司馬昭の性格と人物像 1 - 温厚で謙虚なリーダー

 三国・魏の末期に相国(宰相)として政権を掌握、数々の功績を残し、後の晋王朝の礎を築いた司馬昭しばしょう。しかし、広く流布している人物像は「陰険な野心家」といった、あまり良いイメージとは言い難いものである。近年は多少見直される向きもある(?)が、依然として悪評も根強い。

 またそもそも世の三国志ファンの間では、父・司馬懿しばい、兄・司馬師しばし、ときには子である晋の武帝・司馬炎しばえんも含め「司馬懿一派」といった扱いを受けることが多く、司馬昭固有の人格はあまり注目されないように思われる。ここでは幾つかの史料の記述から、改めて司馬昭の性格面を確認する。

目次

冷徹な兄、温厚な弟

 司馬懿の長男・次男である司馬師司馬昭は、仲の良い同母兄弟で、司馬昭は常に兄に協力して動き、その死後もなお敬愛し続ける様子を見せる。一方で、二人の性格はかなり異なっていた。兄弟の対比が見られる逸話を引用する。

宣帝之將誅曹爽,深謀祕策,獨與帝潛畫,文帝弗之知也,將發夕乃告之。旣而使人覘之,帝寢如常,而文帝不能安席。

房玄齡等撰《晉書 一 紀》(中華書局,1974年) 景帝紀 p.25

 宣帝(司馬懿)が曹爽そうそうを誅殺しようとした際、深く謀り秘密の計とし、帝(司馬師)だけを密かに計画に参与させたので、文帝(司馬昭)はこれを知らず、出発しようという夜になり知らされた。やがて〔司馬懿が〕人を派遣して様子を窺わせると、帝は常と変わらず寝ていたが、文帝は落ち着いて寝ていられなかった。

 当時皇帝に代わって魏を牛耳っていた皇族の曹爽に対し、司馬懿一派がクーデターを起こす前夜の様子である。果たして司馬懿司馬昭を信頼していなかったのだろうか。そして司馬師もさすがに重大な計画の前夜では緊張もあっただろうが、本当に平然と寝ていたのか、それとも寝たふりで冷静なところを見せたのか。一方素直な司馬昭は、父がスパイを放っているなどとは思いもせず、驚いて眠れない様子を見せてしまっている。父に能力がないと見なされたというよりは、性格的に、計画を知ってしまえばそ知らぬふりができず、露呈して失敗する可能性があると判断されたのかもしれない。

之執也,衞將軍司馬文王流涕請之,大將軍曰:「卿忘會趙司空葬乎?」先是,司空趙儼薨,大將軍兄弟會葬,賓客以百數,時後至,衆賓客咸越席而迎,大將軍由是惡之。

陳壽撰、裴松之注《三國志 一 魏書〔一〕》(中華書局,1982年) p.302

夏侯玄が逮捕されたとき、衛将軍の司馬文王(司馬昭)が涙ながらに命ごいをすると、大将軍(司馬師)は、「おまえは趙司空の葬儀に参列したときのことを忘れたのか」といった。これより先、司空の趙儼が逝去した際、大将軍兄弟は葬儀に参列し、会葬者は数百人にのぼった。夏侯玄はそのとき、後からやってきたが、大ぜいの会葬者はみな自席から迎えに出向いた。大将軍はこのことから彼に憎悪を抱くようになったのである。

陳寿、裴松之注、井波律子・今鷹真訳『正史 三国志 2 魏書Ⅱ』(ちくま学芸文庫、1993年) 夏侯玄伝注・魏氏春秋 p.222

 司馬懿の死後、司馬師に実権が移ったが、これを夏侯玄かこうげんに代えようとするクーデターが李豊りほう張緝ちょうしゅうらによって画策される。夏侯玄曹爽の従兄弟として台頭したが、曹爽が刑死した後は不遇を託っており、これに目を付けた李豊が持ちかけたものだった。しかし計画は事前に露見し、李豊は殺され、夏侯玄らも逮捕される。

 夏侯玄本人に積極的な謀反の志があったのかどうか、各種記述からはいまひとつ定かでない。しかし誇り高く剛毅な性格であった夏侯玄は、取り調べに対して一切の釈明を行わなかったため、処刑されることになってしまった。

