「軍師連盟」に登場する古典 ① 1〜5話

中国ドラマ「三国志〜司馬懿 軍師連盟〜」(原題:第一部「大軍師司馬懿之軍師聯盟」、第二部「虎嘯龍吟」)の台詞に引用される故事・詩などの出典を調べた。赤枠は本編の字幕より引用。

目次

軍師聯盟 1話 月旦評の陰謀

孟子もうし尽心章句じんしんしょうく上篇より

曹操に忠告する郭嘉。中国語の成語「君子不立危墙之下」(直訳:君子は高い塀の下には立たない)。『孟子』由来の言葉か。日本語字幕では意訳されている。

君子不立危墙之下
到时候四方人马涌入许都
是要严加防范
司空还是要严加防范
多加小心

各地から許都に向けて
人が押し寄せます
用心を怠ってはなりませぬ

孟子曰、莫非命也、順受其正、是故知命者、不立乎巖牆之下、盡其道而死者、正命也、桎梏死者、非正命也、

孟子曰く、〔人の死するは〕めいにあらざることなきも、其のせい〔命〕を順受じゅんじゅすべし。是の故に〔天〕命を知る者は、〔危〕がん〔壊〕しょうもとに立たず。其の道を尽くして死する者は、正命なり。桎梏つみうけて死する者は、正命にあらざるなり。

孟子がいわれた。「〔人間が短命であるか、長寿をまっとうできるかは〕、すべて天命でないものはないが、正しい天命(正当な運命)をすなおに受ける心構こころがまえが必要だ。だから、天命を心得こころえた人は、危なっかしい岩石や崩れかかった石べいの下などには、〔不慮おもわざるの死を招くことがあるから〕決して立たないものだ。人間としてなすべき正しい道に力をくして死ぬのは、〔いわゆる人事をくして天命を待つ〕正しい天命なのだ。罪を犯して手かせ足かせをかけられて獄死するのは、正しい天命ではないのだ。」

小林勝人訳注『孟子(下)』(岩波文庫、1972年) 尽心章句上 pp.320-321

大戴礼記だたいらいき』曾子立事篇より

楊修が妹と司馬孚との縁談を断ってきたことに腹を立てる司馬朗

君子不尽人之礼
他侮辱我三弟 还羞辱我弟妹

礼儀知らずめ
弟たちと義妹いもうとを侮辱しおった

[……]君子不絕人之歡、不盡人之禮。[……]

君子くんしひとよろこびをたず、ひとれいくさず。

[……]君子は飲食の饋礼においても人の歓待を絶ちきるようなことはしないのであり、服物の礼においてもまごころをもって待つのである。[……]

栗原圭介『新釈漢文大系 第113巻 大戴礼記』(明治書院、1991年) 曾子立事第四十九 pp.188-190

尚書しょうしょ』(書経しょきょう咸有一徳かんゆういっとく篇より

月旦評の会場で、弟・司馬孚の弁護のため楊修に反論する司馬懿。『尚書』は『書経』の別名(『書経』は宋代以降の称)。孔子の編とされるが、一部の篇は後世の偽作。

在下以为
司马迁把咸有一德和伊诰
混为一谈 已是不妥
郑玄以尹诰的丢失
便断定咸有一德的丢失
就更显草率
[……]
在下才疏学浅
司马迁与郑玄二公皆是圣贤
但难道这圣贤就不会犯错吗
咸有一德文章是说
天命无常 为君者应当经常修德
才可保住君位
若停止修德 便会失去君位

这正是孔子春秋之微言大义
也正是编纂尚书之主旨
这是其一

「咸有一徳」と「尹誥いんこう」篇を
同一視した司馬遷しばせんならって
「尹誥」と共に「咸有一徳」を
否定するのは浅はかです
[……]
 
 
司馬遷しばせん鄭玄ていげん
博学多才なる大家ですが
大家とて誤るのでは?
「咸有一徳」篇には
“君主は常に修養に努めよ”
と記されている
“皇位を奪われぬように”
これこそ孔子こうしが「春秋しゅんじゅう」を作り
「尚書」を
編纂した意図なのだ

伊尹既復政厥辟。將告歸、乃陳戒于德。曰、嗚呼、天難諶、命靡常。常厥德、保厥位、厥德匪常、九有以亡。[……]

