「軍師連盟」に登場する古典 ② 6〜10話
中国ドラマ「三国志〜司馬懿 軍師連盟〜」(原題:第一部「大軍師司馬懿之軍師聯盟」、第二部「虎嘯龍吟」)の台詞に引用される故事・詩などの出典を調べた。赤枠は本編の字幕より引用。
目次
軍師聯盟 6話 校事府からの密偵
曹丕「又清河作一首(又清河の作一首)」より
密かに曹丕に想いを寄せている郭照が吟じる。曹丕作の詩。
心伤安所念
但愿恩情深
愿为晨风鸟
双飞翔北林悲しき心 君を思い安らぐ
深き温情を心より願う
晨の風鳥よ
並びて北の林に飛翔せん
方舟戲長水 湛澹自浮沈
絃歌發中流 悲響有餘音
音聲入君懷 悽愴傷人心
心傷安所念 但願恩情深
願爲晨風鳥 雙飛翔北林もやい舟が長い川にただようている。水はゆたゆたとたたえ、舟はひとりでに上下浮動する。流れの中ほどで絃歌の声がおこり、その悲しい響きには余韻がつづき、その音響はあなたの懐の中まではいる。ものがなしさは、人の心を傷ましめるのであるが、傷んだ心に何を思うであろうか。ただあなたの恩情の深からんことをのみ願う。せめては二匹のはやぶさとなり、共に翼をつらねて北の林をかけめぐりたいと思う。
内田泉之助『新釈漢文大系 第60巻 玉台新詠(上)』(明治書院、1974年) 卷二 又淸河作一首 p.128
『詩経』衛風「木瓜」より
司馬孚と郭照を結婚させようとしている司馬家で、浮かれた侯吉が歌う。別室では張春華が郭照に果物を差し入れながら縁談を持ちかけている。
多少表現が異なるが、女性が果物を投げて求婚し、男性が佩玉で答えるという風習に基づく詩経の詩。 ※引用した『新釈漢文大系』では「匪」を「かれ」と解釈しているが、一般的には「あらず」で「ただのお返しではなく〜」といった意味にとるようである。
投之以木桃
报之以琼瑶
匪报也桃をもってこれに投ずれば
美しき玉をもってこれに報ず
報いるにあらざるなり
投我以木瓜 報之以瓊琚
匪報也 永以爲好也投我以木桃 報之以瓊瑤
匪報也 永以爲好也投我以木李 報之以瓊玖
匪報也 永以爲好也[……]
我に投ずるに木桃を以てす 之に報ゆるに瓊瑤を以てす
匪れ報いたり 永く以て好を爲さん
[……]通釈 [……]私に木桃を投げてくれたから、美しい瓊瑤でこれに答えよう。これできまりさ。未永く仲良く暮らそう。[……]
(語釈より)〇匪報也「匪」は否定詞でとるよりも語助詞でとった方がつながりが自然である。彼れ。
石川忠久『新釈漢文大系 第110巻 詩経(上)』(明治書院、1997年) 衛風・木瓜 p.178
『詩経』小雅「北山」より
曹操軍の捕虜となり、故国で死なせてほしいと求めた甄宓に曹操が返す。なお、甄氏の本貫は中山・無極で、結構離れているが、鄴と同じ冀州に属する。袁紹を滅ぼし河北と中原が一体となったのに、何故この地に拘るのか、という曹操らしい(?)考え方。
普天之下莫非王土
河北中原 如今一体
何必拘泥此地どこも同じく天子の地
河北も中原も同じであろう
なぜこだわる?