 かつて夏侯玄司馬師は交友関係にあり司馬師の最初の妻・夏侯徽かこうき夏侯玄の妹であった(しかし夏侯徽司馬師が魏に忠義でないと気づいたために嫌悪され、毒死する)。また司馬昭には、曹爽が蜀を討伐しようとして失敗した戦役の際、夏侯玄の副官を務めた過去もある。こうした関係もあってか、司馬昭は泣きながら夏侯玄の命乞いをするが、かえって兄にその甘さを叱責されてしまう。

 冷徹で容赦ない兄・司馬師と、温厚で甘さのある弟・司馬昭の対照を描くような逸話だが、この『魏氏春秋』の記述は時系列的にありえないとして注釈者の裴松之はいしょうしは虚構とみなす。しかし、実話でなかったとしても、司馬師司馬昭兄弟のこうした対照的なキャラクター性が認識されていたとはいえるだろう。

司馬昭は、兄のために罪を引き受ける

 司馬師政権時代、魏は呉を討伐すべく大規模な戦を起こしたが、呉の諸葛恪しょかつかくによって阻まれ、大敗する事件があった。いわゆる東関の戦役だが、このとき監軍として諸将を統率していた司馬昭は、敗戦の責により、新城郷侯の爵位を剥奪されることになった。

 この措置の背景には、司馬師の策略があった。

朝議欲貶黜諸將,景王曰:「我不聽公休,以至於此。此我過也,諸將何罪?」悉原之。時司馬文王爲監軍,統諸軍,唯削文王爵而已。[……]於是人愧悅,人思其報。

陳壽撰、裴松之注《三國志 一 魏書〔一〕》(中華書局,1982年) p.125

朝廷ではこれらの諸将に関して、官位を下げたり罷免したりする措置を検討していたところ、司馬景王は、「私が公休(諸葛誕の字)のいうことを聞き入れなかったから、こんな事態にたちいたったのだ。これは私の過ちである。諸将になんの罪があるか」といい、すべて彼らを許した。当時、司馬文王(司馬景王の弟、司馬昭)が監軍として諸軍を統帥していたので、ただこの文王の爵位を削るだけにとどめた。[……]その結果、魏の人々は、赤面しつつもよろこび、それぞれ恩返しをしたいものだと思った。

陳寿、裴松之注、今鷹真・井波律子訳『正史 三国志 1 魏書Ⅰ』(ちくま学芸文庫、1992年) 斉王紀注・漢晋春秋 pp.301-302

 司馬師は責任は自分にあるとして現場の諸将の罪を許し、その代わり実弟の司馬昭にのみ爵位剥奪の処分を下す。実戦の判断において、司馬昭にどの程度責任があったのかは不明だが、身内の処分に留めるという司馬師の寛大な判断は人々の心を打ち、支持を強める結果となった。……と、されるわりには、ここで許された将に含まれる毌丘倹かんきゅうけん諸葛誕しょかつたんも後に謀反を起こすのだが、ひとまずこのときは司馬師の判断を賞賛したらしい。

 一見、司馬昭は兄の支持率のために割を食ったようにも思われるが、兄弟の間にそれだけ強固な信頼関係があったのだろう。以降も司馬昭は全く不満を抱くようなことはなく、引き続き良き腹心として司馬師を支え続け、やがてはその後を継いで魏の政を担うことになるのである。

毌丘倹・文欽による司馬昭の人格評価

 同時代人が司馬昭の人となりを客観的に評した記述は意外に見つからないが、そんな中、意外な人物が司馬昭を高く評価していた。

 司馬師政権の末期、毌丘倹文欽ぶんきんが反乱を起こし敗れる事件が起きる。その上奏文によれば、彼らは司馬師を罷免して弟の司馬昭に取って代わらせようと計画していた。そのため司馬師については悪行を書き連ね、宰相に相応しくないとする一方で、司馬昭についてはその人徳を讃え、推挙する内容となっている。

[……]之罪,宜加大辟,以彰姦慝。春秋之義,一世爲善,一世宥之。有大功,海內所書,依古典議,廢以侯就第。,忠肅寬明,樂善好士,有高世君子之度,忠誠爲國,不與同。臣等碎首所保,可以代輔導聖躬。[……]