伊尹いゐんすでまつりごときみかへす。まさげてかへらんとし、すなはとくいましむ。いはく、嗚呼ああてんまこととしがたく、めいつねし。とくつねにすれば、くらゐたもち、とくつねなられば、九有きういうもっほろぶ。[……]

伊尹は、すでに政治をその君太甲に返しおえた。年老いたので、官をやめたいと申し出て、郷里に帰ろうとし、そのとき、徳についての意見を、王に述べて戒めた。次のようにいった。「ああ、天はあてにはならないものですし、その命は一定してはいません。君が常にその徳につとめれば、その位を保っていけますが、その徳につとめるのに常でなければ、天下の九州は失われてしまいます。[……]

小野沢精一『新釈漢文大系 第26巻 書経(下)』(明治書院、1985年) 咸有一徳 p.429

軍師聯盟 3話 連判状の行方

蔡邕さいよう(*注)飲馬長城窟行いんばちょうじょうくつこう(馬を長城のいわやみずかう行)」より

投獄された司馬防の救出のため、曹丕の協力を得ようと説得する郭照。曹丕の心情に訴えようとした司馬懿の入れ知恵である。
遠征の夫を思う妻の情を歌う、後漢時代ごろの作者不明(*注:『玉台新詠』では蔡邕の作とする)の楽府。後の回にも登場する。

枯桑知天风
海水知天寒
入门各自媚
谁肯相为言

别人不说
这其中的荣枯冷暖
公子难道不自知吗

“枯れ葉に風の冷たさを知り
 大海原に空の寒さを知る”

この詩から伝わる世の無常を
感じられませんか

靑靑河邊草 綿綿思
不可思 夙昔夢見之
夢見在我傍 忽覺在他鄕
他鄕各異縣 展轉不可見
枯桑知天風 海水知天寒
入門各自媚 誰肯相爲言

客從遠方來 遺我雙鯉魚
呼兒烹鯉魚 中有尺素書
長跪讀素書 書中竟何如
上有加餐食 下有長相憶

[……]
枯桑こさう天風てんぷうり、海水かいすゐてんさむきをる。
もんれば各〻おのおのみづかぶ、たれあへあひためはん。
[……]

[……]
 枝葉の枯れた桑の木を見ては、空吹く風の強いのを知り、海水の冷たきを知っては、夫のいる地方の気候の寒さが思いやられる。(独居の身にはすべて物思いの種ならぬはないのに、)門に入って訪ね来る人は、おためごかしの愛想をならべるだけで、誰も真実私のために慰めてくれる人はいない。
 おりしも遙々遠方から来た方が、私に二匹の鯉をくださった。小者こものを呼んで鯉を烹ようとすると、その腹から一尺ほどの白絹に書いた手紙が出て来た。ひざまずいてそれを読んだ。その手紙の文面は、要するにどんなことであったか。始めには「ご飯を十分食べなさい」とあり、終りには「いつまでも忘れまいぞよ」とあった。

内田泉之助・網祐次『新釈漢文大系 第15巻 文選(詩篇)下』(明治書院、1964年) 飮馬長城窟行 pp.469-470

古詩「箜篌引くごいん」より

打倒曹操の連判状の件で取引を持ちかけにきた楊修と、断ろうとする荀彧のやりとり。
漢代の楽府。別名「公無渡河」、朝鮮の渡し守・霍里子高の妻麗玉の作と伝わる。年老いた狂夫が河に落ちて死に、それを制止できなかった妻の嘆きと諦めの心境。妻が箜篌くご(竪琴の一種)を弾いて悲しみを歌い、自らも身投げして死んだ様子を、目撃した霍里子高麗玉に語ったという。

(荀彧)
公无渡河
公竟渡河

(杨修)
渡河而死 其奈公何
这渡河之人乃是执迷不悟
怨不得旁人

(荀彧)
“川を渡るなかれ”
“それでも川を渡る”

(楊修)
“川に落ちて死んだ”
“どうしようもない”

