

(司馬孚)
“旅人が私にこいを届ける”
次の句は?

(郭照)
“鯉の腹には白絹しらぎぬふみ

靑靑河邊草 綿綿思
不可思 夙昔夢見之
夢見在我傍 忽覺在他鄕
他鄕各異縣 展轉不可見
枯桑知天風 海水知天寒
入門各自媚 誰肯相爲言
客從遠方來 遺我雙鯉魚
呼兒烹鯉魚 中有尺素書

長跪讀素書 書中竟何如
上有加餐食 下有長相憶

[……]
かく遠方ゑんぱうよりきたり、われさう鯉魚りぎょおくる。
んで鯉魚りぎょしむれば、なか尺素せきそしょり。

長跪ちゃうきして素書そしょむ、書中しょちゅうつひ何如いかん
かみには餐食さんしょくくはへよとり、しもにはながくあひおもふとり。

通釈 [……]おりしも遙々遠方から来た方が、私に二匹の鯉をくださった。小者こものを呼んで鯉を烹ようとすると、その腹から一尺ほどの白絹に書いた手紙が出て来た。ひざまずいてそれを読んだ。その手紙の文面は、要するにどんなことであったか。始めには「ご飯を十分食べなさい」とあり、終りには「いつまでも忘れまいぞよ」とあった。

内田泉之助・網祐次『新釈漢文大系 第15巻 文選(詩篇)下』(明治書院、1964年) 飮馬長城窟行 pp.469-470

曹丕そうひ燕歌行えんかこう」(其一)より

先の場面に続き、郭照が魚料理の中から出てきた木簡を読み、曹丕作の詩の一節だと気付く。また、郭照を送り出した後、身を引いた司馬孚は木簡を握りしめている。遠征の夫を思い憂う妻の歌。後の回にも登場する。

忧来思君不可忘
他的诗

“あなたを忘れる時はない”
あの方の?

秋風蕭瑟天氣涼 草木搖落露爲霜
群燕辭歸雁南翔
念君客遊思斷腸 慊慊思歸戀故鄕
何爲淹留寄他方
賤妾煢煢守空房 憂來思君不敢忘
不覺淚下霑衣裳 援琴鳴弦發淸商
短歌微吟不能長
明月皎皎照我牀 星漢西流夜未央
牽牛織女遙相望 爾獨何辜限河梁

秋風しうふう蕭瑟せうしつとして天氣てんきすずしく、草木さうもく搖落えうらくして露霜つゆしもり、群燕ぐんえんかへかりみなみかける。
きみ客遊かくいうおもうておもひ斷腸だんちゃう慊慊けんけんとしてかへるをおも故鄕こゃうはん、何爲なんすれぞ淹留えんりうして他方たはうる。
賤妾せんせう煢煢けいけいとして空房くうばうまもり、うれひきたりてきみおもひてあへわすれず。
おぼえずなみだくだりて衣裳いしゃううるほすを。ことげんらせば淸商せいしゃうはっし、短歌たんか微吟びぎんながうするあたはず。
明月めうげつ皎皎けうけうとしてしゃうらし、星漢せいかん西にしながれてよるいまきず。牽牛けんぎう織女しょくぢょはるかかにあひのぞむ。なんぢひとなんつみありてか河梁かりゃうかぎらる。

通釈 秋風もの寂しく吹いて気冷やかに、草木の葉もこぼれ落ちて、露も霜となり、燕はみな南に飛び去り、雁も北から飛び帰る。
 それにあなたのみは旅立ったままお帰りがない。それを思うと腸もたちきられるように悲しい。夫も定めしくよくよと故郷を恋い慕うておられるでしょうのに、なぜ長く滞在して、他国に身を寄せられるのやら。
 わたしは独り寂しく空閨を守っていると悲しくなって来て、あなたのことがどうにも忘れられず、涙がこぼれて衣裳をぬらすのも知らぬありさま。琴を引きよせ、いとをかき鳴らせば、その悲しげな、すんだ音色は、聞くに堪えず、微かにロずさむ歌声も切れぎれにとだえて、長く続けることができない。
 おりから明月の光はきらきらとわが床を照らし、天の川は西に傾いたが、まだ夜明けにはならず、その天の川を隔てて牽牛・織女の二星が遙かに相対している。ああ、この二星に何の罪があって、かくは河に隔てられる身となったのであろう。それはまたわが身の境遇に異ならない。

内田泉之助・網祐次『新釈漢文大系 第15巻 文選(詩篇)下』(明治書院、1964年) 楽府上・魏文帝 楽府二首・燕歌行 pp.478-479

戦国策せんごくさく魏策ぎさく/『説苑ぜいえん奉使ほうし篇より(?)