〔詩経、小雅、北山〕溥天之下(フテンのもと)、莫㆑非㆓王土㆒(オウドにあらざるはなく)、率土之浜(ソットのヒン)、莫㆑非㆓王臣㆒(オウシンにあらざるはなし)。→ 天のあまねくおおう下は、天子の土地でないところはなく(みな天子の土地であり)、陸地の続き果てるどこまでも、(そこに住む人は)天子の臣でないものはいない(みな天子の臣である)。
『新漢語林(第二版)』(大修館書店、2011年)
陟彼北山 言采其杞
偕偕士子 朝夕從事
王事靡盬 憂我父母溥天之下 莫非王土
率土之濱 莫非王臣
大夫不均 我從事獨賢
[……]彼の北山に陟る 言に其の杞を采る
偕偕たる士子 朝夕事に從ふ
王事盬むこと靡く 我が父母を憂へしむ溥天の下 王土に非ざる莫し
率土の濱も 王臣に非ざる莫し
大夫 均しからず 我のみ事に從ひて獨り賢づく
[……]あの北方の山に登り、枸杞の葉を摘みとる。(それを捧げて山の神霊に申し上げる。)強くたくましい私は(群臣らと共に)、朝に晩に王命に従う。王の征役は休む(間も)なく(続き、故郷の)私の父母を憂えさせ(心配させ)る。
大いなる天の下、王の土地でないところはない。地の続く極みまでも、(そこに住む人は誰一人として)王の臣でない者はいない。(なのに王が)大夫(を使うのを)公平にせず、私だけが王命によって(多くの役を与えられ)独り苦労をする。[……]語釈[……]〇溥天之下 「溥」は、大いなる、「溥天」は、大いなる天の意(毛伝・集伝)。屈万里はあまねくとする。 〇率土之浜 その四方の行き着く先を挙げて、その広さを示す意(孔穎達)。「率」は、循う、沿う意(高亨)。「率土」は、地が続くの意。「浜」は、涯、きわみの意(毛伝)。[……]
余説[……]詩中、「普天之下、莫非王土、率土之浜、莫非王臣」は、天子の天下統治の絶対性を表す言葉として古来有名な句であるが、その本来の意味は、このように国が広く人が多いのに、なぜ自分だけかくも不公平に使役せられ、このように王事に苦しむのかという心持ちである。[……]
石川忠久『新釈漢文大系 第111巻 詩経(中)』(明治書院、1998年) 小雅・谷風之什・北山 pp.387-391
江淹「雑体詩三十首」陳思王曹植・贈友
曹操が曹植に即興で詩を詠ませる。
実際には曹植本人の作ではなく、南北朝時代の詩人江淹による摸擬詩。「雑体詩三十首」は各時代の著名詩人の作風に擬し、内容も本人になりきって作られており、他に同時代には曹丕、王粲、劉楨などの詩がある。
(曹操)
往前走二十步
过湖心亭 作诗一首
念给为父听(曹植)
是
君王礼英贤
不吝千金璧
从容冰井台
清池映华薄(曹操)
湖心亭まで20歩だ
歩きながら詩を作り
吟じて聞かせよ(曹植)
では
君王 英賢を礼遇し
千金を惜しまず
悠揚たる氷井台
清き池に映ゆる花影
君王禮英賢 不恡千金璧
雙闕指馳道 朱宮羅第宅
從容冰井臺 淸池映華薄
涼風盪芳氣 碧樹先秋落
朝與佳人期 日夕望靑閣
褰裳摘明珠 徙倚拾蕙若
眷我二三子 辭義麗金雘
延陵輕寶劍 季布重然諾
處富不忘貧 有道在葵藿君王は英賢を禮し、千金の璧を恡しまず。
雙闕は馳道を指し、朱宮は第宅に羅なる。
冰井の臺に從容するに、淸池は華薄に映ず。
涼風は芳氣を盪し、碧樹は秋に先だちて落つ。
[……]通釈 わが君(曹操をさす)は才智すぐれた人々をば礼遇し、千金の価値ある璧をも惜しまずに与える。さて双闕は天子のお成り道を指し、(その大道のかたわらに)朱ぬりのたてものである王侯の邸宅がつらなる。われは氷井台にくつろいで遊ぶに、台の下の清らかな池には(池のほとりの)花のしげみが照りはえ、涼しい風が香気を動かしただよわせ、樹木の緑の葉はこの初秋に枯れて落ちる。[……]
(語釈より)〇氷井台 鄴中記には「銅雀台の北にあり、台上に氷室あり、そこには数箇の井あり、井の深さは十五丈、その中に氷および石墨を蔵む」という。
内田泉之助・網祐次『新釈漢文大系 第15巻 文選(詩篇)下』(明治書院、1964年) 雜體詩三十(江文通) 陳思王(贈友)曹植 pp.719-720
『琴操』「猗蘭操」