忠告に耳を貸さず死ぬなら やむを得ない

公無渡河 公竟渡河
墮河而死 當奈公何

こうかはわたなかれ。こうつひかはわたりぬ。
かはちてす。まさこう奈何いかんかすべき。

君よ河を渡るなかれと、とどめたけれども、君はついに河を渡った。そして河におちて死んでしまった。ああ、君をどうしたらよいのであろう。(どうにも仕方がない)

内田泉之助『漢詩大系 第四巻 古詩源 上』(集英社、1964年) 巻三 漢詩 p.144

軍師聯盟 4話 処刑執行の罠

孟子もうし梁恵王章句りょうけいおうしょうく上篇より

司馬防の処刑の監督を躊躇う荀彧(荀令君)に曹操が問う。日本語字幕では省略されている。

令君是君子
君子远离庖厨
是否不愿亲临杀伐之地呀

令君は君子だ
流血の場には
足を踏み入れたくないか

君子遠庖厨くんしハほうちゅうヲとおザクルなり
君子は(生き物を料理する)台所には近づかないのである〈孟・梁恵王上〉

『全訳 漢辞海(第四版)』(三省堂、2017年)

[……]無傷也、是乃仁術也、見牛未見羊也、君子之於禽獸也、見其生、不忍見其死、聞其聲、不忍食其肉、是以君子遠庖廚也、[……]

[……]人民たちがかれこれ申しても、決してお気にかけなさいますな。これこそ尊い仁術(仁へのみちすじ)と申すもの。牛はごらんになったが、羊はまだご覧にならなかったからです。鳥でもけものでも、その生きてるのを見ていては、殺されるのはとても見てはおれないし、〔殺されるときの哀しげな〕鳴き声を聞いては、とてもその肉を食べる気にはなれないものです。これが人間の心情です。だから、君子は調理場の近くを自分の居間いまとはしないのです。[……]

小林勝人訳注『孟子(上)』(岩波文庫、1968年) 梁恵王章句上 pp.54-55

論語ろんご季氏きし篇より

司馬防の処刑前夜にやってきた荀彧曹丕について、郭嘉に語る曹操。「季孫の憂いは蕭牆の内に在り」。「蕭牆の憂い」という表現もあるが、日本語では馴染みがないためか、「獅子身中の虫」と置き換えられている。

好啊
一个尚书令
一个我的儿子
都搅进去了
果然季孙之忧在萧墙之内

いやはや
処刑前夜 尚書令と我が子が
陳情に来たぞ
“獅子 身中の虫”とは
このことか

季氏、まさ顓臾せんゆたんとす。[……]夫れくの如し、故に遠人えんじん服せざれば則ち文徳を修めて以てこれを来たし、既にこれを来たせば則ちこれを安んず。今、ゆうと求とはたすけ、遠人服せざれども来たすことあたわず、くに分崩離析りせきすれども守ること能わず、而して干戈かんかを邦内に動かさんことを謀る。吾れ恐る、季孫の憂いは顓臾に在らずして蕭牆しょうしょうの内に在らんことを。

の〕氏が顓臾せんゆの国を攻め取ろうとしていた。[……]そもそもこういう次第だから、そこで遠方の人が従わないばあいは、〔には頼らないで〕ぶんの徳を修めてそれをなつけ、なつけてからそれを安定させるのだが、今、ゆう(子路)ときゅうとはあの方(季氏)を輔佐していながら、遠方の人が従わないでいるのになつけることもできず、国がばらばらに分かれているのに守ることもできない、それでいて国内で戦争を起こそうと企てている。わたしは恐れるが、季孫きそんの心配ごとは顓臾にはなくて、〔身近い〕へいの内がわにあるだろう。」

顓臾せんゆ——魯に保護されていた小国の名。季(孫)氏は魯の公室をおかして自分の領地をひろげていた。[……]*屛の内がわに……——国内について、公平と和合と安定をつとめるのでなければ、内乱が起こるぞということ。

金谷治訳注『論語』(岩波文庫、1963年) 季氏第十六 pp.324-329

【蕭之憂・蕭之患】ショウショウのうれい
身近に起こる心配事。身内の内輪もめや内乱など。[論・季氏]

『全訳 漢辞海(第四版)』(三省堂、2017年)