曹操に試される曹植ら兄弟。試験のために父の配下を殺すことは出来ないという曹植を、楊修が諭す。
秦王(秦の始皇帝)が、安(鄢)陵君の使者の唐且とうしょという人物を脅そうとした言葉に「天子一たび怒れば、伏尸百万、流血千里」というものがある。なお、唐且は屈さずに反論し、却って秦王に敬われた。
「血流れてしょを漂わす」は『書経』武成篇にある表現。

丞相要找的
是一个可以平定天下的帝王之才
帝王一怒
流血漂杵

丞相が求めるのは帝王です
帝王が怒れば
血が流れる

秦王以五百里地易鄢陵。鄢陵君辭而不受、使唐且謝秦王。[……]秦王忿然作色、怒曰、公亦曾見天子之怒乎。唐且曰、王、臣未曾見也。秦王曰、天子一怒、伏尸百萬流血千里

秦の始皇帝は自分の領地の五百里の地を与えて鄢陵と交換したいと思った。鄢陵君はその申し出を断って受けなかった。そして大夫の唐且を使者にして秦王に詫びさせた。[……]秦王はむっとして顔を真っ赤にして怒っていうには、「あなたは今までに天子が怒ったのを見たことがあるか」と。唐且は、「王よ、私はまだ一度も拝見したことがございません」と答えた。秦王はいった。「天子の自分が一たび怒れば死者百万千里の地は流血に染まるであろう」と。

高木友之助『中国古典新書 説苑』(明徳出版社、1969年) pp.189-192

【血流漂杵】ちながれてショをただよわす

激戦で多くの人が死ぬたとえ。また、戦争の悲惨さをいう。人の血が流れて杵(=大きな盾)を浮かべるほどだ、という意。[……]〈書・武成〉

『全訳 漢辞海(第四版)』(三省堂、2017年)

曹丕そうひ燕歌行えんかこう」(其二)より

曹操に試されている曹丕陣営にて、焦って司馬懿を恫喝する曹真を宥めて曹丕が吟じる。曹丕作の七言詩「燕歌行」の二首目。

展诗清歌聊自宽
乐往哀来摧肺肝
耿耿伏枕不能眠
披衣出户步东西
仰看星月观云间

还有两个时辰

“気を紛らわそうと
 詩を詠めども”
“心が砕けるほど悲しい”
とこについても眠れず”
“衣を羽織り 東へ西へ”
“仰ぎ見れば
 雲間にかくる星月”

あと2刻もある

別日何易會日難 山川悠遠路漫漫
鬱陶思君未敢言 寄聲浮雲往不還
涕零雨面毀容顏 誰能懷憂獨不歎
展詩淸歌聊自寬 樂往哀來摧肺肝
耿耿伏枕不能眠 披衣出戶步東西
仰戴星月觀雲閒
 飛鶬晨鳴聲可憐
留連顧懷不能存

[……]
べて淸歌せいかいささみづかゆるうす、たのしみかなしきたりて肺肝はいかんくだく。
耿耿かうかうまくらしてねむあたはず、ころもひら東西とうざいす。
あふいで星月せいげついただきて雲閒うんかんる、飛鶬ひさうあしたこゑあはれし。
留連りうれん顧懷こくゎいそんするあたはず。

通釈 別れる時は極めて容易だが、また会う日の来ることはむずかしい。[……]
 詩をひろげ、歌をうたうて気をはらそうとするが、楽しかりし時は過ぎ去り、哀しいことのみ思い浮かんで、肺や肝もくだけるよう。枕に就いても、目がさえて眠ることもできず、衣をはおって戸の外へ出て、東や西へと歩きまわる。
 仰むいて星や月をいただく雲間くもまをみあげると、
飛びたつまなつるの、夜明けに鳴きたてる声が、あわれに聞こえてくる。このやるせなさを思い続ける身には、徒らに生き永らえても仕方がないとさえ思われる。