陳壽撰、裴松之注《三國志 三 魏書〔三〕》(中華書局,1982年) pp.764-765

[……]司馬師の罪を考えますと、大罪を加えて、邪悪を明白に示すのが当然と存じます。『春秋』のたてまえでは、一代において善を行なえば、十代にわたって罪をゆるされます。司馬懿には大功があり、海内の書に記されております。古典の判断に依拠し、司馬師をやめさせて、列侯として邸に帰しますように。弟の司馬昭は、誠実でつつしみ深く、寛大で明るく、善を楽しみ士人を愛し、世俗を超越した君子の風格があり、国家のために忠誠を捧げておりまして、司馬師とは異なります。臣どもは打ち首を覚悟に保証いたします。司馬師の代りとして玉体を輔導いたさせますように。[……]

陳寿、裴松之注、今鷹真・小南一郎訳『正史 三国志 4 魏書Ⅳ』(ちくま学芸文庫、1993年) 毌丘倹伝注 pp.242-343

 毌丘倹らのこの計画は、司馬昭の与り知らぬところだったはずだが、このような計画が露呈しては、司馬師が弟を警戒する可能性もあった。しかし、その毌丘倹らの討伐にあたって司馬師司馬昭に都の守備を任せ、ほどなく死去する際には後事を託したことから、兄弟の関係に最後まで亀裂が入らなかったことは確かである。

 司馬師を逆臣とみなした毌丘倹文欽だが、司馬昭については忠義で寛大な人物である、という評価をしていた。兄弟の離間を謀るため敢えて弟を持ち上げた可能性もあるが、こうした評価は、司馬昭の実際の言動から受け取る人物像とはかなりの部分一致する。

司馬昭は、優しさと謙虚さを武器に勝利する

 司馬昭の総司令官としての才能が発揮された戦役に、諸葛誕の乱の鎮圧がある。詳しい経緯は「諸葛誕の乱」に書いたためここでは省くが、この戦において司馬昭は、かつての謀反人文欽の子である文鴦ぶんおうらを処刑せずに取り立てることで敵軍に降伏を促す、処刑すべき敵兵を逃亡の危険を冒しても救うことで敵味方の国民の心を掴むなど、敵を殺すよりも生かすことを重視して自軍の利益に繋げた。

 また、この戦において敗れた諸葛誕孫綝そんちんに足りなかった一方で、司馬昭に備わっていた重要な要素が、味方の意見をよく聞き入れ、かつ自らの過ちを悟った場合には謝ることのできる謙虚さである。

 乱の鎮圧において活躍した王基おうきは、当初の司馬昭の命令に逆らい、城を包囲し続けることを決断した。この判断は功を奏し、司馬昭王基の判断を賞賛する。また、この勝利に乗じて司馬昭は呉への侵攻を計画したが、準備が万全でないとして王基に諫められ、中止を決める。

 数年後、呉の鄧由とうゆうらが偽りの帰順を申し入れて来、これを信じた司馬昭が受け容れて軍事行動を起こそうとする事件が起きる。敵の偽りを見抜いた王基は、繰り返し司馬昭に文を送り、これを中止させた。王基の行動に感心した司馬昭は、再び賞賛の言葉を送る。

文王報書曰:「凡處事者,多曲相從順,鮮能確然共盡理實。誠感忠愛,每見規示,輒敬依來指。」

陳壽撰、裴松之注《三國志 三 魏書〔三〕》(中華書局,1982年) p.755

司馬文王の返書にいう、「およそ物事に対処する場合、意を曲げて従う者が多く、論理と事実を共にしっかりと把握できる者はまれである。まことに〔君の〕忠誠と愛情に心を動かされる。規正し指示してくれるときは、いつも敬んで趣旨に従おう。」

陳寿、裴松之注、今鷹真・小南一郎訳『正史 三国志 4 魏書Ⅳ』(ちくま学芸文庫、1993年) 王基伝 p.219

 自分を諫めた行動を褒め、過ちがあればこれからも正してほしいと考え、それを表明することを厭わない。もちろん、王基が常に評価されたのは結果を出してこそではあるが、呉軍で総大将・孫綝の判断に逆らった現場司令官の朱異が怒りを買って不当に殺されたのとは対照的である。

 司馬昭の、自分の判断に固執することなく配下を信頼する姿勢は、司馬師の補佐であった時代から片鱗を見せていた。

文帝之敗於東關也,獨全軍而退。帝指所持節謂曰:「恨不以此授卿,以究大事。」

房玄齡等撰《晉書 四 傳》(中華書局,1974年) 石苞伝 p.1001

 文帝(司馬昭)が東関で敗れたとき、石苞せきほうだけが一兵も失わずに軍を退却させることができた。帝は手にした節(大将の権限を示す旗指物や割符)を指して石苞に言った、「これをそなたに授けず、大事を全うできなかったことが悔やまれる。」