春秋左氏伝しゅんじゅうさしでんびん公元年より

楊修司馬防の署名の偽造を促す荀彧。中国語の成語になっている。

司马懿失踪
中郎将求情
供状之上
又没有司马防的签名画押
如果百官因为此事再生变
下一个牵扯的
还不知是谁
庆父不死 鲁难未已

司馬懿しばいが失踪したうえに
署名がないまま
刑を執行すれば
新たな騒動が
起こるかもしれぬ
次は誰が標的になるやら
元凶を生かしておけば
動乱は続く

庆父不死,鲁难未已 Qìngfù bù sǐ,Lǔ nàn wèi yǐ

(成語) (慶父は春秋時代の魯荘公の弟で,荘公の死後その2人の息子が君主になったが,すべて慶父に刺し殺され,魯の国は乱れたことから;慶父を殺さなければ,魯の国の困難は終わらない)元凶を除かねば難はなくならない.

Weblio > 白水社 中国語辞典

冬、齊仲孫湫來省難。[……]仲孫歸曰、不去慶父、魯難未已。公曰、若之何而去之、對曰、難不已、將自斃。君其待之。[……]

[……]仲孫ちゅうそんかへりていはく、慶父けいほらずんば、なんいままじ、と。[……]

通釈 冬に斉の大夫の仲孫湫が魯に来朝して魯の乱れを視察した。[……]仲孫が斉に帰って斉侯に、「魯の慶父を除かなければ、魯の騒ぎはおさまらないでしょう」と報告すると、斉侯は、「どうしたら慶父を除くことができようか」とたずねた。仲孫は、「騒ぎがおさまらないと、自分から倒れるでしょう。君にはそれまでお待ちなさい」とお答えすると、[……]

鎌田正『新釈漢文大系 第30巻 春秋左氏伝 一』(明治書院、1971年) p.240

曹操そうそう短歌行たんかこう」より

司馬防の処刑が行われようとする中、曹操が部屋で詠っている。曹操の代表作「短歌行」の一節。ただしこの部分の大半(下記引用内の通釈参照)は『詩経』鄭風「子衿しきん」および小雅「鹿鳴ろくめい」のフレーズである。「短歌行」はこの後も何度も登場する。

青青子衿
悠悠我心
但为君故
沉吟至今
呦呦鹿呜
食野之苹

青々たる 君が襟
悠々たる 我が心
ただ 君がために
沈吟ちんぎんして 今に至る
呦呦ようようと鹿は嗚き
野のよもぎを食らう

對酒當歌 人生幾何
譬如朝露 去日苦多
慨當以慷 憂思難忘
何以解憂 唯有杜康
青青子衿 悠悠我心
但爲君故 沈吟至今
呦呦鹿鳴 食野之苹

我有嘉賓 鼓瑟吹笙
明明如月 何時可掇
憂從中來 不可斷絕
越陌度阡 枉用相存
契闊談讌 心念舊恩
月明星稀 烏鵲南飛
繞樹三匝 何枝可依
山不厭高 海不厭深
周公吐哺 天下歸心

さけたいしてはまさうたふべし。人生じんせい幾何いくばくぞ。
たとへば朝露てうろごとし。去日きょじつはなはおほし。
がいしてまさもっかうすべし、憂思いうしわすがたし。
なにもっうれひかん。ただ杜康とかうるのみ。
青青せいせいたるきん悠悠いういたるこころ
ただきみためゆえに、沈吟ちんぎんしていまいたる。
呦呦いういうとして鹿しかき、へいくらふ。

われ嘉賓かひんらば、しつしゃうかん。
[……]

通釈 酒を飲んでは大いに歌うべきである。人生はどれだけ続き得るものぞ。それはあたかも朝露のように極めてはかないものである。されば過ぎ去った日はいやに多くても、功業はなかなか成らない。これを思えばなげかずにはいられず、心のうれいも忘れ難い。この憂を消すものはただ酒あるのみ。だから酒に対しては憂を忘れて歌うべきである。
 人生の短いのを思うにつけても賢才を得たいと思う心は、詩経の句に「青衿の若人よ、君を慕うわが心は、はてしも知らず思いなやむ」とあるように、わが心の休まるひまもなく、ただ君を得ようと思い思うて今に至った。
 もし賢才を得て事を共にするを得るならば、彼の詩経に「さをしかは友を鳴きよびて、よもぎをはむ。
われにめでたきまろうどがある。瑟をかなで、笙を吹いてもてなそう」と歌うように、よろこび迎えて楽しみを共にしたいと思う。[……]

内田泉之助・網祐次『新釈漢文大系 第15巻 文選(詩篇)下』(明治書院、1964年) 楽府二首 短歌行(魏武帝) pp.475-476

春秋左氏伝しゅんじゅうさしでんあい公十一年より」(?)