仰戴星月 晋楽に歌うところによって「仰看」を正した。「看」と下句「観」と意味重なるに似ている。
存 「生存」の意にみる。

内田泉之助『新釈漢文大系 第61巻 玉台新詠(下)』(明治書院、1975年) 卷九 樂府燕歌行二首 pp.564-565

軍師聯盟 12話 牢の中のふたり

国語こくご越語えつご下篇より

軍令を届けられなかった曹丕とともに大理時の牢に入れと曹操に命じられた司馬懿が返す。

春秋時代、越王勾践こうせんに仕え「会稽の恥」をそそいだ范蠡はんれいの言葉「君憂臣労、君辱臣死」が元。『史記』范雎はんしょ伝では「主憂臣辱、主辱臣死」と、この形で用いられている(この「辱」は「労」の誤りとする説もある)。

主忧 臣辱
主辱 臣死

臣罪责难逃

“主 はずかしめらるれば
 臣 忠誠を尽くし死す”

共に罰を受けます

【君辱臣死】きみはずかしめ(はづかしめ)らるればしんしす

主君が他からはずかしめを受けることがあれば、その臣は命をなげ出して、そのはじをはらす。〔越語〕君憂ヘバ臣労、君辱メラルレバ臣死

『角川新字源(改訂新版)』(角川書店、2017年)

[……]反至五湖、范蠡辭于王曰、君王勉之、臣不復入越國矣。王曰、不穀疑子之所謂者、何也。對曰、臣聞之、爲人臣者、君憂臣勞、君辱臣死。昔者君王辱于會稽、臣所以不死者、爲此事也、今事已濟矣、蠡請從會稽之罰。[……]

[……]
 呉を滅しての帰りに五湖まで来ると、范蠡が越王にいとま請いして言った。
 范「王さましっかりなさいませ。わたくしは二度と越の国へは入りません。」
 王「わたくしには、あなたが何を言おうとするのか分かりません。」
 范「わたくしの聞きますには、人臣は、君に憂いがあれば臣下は骨を折って尽力し、君が辱しめられれば臣下は命を投げだすと申します。昔王さまが会稽山で呉に辱しめられましたのに、わたくしが死ななかったわけは、この呉征伐のためでした。今この事は成就しました、わたくしのお願いです、どうか会稽の罰を受けさせて下さい。」
[……]

大野峻『新釈漢文大系 67 国語(下)』(明治書院、1978年) pp.828-830

昭王臨朝歎息。應侯進曰、臣聞主憂臣辱、主辱臣死。今大王中朝而憂。臣敢請其罪。

通釈 昭王は朝廷で執務中、ため息をついていた。応侯は進み出て言った、「私は『君主に憂いがあるのは臣下にとって屈辱であり、君主が屈辱を受ければ臣下は死なねばならぬ』と聞いております。いま、大王は朝廷にあって憂えておられます。私は失礼も顧みず、自らの罪をここに認め、処分を請うものであります」と。

水沢利忠『新釈漢文大系 第89巻 史記 九(列伝二)』(明治書院、1993年) 范睢蔡沢列伝第十九 pp.190-191

易経えききょう乾為天けんいてんより

牢に入れられた曹丕に、大理寺卿の鍾繇が語る。(「潜龍」は第8話にも登場した。)「然而 终究是无咎」(=しかし、結局/最終的には「とがし」である)。
五経の一である『易経』は六十四卦によって自然と人生の変化の道理を説く書で、占いに用いられた。

中郎将 易经上说
初九 潜龙 勿用
然而 终究是无咎
中郎将不必过于烦愁

中郎将
易経えききょう」にいわく
潜龍せんりゅうなり 用いるなかれ”
いずれ 雲は晴れます
悩まれませぬように

【潜竜(龍)用】センリョウもちいることなかれ

水中にひそみ、まだ天に昇る時節がこない竜は、活動してはならない。君子や大人物であっても、機会に恵まれないうちは、強いて活動をしてはいけないということ。〈易・乾初九〉

『全訳 漢辞海(第三版)』(三省堂、2011年)