 先述の東関での敗北は、司馬昭の戦歴の中でも厳しい経験だったが、その中でも優れた働きを見せた石苞に、自分の代わりに指揮を委ねていれば、と後悔した。

 優しく、かつ謙虚な人物像が窺い知れるが、それによって戦勝や利益が導かれるのは、元来の性格と、大将としての計算が一体となった結果だろう。「司馬懿の子、司馬師の弟」でしかなかった時代には危うい甘さとも思えた要素は、苦い経験をも重ねて成長し、やがてリーダーに相応しい才能として開花したのである。

司馬昭は公の位を辞退し続ける

 晩年、司馬昭は晋公に封じられ、やがて王位に上るが、司馬昭が公の位に至るまでには、執拗なまでの辞退の歴史があった。

 司馬昭の爵位は曹叡そうえいの時代から「新城郷侯」であったが(東関の敗戦時に一時失ったが後に再び得ている)、曹髦そうぼうの即位に際して「高都侯」に改封された。その後の甘露元年(256年)「高都公」に位を進められようとしたが、これは辞退したため沙汰止みとなる。さらに甘露三年(258年)、相国の官位とともに「晋公」に進められ九錫の礼を下賜されることが決まったが、これも「前後九度にわたり」固辞した。その後も司馬昭は同様の沙汰を何度も辞退し続け、ようやく「晋公」となったのは、八年も経った景元四年(263年)、蜀の平定に成功する直前のことであった。このとき重臣の鄭沖ていちゅうらが就任を勧めるため阮籍げんせきに依頼して書かれた文章は、名文として後世に残る。

256甘露元年六月高都公を辞退
258甘露三年五月晋公を辞退
260甘露五年四月晋公を辞退
260景元元年六月晋公を辞退
261景元二年八月晋公を辞退
263景元四年二月晋公を辞退
十月晋公を辞退するが
鄭沖らの勧進により受諾
264景元五年三月晋王となる

 もっとも、こうした就任を一旦辞退して謙虚さをみせるのは一般的な礼であった。司馬昭とよく似た立場にあった曹操そうそうが「魏公」の位を授かった際は、「三度にわたり」辞退の姿勢を見せるも荀攸じゅんゆうらの勧めにより受諾する(魏志武帝紀注『魏書』)。この「三譲」が一般に見られる形式のようだが、「九譲」を行ったのは少なくとも同時代では司馬昭のみである。しかも司馬昭は形式的にではなく実際に辞退を続け、長い歳月を経てようやく前へと進んだ。単にそれほど謙虚な性格だったともとれるが、些か過剰にも思われる。

 晋公の地位に就くことは、曹操の例と同様、やがて皇帝の座につくことを視野に入れたものと見なされている。一般には兄・司馬師の時代から司馬氏は皇帝の座を狙っていたと考えられているが、もしかすると当初の司馬昭には皇帝となるような意思はなく、司馬氏を推戴しようとする朝臣らの意向とは食い違いがあったのかもしれない。

 司馬昭は、本来自分の宰相としての地位は亡兄・司馬師のもので、自分は代理であると考えていた(『晋書』武帝紀)。皇帝の座につくとしても、それは本来司馬師のものだと考えていただろう。その後を継ぐのは兄の嗣子である司馬攸だが、最初の沙汰の頃、司馬攸はまだ十歳あまりと幼かった。しかし、長年の間に曹髦が挙兵して敗死する事件を経て、皇帝は全く気概の見られない曹奐そうかんに代わった。やがて蜀を平定するに至り、司馬昭はいよいよ自分が天下を背負う方向へ進むしかないと思い定めたのだろうか。

補足

 今回は、敢えて司馬昭の「兄思いな優しい弟、温厚で謙虚なリーダー」としての側面を重視した。その温厚な人物像に反する逸話も、数は少ないが残っている。しかし全体として、巷の漠然としたイメージのように陰険で野心に満ちた人物でなかったのは確かで、知られざる(?)司馬昭の美点にもっと目を向けてほしい、という願いからひとまずまとめたものである。

追記

 司馬昭の性格の「欠点」を考える:「司馬昭は、他人の『負の心』が読めない」も併せてどうぞ。

2017.01.28

Tags: 三国志の人物 司馬昭