投獄された牢にて、刀も握れない皇帝ではなく、曹操を選ぶべきと語る楊修

我就是因为替他想
所以极力地想要匡正他的错误
但家父跟你一样
泥古不化
效忠一个连刀都拿不起来的皇帝
昏庸无能啊
良禽当择木而栖

父を思えばこそ
過ちを正したかった
父は令君と同じで
一途いちずに信じきって
無力な主君に忠義を尽くす
愚かですよ
賢者は正しい主君を選ぶべきだ

りょうきん【良禽】 は 木(き)を選(えら)んで住(す)
賢い鳥は木を選んで巣を作るように、賢い臣下はその君主をよく選んで仕えるという意。

『精選版 日本国語大辞典』(小学館、2006年)

[……]孔文子之將攻大叔也、訪於仲尼。仲尼曰、胡簋之事、則嘗學之矣、甲兵之事、未之聞也。退命駕而行曰、鳥則擇木、木豈能擇鳥。[……]

通釈 [……]孔文子が大叔(悼子)を攻めようとした時に、仲尼に相談すると、仲尼は、「祭器のことは前に学んだことがあるが、よろいや武器をもって合戦することはまだ聞いておりません」と答え、文子の前をさがって車の用意を命じて出発しようとした時、「鳥はとまるべき木を選ぶが、木がどうして鳥を選びましょう」といった。[……]

鳥則択木云云 鳥は孔子に、木は孔文子にたとえたもの。

鎌田正『新釈漢文大系 第33巻 春秋左氏伝 四』(明治書院、1981年) 哀公十一年 pp.1806-1807

後漢書ごかんじょ韋彪いひゅう伝(『孝経緯』に基づく)より

司馬防の牢へ訪れ、釈放する曹操。『後漢書』では韋彪孔子の言として引用している。

忠臣出于孝子之门
将司马公子及司马家人
一块儿放了

“忠臣を孝子こうしの門に求む”
司馬懿しばい
司馬しば家の全員を釈放しろ

忠臣を孝子こうしの門に求む

〔後漢書韋彪伝「求忠臣必於孝子之門」による〕
親に孝養を尽くしている者は必ず君主にも忠であるから、忠臣を求めるならば孝子の家に求めるのがよい。

『大辞林 4.0』(三省堂、2019年)

[……]彪上議曰、伏惟明詔、憂勞百姓、垂恩選舉、務得其人。夫國以簡賢爲務、賢以孝行爲首。孔子曰、事親孝故忠可移於君、是以求忠臣必於孝子之門。[一][……]

[李賢注]
[一]孝經緯之文也。

[……]彪 議をたてまつりて曰く、「伏して明詔を惟んみるに、百姓を憂勞し、恩を選舉に垂れ、其の人を得んことに務む。夫れ國は賢を簡ぶを以て務と爲し、賢は孝行を以て首と爲す。孔子曰く、『親に事へて孝なれば、もとより忠をば君に移す可し。是を以て忠臣を求むるには必ず孝子の門に於てす』と。[……]

[……]韋彪いひょうは議を上奏して、「伏して陛下の詔書を見ますに、人々を憂慮し、君恩を選挙に垂れ、人材を得ようと務められております。そもそも国家は賢人を選び補任することを務めとなし、賢であることは孝行をその第一といたします。孔子こうしも、『親に仕えて孝行ならば、もとより(その孝を)忠として君主に移すことができる。このため忠臣を求めるためには必ず孝子の門において探す』と言っております。[……]

渡邉義浩主編『全譯後漢書 第十二册 列傳(二)』(汲古書院、2007年) 伏侯宋蔡馮趙牟韋列傳第十六 pp.402-404

軍師聯盟 5話 出仕を巡る決意

史記しき項羽こうう本紀より

司馬懿曹操によって司空主簿に任じられるが、出仕させたくない司馬防が長子の司馬朗に語る。
日本語でいう「俎板の鯉」で、いわゆる「鴻門の会」の際に樊噲劉邦に言った言葉。