乾、元亨。利貞。

初九、潛龍。勿用。
九二、見龍、在田。利見大人。
九三、君子、終日乾乾、夕惕若。厲无咎。
九四、或躍在淵。无咎。
九五、飛龍、在天。利見大人。
上九、亢龍。有悔。
用九、見羣龍。无首、吉。

けんは、おほいにとほる。ただしきによろし。

初九しょきう潛龍せんりゅうなり。もちふることなかれ。
九二きうじ見龍けんりゅうでんり。大人たいじんるによろし。
九三きうさん君子くんし終日しゅうじつ乾乾けんけんし、ゆふべまで惕若てきじゃくたり。あやふけれどもとがし。
九四きうしあるいはをどらんとしてふちり。とがし。
[……]

通釈 [……]初九は最下の陽爻、陽気の地下に潜在することを示す。龍が乾の象であるから、初九は淵にひそみ隠れている龍の象である。まだその才徳を施用すべき時ではないので、その占は施し用いることなかれとの戒辞である。
[……]
 九三は更に上り内卦の上、外卦の下にあり、重剛不中で「三」の危地に居る。龍を象とする君子、終日、乾乾(健健)として努めて止まず、夜になってまで惕然として恐れ慎み反省する。かくして始めて危地にあっても災い咎めを免れることができるとの占である。
 九四は内卦を離れて外卦の下、君位の近くに進み、進退のまだ定まらない多懼の地に居る。然るべき時に躍り上がれば必ず天に昇るが、まだ今は躍り上がらず淵に潜む龍の象である。従って多懼の地に居るが、何の咎めもないとの占である。
[……]

今井宇三郎『新釈漢文大系 第23巻 易経(上)』(明治書院、1987年) 周易上經(1)乾 pp.94-96

曹丕そうひ雑詩ざっし二首にしゅ」(其の一)より

牢の壁に一日一字を記す曹丕が、初日には希望をもって「願」と書いたが、十日後に出来上がった十文字は……司馬懿が読み上げる。
曹丕作の望郷の詩だが、曹操が太子を替えようとしていることを憂えて作ったとする説もある。

愿飞安得翼 欲济河无梁
十天了

“飛ぶにも翼を得ず”
“渡るにも橋がない”

10日目ですね

漫漫秋夜長 烈烈北風涼
展轉不能寐 披衣起彷徨
彷徨忽已久 白露霑我裳
俯視淸水波 仰看明月光
天漢?西流 三五正縱橫
草蟲鳴何悲 孤鴈獨南翔
鬱鬱多悲思 緜緜思故鄕
願飛安得翼 欲濟河無梁
向風長嘆息 斷絕我中腸

[……]ばんことをねがへどもいづくんぞつばさん。わたらんとほっするもかはりゃうし。[……]

通釈 [……]草間にすだく虫の音は悲しく、連れを離れたかりがねの独り南に飛び去るのが見える。それを眺めてもわが身の上に思い及び、心は悲しみにふさがるばかりで、たえず故郷の事が思い出される。飛んで帰りたいと思うても、翼のないのをどうしよう。河を渡ろうとしても、橋のないのと同然。故郷の空から吹いてくる北風を懐かしんで、長い嘆息をもらせば、わがはらわたをちぎられる思いである。

語釈[……]欲済河無梁 時勢を済(すく)おうとしても、協力者のないことを寓したと見る。

内田泉之助・網祐次『新釈漢文大系 第15巻 文選(詩篇)下』(明治書院、1964年) 雜詩 上 魏文帝「雜詩二首」 pp.587-588

曹植そうしょく白馬篇はくばへん」より

曹操が出陣するにあたり、曹植が詩を捧げる。私情を捨て国のために戦う勇士の雄壮さを歌う。(捐軀〜の部分は司馬懿曹丕の会話が入るため字幕が入っていない)

儿臣有白马诗一首
为父亲壮行
[……]
羽檄从北来
厉马登高堤
长驱蹈匈奴
左顾凌鲜卑
弃身锋刃端
性命安可怀
父母且不顾
何言子与妻
名编壮士籍
不得中顾私
(捐躯赴国难)
视死忽如归