捕虜となった甄宓が戦に怯えている部屋の前で、曹植が琴を奏でる。蔡邕が編纂した『琴操』は古代の琴曲を解説した書で、「猗蘭操」は孔子の作とされる。メロディは残っていないためドラマの楽曲は創作だが、曹植は甄宓を蘭に、自分をそれに出会った孔子に擬えたと思われる。
(甄宓)
猗兰操(曹植)
原来姑娘还是知音哪(甄宓)
「猗蘭操」?(曹植)
知っているのか
猗蘭操者,孔子所作也。孔子歷聘諸侯,諸侯莫能任。自衛反魯,過隱谷之中,見薌蘭獨茂,喟然嘆曰:「夫蘭當為王者香,今乃獨茂,與眾草為伍,譬猶賢者不逢時,與鄙夫為倫也。」乃止車援琴鼓之云:「習習谷風,以陰以雨。之子於歸,遠送于野。何彼蒼天,不得其所。逍遙九州,無所定處。世人暗蔽,不知賢者。年紀逝邁,一身將老。」自傷不逢時,託辭於薌蘭云。
なお、『琴操』の題に基いて唐代の韓愈が新たに詩をつけた「琴操十首」に、「猗蘭操」がある。下記は韓愈の詩。
孔子傷不逢時作
孔子時に逢わざることを傷んで作る蘭之猗猗
揚揚其香
不採而佩
於蘭何傷
今天之旋
其曷爲然
我行四方
以日以年
雪霜貿貿
薺麥之茂
子如不傷
我不爾覯
薺麥之茂
薺麥之有
君子之傷
君子之守〇猗蘭操 「生き生きとした蘭」のうた。孔子が、諸侯を歴訪して、自分を国政に用いるように求めたが、諸侯は任用することができず、孔子は自分の祖国魯に帰ろうとして、人知れぬ谷間を通りすぎると、香おり高い蘭がひとりぼっちでさいていたので、それを見て、時節にあわないのをわが身にひきくらべつつなげいたとして作った歌である。[……]
色つやのよい蘭が ぷんぷんその香おりを放っている。採って身に佩びなくても、蘭の方は傷み悲しむわけはない。ただいまの天のめぐりあわせは、どうしてこんなだろう。わたしは四方の国国に旅し、日をかさね年をかさねた。雪や霜がかきくらしふるとき、なずなとむぎは茂る。蘭よもし君が傷み悲しむ状態でなければ、わたしが君にあうことはあるまい。なずなとむぎの茂るのは、なずなとむぎの本性なのだ。君子が傷み悲しむのは、君子が節操を守るからなのだ。
清水茂 注『中国詩人選集 11 韓愈 』(岩波書店、1958年)琴操十首 pp.74-26
『論語』季氏篇より
袁紹に内通しようとした者の文の措置を曹操に尋ねられ、目を通すべきだと主張する曹丕。「季孫の憂いは顓臾に在らずして蕭牆の内に在り」。日本語字幕では意訳されている。第4話に登場した表現の長いバージョン。
这些人见我军势寡 便趋炎附势
背主求荣 后患无穷
今日不杀
回到军中也要尽快处置
否则 战事再起
他们便会是敌军内应
正所谓季孙之忧 不在颛臾
而在萧墙之内利を見て立場を変える者は
いずれ災いを招きます
この機に一掃すべきです
さもなくば次の戦でまた
敵に内応しかねない
災いが起こる前に
取り除いておかなくては
『論語』憲問篇より
先の場面の続き。意見が分かれた曹植に対し、首鼠両端の小人らを用いるべきではないと主張する曹丕。
直訳は「孔子も『徳を以て怨みに報ゆ』には賛同していない。」
父亲的敌人还有东吴和刘备
他日必有一战
怎么能用这些首鼠两端的小人呢
孔子尚不赞同以德报怨敵は袁紹だけではない
孫権と劉備がいる
小賢しい朝臣どもは
また動き出す
恩情を施すべきではない
或曰、以德報怨、何如、子曰、何以報德、以直報怨、以德報德、
或るひとの曰わく、徳を以て怨みに報いば、何如。子の曰わく、何を以てか徳に報いん。直きを以て怨みに報い、徳を以て徳に報ゆ。
ある人が「恩徳で怨みのしかえしをするのは、いかがでしょう。」といった。先生はいわれた、「では恩徳のおかえしには何でするのですか。まっ直ぐな正しさで怨みにむくい、恩徳によって恩徳におかえしすることです。」
金谷治訳注『論語』(岩波文庫、1963年) 憲問第十四 pp.292-293
ちなみに『老子』は同様の考えを「怨みに報ゆるに徳を以てす」として肯定している。
爲無爲、事無事、味無味。大小多少報怨以德。圖難於其易、爲大於其細。天下難事、必作於易、天下大事、必作於細。是以聖人終不爲大。故能成其大。夫輕諾必寡信。多易必多難。是以聖人猶難之。故終無難。