人为刀俎 我为鱼肉
我不同意有用吗
我敢不同意吗

我らは“まな板の上のこい”だ
断ったとて
聞き届けられるものか

〔史記、項羽本紀〕如今(ジョコン)、人方為刀俎(ひとはまさにトウソたり)、我為魚肉(われはギョニクたり)今、彼らは包丁とまな板であり、われわれは魚肉のような立場である。

『新漢語林(第二版)』(大修館書店、2011年)

[……]項王未有以應。曰、坐。樊噲從良坐。坐須臾、沛公起如厠。因招樊噲出。
沛公已出。項王使都尉陳平召沛公。沛公曰、今者出未辭也。爲之奈何。樊噲曰、大行不顧細謹、大禮不辭小讓。如今人方爲刀俎、我爲魚肉。何辭爲。於是遂去。[……]

通釈 [……]項王はなんの返答もせずに、「まあ、すわれ」といった。樊噲は張良の次へ坐った。坐ってしばらくすると、沛公は起ちあがって便所へいき、そのまま樊噲を招いて外へ出た。
 沛公がすでに外へ出てしまってから、項王は属官の陳平に命じて、沛公を呼びにやった。沛公はいった、「今、退出してくるとき、なんの挨拶もしてこなかった。たしかに礼を欠くと思うが、どうしたらいいだろうか」と。樊噲がいった、「大行は細謹を顧みず。大礼は小譲を辞せず、で、大いなる行為には、微細な謹慎を顧慮する必要はなく、大いなる礼には微小な謙譲など問題ではないです。今、項王とその徒たちは刀と俎であり、わが君とわれらは魚肉ということになります。どうして挨拶などわざわざなさる必要がありましょうか」と。[……]

吉田賢抗『新釈漢文大系 第39巻 史記 二(本紀 下)』(明治書院、1973年) 項羽本紀第七 pp.458-462

古詩「撃壤歌げきじょうか」より

自ら足を折った司馬懿が輿で司空府へやってきた報せを聞き、曹操が述懐する。堯の時代の老人の作として伝わる古詩。

于我府前弛然高卧
不正是古歌里所唱的
帝力于我何有哉

優雅に寝そべっておる
昔の歌にあるように
“権力も意に介さず”だな

日出而作 日入而息
鑿井而飮 耕田而食
帝力于我何有哉

でてし、りていこふ。
うがってみ、たがやしてくらふ。
帝力ていりょくわれおいなにらんや。

われらは日が出ると働きに出て、日が入れば休む。自分で井戸をって飲み、田をたがやしては食っている。天子のおかげなど、われらには何の関係かかわりもない。

内田泉之助『漢詩大系 第四巻 古詩源 上』(集英社、1964年) 卷一 古逸 撃壤の歌 p.23

詩経しきょう国風こくふう鄭風ていふうしゅつ東門とうもん」より

司馬懿の才を警戒し、いずれ登用して御そうと考えている郭嘉が、折れた足を司空府で調べられた後の司馬懿に声を掛けて去る。日本では詩に馴染みがないためか、字幕は意訳されている。

虽曰如云
匪我思存

这大好的天下
躺着看

“世に人は多かれど
ただ1人を求む”

移り変わる天下を
して見よ

出其東門 有女如雲
雖則如雲 匪我思存
縞衣綦巾 聊樂我員
[……]

東門とうもんづれば ぢょりてくもごと
くもごとしと雖則いへども おもひのるにあら
縞衣かうい綦巾ききん ねがはくはたましひたのしましめよ
[……]

通釈 (春の祭りににぎわう)かの東の門から出てみると、祭りに集まった女たちは雲のように大勢。雲のように大勢いるけれど、私の思いに叶うものはいない。白い上衣にうすよもぎ色の頭巾をつけたかの春の神を送る乙女子よ、願わくはあなたに私の思いを満たしてほしいのだ。
[……]

石川忠久『新釈漢文大系 第110巻 詩経(上)』(明治書院、1997年) 鄭風・出其東門 pp.241-242

公開:2022.04.19 更新:2022.08.14

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