私の「白馬篇」という詩を
父上に捧げます
[……]
羽檄うげき 北より来たり
馬を励まし 高堤こうていに登る
長躯ちょうくして匈奴きょうどを踏み散らし
左顧さこして鮮卑せんぴしのがん
身を戦場に投じては
命 惜しむべからず
父母 なお顧みず
なんぞ子と妻を言わん
名を壮士に数えられ
己の命 顧みられず

死を知すること 帰るがごとし

白馬飾金羈 連翩西北馳
借問誰家子 幽幷遊俠兒
少小去鄕邑 揚聲沙漠垂
宿昔秉良弓 楛矢何參差
控弦破左的 右發摧月支
仰手接飛猱 俯身散馬蹄
狡捷過猴猨 勇剽若豹螭
邊城多警急 胡虜數遷移
羽檄從北來 厲馬登高堤
長驅蹈匈奴 左顧凌鮮卑
棄身鋒端 性命安可懷
父母且不顧 何言子與妻
名編壯士籍 不得中顧私
捐軀赴國難 視死忽如歸

[……]
羽檄うげききたよりきたれば、うまはげまして高堤かうていのぼり、
長驅ちゃうくして匈奴きゃうどみ、ひだりかへりみて鮮卑せんぴしのぐ。
ほうじんたんつ、性命せいめいいづくんぞおもけん。
父母ふぼすらかへりみず、なんつまとをはん。
をば壯士さうしせきへんせらる、うちわたくしかへりみるをず。
てて國難こくなんおもむく、ることたちまするがごとし。

通釈 白馬に金のおもがいを飾り、西北めざし飛ぶが如く馳せゆく若者がある。いずこの誰かと尋ねると、名にしおう幽・幷出身の侠者おとこだてだという。年若くして郷里を離れ、沙漠のほとりの戦場に名をあげた者だ。
 そのころ良弓を手にとり、えびらに竹の矢を乱れさし、ゆみづるを引きしぽって左の的を射破ったかと思えば、右手に放って射帖を打ちぬく巧みさ、あおけに枝飛ぶましらをむかえうち、身を伏してはあたりを蹴散らして馬を飛ばす、そのすばやさは猿にもまさり、豹やみずちに劣らぬ勇ましさ。
 折から辺境のとりではものさわがしく、えびすの兵はしばしば移動してくる。それを伝える急のしらせが北からくれば、馬をはげまして高い堤にと上って警戒し、まっしぐらに駆けぬけて、匈奴を踏みちらし、左に向きをかえては、鮮卑を突破する奮戦。身を刃の先に投げ出すからには、生命などはものとも思わぬ。父母さえ顧みないものを、子供や妻のことなど口にできるものか。わが名を勇士の名簿に列ねられている以上、心に私事わたくしごとなどを思うべきではない。一身をすてて国難に赴く者、死をみることは、まるでわが家に帰るような心安さである。

内田泉之助・網祐次『新釈漢文大系 第15巻 文選(詩篇)下』(明治書院、1964年) 樂府 上 曹子建「白馬篇」 pp.485-486

軍師聯盟 13話 楊修の企み

郊祀歌こうしか十九章「日出入」より

崔琰に諫言された曹丕が、司馬懿に諭されて狩猟の道具を焼き捨てる。
漢代の郊祀歌。昇り沈む太陽や四季の巡りが無限であるのに比して、人生の短さが歌われている。

我自己选的路 哪里有难为
日出入安穷 时世不与人同

春非我春 夏非我夏

人生苦短 做该做的事

これは自分が選んだ道だ
“太陽の寿命は
 人とは異なれり”

“我が心に描く
 春と夏は訪れず”

短い人生の中で
成し遂げねば

日出入安窮?時世不與人同。故春非我春,夏非我夏,秋非我秋,冬非我冬。泊如四海之池,遍觀是邪謂何?吾知所樂,獨樂六龍,六龍之調,使我心若。訾黃其何不徠下!