通釈 道を体得した聖人は、人目につく働きをせず無為をなし、殊更の施策を行なわず無事を事とし、その言行は淡白無味を旨とする。しかしてこの聖人は、小さい事柄を小さいからと等閑に付することなく、大きな事柄になる始めと考え、少ないからと言ってこれを等閑視することなく、多くなる始めと考えて細心に事を運び、他人が自分に恨めしい行為を取っても、これに恵徳をもって報いる。(怨みに報いるに徳をもってすれば、人間の間の争い事など、殆んどすべての事件は小さいうちに解決され、大事に至らずして終るものである。)むずかしい事件の解決を図るのは、それがまだやさしい状態にあるうちにすべきであるし、大きい事件は、それがまだ細かいうちに治むべきである。[……]
阿部吉雄・山本敏夫・市川安司・遠藤哲夫『新釈漢文大系 第7巻 老子・荘子(上)』(明治書院、1966年) 老子 恩始第六十三 pp.107-108
軍師聯盟 7話 狼顧の相
『論語』為政篇より
幼い曹沖が師の徐庶について曹操に尋ねられ、論語を習っていると語る。司馬懿を馬番に任じて観察するというシチュエーションに繋がるものか。
子曰 视其所以 观其所由
察其所安 人焉叟哉
先生对孩儿尽心竭力 知无不言
孩儿很喜欢先生“その人の
普段の行いを観察すれば”
“隠しきれぬ真の姿が見える”
どんなことも
熱心に教えてくれるので
徐先生が好きです
子曰、視其所以、觀其所由、察其所安、人焉廋哉、人焉廋哉、
子の曰わく、其の以す所を視、其の由る所を観、其の安んずる所を察すれば、人焉んぞ廋さんや、人焉んぞ廋さんや。
先生がいわれた、「その人のふるまいを見、その人の経歴を観察し、その人の落ちつきどころを調べたなら、〔その人がらは〕、どんな人でも隠せない。どんな人でも隠せない。」
金谷治訳注『論語』(岩波文庫、1963年) 為政第二 p.40
曹植「與楊徳祖書(楊徳祖に與うるの書)」より
楊修に詩人となるよりも施政者として功績を残したいという野心を語る曹植。楊修に贈った手紙の一節が、ドラマでは直接の会話になっている。
(杨修)
公子跟臣说实话
您的志向是什么
做个大诗人(曹植)
当然不是
我的志向
那是学父亲
戮力上国 流惠下民
建永世之业 勒金石之功(楊修)
子建殿が志すものとは?
偉大な詩人ですか
(曹植)
まさか
私は父上のようになりたい
豊かな国を作るため尽力し
歴史に名を刻みたいのだ
[……]昔、揚子雲、先朝執戟之臣耳。猶稱壯夫不為也。吾雖德薄、位為蕃侯、猶庶幾戮力上國、流惠下民、建永世之業、流金石之功。豈徒以翰墨為勳績、辭賦為君子哉[……]
[……]昔、揚子雲は、先朝の執戟の臣なるのみ。猶ほ壯夫は為さざるなりと稱す。吾、德薄く、位蕃侯為りと雖も、猶ほ力を上國に戮はせ、惠みを下民に流し、永世の業を建て、金石の功を留めんと庶幾ふ。豈徒だに翰墨を以て勳績と為し、辭賦もて君子と為さんや。[……]
[……]その昔、楊雄は先朝の宮廷の下級官吏に過ぎませんが、それでも「立派な男は辞賦を作らぬものだ」と述べております。私は徳に乏しくて藩侯であるに過ぎませんが、それでも都に近い国々と協力して、人民に恩沢を行き渡らせ、後世に残る功業を打ち立て、金石にその功績を記し留めたいと願っているものであります。いたずらに文章のような小細工によって不朽の功績と考え、辞賦などによって君子の名声を得るなどと思ったりしましょうか。[……]
竹田晃『新釈漢文大系 第83巻 文選(文章篇)中』(明治書院、1998年) 曹植「與楊徳祖書」 pp.252-258
『論語』八佾篇より
俘虜の甄宓を曹丕と婚姻させるのは、甄宓に想いを寄せる曹植に兄を憎ませるためだと卞夫人に語る曹操。
子桓 子建之争在所难免
而子建过于孝悌
若子桓不退
子建他是难以下决心跟他争的
君子之争必也射乎
我要让子建不足
要让他能跟自己的兄长狠下心来
也要让他拿出真本事来
给孤看 给天下看兄弟の争いは避けられぬが
子建は年長者を敬う子だ
兄を倒すべき敵と見なさねば
本気で挑まぬだろう
君子とて弓の腕前を競うもの
子建を追い込み—
心から兄を憎ませるのだ
そうすれば真の実力を
天下に示すであろう