中國哲學書電子化計劃 > 漢書 > 志 > 禮樂志

日ので入る、いずくんぞ窮まらん。
時世は長く人生は短くして同じからず。
故に春はわが春にあらず、夏はわが夏に非ず、

秋はわが秋に非ず、冬はわが冬に非ず。
日は泊たる四海を出で入りて、
あまねくこの人の世を観るも、これを如何すべき。
われ楽しむところを知りて、独り六龍を楽しみ、
六龍を御して乗りならすことにわが心をしたがわしむ。
訾黄しこうそれ何ぞくだきたらざるや。

小竹武夫訳『漢書 上巻 帝紀 表 志』(筑摩書房、1977年) 礼楽志第二 p.203

孟子もうし告子章句こくししょうく下より

先の曹丕の言葉に続く、司馬懿の答え。

天降大任于斯人也
必先苦其心志 劳其筋骨
饿其体肤 空乏其身
行拂乱其所为
所以动心忍性
增益其所不能

做公子该做的

“天が大任たいにんを与える時
 その人の心を苦しめ”
“その暮らしを困窮させ
 苦境に陥れる”
“これは人を
 育てんとする証しなり”

使命かと

孟子曰、[……]天將降大任於是人也、必先苦其心志、勞其筋骨、餓其體膚、空乏其身行、拂亂其所爲、所以動心忍性、曾益其所不能、人恒過、然後能改、困於心、衡於慮、而後作、徵於色、發於聲、而後喻、[……]

孟子がいわれた。[……]これら古人の実例を見ても分るように、天が重大な任務をある人に与えようとするときには、必ずまずその人の精神を苦しめ、その筋骨をつかれさせ、その肉体を飢え苦しませ、その行動することなすことを失敗ばかりさせて、そのしようとする意図いとい違うようにさせるものだ。これは天がその人の心を発憤はっぷんさせ、性格を辛抱しんぼう強くさせ、こうして今までにできなかったこともできるようにするため〔の貴い試錬しれん〕である。いったい、人間は〔多くの場合〕過失があってこそ、はじめてこれを悔い改めるものであり、心に苦しみ思案にあまってなやみぬいてこそ、はじめて発奮して立ちあがり、その煩悶はんもん苦悩くのうが顔色にもあらわれ、呻き声となって出てくるようになってこそ、はじめて〔解決の仕方を〕心に悟るものである。[……]

小林勝人訳注『孟子(下)』(岩波文庫、1972年) 告子章句下 pp.314-317

漢詩「上邪じょうや」より

郭照が忘れられず縁談を拒む司馬孚に、もし兄上なら義姉上を忘れられるのかと反論され、張春華に問い詰められた司馬懿が返す。漢代の楽府。

山无棱 天地合 乃敢与君绝
人不同 事也不同

“天地が重なるまで
 君と離れぬ”

何事も人それぞれだ

上邪 我欲與君相知
長命無絕衰
山無陵 江水爲竭
冬雷震震 夏雨雪
天地合 乃敢與君絕

上邪じゃうやきみあひり、
長命ちゃうめいおとろふることからんとほっす。
やまをかくして、江水かうすゐめにき、
冬雷とうらい震震しんしんとして、なつゆきり、
天地てんちがっして、すなはあへきみたん。

わが君よ、わたしは君と知り会う仲となって、命長らえいつまでも心変わりのないことを望むのです。山に峯がなくなり、そのために川の水がつきてしまう地変が起こり、冬にごろごろと雷鳴があり、夏に雪がふるという四時の変異があらわれ、天と地とが合して一つになるような天変がもしも生じたら、そのときこそ思い切って君との仲も絶とう。(そうならぬ限りは絶対に君とは絶たぬ)

内田泉之助『漢詩大系 第四巻 古詩源 上』(集英社、1964年) 巻三 漢詩 p.143

民歌「子夜四時歌しやしいじか」より

先の場面に続き、司馬家の行楽の場へ探りにやってきた曹丕が語りかける。東晋〜宋・斉の民歌。

春林花多媚 春鸟意多哀
这么好的风景
一家人坐在一起其乐融融
甚好

“花咲く春に
 鳥の声が涙を誘う”

家族で絶景を眺めるのは
幸せなことだな

春林花多媚
春鳥意多哀

春風復多情
吹我羅裳開

春林しゅんりん はな はなはなまめかしく、
春鳥しゅんちょう  はなはかなし。

春風しゅんぷう はなはじょうあり、
羅裳らしょうひらく。

春の歌。春の林に咲く花はまことになまめかしい。春の鳥の鳴き声はまことに物悲しい。春の風もまたいたずらもので、わたしの薄絹のもすそを吹いてまくり上げます。

子夜四時歌 十首  松枝茂夫編『中国名詩選(中)』(岩波文庫、1997年) p.172

史記しき淮南厲王わいなんれいおうちょう列伝より

楊修の策略により司馬朗曹植に仕えることになり、自分は曹丕に従うが、兄も守ると言う司馬懿に、曹丕が語る。
前漢の文帝と弟淮南王の逸話。

一尺布 尚可缝
一斗粟 尚可舂
兄弟不能相容

你也陪我体会一下这番滋味吧

“僅かな布でも縫える”
“僅かなあわでもける”
“兄弟は許し合えぬ”

お前にも分かるはず

孝文十二年、民有作歌、歌淮南厲王曰、一尺布、尙可縫。一斗粟、尙可舂。兄弟二人、不能相容。上聞之、乃歎曰、堯・舜放逐骨肉、周公殺管・蔡、天下稱聖。何者、不以私害公。天下豈以我爲貪淮南王地邪。乃徙城陽王王淮南故地、而追尊謚淮南王爲厲王、置園復如諸侯儀。

通釈 漢の文帝の十二年、人々は歌を作って淮南王について次のように歌った、「一尺の布でも、まだ縫える。一斗のアワでも、まだける。兄弟二人で、なぜあい容れぬ」。天子はこれを聞くと、嘆いて言った、「堯と舜は肉親を追放し、周公は管叔鮮かんしゅくせん蔡叔度さいしゅくどを殺したが、天下ではなお彼らを聖人と称している。これはなぜだろうか。それは彼らが私情によって王朝の利益を損なっていないからだ。天下の人々は私が淮南王の封地を狙っているとでも思っているのだろうか」。こうして城陽王を移してもとの淮南王の領地に改めてほうじ、淮南王に追贈してれい王という諡号を定め、諸侯王の儀礼に照らして霊園を設けた。

青木五郎『新釈漢文大系 第92巻 史記 十二(列伝五)』(明治書院、2007年) 淮南衡山列傳第五十八 pp.395-396

軍師聯盟 14話 司馬門の禁

曹植そうしょく銅雀台賦どうじゃくだいふ登台賦とうだいふ?)」より

曹植を鄴に呼びたい楊修が、門に「活」と記した曹操に謎解きをしてみせた後で語る。
曹植が銅雀台の完成に際して詠んだ賦。多少字句が異なるが『三国志』魏書 陳思王植伝の注に引く『魏紀』に一部が載っている。

平原侯曹植有赋言道
天功恒其既立兮
家愿得而获逞
扬仁化于宇内兮
尽肃恭于上京

此乃大王此字之深意

曹植そうしょく殿のの一節です
“天下の功 成り立ちて
 宿願 果たさる”
“恩徳をあまねく広めて
 都の天子を敬う”

これぞ大王の深意かと

[……]銅爵臺新成,太祖悉將諸子登臺,使各爲賦。援筆立成,可觀,太祖甚異之。〔一〕

〔一〕陰澹魏紀賦曰「從明后而嬉游兮,登層臺以娛。見太府之廣開兮,觀聖德之所營。建高門之嵯峨兮,浮雙闕乎太淸。立中天之華觀兮,連飛閣乎西城。臨漳水之長流兮,望園果之滋榮。仰春風之和穆兮,聽百鳥之悲鳴。天雲垣其旣立兮,家願得而獲逞。揚仁化於宇內兮,盡肅恭於上京。之爲盛兮,豈足方乎聖明!休矣美矣!惠澤遠揚。翼佐我皇家兮,寧彼四方。同天地之規量兮,齊日月之暉光。永貴尊而無極兮,等年壽於東王」云云。太祖深異之。

陳壽撰、裴松之注《三國志 二 魏書〔二〕》(中華書局,1982年) 陳思王植傳 pp.557-558

[……]そのとき、ぎょう銅爵台どうじゃくだいが新しく完成し、太祖は子供たち全部をつれて台に登り、それぞれ賦を作らせた。曹植は筆をとるとたちまち作りあげたが、りっぱなものだった。太祖はたいそう彼のすぐれた才能に感心した。〔一〕