子曰、君子無所爭、必也射乎、揖讓而升下、而飮、其爭也君子、
子の曰わく、君子は争う所なし。必らずや射か。揖讓して升り下り、而して飲ましむ。其の争いは君子なり。
先生がいわれた、「君子は何事にも争わない。あるとすれば弓争いだろう。〔それにしても〕会釈し譲りあって登り降りし、さて〔競技が終わると勝者が敗者に〕酒を飲ませる。その争いは君子的だ。」
*弓争い——射礼のこと。『儀礼』の郷射礼と大射礼にそのさだめがある。[……]
金谷治訳注『論語』(岩波文庫、1963年) 八佾第三 p.55
曹松「己亥歳 二首 其一」より
先に続く会話の中で、曹丕が哀れ(原文「委屈」=辛い思いをさせる、不当な仕打ちを受け無念である)だと言う卞夫人に、曹操が持論を語る。曹松「己亥歳詩」の一節「一将功成りて万骨枯る」。曹松はドラマの舞台より後世の晩唐の詩人だが、一般に有名なフレーズとして使われているようである。
ちなみに、曹操はこの会話をしながら、曹丕の『典論』論文篇が記された竹簡の一字を削って消している。(消している文字は「蘭台令史(※官名)」の「蘭」だが、意図はわからない……)
委屈的人多啦
一将功成万骨枯
大江东去
尽是流不尽的英雄血
多少人的委屈在里面
那是多少人的委屈哀れな者ばかりだ
多くの兵を犠牲にして
将軍は功を成す
東へ流れる長江に
英雄の血が
尽きることなく流れゆく
どれほどの哀れが
行き場を失ったまま
漂っていることか
澤國江山入戰圖,生民何計樂樵蘇。
憑君莫話封侯事,一將功成萬骨枯。
軍師聯盟 8話 望まれぬ契り
班婕妤「怨歌行」より
望まぬ結婚の日、詩が記された団扇を手にした甄宓と、それに目を留めた曹丕の会話。
漢の成帝の寵を失った悲しみを詠んだ班婕妤の詩(ただし偽作とされる)。「婕妤(婕伃)」は官名。
(曹丕)
新裂齐纨素
鲜洁如霜雪
那做团扇的班婕妤下场并不妤
不要学她(甄宓)
她也曾经被她的夫君宠爱过
不爱的时候
还让她退居长信宫
保留一丝尊严
我很羡慕她(曹丕)
“新たに白絹を裂く”
“清きこと霜雪のごとし”
この詩を詠んだ班倢伃に
倣うことはなかろう(甄宓)
一度は深く夫に愛され
寵を失ってからは
後宮を退いた
尊厳を守った班倢伃に憧れます
新裂齊紈素 皎絜如霜雪
裁爲合歡扇 團團似明月
出入君懷袖 動搖微風發
常恐秋節至 涼風奪炎熱
弃捐篋笥中 恩情中道絕新に齊の紈素を裂けば、皎絜にして霜雪の如し。
裁ちて合歡の扇と爲せば、團團として明月に似たり。
君が懷袖に出入し、動搖して微風發す。
常に恐る秋節の至りて、涼風炎熱を奪ひ、
篋笥の中に弃捐せられ、恩情中道に絕えんことを。通釈 新しく斉国産の白絹を裂くと、それは潔白でさながら雪や霜のようだ。それをたちきって合せ貼りの円扇を作ったらまんまるで満月のようである。
この扇は君の袖や懐に出入りして、動かすたびにそよ風が起る。けれど心配なのは、やがて秋の季節が訪れて、涼風が暑さを吹き去ると、同時にわが身も秋の扇として箱の中になげこまれ、君のなさけも中途で絶ちきられることです。内田泉之助・網祐次『新釈漢文大系 第15巻 文選(詩篇)下』(明治書院、1964年) 班婕妤「怨歌行」 pp.473-474
曹丕「大牆上蒿行」より
結婚の夜、司馬懿の厩を訪れた曹丕が、祝いの盃を拒否して語る。また曹丕が去った後、郭照が繰り返しながら酒を呷っている。
曹丕作の楽府の最後の一節。字幕は「末央」を「遠い」と訳しているが、ここでは「尽きない」で(この部分としては)肯定的な意味か。
这世间
哪有那么多喜事可贺
倒是你一番话可以借酒忘忧啊
今日乐
不可忘
乐末央
何为自苦
使我心悲この時世に
祝うべきことなどあろうか
お前と話して
いくらか憂いが晴れた
“今宵の楽しみ 忘れられず”
“喜びは遠い”
“自ら苦しみて
我が心を痛ます”
[……]
今日楽、
不可忘。
楽未央。
為楽常苦遅、
歳月逝忽若飛。
何為自苦、
使我心悲。[……]
今日 楽しむ
忘るべからず
楽しみ未だ央きず
楽しみを為す 常に苦だ遅し
歳月の逝く 忽として飛ぶが若し
何為れぞ自らを苦しめ
我が心をして悲ましむ伊藤正文「曹丕詩補注稿(楽府)」(『論集:神戸大学教養部紀要』23、1979年、pp.74-76)
古詩十九首・第一首より
母と共に帰郷するつもりだと曹操に答える徐庶。日本語字幕では意訳されているが、「胡馬は北風に依り、越鳥は南枝に巣くう」の表現が使われている。遠行の夫を思う妻の古詩で、国を追われた忠臣の情とする解釈もある。
胡马依北风
越鸟巢南归
臣想奉老母归故乡望郷の念を募らせる母と共に
故郷へ帰るつもりです
【胡馬依㆓北風㆒】コバホクフウによる
胡馬は異国にいても北風が吹くと頭を上げて北の方に身を寄せ、なつかしむ。故郷を忘れないたとえ。〈古詩十九首〉【越鳥巣(巢)㆓南枝㆒】エッチョウナンシにすくう
南方の越の国から来た鳥は故郷に一歩でも近い南の枝に巣をかける。故郷を恋い慕う意。〈古詩十九首〉『全訳 漢辞海(第四版)』(三省堂、2017年)
行行重行行 與君生別離
相去萬餘里 各在一天涯
道路阻且長 會面安可知
胡馬依北風 越鳥巢南枝
相去日已遠 衣帶日已緩
浮雲蔽白日 遊子不顧反
思君令人老 歲月忽已晚
棄捐勿復道 努力加餐飯[……]
胡馬は北風に依り、越鳥は南枝に巢くふ。
相去る日に已に遠く、衣帶日に已に緩む。
[……]通釈 [……]胡の馬は北風に身をよせていななき、越の鳥は南の枝を求めて巣くうと申します。すべて故郷は忘れ難いものなのに、あなたはまだお帰りもなく、お別れしてから日数も遠く過ぎました。[……]
内田泉之助・網祐次『新釈漢文大系 第15巻 文選(詩篇)下』(明治書院、1964年) 雑詩上(古詩十九首) p.554
『易経』乾為天より
徐庶が曹丕に司馬懿を推挙するが、司馬懿には拒絶されたと言われ返した言葉。「潜龍淵に在り」という表現が使われ、まだ世に出ていない英雄が現れようとしていることを表す。日本語字幕では意訳されている。
潜龙在渊
就看公子有没有用他的本事了秘めたる才を生かすのは
使う者次第です
【潜竜(龍)】せんりょう
池や淵の底深くひそんでまだ天に上らない竜。竜は時が来れば雲を呼び天に上るといわれる。転じて、天子がまだ位につかないときの称。また、世に出ない大人・君子のたとえ。〔易・乾〕
『角川 漢和中辞典』(角川書店、1959年)
乾、元亨。利貞。
初九、潛龍。勿用。
九二、見龍、在田。利見大人。
九三、君子、終日乾乾、夕惕若。厲无咎。
九四、或躍在淵。无咎。
九五、飛龍、在天。利見大人。
上九、亢龍。有悔。
用九、見羣龍。无首、吉。乾は、元いに亨る。貞しきに利し。
初九、潛龍なり。用ふること勿れ。
九二、見龍、田に在り。大人を見るに利し。
九三、君子、終日乾乾し、夕べまで惕若たり。厲けれども咎无し。
九四、或いは躍らんとして淵に在り。咎无し。
九五、飛龍、天に在り。大人を見るに利し。
上九、亢龍なり。悔い有り。
用九、羣龍を見る。首たること无くして、吉。通釈 [……]初九は最下の陽爻、陽気の地下に潜在することを示す。龍が乾の象であるから、初九は淵に潜み隠れている龍の象である。まだその才徳を施用すべき時ではないので、その占は施し用いることなかれとの戒辞である。[……]九四は内卦を離れて外卦の下、君位の近くに進み、進退のまだ定まらない多懼の地に居る。然るべき時に躍り上がれば必ず天に昇るが、まだ今は躍り上がらず淵に潜む龍の象である。従って多懼の地に居るが、何の咎めもないとの占である。[……]
今井宇三郎『新釈漢文大系 第23巻 易経(上)』(明治書院、1987年) 周易上經(1)乾 pp.94-96
尹義尚「與徐僕射書」(?)
曹操が徐庶を敢えて逃がしたと知る荀彧が評する。
詳細未確認だが、尹義尚という人物による評で、ドラマではこれを荀彧の台詞にアレンジしている? なお関羽の「骁将」(驍将)は猛将・勇将の意味だが、なぜか字幕では知将と訳されている。
徐元直 刘备之谋士
关云长 刘备之骁将
须归即遣 知叛弗追
丞相之胸怀
真乃当世无人可及劉備の策士 徐元直に
劉備の知将 関雲長
“去る者は追わず”
丞相の寛大さには
感服するばかりです
徐元直西蜀之謀士,關雲長劉氏之驍將,須歸即遣,知叛弗追,今之與古,何其異趣?