〔一〕陰澹いんたんの『魏紀』に載せる曹植のにいう、「明らかなるきみに従ってたのしみあそび、かさなれるうてなに登りてこころたのしましむ。おおいなるみやこの広く開くを見、とうとき徳の営む所を観る。高き門の嵯峨さがとしてそびゆるを建て、双闕そうけつ(門の両側にあるものみ)を太清おおぞらに浮かばす。中天なかぞらうるわわしきたかどのを立て、〔そらを〕飛ぶたかどのを西の城につらぬ。漳水しょうすいの長き流れに臨み、園果えんかしげれるはなながむ。春風のやわらやわらぐを仰ぎ、百鳥の悲しみ鳴くを聴く。天の雲はの既に立てるをまもり、家の願いは得てほしいままにするを。仁のめぐみくにの内に揚げ、粛恭つつしみ上京みやこに尽くす。おもうに桓・文(春秋五霸の斉の桓公と晋の文公)の盛んなるも、あに聖明にくらぶるに足らんや。うるわしきかな美しきかな。恵沢めぐみは遠く揚がる。我が皇家をたすたすけ、の四方をやすんず。天地の規量おおいさに同じく、日月の暉光かがやきひとし。永く貴尊にして極まり無く、年寿としを東の王に等しくす」云々。太祖はそれをたいそう見事だと感心した。

陳寿、裴松之注、今鷹真訳『正史 三国志 3 魏書Ⅲ』(ちくま学芸文庫、1993年) 陳思王植伝 pp.292-293

論語ろんご学而がくじ篇より

曹操が魏王となったことを憂える荀彧荀攸と語り合い、見上げた廟の扁額に記されている。
『論語』にある曽子孔子の弟子の曽参そうしん)の言葉。「遠」は祖先の意味。

慎終追遠

“終わりを慎み
 遠きを追う”

曾子曰、愼終追遠、民德歸厚矣、

曾子のわく、終わりを愼しみ遠きを追えば、民の德、厚きに歸す。

曾子がいった、「かみに立つものが、〕親を手厚くほうむり祖先をお祭りしていけば、人民の徳も〔それに感化されて〕厚くなるであろう。」

金谷治訳注『論語』(岩波文庫、1963年) 学而第一 p.26

軍師聯盟 15話 司馬朗の救出

孫子そんしせい兵勢へいせい)篇より

司馬朗を助け出すために荀彧の元へ赴いた司馬懿が、一人で解決しようとするのは「匹夫の勇」だと諭される。

仲达
有句话
善战者求之于势
不责于人

能救你兄长的不是我
是形势
是人心
是满朝文武大臣的人心
而不是靠你一个人
去逞匹夫之勇

仲達ちゅうたつ
“戦上手は勢いに乗り
 人の能力に頼らぬ”

孫子そんしの兵法だ
私では司馬朗しばろうを救えぬ
形勢と人心が鍵を握る
百官を味方につけるべきだ
1人で突っ走るのは
賢い選択ではない

[……]善戰者、求之于勢、不責於人、故能擇人任勢、任勢者、其戰人也、如轉木石、木石之性、安則靜、危則動、方則止、圓則行。故善戰人之勢、如轉圓石於千仞之山者、勢也

[……]故に善く戦う者は、これをせいに求めて人にもとめず、故にく人をえらびて勢に任ぜしむ。勢に任ずる者は、其の人を戦わしむるや木石を転ずるが如し。木石の性は、安ければ則ち静かに、危うければ則ち動き、方なれば則ち止まり、円なれば則ち行く。故に善く人を戦わしむるの勢い、円石を千仞せんじんの山に転ずるが如くなる者は、勢なり。

[……]そこで、戦いに巧みな人は、戦いの勢いによって勝利を得ようと求めて、人材に頼ろうとはしない。だから、うまく〔種々の長所を備えた〕人々を選び出して、勢いのままに従わせることができるのである。勢いのままにまかせる人が兵士を戦わせるありさまは、木や石をころがすようなものである。木や石の性質は、〔平坦な処に〕安置しておけば静かであるが傾斜した処では動き出し、方形であればじっとしているが、丸ければ走り出す。そこで、巧みに兵士を戦わせたその勢いは、千仞せんじんの高い山から丸い石をころがしたほどにもなるが、それが戦いの勢いというものである。

金谷治訳注『新訂 孫子』(岩波文庫、2000年) 勢篇第五 pp.71-73

公開:2022.04.25 更新:2022.08.03

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