尹義尚『與徐僕射書』(Wikisource)
軍師聯盟 9話 仁義の誓い
古詩「箜篌引」より
舟の上で司馬懿に心境を語る曹丕。溺れて死にそうな河を渡らざるを得ない。第3話にも登場した古詩。(詳細は3話参照)
また、この場面の会話の最後にも再び登場する。
我知道
我也常常有这种感觉
就好比整个身体
沉溺在冰冷的水中
每一寸骨头都是冷的
上摸不到青天
下够不到黄土
公无渡河 公寬渡河
究竟该怎样渡过这条河その苦しみは私も感じておる
頭から爪の先まで水中に沈み
骨まで冷えてゆく
空にも大地にも手が届かない
“それでも川を渡る”
この川を渡るには
どうすればよい?
公無渡河 公竟渡河
墮河而死 當奈公何公河を渡る無れ。公竟に河を渡りぬ。
河に墮ちて死す。當に公を奈何かすべき。君よ河を渡るなかれと、とどめたけれども、君はついに河を渡った。そして河におちて死んでしまった。ああ、君をどうしたらよいのであろう。(どうにも仕方がない)
内田泉之助『漢詩大系 第四巻 古詩源 上』(集英社、1964年) 巻三 漢詩 p.144
曹丕『典論』論文篇より
先の会話に続き、河を渡らない道もあるが、と語る司馬懿。自分の論を読んでいることを知った曹丕は笑顔を見せる。最古の文学論として知られる曹丕の「典論論文」の有名な一節。
(司马懿)
文章
经国之大业 不朽之盛事(曹丕)
你读过我的文章(司馬懿)
“文章は
経国の大業 不朽の盛事”(曹丕)
私の論文を?
[……]蓋文章經國之大業、不朽之盛事。年壽有時而盡、榮樂止乎其身。二者必至之常期、未若文章之無窮。是以古之作者、寄身於翰墨,見意於篇籍、不假良史之辭、不託飛馳之勢、而聲名自傳於後。[……]
[……]蓋し文章は經國の大業にして、不朽の盛事なり。年壽は時有りて盡き、榮樂は其の身に止まる。二者は必ず至るの常期あり、未だ文章の無窮なるに若かず。是を以て古の作者、身を翰墨に寄せ、意を篇籍に見し、良史の辭を假らず、飛馳の勢ひに託せずして、聲名は自ら後に傳はる。[……]
[……]そもそも、文学は国を治めるうえでの重要な事業であり、永久に滅びることのない偉大な営みである。人の寿命はしかるべき時がくると尽き、栄華逸楽も生きている間だけのことである。この二つは、必ず行きつ(き消滅すべ)く定まった時期があり、文学が永遠であるのに及ばない。そこで、古の作者は、執筆活動に身をささげ、書物に自分のおもいを表し、すぐれた史官のことばも借りず、権力者の力にも頼らず、その名声がおのずから後世に伝えられたのである。[……]
魏文帝「典論論文」より 竹田晃『新釈漢文大系 第93巻 文選(文章篇)下』(明治書院、2001年) pp.199-200
曹植「閨情詩」
甄宓が曹植の詩を見ながら琴を弾いている。台詞には登場しないが、下記の詩のようである。
有美一人,被服纖羅,
妖姿豔麗,蓊若春花,
紅顏韡曄,雲髻峨峨,
彈琴撫節,為我弦歌,
清濁齊均,既亮且和,
取樂今日,遑恤其他。
『孫子』軍争篇より
曹丕に策を授けたのが司馬懿であると見抜いて評価する曹操。日本でもよく知られる『孫子』の一節。
此人懂兵法嘛
不动如山
闹这么大动静
挑动整个许都百姓围观
朝廷百官助声势
他倒能安坐家中奴は兵法を知るのか
孫子の兵法
“動かざること山のごとし”
許都の民と朝廷の百官を
たきつけておいて
策士は動かぬ
[……]故兵以詐立、以利動、以分合爲變者也,故其疾如風、其徐如林、侵掠如火、不動如山、難知如陰、動如雷震、掠鄕分衆、廓地分利、懸權而動、先知迂直之計者勝、此軍爭之法也、
[……]故に兵は詐を以て立ち、利を以て動き、分合を以て変を為す者なり。故に其の疾きことは風の如く、其の徐なることは林の如く、侵掠することは火の如く、知り難きことは陰の如く、動かざることは山の如く、動くことは雷の震うが如くにして、郷を掠むるには衆を分かち、地を廓むるには利を分かち、権を懸けて而して動く。迂直の計を先知する者は勝つ。此れ軍争の法なり。
[……]そこで、戦争は敵の裏をかくことを中心とし、利のあるところに従って行動し、分散や集合で変化の形をとっていくものである。だから、風のように迅速に進み、林のように息をひそめて待機し、火の燃えるように侵奪し、暗やみのように分かりにくくし、山のようにどっしりと落ちつき、雷鳴のようにはげしく動き村里をかすめ取〔って兵糧を集め〕るときには兵士を手分けし、土地を〔奪って〕広げるときにはその要点を分守させ、万事についてよく見積りはかったうえで行動する。あいてに先きんじて遠近の計——遠い道を近道に転ずるはかりごと——を知るものが勝つのであって、これが軍争の原則である。
金谷治訳注『新訂 孫子』(岩波文庫、2000年) 軍争篇第七 pp.94-95
軍師聯盟 10話 民意の赦免
『詩経』唐風「綢繆」より
「仁義」の旗の下で沙汰を待つ曹丕が、夜にやってきた郭照に語る。
理想的な夫に巡り会った喜びを歌う詩。(諸説あり)
今夕何夕 见此粲者
想不到这最后一晩
居然是你陪着我“今宵 何の夕ぞ
きらめく人に見ゆ”
最後の夜をそなたと—
過ごせた
綢繆束薪 三星在天
今夕何夕 見此良人
子兮子兮 如此良人何綢繆束芻 三星在隅
今夕何夕 見此邂逅
子兮子兮 如此邂逅何綢繆束楚 三星在戶
今夕何夕 見此粲者
子兮子兮 如此粲者何[……]
綢繆たる束楚 三星は戶に在り
今夕は何の夕べぞ 此の粲者に見へり
子兮 子兮 此の粲者を如何せん通釈 [……](婚礼の願かけに)きりりと縛った小枝、(祈りを捧げる)三つ星も戸口の空にまたたく。今夕は何と良い夕べ、この美しいお方に会うことができた。ああ、ああ、この美しいお方をいかにしようぞ。
石川忠久『新釈漢文大系 第111巻 詩経(中)』(明治書院、1998年) 国風・唐風・綢繆 pp.14-15
『論語』衛霊公篇より
司馬懿を配下にすることを許された曹丕が、厩にやってきて師友になってほしいと語る。
还记得你当初送我仁义二字吗
你莫忘
孔子日 当仁不让私に“仁義”を贈ってくれたな
“義を見てためらうな”
孔子の言葉だ
当仁不让 dāng rén bù ràng
成 なすべきことは自ら進んで行う.
由来 『論語』衛霊公篇に見えることば.『超級クラウン中日辞典』(三省堂、2008年)
子曰、當仁不讓於師、
子の曰わく、仁に当たりては、師にも譲らず。
先生がいわれた、「仁徳〔を行う〕に当たっては、先生にも遠慮はいらない。」
金谷治訳注『論語』(岩波文庫、1963年) 衛霊公第十五 p.321
『詩経』周頌「般」より
曹丕に仕えることを決意した司馬懿が、ともに馬で駆けた山頂で語る。周王室の宗廟歌。
于皇时周 陟其高山
在下愿与中郎将同行
看看这壮美江山
青天凌云
在下愿追随中郎将 振翅高飞“時は満ち
その高き山に登る”
中郎将に随行し
絶景を見下ろしつつ
より高く羽ばたかんと
願っています
於皇時周 陟其高山
嶞山喬嶽 允猶翕河
敷天之下 裒時之對
時周之命於皇たる時の周 其の高山に陟り
嶞山喬嶽 允れ猶ほ河を翕む
敷天の下 裒めて時に之れ對す
時れ周の命通釈 ああ、すばらしい周、高山に登り、
連なる低山・高山、ああいまなお河の流れをあつめる。
天下いたるところ、人々を集めて天にお答え申し上げる。
これが周の天命ですと。石川忠久『新釈漢文大系 第112巻 詩経(下)』(明治書院、2000年) 頌・周頌・閔予小子之什・般 pp.374-375
『詩経』小雅「北山」より
曹丕につけば曹操を敵に回すと言う張春華に反論する司馬懿。「普天(=溥天)の下、王土に非ざるは莫く、率土の濱、王臣に非ざるは莫し」。第6話にも登場したフレーズ。
这普天之下 莫非王土
率土之滨 莫非王臣
我一个学子
最大的抱负
就是找到一个明主
臣之 辅之
也许
我还能和他一起结束这乱世この世の土地も臣民も
あまねく君主のものだ
読書人としての大望は
名君と認める為政者を
補佐すること
そして乱世を終わらせる
公開:2022.04.20 更新:2022.08.03